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2018/09/28

グローバリストの沖縄侵略史|沖縄県知事選期日前投票前に


サヨクは「日本が沖縄を侵略した!」「薩摩が沖縄に侵攻した!」などと言いますが、サヨクの飼い主である国際金融資本は江戸時代から何度も、英、米、仏などの軍艦を沖縄に差し向けて侵略しようとしています。

その始まりは今から174年前の1844年イギリス、フランス軍艦の琉球侵攻です。
ペリー浦賀来航が1854年ですから、それより10年も早く沖縄と日本を武力で侵略しようとしていたわけです。

サヨク、英、米、仏、中共、国際金融資本の共通点は、グローバリスト=世界統一派=暴力容認(武装する自由)=ポリコレということです。

戦前、西洋列国にはそれぞれ「世界政策」があり、そのプロセスはさまざまでも、その最終目標は自国による世界経済一極支配でした。

沖縄は江戸時代から第二次世界大戦の容共連合国に蹂躙されているのです。

大東亜戦争後、日独に敗戦したイギリス、オランダ、フランスはアジアからいなくなりましたが、今その代理を務めているのが中国共産党とその工作員であるサヨクです。反ウォール街であり国家主義者のトランプ大統領が中共をイジメている理由です。


【第二次世界大戦|ふたたび沖縄を強奪しに来た米英軍の艦船1400隻】
第二次世界大戦時、反日サヨクは連合国側だった。
沖縄米軍来攻1400隻

【沖縄の島民を火焔放射器で家ごと焼き殺す米軍|サヨクの親玉】
沖縄米軍火炎放射器民家島民

【特攻】
特攻@米空母2

【本土の油をかき集め沖縄へ出撃する戦艦大和|全軍特攻】
沖縄特攻大和米艦載機2

【沖縄を欲している者たち国際金融資本=ウォール街、シティ】
スタンダード石油2引用URL:セブンシスターズについて① ~世を統べる資源会社~-2016.1.19 ハフィントンポスト


西洋列国=国際金融資本の世界政策は世界の富、資源の独占

サヨクは「平和、反差別」を叫びますが、共産主義はマルクス唯物論ですから、モノがすべてです。彼らの認識は「モノ>人」です。

彼らが叫ぶ「平和」は連合国=国際金融資本の権益と富の強奪がだれにもジャマされないという意味の「平和」です。沖縄や日本人の平和ではありません。

【参考】 【沖縄】『バカやろー!』… 街宣活動中の我那覇真子さんに玉城デニー氏の支持者が罵倒-2018.9.27 Share News Japan


1844年イギリス軍艦が八重山に碇泊、海陸を無断で測量
1854年ペリーが琉球王を脅迫、交易と貯炭所の設置を承諾させる

1778年、ロシアが南下を開始、千島諸島と北海道の根室に侵攻して日本に通商を求めました。通商というのは侵略の口実ですね。

1844年、今度はアヘン戦争を清国にしかけて香港を強奪したイギリスが日本に目をつけ、暴力で八重山島を測量しました。

1854年、今度はアメリカのペリーが浦賀に来航、武力を使ってでも日本に開国させてやると宣言します。この日本脅迫の合間、ペリーは琉球那覇に寄港して、琉球王に交易と貯炭所の設置を承諾させ、さらに小笠原諸島の保障占領をくわだてました。


出典:1942(昭和17)年 蔵王閣 大倉要 「戦争と国際問題」 日本国難史

※管理人注:〔 〕内は管理人による注釈です。


 黒船の威迫

 明正天皇の寛永十六年(二二九九年)〔西暦1639年〕に鎖国令が発せられてから、我国が固い殻の中に閉ぢ籠〔こも〕って海外の風波をよそに過している間に世界の形勢は激動激発した。西欧に英仏、北欧には露国〔ロシア〕が興り、新大陸には米国が生れた。

而〔そ〕して此等〔これら〕の新興諸国は何れも富と領土を求めて東亜(とうあ:アジア州の東部。日本、中国、朝鮮などの汎称)を狙ひ、北から西から東から相競って犇々(ひしひし)と我が周辺に迫って来た。而して遂に会釈もなく相次いで我が鎖国の殻を無理にもこぢ開け、次第によっては土足で踏込もうとまでしたのである。

