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2019/07/24

旭日旗を引き裂いて帝国海軍の技術をほしがる韓国


日本が韓国のフッ化水素横流しを問題視して韓国に「ホワイト国からはずすよ」と通告したところ、韓国人が発狂して旭日旗を引き裂くデモをやっていましたが、戦後日本の技術の基礎となったのは帝国海軍が磨きあげた「技術」なんですよ。

いわば、日本の技術力は旭日旗の下で育まれ、磨かれたのです。

戦争は科学戦、技術の競争ですからね。特に日本は連合国に経済封鎖されていて、資源に限りがあったので、それはもう必死になって、少ない資材で少しでも性能のよいものを、と必死になって研究したのです。

フッ化水素にしても、帝国海軍は当時の金額で100億円もの研究費を投じて、ガソリンのオクタン価を高める技術を開発しているんですよ。

管理人は化学には明るくないのですが、Wikipediaによるとフッ化水素は「高級ガソリンを作る時に入れる触媒」なのだそうです。



Wikipedia:フッ化水素 から抜粋

主な用途

フッ化物の製造原料として用いられる。蛍石を硫酸で溶かして作るフッ化水素は他の物質と結合しやすい。高級ガソリンを作る時に入れる触媒であり、フライパン・屋根材料・電線被覆・眼鏡レンズなどに使われるテフロン(合成樹脂)の材料でもある。



朝鮮人てのは「日本軍に強制連行されて来て、日本軍に銃口を突きつけられながら強制労働した」などとほざきますが、しょせん捏造なんですね。

旭日旗は受け入れられないが旭日旗の下で磨かれた技術はほしい、ってことですかね?あいかわらず、矛盾していることで。


旭日旗を引き裂いて帝国海軍由来の技術を要求する韓国人w
日本が平和利用に転用した技術を軍事に転用しようとしている韓国人


【戦犯旭日旗が切り裂かれる!】韓国人「旧日本大使館の前で安倍政府を糾弾するデモが起こり、戦犯旗が群集に切り裂かれる」

議員らは「安倍政権は過去史に対する謝罪と反省を拒否し、日帝の強制徴用賠償判決に貿易報復で答えた」とし「軍国主義を利用しようとする安倍首相の試みを到底許せない」と強調した。彼らは日章旗の模様を利用した「NOアベ」と書かれた立て札を手にした。



ありし日の帝国海軍|1933(昭和8)年度大演習特別観艦式予行

手前から戦艦陸奥、日向、榛名、金剛、阿武隈、名取、由良、夕張。艦を建造したら艦を動かす機関が必要、機関ができたら燃料が必要、艦が動くようになったら兵器が必要…という具合に海軍の研究は手広くなっていきました。

ありし日の帝国海軍2


参考:川崎造船から日本人の遺産を盗んだ現代財閥創業者鄭周永

われらのご先祖さまたちが莫大な税金と時間を使って完成させ、われら日本人に残した遺産を平気で盗む朝鮮人。今回の「ホワイト国はずし」も帝国海軍のたたりでしょうよ。

川崎造船から技術を盗んだ鄭周永1【画像出典】Wikipedia-鄭周永
【参考記事】韓国企業 現代造船会長は泥棒を告白しているのに(YAHOO!知恵袋-2009.3.3)


帝国海軍の研究は燃料だけでなく造船、タービン、ボイラーなどの機関、レンズ、カメラ、化学薬品、高圧ガス、電池類、電蓄機、ビニル、ナイロンと多岐に渡っていました。

それらの技術の官有データは進駐軍占領前に焼却されたのですが、その後、元海軍の技術中将とその部下約五百名が結集して「生産技術協会」という団体を作り、メモや記憶を頼りに各部門のデータを再録したそうです。

そして民間から要望があればそのデータを民間に開放しました。敗戦日本の復興を助けたのは帝国海軍の技術であり、逆から考えれば帝国海軍の技術が平和利用されたわけですね。

