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2018/08/18

パラオの慰安所と朝鮮人従軍慰安婦


レコードチャイナが「パラオ群島のペリリュー島で日本軍の慰安所が見つかった、朝鮮人慰安婦が数百人いたらしい」と報道しています。

帝国連合艦隊従軍記者の手記によると、パラオ群島で朝鮮人従軍慰安婦がいたのはペリリュー島ではなく、パラオ群島コロール島にあった朝鮮人軍属相手の店一軒だけだったそうです。

とうぜん強制連行ではなく、自由意思で南洋まで出稼ぎに来た朝鮮人たちでした。


【同胞を見送る朝鮮人慰安婦@コロール島】
朝鮮人慰安婦2【出典】1953(昭和28)年 富士書苑 森高繁雄編「秘録大東亜戦史 マレー・太平洋島嶼篇」所収 共同通信社通信部次長 多田欣司「パラオ諸島方面作戦記」


【海軍基地だった南洋委任統治領|トラック島の戦艦武蔵(右)と大和(左)】
1944(昭和19)年3月29日、わが哨戒機が敵機動部隊の西航を認め、即日武蔵以下パラオ在泊艦船に緊急避退命令が出された。30、31日、米軍はヤップ、パラオ両島に大空襲をかけてきた。

武蔵と大和2


帝国連合艦隊従軍記者の手記から|パラオ群島の朝鮮人従軍慰安婦

第一次世界大戦後、パラオが日本の南洋委任統治領になったあとは軍に食いこんでうまい汁を吸おうというひと旗組がいて、その中に料亭や妓楼いわゆる「慰安所」があったそうです。

そして海軍に徴用された朝鮮人軍属を相手に商売しようと出稼ぎにきたのが朝鮮人売春婦だったというわけです。

海軍さんは気品を重んじるので、朝鮮人売春婦など相手にしなかったということですね。陸軍も性病が怖くて朝鮮人売春婦は敬遠していましたし。

海軍の慰安所は内地(日本国内)から進出してきた名のある料亭、大楼(格式のある妓楼)でした。


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 森高繁雄編「秘録大東亜戦史 マレー・太平洋島嶼篇」所収 共同通信社通信部次長 多田欣司「パラオ諸島方面作戦記」

※管理人注:( )内は管理人による注釈です。


艦隊を迎えたコロール

 第一次世界大戦後日本の委任統治領となる前の南洋群島は、ドイツ領だったとはいうものの、何等(なんら)の文化的施設もなく、

「コロール島に土人の娼婦一名ありときき大工某行きてみるに、萱(かや)にてふきたる屋根、竹を並べたる床(とこ)に、色黒き女、裸体に近きいでたちにて出で来り異臭を放ちなが傍(そば)に寄れば、さすがその道の豪の者も、たまらずなりて恐ろしさのみ先立ち、遂に目的を達せず愴惶(そうこう:あわただしいさま。あわてふためくさま)として船に逃げ帰れり」

 と田口卯吉の南洋記行にあるようなホントの南洋の孤島であったが、日本の委任統治領となるや、日本海軍は早くもこれを掌中におさめ、軍政府をおき、南洋庁とともにその軍事的施設と原住民の教育に乗り出した。

 やがて事業開発としては南洋拓殖、南洋興発などが中心となって、サイパン、テニアンの砂糖生産、アンガウル燐鉱の開発、また太平洋上に碁石を撒きちらしたようにちらばる、各島々には、南洋公学校などの教育設備が施され日本人も数多く出かけるようになった。その主なるものがパラオ、ヤップ、サイパン、ロタ、トラック、その他である。


【南洋地図】
南洋地図3

【パラオ地図】
パラオ地図3

 南洋庁の所在地と決められたパラオ群島中のコロール島は行政の中心地でもあったがまたオーストラリヤ北方のアラフラ海で出稼ぎする真珠貝採取のダイバー船の基地ともなり、この船乗り相手の料理屋や商人達にとっては実によい稼ぎ場所ともなった。日本施政二十余年にしてコロールの人口は日本人だけで一万三四千を数えられるほどになっていた。

 在住民の中にはむろん真面目な出稼ぎ人が多いには違いなかったが、この当時は軍とともに歩き、また軍により食いこんで、うまい汁を吸おうという、ひと旗組が相当あったことも動かし難い事実であった。

 そのころの内地ではあまり使われない言葉だった「パンパン」屋も十数軒しかもそれが頗る大掛りなものであっただけに、これらの家に雇われている人の数も、三四百人は下るまいといわれていた。

 街中の大小飲食店料亭には「海軍御用」の標札がぶら下っていた、まさに海軍様々である。この海軍の島コロールに連合艦隊が入港したのだからその騒ぎは推して知るべしである。群島唯一の日刊新聞「南洋新報」がその全発効部数の三割以上も毎日増刷したとあり、兵隊達の楽しみの家「文(ふみ)の家(や)」「徳の家」、「紅樹苑(こうじゅえん)」その他全部が逃げ廻る連合艦隊であるとも知らず「儲けられるだけは儲けさせてもらおう」とハリキッたのもまたあたりまえ、ともいえよう。(中略)