 その先頭を切ったのは露国であった。西欧で英仏が覇を争っている間に、彼(かの)ロシヤはシベリヤからカムチャッカを南下して千島諸島を侵し、後桃園天皇の安永七年(二四三八年)〔西暦1778年〕遂に北海道根室に踏込んで通商を求めるに至った。

更に長崎に再三来船して交渉を繰返す中にもその裏では着々南下侵略の歩を進め、我が通商拒絶に接すると俄然その侵略意図を露(あら)はにして屡々(しばしば)我が北海を寇略(原文ママ)するに至った。

ただその間我が幕府首脳の無能無為に拘(かか)はらず、近藤重蔵、高田屋嘉兵衛、間宮林蔵の如きが出て日本男児の本領を発揮した事は、ただに我等(われら)の溜飲を下げしめるに止(とど)まらず、少なからず彼(か)の跳梁を抑制したであらうと想はれる。

 かくして北辺の防備に忙しい最中に、今度は英国船が太平洋沿岸に出没し始めた。而して欧洲でナポレオンが大陸諸国を席捲して一時オランダが滅亡したのを奇貨とし、英国は東亜におけるオランダ領の空巣を狙ひ、長崎出島のオランダ商館にまでその手を延ばして(オランダは鎖国令に拘(かか)はらず、長崎だけでの通商が許されていたのである)我との通商権を奪取しようとした(※下に参考資料添付)

この奸計の筋書を書いたのがスタンフォード・ラッフルズ、即ちシンガポールを騙取〔へんしゅ:人をだまして財物を盗ること〕して東亜侵略の足場を固めたその男だったのである。幸〔さいわい〕にこれはオランダ商館長の機転によって事なくすんだが、もし彼の計算が成功していたら出島は恰(あた)かも支那における香港の運命を負はされ、その禍害は測り知れないものがあったであらう。

 英国はまた琉球諸島を狙って東亜の拠点たらしめようとした。支那との阿片〔あへん〕戦争に勝って香港を手に入れた翌天保十四年(二五〇三年)〔西暦1844年〕に、一隻の英国軍艦が琉球八重山島に碇泊し、暴力を以て附近の海陸を測量したほどで、当時犬猿の間柄であった仏蘭西(フランス)との鍔〔つば〕競り合ひによって、ここも倖〔さいわい〕にその毒牙を免れることが出来たが、その危殆〔きたい:危険〕は今思っても慄然たらざるを得ないものがある。

 さうかうしている中〔うち〕に今度は米国の来迫である。米国はカリフォルニア州をメキシコから奪って太平洋岸にせり出すと対支貿易に乗出し、その寄港地として我国に着目した。それで日本の開国を要求し、もし聴かれなかったら武力を用ひても貫徹すべしとして提督ペリー四隻の軍艦を率ひて、孝明天皇の安政元年(二五一四年)〔西暦1854年〕神奈川沖に現れ、翌年再び来て遂に長崎、下田及び函館の開港条約の締結を贏〔か〕ち得たのである。

しかもその間に彼は琉球の那覇に寄港し王を脅迫して交易と貯炭所の設置を承諾させ、また小笠原諸島の父島にも船を派してその保障占領を企てたのであって、我が国歩は真に恰かも薄氷を踏むやうな有様だったのである。

 米国との条約締結に次いで英、蘭、露の三国とも開港の条約を結んだ。かくして我国は、国内の囂々(ごうごう)たる反対論にも拘(かか)はらず一応焦眉の対外危機を切抜けた形であったが、然(しか)し此等の諸国は更に我が国内朝幕の抗争に乗じ、隙あらば侵略の歩を踏み入れようと牙を研ぎ眈々としてつけ狙っていたのである。




