HOME > 容共連合国(国際金融資本) > title - 地震予知予言的中率86%!地震前兆虹(椋平虹)
2018/09/13

地震予知予言的中率86%!地震前兆虹(椋平虹)


戦前日本の地震予知方法として前兆虹(ぜんちょうこう)がありました。

前兆虹とは地震が起きる前日に東の空に現れる虹のことで、虹らしく七色そろっているものの通常のアーチ型の虹のきれっぱしのようなもので、わずか数分間で消滅するのが特徴だそうです。

1919(大正8)年、この前兆虹と地震発生の関係にいち早く気づいて観測、研究を始めたのは、京都府丹後半島の農家の次男椋平広吉(むくひらこうきち)氏でした。

前兆虹による地震予知は的中率86%。

椋平氏の地震研究はのち東京中央気象台藤原咲平(ふじわらさくへい)博士の目に止まり、1937(昭和12)年にはMukuhira's Arcとして世界物理学界に発表されました。

地震=地殻変動というのは、椋平氏が前兆虹を発見する前からいわれている古ーい説で、その当時から「地震は予知できない」といわれていたそうです。

一方、椋平氏の説は、地震は太陽による光学現象である、といったものでした。「地震の起る前に太陽の光線が地球の地震の起る部分に強い圧迫を加へる」のだそうです。

この椋平氏の地震予知理論は、どこへ消えてしまったのでしょう?


椋平広吉氏が発見した13種類の地震前兆虹

一段目左から二番目の  に似た前兆虹が死者3249名を出した台湾新竹大地震の前日に日本で観測されたもの。椋平氏は日本にいながら台湾や中国で起きる地震を予知、的中させた。

前兆虹2【出典】1942(昭和17)年 金の星社 沖野岩三郎 「虹のをぢさん」


椋平氏は毎日二時間おきにこの前兆虹を観測し、関東大震災、北伊豆地震、台湾新竹大地震などの大地震から小中規模の地震まで、その発生時刻まで次々に予言、的中させたそうです。


2014年5月4日|全国でみられた太陽にかかる虹

翌日、東京を中心とした震度5の地震発生。

2014年5月5日虹2引用URL:【地震の前兆?】5月4日、全国で目撃談が相次ぐ太陽にかかる虹や彩雲、そして5月5日の地震発生-NAVERまとめ


人工地震の二条件確定|地震は前兆虹、分度器、三角定規で予知可能

アマゾンで地震予知関連本を検索していたら、「そこまで言って委員会」などで「地震は予知できませーん」と断言しているゲラー博士の「日本人は知らない『地震予知』の正体」の内容BOOKデータベースに"日本の地震予知研究は、開始から既に約半世紀、なのにいまだに一度も予知ができていない"とありました。

ということは、椋平氏の研究が学界に発表された1937年から戦後日本で地震予知研究が始まったとされる1960年までの間に椋平氏の研究成果が抹殺された、ということなのでしょう。

人工地震では太陽の影響を受けないので、前兆虹が発生しないからかも知れません。

そして地面ばかり見ていても予知できない地震研究のために、ムダな税金が使われ、大地震が起きるたびに株価や為替を通して日本人の生命がマネーに換金されている、ということなのでしょう。

椋平氏は分度器と三角定規だけで地震の強さ、発生する地域、発生時刻まで算出したのですから、地震予知に莫大な税金をかける必要はないと思います。

人工地震は何度もオイシイ、ってことですかねえ?