うちのじーさんによると官有データを焼却したのは、アメリカに強奪されることを懸念したからだそうです。実際、うちのじーさんはジェットエンジンの設計図を米軍に強奪された、と死ぬまでくやしそうに言っていました。


【うちのじーさんたちが研究していたのはコレ|震電】
この軍需工場の名は韓国の戦犯企業リストにないのよね。
shinden.jpg


本記事の資料|帝国海軍をこよなく愛した新聞記者伊藤正徳氏による「大海軍の遺産」


出典:988(昭和63)年 文藝春秋 「『文藝春秋』にみる昭和史 第二巻」所収 伊藤正徳 「大海軍の遺産」(昭和35年「文藝春秋」5月号掲載)

※管理人注:( )内は管理人による注釈です。


 本文は、海軍が我が国の造船を培った歴史を全部書くのではない。その中で、今日の造船ブームに深く関係をもつ方面だけを眺めるのであるが、現在、大型船を造っている二十社前後の造船会社で、海軍の息の掛からなかったのは一つもないばかりでなく、その絶対大多数は明らかに育成されたものである。

 さて、安く、速く、大量に───という三つの条件が、日本の造船会社によって最も完全に満たされることが、外国からの注文殺到となった理由はほぼ明らかとなった。が、それだけでは、向う三年間も船台が塞がるというような景色の生れる理由にはならない。

 言うまでもなく、信頼があって初めてこの産業の殷盛(いんせい:きわめて盛んなこと)を呼んだのである。そうしてその信頼の他の要素は、船の安定であり、さらに追記すれば、姿の美であろう。二つを合せれば設計の優秀ということに帰着する。

【姿の美|戦前日本の旅客船】
横浜港の巨船2【画像出典】1942(昭和17)年 海洋協会編 「海洋発展史」

【姿の美|重巡洋艦「鈴谷(すずや)」】
鈴谷

【姿の美|戦艦「霧島」】
戦艦霧島

 安定の必要は説明をまたない。問題は、出来るだけ軽く、出来るだけ経済的に───同一燃料をもって長くかつ速く走る───造ることである。この条件に叶う艦船の欠点は往々にして安定性の乏しいことだ。すなわち根本的要請に欠けることだ。それを研究し、また苦い経験を経て改良を重ね(例えば昭和九年の水雷艇友鶴事件)、最後にこれらの要求をことごとく満足するようになった設計が、日本の海軍で完成された。(中略)

 さて船台の上で、前記の立派な技術によって船体が組上がっても、その内臓───幾百種の機関───の一つにでも欠陥があったら、人間の不具者と同じだ(原文ママ)。

 まず血液にたとえられる燃料、それを焚いて原動力を生むボイラーとエンジンは、心肺臓から胃腸という役割であるが、シャフトを脚とし、プロペラーを足とし、レンズを眼とし、電気を神経とする一連の機構は、総合されて船の価値を定めるのであるが、それらの工業生産は、ほとんどすべてが、大海軍の軍艦建造にともなう研究・技術・経験によって世界の一流まで成長し、それが今日の造船にそのまま注入されているのだ。

 これらいずれの一部門をとってその発達と利用の経験を書いても三十枚や五十枚にはなるだろうし、全部を解説したら一冊の本になってしまう。否、その一部門に関して「生産技術協会」が集めたデータの分量は二千頁にも上っているほどである。

 ついでに生産技術協会について一言すれば、これは終戦直後、海軍が何十年にわたり骨身を削って研究した技術面の枢要なるデータが、日本から消え去ってしまうことを遺憾とし、終戦時の技術陣の幹部、渋谷、久保田、牛丸、多田、菱川(造機、造兵、航空、燃料の技術中将)等の諸氏が集まり、まだ記憶の失われない前に、データを再録して後代にまで残そうとして発足したのであった。海軍は被占領と同時に山なす一切のデータをことごとく焼却してしまったので、記録された知識は一行も残らなかった。