※参考資料
いわゆる偽旗 イギリスが滅亡したオランダの旗を掲げて長崎入港
長崎奉行松平康英はその責を負って切腹

この江戸時代から続いていた西洋列国の日本侵略、威嚇も大東亜戦争開戦の一因になったのですね。これら西洋列国の対日ヘイトは、戦後キレイサッパリなかったことになってますね。


出典:1942(昭和17)年 蔵王閣 大倉要 「戦争と国際問題」 大東亜戦争篇 英米の罪悪を顧る 一、イギリス罪悪の部

※管理人注:( )内は管理人による注釈です。


 六、日本侵略の毒牙

 犲(さい:山犬)狼のやうな英国は、遂に日本に毒牙を揮(ふる)はうとした。英国船が日本にはじめて来航したのは元和元年(1615年)であるが、その後も延宝元年(1673年)商船リータン号が長崎に来航したことがある。文化五年(1808年)八月十五日には英艦フェートン号が不法にもオランダ国旗を掲げて長崎港に侵入、フェートン号事件が起った。

長崎奉行松平康英は、痛く英艦の不法を憤ったが、警備手薄のため抗すべくもなく、已(や)むを得ず彼(か:英国)の要求に応じ、責を負ふて自刃したのである。更に文化十年(1813年)、同十一年長崎に来航したが、何れも失敗に終った。

其(そ)の後安政元年(1855年)七月には、英国東印度艦隊司令官スターリングは四隻の軍艦を率いて長崎に入港し、長崎、函館の二港を開き薪(まき)、水、食糧を供給し、船舶の修理を許すといふ日英条約を結んだ。

安政五年(1858年)には日英修好通商条約を結んだが、英国の意図明瞭となるに及んで、攘夷論起り、対英感情は悪化し、文久元年(1861年)七月、水戸浪士の一団が英国仮公使館を襲撃した。翌年には生麦事件が起り、文久三年五月十日には遂に攘夷令が布告された。

 七、撃英の聖戦へ

日清戦争によって日本の実力を知った英国は、日本と手を握ってロシアの印度への南下を阻止すべく、明治三十五年日英同盟を締結したが、欧洲戦争(第一次世界大戦)によってロシアとドイツが疲労して終(しま)ふと、弊履(へいり:破れた靴、ぞうり)の如く同盟を棄て去った。

しかるに支那に国権回復のため猛烈な反英運動が起るや、英国は日本に共同出兵を申込んだが、理由なき出兵に日本が拒絶するや、老獪な英国は、今度は支那の懐柔に努め、排外運動の鉾先(ほこさき)を日本に向けさせたのである。

かくて満洲事変の勃発となったが、支那が国際聯(連)盟に提訴するや、英国はこの時とばかり、聯盟の力によって日本を孤立させやうとして、アメリカ迄(まで)傍聴者として引張り込んだが、我が毅然たる聯盟脱退によって、無力を暴露してしまった。

その後英国は露骨に対日適性を発揮し、支那の金融を壟断(ろうだん:独占すること)し、蒋政権を強化することによって排日を煽った。その結果起ったのが即ち支那事変である。

支那事変勃発後の英国の敵性振りは、過去百年に亘(わた)る侵略の遺産を守らうと必死の努力を続けて来た。しかし英国の東亜侵略の魔手を断然払ひのけ東亜新秩序建設の征戦は遂に到来した。いふまでもなく、東亜の為の撃英聖戦である。


【宣戦の大詔|ついに江戸時代からの恨みを晴らす時が来た】
宣戦の大詔

【投降するイギリス軍と杉田情報参謀】
杉田情報参謀パーシバル2



ペリー|日本が港湾を与えぬなら米国に対する侮辱的賠償として沖縄を占領する

この当時、西洋列国が沖縄を欲しがった理由は東インド会社航路の補給基地、アジア(日本)侵略拠点でしたが、現在は沖縄の海底にあるという地下資源目当てですね。

アメリカなんざ建国してまだ200年も経たない、しかも国を牛耳っているのは1800年前に亡国した人種ですから、そんなのが約3000年の歴史を持つ日本に文明を教えてやったとか、大朝鮮かよwと思います。