いまだ経済はマスコミ報道で動く|人工地震の条件

日本で地震が発生した、日本は地震発生の影響で経済ガーといったマイナス報道と同時に日本株や円を売ればボロもうけ。そして底値で買い戻してマスコミ報道を操作すればまたボロもうけ。

人工地震の二条件「前兆虹が発生しない」「日本株の下がり始めに発生するのは人工地震の可能性大」が確定しました。


北海道大地震が企業直撃 経済損失は熊本以上の5兆円超えも
2018年9月7日

 北海道の大地震は多くの企業を直撃している。工場の操業停止、コンビニやスーパーの営業停止。札幌証券取引所は6日の取引を中止した。

 6日時点で、日本製紙や王子製紙、トヨタ自動車、森永乳業、明治、キユーピー、カルビー、マルハニチロ、日清食品、京セラ、パナソニック、丸大食品、伊藤ハム、アサヒビール、キリンビールなどの工場が停止している。

千歳市に工場のある半導体関連のSUMCOの株価は大きく下がりました。投資家から、手放したほうがいいかという問い合わせがあったほどです」(株式評論家の倉多慎之助氏)(後略)



前兆虹を観測する椋平広吉氏。

観測中のをぢさん2


地震前兆虹発見からMukuhira's Arc(椋平虹)として世界物理学界に発表されるまで|椋平広吉伝(抜粋)

多くの人を大地震から救いたい。尋常小学校しか卒業していない椋平氏は周囲の人々にバカにされながらも奥ゆかしく、情熱的に研究を続け、やがてその名は世界に知られることになりました。


出典:1942(昭和17)年 金の星社 沖野岩三郎 「虹のをぢさん」

※管理人注:( )内は管理人による注釈です。


 天から与へられた教科書

 時は大正八年(二五七九年)(皇紀。西暦1919年)五月十九日の午後七時頃でした。椋平さんは家の入口に立って、何心なく東の空を見上げますと、今まで見たことのない、虹のやうな美しい雲が出ていました。今ころあんな所へ虹の出る筈(はず)はない。しかし、されは普通の雲ではない。ふしぎなものだ。と、思ひながら、その虹のやうな雲のやうなものの消えるまで見つめていました。この虹のやうな雲のやうなものが、天から椋平さんに与へられた地震研究の大教科書だったのです。

 それから二日後に、名古屋地方に弱い地震があったといふことを、新聞紙で読みました。

『あの虹のやうな雲のやうな美しい光が出ると、そのあとで地震があるのではなからうか。』

 椋平さんは、そんな事を考へはじめました。そして、毎日のやうに東の空をながめていますと、一箇月後の六月十八日午前六時ころ、同じ場所に同じ色の虹のやうなものが見えました。それを見た椋平さんは、『また地震があるぞ。』と、口の中で言ひました。すると、あくる日の新聞紙に、和歌山県の日高川附近に可(か)なり大きい地震があったと書いてありました。

 そこで椋平さんは、いよいよ、あの虹のやうな雲の出るのは、地震の起る知らせであらうと思ひました。けれどもそれは、此(こ)の天から与へられた教科書の表紙だけを、見たくらいのものでした。

 ところがそのあくる年の大正九年(二五八〇年)四月のある日のことでした。畑から帰って来た椋平さんは、家の庭の所まで来て、ふと東の空をふりあふぐと、例の虹のやうな雲が美しく輝いていました。時計を見ると午前十一時五十八分でした。虹のやうな雲は三分間ほど見えていましたが、すぐに消えてしまひました。

 椋平さんは其(そ)の頃、毎日欠かさずていねいに、日記をつけていましたので、さっそくこの虹のやうな雲の見えたことを書き入れておきましたが、その翌日、長崎地方に地震のあったことを新聞紙で見ました。

『いよいよ、あの虹のやうな雲と地震とは大きな関係があるにちがひない。』と、思った椋平さんは、村の宮崎亀二郎さんにきいてみました。

『宮崎さん、あの東の空に出る虹のやうな美しい雲は、あれは何といふ雲ですか。』

『あれは、ここいらの人は「火の粉」と、いひますよ。紀州の漁師さんたちは「小虹(こひ)」といふやうです。昔からあの火の粉が出ると二三日のうちに海が荒れるといふ言ひ伝へです。けれどもあの火の粉が出ても海の荒れない事もありますから、あてにはなりませんよ。』

 亀二郎さんは、そんな事をいひました。椋平さんは、海の荒れることと、地震の起ることに、関係があるだらうと思ひながら、近くに住んでいる一色儀十郎さんの所に行って、同じことをきいてみますと、