 十四師団パラオへ転進

 西カロリン諸島方面の危急増大とともに、満洲駐留からパラオ群島警備を命ぜられた陸軍宇都宮第十四師団は米五十八機動部隊が西カロリン諸島に一大攻撃を加える直前昭和十九年三月二十八日駐留地満洲を出発した。その出陣にあたって師団長井上貞衛(さだえい)中将(高知県出身)はその麾下将兵にたいし以上の如く訓示した。

 四月二十四日茨城、栃木、群馬、長野、千葉など各県出身の現役兵をもって編成された宇都宮第十四師団を乗せた船団は第一次大空襲のため破壊し尽されたマラカル港に入って来た。群島内の警備に千斤の重みを加えたものとして在住官民は生色をよみがえらせ、欣喜雀躍してこれを迎えた。

 直ちに水戸の二連隊は中川州男(くにお)大佐の指揮でペリリュ島へ、また五十九連隊後藤少佐(長野県出身)指揮の一個大隊はアンガウル島の守備に就き、師団司令部はコロール島の南洋ホテルと決定、十五連隊などはパラオ本島その他の島々の守備についた。

 これは珍、調査研究隊

「空襲や艦砲射撃の局部的な効果を恐れるな。もし戦況が悪化すればわが軍は高地に陣地を作り断じてこれを守り抜くべし」

 コロール島に上陸するや井上中将はその麾下将兵にこう訓示するとともに、群島内の各陸海軍部隊にもこれを示達した、ことにペリリュ島守備に出発する中川大佐にはこの点を厳重に申し渡した。

 十四師団が上陸するまで、あらゆる爆撃に堪える防空壕として群島内に誇ったものは、ペリリュ航空隊の洞窟とコロール島深町通信隊の洞窟式防空壕マラカル埠頭の暁部隊の横穴式貯蔵壕など数カ所にすぎなかった。

 最良の防衛は地下にあり

 ペリリュ島に渡った中川大佐は島内中央部のウムルブロゴール山系中の主峰を連隊編成地の水戸にちなんで水府山(すいふざん)と名付け、ここを中心に幅約二マイル、長さ約五マイルのペリリュ島に総数五百以上の洞窟陣地を構築した、

 その洞窟の大半は山腹の傾斜面に何段にも異った入口をつけたし、内部でこれらの洞窟が連絡できるような連絡路も作った。この洞窟内にはそれぞれ幹部の部屋や兵隊達の寝られるところも設備した。(中略)

 引揚げいろいろ

 在住民の中には婦女子も相当多く、南洋庁は病弱婦女子を優先的に内地またはフィリピン方面に、引揚げさせる方針をとったが、度重なる引揚船撃沈の情報に島からは逃げたいし、途中でドカンと一発喰えばそれで「万事終り……」というわけで、正に痛しかゆしという気持が全在住民に充満していた。

 そこでみんなが狙うのは足の早い巡洋艦か駆逐艦、それにまあ病院船なら大丈夫というわけで、数の少ないこれらの入港艦船への乗船希望者がワンサワンサ……

 サイパン全員玉砕の発表後一週間目の七月二十五日第二次機動部隊の大空襲が開始され二十七日夕方まで三日間にわたって全く息をもつかせぬ猛爆撃が続いた。

 八月八日に引揚船として広順丸がマラカル港へ入ってきた。輸送船での引揚はこれが最後とあって港は大変な騒ぎであった。海軍施設部隊に徴用されていた朝鮮人軍属が大きなトランク、ボストンバッグを肩に手に続々と乗りこんでゆく。島内に一軒だけあったこの人達相手の飲食店の人達が、同民族との別れを惜しむより「この島に取り残されるのがうらめしい」という顔つきで岸壁で手をふっている。(中略)

 木槍(きやり)を手に死の島へ

 パラオ群島の日本軍兵力は、この年四月二十六日の船団で上陸した宇都宮師団を中核として、いままでこの島にあった陸軍山口少将の率いる混成旅団、長谷川大佐の補給部隊、サイパン上陸不可能でこの島に上陸した土井中佐の土井部隊、海軍は第三十根拠地隊司令官伊藤賢三中将の下に森可久大佐のパラオ警備隊、深町大佐の通信隊、ペリリュ島を基地とする航空部隊、コロールとペリリュとに施設部隊などのほかニューギニア、ラバウルなどへ行くことのできなかった陸軍暁部隊の一部、輝(てる)部隊の一部など大体三万五千ぐらいといわれていた。