出典:1931(昭和6)年 森山書店 大谷隼人 「日本之危機」 第三節 米国の西進

※管理人注:〔 〕内は管理人による注釈です。


 東洋に対する米国の野心は、一八五三年ペルリの浦賀来航当時既に其〔そ〕の鋒鋩(ほうぼう:刃物のきっさき。ほこさき)を現はしていたのであって、ペルリを以て開国の恩人等と称するのは、それが一の契機となったといふ意味に於て必ずしも悪くはないが、ペルリ自身及其の背後にあった米国当局が、真に日本を善導して文化の光に浴せしめようとの親切心を持っていたかの如く考ふるのは、余りにも好人物な考へ方である。

史実に徴するにペルリ艦隊の来航はアジア方面に於て米国艦船の根拠地を獲得することが目的であり、之(これ)が為には武力の行使も敢(あえ)て辞せない決心であったのだ。

ペルリとしては日本人が浦賀に自分の記念碑まで建てて開国の恩人に祀り げているのを見(原文ママ)、定めしあの世で苦笑していることだらうと思ふ。ペルリの銅像は之を歴史的に見るなら正に米国西漸(せいぜん:だんだん西方へ移ること)の紀念塔でこそあるのだ。

 参考の為当時ペルリと米政府との間に往復された文書の一節を左に掲げておく。


 日本にして協議を拒み、我が船舶の為、港湾を与ふることを承諾せざる時は、我に対する侮辱的損害の賠償として琉球を占領せむとす政府は之を承認するや(一八五四年一月二十五日米国海軍卿宛ペルリ書翰〔しょかん〕の一節)




1844年フランス革命共和国も沖縄を侵略

3月1日、フランス軍艦が沖縄に来舶、琉球王に通信、貿易、布教を要求します。琉球王はこの要求を謝絶しますが、フランスは9日間も琉球に居座り、帰ったと思ったらまた何度もやって来て要求を続けました。

そして、幕府がフランス軍艦への対応に手をこまねいているうちに、薩摩と琉球の間はフランスの船舶で断ち切られてしまい、「琉球はもう異国の属領になってしまったのでは?」というウワサがたったそうです。


出典:1934(昭和9)-1935(昭和10)年 徳富猪一郎 「近世日本国民史 第29 幕府実力失墜時代」 第四章 二一 仏艦琉球に来舶す

※管理人注:〔 〕内は管理人による注釈です。


 【二一】仏艦琉球に来舶す

 琉球王の貿易謝絶

果然天保十五年甲(きのえ)辰年(弘化元年)〔西暦1844年〕三月十一日、仏蘭西〔フランス〕軍艦-風帆船-一隻来舶し、通信、貿易、布教の三事を要望した。応接再三、琉球王は之〔これ〕に向〔むかっ〕て、洋中の一孤島、土痩せ、地薄く国用足らず、人民衣食に窮乏す。僅(わづか)に日本薩摩の備給を仰ぐ。到底他邦と貿易の有余なし。宗教は元来孔孟の教(おしへ)を以てす、故に布教を許さずとの意味もて、謝絶したが、要領を得ず。

仏艦は居ること九日、宣教師仏人ホールンカシュント、支那人通訳澳吾思〔おうごし〕両人を、琉球語学習の為(た)めに留〔とどめ〕て去った。

 琉球警備兵派遣

琉球の役人は、直〔ただち〕に飛舟〔ひしょう〕(琉球国の報知船にて、独木舟だ。一舟を連結して航海す)もて事由を、薩摩の藩庁に具申した。藩庁は直ちに之〔これ〕を江戸なる藩主齋興〔なりおき〕に通じ、其〔そ〕の指揮を請うた。此〔ここ〕に於て齋興は之を幕府に告げ、且つ長崎奉行に報告し、警備の兵を、琉球に派遣した。

 仏艦再来

然〔しか〕るに仏艦は重ねて来り、再三書翰もて、通信、貿易、布教の三事を迫って止(や)まなかった。而〔そ〕して書中その得策なる所以を条陳〔じょうちん:箇条わけにして、または条を逐って述べ説くこと〕し、清国戦破のの余、償金割地の事情を叙し、速〔すみや〕かにその要求を容るるの利なるを告げ、其の条約の如きは、頃(このご)ろ締結したる英清条約に準拠す可〔べ〕しとて、其の訳文さへも添へて、之を促した。(中略)