『廣さん、あの雲は地震の起る知らせの雲ですぞ。明治二十四年の十月二十七日の正午ころに、この丹後半島の空に七色の美しい虹が出たんです。しかもそれは短い虹で、あの、それ橋のやうな虹ぢゃなかったんです。七色ちゃんとそろった虹のきれっぱしが、はっきり東の空に見えたので、漁夫たちは気味がわるいと言っていましたが、その翌日があの濃尾の大震災で二十二万二千五百の家がつぶれちゃったんですよ。』

 椋平さんが地震の研究をしているとは知らない一色儀十郎さんは、いろいろと東の空に現はれる短い虹の話をいたしました。

 一色さんの話をきいた椋平さんは、いよいよあの虹のやうな雲は、地震の起る前に出るのだ、あの虹のやうな雲を研究すれば、地震の予知はできると思ひこんでしまひました。

 そこで、椋平さんは毎日十二回、日記をつけることにして、二時間目二時間目に、かならず風の方向と強さ弱さ、天候、気温を書きつけました。雨量、海の波の高さ、雲の形、日と月のありさま、水蒸気虹、後虹(あとにじ)、露、霜、もや、かすみ、きり、あられ、雪、雹(ひょう)、いなずま、かみなり、井戸水の増減など、くはしく書きつけました。(中略)

 前兆虹

 大正十年(二五八一)(1921年)七月十九日の正午でした。東南風が吹きはじめましたので、東の空を見ますと、はっきり前兆虹が見えました。その形は  になっていました。

 この前兆虹が消えた八時間六分後に、相模灘に弱震があったことを知った椋平さんは、それから前兆虹の形を研究しはじめ、その形と長さとで、何百キロ、何千キロ遠い、どっちの方角で地震が起るといふ事を知ることができました。それから後は三角定規と分度器とが、七つ道具の中にまじって、椋平さんの行くところへ、ついて行くことになりました。村の人たちは、いよいよ椋平さんは、気が変になったと思って、地震博士といって、からかったり、地震きちがひといって罵(ののし)ったりするやうになりました。

 そんな時に、椋平さんは一人の知己を得ました。それは宮津中学校長の森田新三といふ先生でした。

 大正十一年(二五八二年)(1922年)の春、宮津中学校の講堂で青年会の大会がありました。その席上で椋平さんは自分の研究している地震前兆虹の話をいたしましたが、青年たちは、みんな馬鹿にして静聴しませんでした。けれども校長の森田新三先生はとくに椋平さんを一室によんで、

  物事を深く考へ深く研究すること。

  軽軽しく研究を発表せず、奥ゆかしい人になること。

  物事を研究するには、他人の説を排斥しないで、よく共同の精神を保つこと。

と、いふ三箇条について教訓しました。地震博士だの地震きちがひだのと、面と向ってあざける人たちの中で、こんなに、しんせつな忠告をして下さった森田新三先生の言葉は、しみじみ心に感じられました。

 天から椋平さんに与へて下さった、教科書はだんだん読めるやうになって、今ではもう前兆虹を見つけて、其(そ)の濃淡と形と現はれている時間とを記入して、分度器と三角定規とを使へば、大体方角と距離と起る時間とが言ひ当てられるやうになりました。

 皇紀二千五百八十三年、すなはち大正十二年八月三十一日午前十一時五十八分でした。今年二十一歳になる青年椋平廣吉さんは、毛島半島の上空に  の形した前兆虹を見つけました。色が濃いので強震だと思ひました。

『大変だぞ。関東方面に大地震があるぞ。』

 椋平さんは、つぶやきながら観測してみますと、たしかに東京湾に強震があると推定できましたので、すぐ天の橋立の郵便局へ行って、

 九ガ ツ一ヒゴ ゼ ン十一ジ スギ トウキヨウワンニヂ シンアル

と、いふ電報を東京帝国大学あてに打っておきました。けれどもその時、大学は夏休で、先生たちは学校にいませんでした。のみならず翌日の大震災で大学の教室も事務室も焼けてしまったので、せっかく椋平さんの打った電報は、何の役にも立ちませんでしたが、東京にあの恐ろしい大震災があったといふ事を知った椋平さんは、