 そこで前記の幹部達は、海軍時代の自分の部下約五百名を動員し、各自の記憶またはメモ等をたどってデータの再生産に着手した。ところが、官有のデータは灰燼に帰したが、五百名が、自分で担当した部門のデータは、生命から二番目の貴重品として密かに保存されていたので、幸いにそれが蒐集されて立派な再編集が出来、そこから要望次第民間に流用されることになったのである。一方に、造船部門は、大和の設計で聞えた福田、牧野の両氏を中心に「船舶設計協会」を起し、官民の注文を引き受けながら数十名の設計才能を維持するという方式をとっている。(中略)


【戦艦「大和」】
戦艦大和

【戦艦「武蔵」】
戦艦武蔵

 肝要なるエンジンに関する海軍の研究と経験とはここに紹介するまでもなかろう。多年誇っていた艦本(帝国海軍艦政本部の略。帝国海軍の軍需会社を徴用していた部署)式タービンが、昭和十一年の朝潮事件(新造駆逐艦。タービンのブレード破損)を契機として徹底的に実験考究され、完全なる製作方式を確認していることは業界でも周知のことだ。もっとも能率的なディーゼル機関についても、給油艦剣崎(つるぎさき)や潜母(潜水母艦。潜水艦の母艦)大鯨(たいげい)の事故の経験から苦心改善を重ね、ついに立派な製作法に到達した。昭和十一年、戦艦大和の設計にも、原案はタービンとディーゼルを併用するはずであったのが、前記の「大鯨」の経験からしばらく見合せとなったもので、当時すでに七万トンの戦艦をディーゼルで動かそうと考える程度まで進んでいたのだ。


【高速給油艦「剣崎」型】
1939年1月完成。1942年1月に空母「祥鳳」となった。
潜水母艦剣崎型2

【潜水母艦「大鯨」】
1934年完成。1942年に空母「龍鳳」(タービン機関)となった。
潜水母艦大鯨2

 ボイラーには一層の自信があった。日米英独仏の各海軍は、ボイラーを極秘裡に競い、優劣不明であったが、戦後初めて公表された結果を見ると、米国が第一等、日本がこれに即接して第二位、一段落ちて英独がつづき、仏伊はさらに下位にあることが判った。そうしてこれらのデータはあげて今日の造船に引き継がれているのである。

 海軍と造船との間に存する不可分の関係はまだ容易に尽きないが、紙幅はすでに尽きているから、転じて他の産業に遺した海軍の「平和利用」について略記しよう。

 一番気の附くことは、レンズであり、それを資材源とするカメラ産業の殷盛であろう。


【韓国|代替製品なくオリンパスを不買リストから除外】
オリンパスを不買リストから除外2【参考記事】日本のカメラメーカーのオリンパスだけが日本製品不買リストから除外 その理由は?-ゴゴ通信(2019.7.19)


輸出造船にくらべると、第一に図体が違うし、価格も比較にならないが、しかも昨年はカメラの輸出量が生産高の三五%に達し、三十九億円の外貨を日本に受け入れた。それよりも、戦前は「ワン・ダラー・カメラ」と呼ばれて「安直粗品」の代名詞であった日本の写真機が、今や一転して、世界高級品の代名詞ライカと白熱的競争を演じていることは、まさに一大驚異と言わねばならない。(中略)

 もちろん、海軍が光学兵器の独立と発達のために、直接間接に補助育成の足を踏み出したのは、大正六年の頃であり、今日に残る「日本光学会社(現ニコン)」はその関係で発足したのだが、レンズには最悪の敵である日本特有の湿度を制するに由なく、かつ高級品の販路は狭く、苦心経営十幾年、初代専務曽根増吉氏のごときは筆者の知己であった関係から、一層その努力の酬(むく)いられぬ実情を目撃し、互いに前途を憂えたことを記憶している。