 異国船風説

今玆(こんじ:今年)弘化三丙午〔ひのえうま〕年閏〔うるう〕五月廿〔二十〕七日、相州浦賀表へ異国船二艘渡来、続て七艘程、遠州沖に見ゆるの風説にて、浦賀奉行在番は一柳一太郎、参府は大久保因幡守、六月□日江府出立なり。(中略)

薩州琉球の国へも、同時異国船数艘渡来して、薩球の間、海を異国船にて立切り隔て、通路成難く、琉球国は先に併呑〔へいどん:ひとつにあわせ従えること〕せしならん抔〔など〕の風聞区々〔まちまち〕也。




西洋列国に蹂躙された沖縄が解放された理由は明治維新

嘉永(1848年~1855年)以後、沖縄にはイギリス、アメリカ、フランス、オランダの船が頻繁にやって来て、通商条約を要求しました。

その要求があまりにしつこいため、ついに琉球王は薩摩藩の内諾を得て、それらの国々と条約を締結します。

その沖縄が解放されたのは明治維新によって徳川幕府が滅亡し、日本の政治体制が変ったからでした。

沖縄と日本を侵略した西洋列国は明治維新で官軍賊軍双方に武器を売り、維新後は電力などインフラ部門に侵入して金もうけ、その後の戦争で金もうけして、そろそろタマゴを生まなくなってきた日本というメンドリを屠殺することにしたのでしょう。

その屠殺担当が「平和ガー」とか、自分らが日本に引き込んだ米軍に「出て行けー」などと叫んでいるサヨクです。


出典:1932(昭和7)年 国民教育社 太田朝敷 「沖縄県政五十年」 第一 置県以前の歴史の概要

※管理人注:( )内は管理人による注釈です。


 五 藩制時代

 嘉永以後は英、米、仏、蘭の船が年々頻繁にやって来て、通商条約を要求したが、初(はじ)のほどは貧弱の小島貿易すべき物資もない、といふ一点張(いってんばり)で体よく謝絶したが、度重なってはこの手も効なく、遂には薩摩の内諾を得て、これ等(ら)の諸国と条約を締結して事なきを得たが、尚泰王(しょうたいおう)の冊封(さくほう)後時勢は急激に進展し、徳川幕府の滅亡、王政維新、版籍奉還、廃藩置県、その他内政の大改革があり、対外的には三百年も閉鎖した門戸が解放され、新条約が実施される等々々、三四年の間は目がまわるほど多事多忙であったが、我が沖縄に於ては、第一厄介な黒船が来なくなったので、久し振り安眠が出来たといふ風に、上下他愛もなく太平の夢を貪(むさぼ)った時期であった。



いよいよ、沖縄県知事選挙が迫ってきましたね。

沖縄県民のみなさま、サヨクに蹂躙されている現在の沖縄を変えて自由を勝ち取ってください。本土の片隅で祈っております。


参考|西洋列強の世界政策 イギリス、アメリカ編


出典:1941(昭和16)-1944(昭和19)年 朝日新聞社中央調査会編 「朝日東亜年報 昭和18年 第2集 新支那経済の基本動向」 第四部 反枢軸陣営の諸矛盾 二、米英の基本的対立

※管理人注:( )内は管理人による注釈です。


 (二)米、世界政策を推進

 米国が世界支配の野望を抱いていることは議論の余地がない。それは前大戦以来の歴史的な事実であり、国際政治の基本的な問題である。

前大戦後米国が英国に代って世界の債権国となり、戦後国際政治の実質的支配者となり得る礎石を築いたことは、米国の野望に現実的裏付を与へた。




【写真出典】
・1954(昭和29)年 富士書苑 森高繁雄編 「大東亜戦争写真史落日終戦篇」
・1954(昭和29)年 富士書苑 森高繁雄編 「大東亜戦争写真史開戦進攻篇」


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