『よし、自分はどうしても、地震予知の大仕事を仕とげてみせるぞ。』といふ、強い決心をすることができました。(中略)


【関東大震災|内務省跡】
関東大震災内務省

 六種の前兆虹

 大正十五年は、十二月二十五日かぎりで、昭和元年となりました。それから六日後が、昭和二年(二五八七年)(1927年)一月一日でありました。

 どうしたものかこの年は、めづらしく雪の多い年でした。ちゃうど一月十六日から毎日雪が降りつづいて、四十三日間降りやみませんでした。

 藤原咲平(さくへい)といふ学者の書いた「雲をつかむ話」の中に、地震の起る前には長く雪が降りつづく事があると書いてあります。それを読んでいた椋平さんは、何となく心配でたまらなくなりました。それは雪降(ゆきふり)のために、空が曇っているので、前兆虹を見つけることができないからでした。

 三月六日の朝、椋平さんは人通りの道具をそろへて、中郡峯山町へ雪量の観測に出かけました。

 行く道ばたで、一人の老人が雪をかきわけて、牛蒡(ごぼう)を掘っているのを見ました。

『おぢいさん、長い雪ふりでしたね。』

 椋平さんは声をかけました。すると雪の穴の中から、おぢいさんは答へました。

『まあ来てごらんなさい。不思議なこともあるもんで、此(こ)の地面が燃えるやうに熱いんですよ。』

『さうですか。』言ひながら雪穴の中をのぞくと、おぢいさんは足袋(たび)も何もはかないで、はだしで立っていました。

 椋平さんも其(そ)の穴の中に入ってみますと、おぢいさんの言ふ通り、土がほこほことあたたかく感じました。寒暖計ではかってみますと、二十九度半の温度がありました。丁度(ちょうど)真夏の温度です。

『どうしたんでせう。これは地震でもあるんぢやないでせうか。』

 椋平さんは、つぶやくやうに言ひました。

『わしも心配しているんですよ。竹野郡の網野町では、二三日前から海鳴(うみなり)が聞えるし、たくさん死んだ魚が浜へ打ち上げられるさうです。』

 さう言った老人は、牛蒡を一本ひきぬきました。

『海鳴がするんですか。そいつは地震の前兆かも知れませんね。』

 言ひながら椋平さんは、おぢいさんを雪穴の中に残して置いて、網野町の方へ急ぎました。

 三時ころに網野へ着いて、土地の人にきいてみますと、おぢいさんの言った通り、二三日前から時時(ときどき)、雷のやうな音が、海中から聞えて来たり、死んだ魚が砂浜に打ちあげられたと申しました。

 椋平さんは大急ぎで府中村へ引返しました。帰る途中おぢいさんが牛蒡を掘っていた雪穴をのぞきますと、もう、おぢいさんはいませんでした。

 椋平さんはその穴に入って温度を量ってみますと、今度は三十度六分ありました。しばらくそこに立っていますと、汗が流れて来さうです。

 これは大変だと思った椋平さんは、峯山町の裁判所のそばまで来て、二めえとるぢかく積っている雪を見つけて、すこっぷでそれを掘りはじめました。

『何をするんですか。』 通りかかった一人が、ききました。

『雪の下の地温が、どれほどあるか量ってみたいんです。』

『地温をはかってどうするんですか。』

『地温が三十度以上もあるんです。ひょっとしたら、地震でもあるんぢゃないかと思ひまして……』

『なんだ、地震を掘り出すっていふんですか。』

 そこへ集って来ていた十四五人の人たちは、一度に笑ひました。

『あれが地震きちがひだよ。』

『さうださうだ、地震博士だ。』

『雪の中が三十度以上も熱いって、そんな事があるものか。』

『かはいさうに、いよいよ本物のきちがひになった。』

 そんな事を言っているうちに、一人の男が雪玉を作って椋平さんになげつけました。

『何をするんです。今年は四十三日間も雪が降りつづいたぢゃありませんか。これは大地震のある前兆かも知れません。それで私は……』

 椋平さんが、そこまで言った時、四方八方から雪玉がとんで来ました。どうする事も出来ないので、椋平さんは其の場所の観測を思ひ止(とどま)って、『きちがひ、きちがひ。』と、いふ声に送られて峯山町を去りました。そして、家の近くまで来ると、東の空にはっきり前兆虹が見えるぢゃありませんか。虹の形は  のやうに、ななめになっていました。