 それが不屈の精進をつづけ、海軍の熱心なる後援と相まってついに優秀品の製作に成功し、艦艇建造量の増加にともなってますます技を磨き、他に同種の会社も設立されて「光学兵器」の完全なる独立を見るに至った。

 大和、武蔵の檣楼上に聳(そび)えていた十五メートル測距儀は有名だが、各種の測距儀においても、日本の製品は世界一の優秀品であったことが、戦後にハッキリと証明された。「魚雷とレンズは日本海軍に及ばなかった」というのが、連合軍技術調査団の率直な結論であったのだ。日本のレンズ工業は、列国に後れて出発して列国を抜いたのである。


【戦艦「武蔵」艦橋|左右に伸びている部分が測距儀】
戦艦武蔵艦橋2

【帝国海軍水雷戦隊の魚雷発射】
水雷戦隊の魚雷発射

【米海軍の電気魚雷】
米電気魚雷6

明治時代にも、藤井レンズ、岩城ガラス、東京計器等の光学関係会社はあったが、それらをあわせて光学兵器産業の一大会社を造ったのは岩崎小弥太であり(日本工学)、動機は、三菱が潜水艦の建造を引き受けることになって潜望鏡の国産を必要と考えたところにあった。あわせて各種の望遠鏡や測距儀の製造に入ったが、要は優秀なレンズを作り上げることであった。

 海軍は徹底的というほどに援助した注文と同時に半額を先払いした。しかも輸入品よりも高い値段で。納期が遅れた場合は奨励の意味で一部を支払い、不合格の場合にも、次回の合格を予想して補助を与えたことさえある。まったく親が児を育てるのと同じであった。

 が、その代価としての品質の要求は峻厳であり、苛烈でさえあった。海軍自体も光学研究所と光学兵器試験所を持っており、そこで作られた設計を持ち込んで要求した。大井工場の屋上から大岡山駅プラットフォーム上で読んでいる新聞の見出しを判読したり、洲崎海岸の漁船内にならべた雑誌類を識別するというような噂は、昭和十二年頃に聞いたが、今にして確かめれば、当時すでにツァイスのレンズに負けないものを作るまでになっていたのだ。愛の鞭(むち)はいよいよ加わり、児は泣きながら勉強し、いつしか世界水準を抜くまでに成長していたのだ。(中略)

 燃料また然り。海軍が輸入原油のオクタン価を高めるために費した百億の研究費は───徳山、四日市、および大船の世界に稀な大研究所を初めとして───今日では民間の各石油会社において実を結んでいるのだ。終戦時、中、少佐級以下の燃料関係技術官で、今日失業している人は恐らく一人もいない事実に徴しても這般(しゃはん:これら)の消息は明らかであろう。(中略)

 さらに海軍が多年黙々として研究を積んだ化学薬品(平塚の火薬研究所は世界的規模のもので火薬に関連して多種の薬品データが作られた)、それから高圧ガスの関係、電池類、特に電蓄機等々が、ビニール、ナイロンの生産界に流出している事実も見遁(のが)すことは出来まい。

 以上を通観すると、海軍の遺産はまことに大きい。が、それは掘り下げてみれば「国民の遺産」にほかならないのだ。(中略)

 顧みるに、日本は貧乏国でありながら世界の富者と張り合った。海軍は乏しい資源をもって、米英に負けないものを常備した。その方法は要するに「技術」で勝つ外(ほか)にはなかった。そのために身分不相応の大研究所を興し、世界一流の実験施設を備え、国民の工業知識を結集して「技術」を作り上げたのだ。それが今残っているのである。(後略)
  



【画像出典】
・1956(昭和31)年 鱒書房 佐藤太郎 「戦艦武蔵の死闘」
・1970(昭和45)年 株式会社KKベストセラーズ 福井静夫 「写真集|日本の軍艦 ありし日のわが海軍艦艇」
・1953(昭和28)年 富士書苑 森高茂雄編 「大東亜戦争写真史」

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