西も東もマスコミはフェイクニュースだらけ|レコードチャイナのデマ記事

上掲の従軍記者の手記で明らかになったレコードチャイナのフェイクを挙げてみると、


・帝国海軍の慰安所は日本国内から進出してきた料亭、妓楼だった

・慰安所は日本軍運営ではなく民間経営

・帝国陸軍がペリリュー島にいたのは1944(昭和19)年4月24日から米軍がペリリュー島飛行場を使用し始めた10月1日までの約半年間だけ

・その半年間は激闘につぐ激闘で遊興などありえない

・陣地はジャングルの中ではなく洞窟

・朝鮮人従軍慰安婦がいたと判明しているのはコロール島の朝鮮人軍属相手の店一軒だけなので、数百人もの朝鮮人従軍慰安婦がいたというのはフェイクニュース

・カロリン諸島にいた日本軍人の数は陸海軍合わせて約3万5000人、ペリリュー島だけで4万人はフェイクニュース

・中国人はいなかった。共産党の世界侵略と戦っていた日本が中国人を強制連行するわけがない。

【容共抗日|米ソに赤化され日本人を虐殺した中国人】
容共抗日



入浴施設まで完備?旧日本軍の慰安所跡が新たに見つかる=韓国ネットに衝撃
2018年8月15日 レコードチャイナ

2018年8月14日、韓国・TV朝鮮によると、太平洋に浮かぶ島国・パラオで、旧日本軍が運営していたとみられる慰安所跡が新たに見つかった。

記事は、パラオについて「韓国から3000キロ離れた太平洋に浮かぶ小さな島で、1941年に日本が起こした太平洋戦争の激戦地の一つ」と説明している。慰安所跡が見つかったのは、パラオ群島の中で最も激しい戦いが繰り広げられたペリリュー島のジャングルの中。慰安婦所の床には、隣にある大きな水のタンクにつながる水路も設置されており、日本式の浴槽と湯を沸かすためのボイラーも残っていたという。

【ペリリュー島の死闘】
ペリリュー島の激闘2

米兵@ペリリュー2

記事は「当時、ペリリュー島にいた約4万人の日本軍人のために入浴施設まで備えた慰安婦所を造った形跡だ」と説明している。また、現地住民は「日本軍の遊興のために多くの韓国人や中国人がいたと言われている。日本の医者は妊娠を防ぐため、女性に水銀を注射していたそうだ」と話したという。

最後に記事は「ペリリュー島に連行された韓国人慰安婦は数百人いたとみられるが、正確な規模や実態は調査すらされていない」と訴えている。

この記事を見た韓国のネットユーザーの間では「慰安婦の歴史は知れば知るほど残酷」「戦争は弱者の子どもや女性のためにも絶対起こってはならないもの」「心が痛い。二度と悲しい歴史を繰り返さないよう、韓国が強くなることを願う」などの声が上がり、衝撃が広がっている。

また「日本の罪を決して忘れてはならない」と誓うユーザーや、「日本にいる当時の生存者は真実を明らかにするべき」「今からでも遅くないから、日本は心から謝罪してほしい。歴史に残る罪を後世に引き継いではならない。良心的な日本人は多い。安倍首相は謝罪すべきだ」と訴えるユーザー、「慰安婦の歴史を知らせる映画をもっとたくさんつくろう」「日本が謝罪するまで、日本旅行や日本製品の購入を自粛しよう」と呼び掛けるユーザーもいた。(翻訳・編集/堂本)



アメリカの戦争のやり方は上陸地が島の場合、上空からガソリンをまいたあと大空襲および海上から島の形が変わるほど艦砲射撃を浴びせて日本人も原住民も島ごと丸焼きにする、というやり方です。

米軍は島ごと徹底的に破壊するので慰安所の跡なんかが残っているはずがないのです。

特にペリリュー島、テニアン島は激戦で、日米ともに死闘をくりひろげた場所です。

このレコードチャイナのフェイクニュースは、日本とアメリカの命がけの戦争を茶化したも同然、アメリカも怒っていいくらいの侮辱です。

中国人といい朝鮮人といい、白人と見ればソッコーでひれ伏す白人崇拝事大主義、そのうえ一国で国の存亡をかけて戦争をしたことがない。

白人に土下座しながら白人の威を借りて日本を威嚇し、私腹を肥やすためにアジアを丸ごと国際資本に売ろうとし、今も売ろうとしている。

白人どころか日本とも戦争したことがないのに「戦勝国」を自称する。

アジアに白人を呼びこんで日本と戦争をさせた中国と朝鮮半島。だからアジア中で嫌われる。

そういう民族に大東亜戦争をイジリまわす資格などない。

いい加減にしろ。


【画像出典】
・1983(昭和58)年 講談社 千早正隆編「写真図説 帝国連合艦隊-日本海軍100年史」
・1954(昭和29)年 富士書苑 森高繁雄編 「大東亜戦争写真史孤島邀撃篇」



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