 椋平さんは、すぐに分度器と三角定規とを出して、それを観測して、家へ帰って計算してみますと、翌日午後六時から七時までの間に、丹後地方に強い地震のあることが推定せられました。

 そこで隣家の一色儀十郎さんの所へ行ってその事を話して置きました。


【1927(昭和2)年3月7日発生|奥丹後大震|3500戸が火災倒壊で全滅】
進軍記事北丹後地震2引用URL:神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 災害及び災害予防(7-045)大阪朝日新聞 1927.3.8 (昭和2)


 あくる朝、宮津の測候所へその事を知らせに行きましたが、測候所にはまだ誰も出勤していませんでした。そこで引返して、府中村の阿蘇小学校へ行きますと、校長の宮田重治さんは、八人の職員を集めて、何だか相談会をしていました。

 そこ入って行った椋平さんは、顔色を変へて、

『校長さん、今日は午後六時から七時までの間に、この丹後地方に、大地震がありますぞ。何とかして村の人たちに知らせてあげる方法はありますまいか。』と、申しました。

『そんな事がわかっているなら、君から知らせてやればよいぢゃないか。』

 富田校長は冷笑するやうに言ひました。

『私が言っても信じてくれません。校長先生から何とかしていただきたいんです。生徒を集めて下されば、私からくはしくお話いたします。』

 椋平さんは、熱心に言ひました。すると富田校長は、

『椋平君、馬鹿なことを言ふものぢゃない。地震がいつ起るといふやうなことは、博士でも教授でもわからないんだ。小学校を卒業しただけの君に、そんな事のわからう筈(はず)はないんだ。村の人たちは君のことを地震きちがひだといっている。僕は今まで村の人たちの悪口だと思っていたが、今日はじめて君が本物の狂人だといふことがわかった。そんな狂人なんか相手にしているわけには行かない。帰れ、早く帰れ。』と、叱りつけました。

『けれども……』椋平さんは、どもりました。

『けれどもぢゃあない。さっさと出て行かないか。』

 富田校長はたち上って、椋平さんを職員室からつき出して、硝子(ガラス)戸をぴしゃりと閉めました。

『もしも、地震が起ったらどうしますか。』

 椋平さんは、戸の外から呶(ど)鳴りました。

『君の預言があたったら、この首をやるよ。この首を……』

 富田校長は右の手で自分の首を軽くたたいてみせました。

『もしも、地震が無かったら、私の此の首をさし上げます。』

 行きがかりで、椋平さんも、そんな事を言ってしまひました。その時、時計を見るとちゃうど四時でした。

 急いで家へ帰った椋平さんは、お隣の一色儀十郎さんに、

『二時間半ほどたつと、地震が来ますぞ。』と、言って置いて、自分は研究室の中にある大事なものを一まとめにして、いつでも持って出られるやうにして置いて、それから夕飯を食べていました。

 ちゃうど六時二十分ころでした。椋平さんが夕飯を食べてしまった時、どすん……といふ音がしたと思ふと、大きな手で首筋をつかまへて、前後に強くふりたくられたやうに思ひました。

 驚いて裏庭へとび出してみますと、一色さんの家では家内中裏庭に出ていました。一色さんの家は、ぐっと前のめりに傾いていました。

 村中は大騒ぎでした。即死者もありました。けが人もありました。

 午後の九時頃に富田校長は赤い十字のしるしをつけた救急箱を肩にかけて、見廻りに来ました。少年赤十字社の支部長として巡廻(じゅんかい)して来たのです。

『校長先生、首を下さいますか。』

 椋平さんは、校長の姿を見ると、走りよって詰問しました。すると、富田校長は、

『世の中には、まぐれあたりといふ事があるからなあ。』と、言って、さっさと立ち去りました。

 首をくれる、くれない問題よりも、昨日観測した自分の観測が間違っていなかったといふことが、うれしくてたまりませんでした。けれども、まだ誰ひとり自分を信じてくれる人もありません。

 それから五箇月後の八月五日の夕方、また前兆虹を見ました。その虹は j の形でした。と、その翌日仙台に地震がありました。これも椋平さんの観測通りでした。

 次の昭和三年(二五八八年)(1928年)は一年に四十回の前兆虹を見ましたが、その種類は、


(1927(昭和2)年8月6日|宮城、福島で強震、東京、大阪も揺れた)
前兆虹五種類1引用URL:宮城県を中心に東北地方の強震 震源地は海底らしく大正元年以来の騒ぎ-神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 災害及び災害予防(7-086)大阪時事新報 1927.8.7 (昭和2)

の五種でした。

 もう椋平さんも二十七歳になりました。尋常小学四年の時に、地震予知の研究を瀧本先生に約束してから十六年たちました。世間の人たちは地震きちがひだといって笑っていますが、椋平さんは心の中で、
『今に見て居れ……』と、いふ意気込(いきごみ)が、ますます強くなりました。それは、十年前に天から与へられた教科書が、だんだん読めるやうになって来たからでした。

 昭和四年(二五八九年)(1929年)五月二十二日の午前十一時五十四分に、椋平さんは江尻の浜で前兆虹をはっきり見ました。すぐ観測しますと、それは中華民国の中部で、丹後から真西に当る地方に、激震がある前兆だとわかりました。

 椋平さんは、それを記録しておいて持っていますと、翌日果して中華民国甘粛省(かんしゅくしょう)に激震があって、三万五千人の死傷者がありました。

 それから四十三日目の、七月三日の午前十一時五十八分に、例の所で見た前兆虹は、今まで見たことのない (. の形したものでした。これで六種の前兆虹を椋平さんは見たのです。その前兆虹の観測も椋平さんの観測通り和歌山県に強震がありました。(中略)

 地震予知的中

 それからちゃうど十日目の、十一月二十五日のひるすぎでした。椋平さんが家の庭で稲扱(いねこき)をしていますと、一人の子供が来て、

『廣吉さん、あなたが浜に乾してある藁(わら)が、浪に流されさうになっていますよ。』と、言ってくれました。

『さうか、それはよく知らせて下さいました。ありがたう。』

 椋平さんが、海岸へかけつけたのは、午前十一時五十八分でした。

 浜へ行った時、ふと東の空を見上げると、はっきり前兆虹があらはれていました。その形は   で、馬の蹄(ひづめ)に似ていました。色が淡くて強震の前兆らしいので、さっそく観測しますと、翌日午前四時ころ、伊豆地方に強震が起るといふことが、わかりました。(中略)

 椋平さんは家を出ました。そして天の橋立局へ行って、京都大学理学部長石野又吉博士あてに、

  アスアサ四ジ イヅ ジシンアル

と、電報を打ったのは、実に昭和五年(二五九〇年)(1930年)十一月二十五日午後零時二十五分でありました。

 此の電報が京都市の聖護院郵便局から、石野博士の手許(てもと)に届けられたのは、午後一時ころでした。

 椋平さんはその時、天の橋立郵便局で四枚の頼信紙をもらって、同じ電文を伊豆の伊東町役場、静岡県熱海町役場、静岡県庁あてに書きました。けれども石野博士の所へ電報を打つだけでも、兄さんの新蔵さんが、あれだけ心配しているのを思ふと、ひとりぎめに、そんな事が出来ないと思って、石野博士以外の三枚は、そのまま畳(たた)んで持って帰りました。

 其の翌日午前四時に、椋平さんはいつもの通り日記をつける為に家の外に出て、雲の様子、風の方向と速度をたしかめ、家の中に入って日記をつけたあとで、ふとんの中にもぐり込んだと思ふと、めきめきめき………と、床がゆれました。(中略)


【アスアサ四ジ|1930(昭和5)年11月26日北伊豆地震発生】
新聞記事時間まで的中2引用URL:神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 災害及び災害予防(7-135)大阪毎日新聞 1930.11.27 (昭和5)


 博士来る

 椋平廣吉といふ名は、たちまち全国へ知れわたりました。けれども、それは地震を予知した椋平廣吉といふ人の名前が、新聞紙を読んだり、ラジオをきいたりした人に知られただけで、中には椋平さんを易者だと思ったり、催眠術のやうな方法で言ひ当てたんだと思ふ人も多かったやうです。

 けれども椋平さんの研究は、筮竹(ぜいちく)をがぢゃがぢゃ鳴らして易を見たり、眼をとぢて心の中で雲を見たりするのではありません。現に毛島半島の上空に見える短い虹のやうなもので観測するのです。椋平さんはその虹のやうなものを地震前兆虹と名づけて、それを土台にして地震の起る地と、その起る時間を割り出すのです。その割り出す方法は、椋平さん自身で考へ出したものです。

 それから、これまでの学説では、地震といふものは主として地球の内部から起るのだといふ事になっているが、椋平さんの説では、地震の起る前に太陽の光線が地球の地震の起る部分に強い圧迫を加へるのである。此の圧迫を加へた時、空気中の電子と放射能力のある物質とが、太陽光線の影響を受けて、前兆虹を現すのだといふのであります。

 つまり、椋平さんの説では、地震といふものは地球の中から起るのでなく、光の作用で起るのだといふのであります。地球の中から起るのだ。いや、天の上から起るのだ。といふ議論はなかなか一致しさうにありません。(中略)

 世界の学界

 それから二年の月日は、またたくうちに過ぎ去って、昭和十二年(二五九七年)(1937年)の一月になりました。椋平さんが田辺町(和歌山県)へ来てから五年目の春です。

 椋平さんが扇が浜の観測所から帰ってみますと、東京帝国大学で発行しているThe Earthquake Research Institute(あーすくおーく りさあち いんすちちゅうと)といふ雑誌が玄関の畳の上に投げ込まれてありました。東京中央天文台の藤原咲平博士から送って下さったのであります。

 椋平さんは、あわてて封をきってみますと、その七百六ぺえじにOn the Socallea' Mukuhiras Arc as the Fareshadow ot on Earthquake.(地震前兆としての、いはゆる椋平虹について)と、いふ藤原咲平博士の論文が載っていました。

 椋平さんは玄関に坐(すわ)ったままその論文を繰返し繰返し読みました。その論文の意味はかうです。


   地震前兆としてのいはゆる椋平虹について

     東京中央気象台 藤原咲平

 西暦千九百三十年十二月二十五日午後十二時五十分に京都帝国大学理学部長石野又吉教授は、京都府宮津町附近に住む椋平廣吉といふ一青年から一通の電報を受取った。その電文は『明朝四時頃伊豆地方に地震あるべし』といふのであった。その電報は同日午後十二時二十五分に橋立郵便局から発信したものであったが、果して翌日午前四時三分伊豆地方に激震があって、死者二百五十九名、倒壊家屋二千百四十二戸に達した。

この椋平氏の電報の事は、直(ただち)に大阪毎日新聞及び東京日日新聞によって報道せられた。両新聞は日本に於ける有名な新聞紙である。この報道を見たる京都大学教授志田順氏は間もなく、かかる地震予知が一青年によって如何にして成功せられたかを調査する為にその青年の住する江尻の浜に赴いて椋平氏に面会せられたが、教授はその後此の調査については何等(なんら)の報告をしなかった。けれども椋平氏は新聞紙上に報道せられたやうに、空中に一種の虹を見、それによって確実なる根拠のもとに幾多の事実を観測してその時間および場所を或種の計算によって予知し得たのである。

その虹は椋平虹と呼ばれている。

椋平氏は以前よりひそかにこの虹について研究を進めていたので、関東大震災(西一九二三・九・一)但馬の大震災(西一九五二・五・二三)(原文ママ。正しくは一九二五年)丹後の大震災(西一九二七・三・七)はその研究のために予知せられていたのである。けれども同氏の観測中時としては的中せざることもあり、且つその予知の発表は警察署に於いてこれを禁止せられているので(満州事変勃発により流言蜚語が禁止された)、彼はその研究室を閉ぢて他人の見学を禁じ訪問者に対しても、地震予知研究については多くを語らないのである。

西暦千九百二十三年彼は和歌山県田辺町に居を移して椋平虹の研究を続け、西暦千九百三十五年八月に至って、『地震予知と椋平虹現象』と題する小冊子を発行したが、これによれば、彼は当時までに四百八十七回椋平虹を観測しているのである。この虹は日の出、日の入、日中、真夜中等に晴れた上空に数分間のみ現れるので、その虹の形態により、分度器にて発震時間方向震源地などを測定するのであるが、彼は未だその算出方法を公表しないが、近き将来に於いてその公表をなすことを信ずる。

椋平氏の説に従って同一現象を観測せられた数人がある。

西暦千九百三十六年二月二十日の夕方、日本中央気象台附属大阪木津川気象台に於いて見た現象は、日没十分前太陽の周囲は普通の夕焼であったが、五時四十五分(日没四分間前)研究に入ってその窓から西方の地平線上を見た時、そこに特殊の光彩があった。

所員は直に戸外に出て更に綿密に観測したが一分間の後にその光彩は消滅した。ところが翌二月二十一日午前十時八分に、二上山を中心に大阪地方の南東部に強震があり死者九名倒壊家屋二十一戸を算した。

西暦千九百三十六年十一月一日午前六時十五分、八戸気象台の東方に虹の如きものが現れた。色は紫に黄色が交っていて、極めて淡く見えた。四分間が五分間ほどでその虹は消えた。ところがその翌朝十一月三日午前五時四十五分に三陸の強震があった。

これらの二つの例はいはゆる椋平虹と地震との関係を信ずるに足る証拠とすることが出来る。これ以来吾吾(われわれ)は今まで未知であった新光学現象のあることを確め得たのである。

しかし、まだ天候気象が真に地震と密接な関係があるといふ事を物理学上確実に発言することは出来ない。けれども椋平虹の研究は地震予知に対して明るい希望をもたしめたるは事実である。総(すべ)ての研究は軽率にその結論を求めてはならない。科学的にその根本から調査に調査を重ねなければならない。

西暦千九百三十三年二月十二日の朝、太陽の出た二三分間後に姫島の灯台守をしていた筒井氏は太陽の近くに一種の虹の如き光を認めたが、翌十三日午前六時に九州阿蘇に強震があり、十四日正午に和歌山県にも強震があったといふ報告を受けている。

西暦千九百三十五年七月九日及び十日の朝、岩手県釜石の上空に金色の不思議なる雲を見たといふ報告が、漁業組合員から宮古の気象台部長中田氏に発せられたが、十一日午後五時二十四分に静岡県附近に激震があって、死者九名倒壊家屋三百六十三戸を出した。

これらは信頼すべき報告ではあるが、それが必ずしも椋平氏が言ふ所の前兆虹と同一であるとは言へない。

かういふ現象については、いろいろの議論もあるが、その結論は未来の研究に残されなければならない。


 これは藤原咲平博士の発表せられた論文のあらましでありますが、これで椋平さんの今まで前兆虹と呼んでいた虹は、日本語では『椋平虹』、英語ではMukuhira's Arc(むくひらず あーく)といふ名にきまり、それが全世界の物理学界に発表せられたのであります。(後略)


【観測日記|椋平虹地震予知研究所】
観測日記1_2

観測日記2_2





関連記事
スポンサーサイト