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2018/08/09

戦争をやめさせたのは昭和天皇、原爆ではない


アメリカは「原爆投下により終戦が早まり、100万の兵の命を救った」と言いわけしますが、日本人に戦争をやめさせたのは昭和天皇であって、原爆ではありません。

昭和天皇の玉音放送が終わると、それまでしつこく食い下がっていた日本軍が、まるで魔法が解けたように武器を置いたのです。

それを目撃したGHQの一司令官アイケルバーカーが「天皇一人で二十個師団の力がある」と言ったのは有名な話です。

原爆を投下されても、日本人はまだまだヤル気でした。

天皇を共産党から守るために。

玉音放送を知って初めて武器を置く日本軍

脚注に「無条件降伏」とありますが、日本共産党の不敬プラカードにあるとおり、無条件降伏ではありません。

武装解除する日本軍

【日本共産党の不敬プラカード|国体はゴジされたぞ】

不敬プラカード2

【天皇に言いわけの機会を与えられたエノラゲイ=天皇を屠(ほふ)れ】

エノラゲイ2

まだまだヤル気だった日本人|玉音放送後の日本人たち

庶民。軍人。高松宮殿下に鎮定された厚木航空隊の叛乱。終戦直後の日本人たちの姿を集めてみました。

日本共産党員|天皇のラジオ放送が即時停戦せしめた


出典:1989(平成元年) 文藝春秋 「文藝春秋」にみる昭和史別巻
   「昭和天皇の時代」所収  森田草平 「天皇退位説に因んで」

※管理人注:( )内は管理人による注釈です。


 昭和軍閥がいかに天皇制を悪用したかは、私どもの記憶に新たなる所である。ただ八月十五日の終戦の際、天皇のラジオ放送によって、アジヤの全域に跨(またが)る将兵をして即時停戦せしめることが出来たのは、たといその戦意がことごとく喪失していた折柄とはいえ、これだけは天皇制を善用したものと言われよう。それがために、アメリカでは、従来その廃止に傾いていた口論(※)が、俄(にわか)に天皇制に対して好意をもたれるようになったとも聞く。


※【参考記事】アメリカ極秘文書「天皇と天皇制をどうするか」>アメリカの理想は「日本に天皇がいない政治制度を発達させること」


「君の名は」の劇作家|8月15日、アメリカの女を抱いてよう、と
笑わせる者あり


出典:1988(昭和63)年 文藝春秋「『文藝春秋』にみる昭和史」第二巻所収 
    菊田一夫 「木の葉のごとく」    

※管理人注:( )内は管理人による注釈です。


同 八月十五日

 正午、まだ何の音沙汰もなし。列車は走りつづける。

 乗客の中に戦局の話をするものがあり。この戦争はいつまで続くのだろうと遠慮がちに嘆声を発する者。なあにアメリカ本土上陸までやるさ。アメリカの女を抱いてよう、と笑わせる者。……占領、それは日本が占領されることなのである。



元広島軍司令部陸軍少将|親展電の内容は「再び抗戦に決しそうだ」


出典:1988(昭和63)年 文藝春秋「『文藝春秋』にみる昭和史」第二巻所収
    松村秀逸 「原爆下の広島軍司令部」

※管理人注:( )内は管理人による注釈です。


 八月九日、トルーマン放送で、原爆ということが判明した。それまでは、空中魚雷とか、マグネシウム粉末とか、いろんな流言が飛んだが、みな荒唐無稽なものばかりだった。(中略)

 ちょうど、軍司令部の天幕の中で、調査団の連中と、話しをしておった時、ロシヤが、昨晩参戦した旨の新聞電報が来た。

 十二日、陸軍次官から軍司令部宛の親展電が来た。私は、代理をしていたので、すぐ開封して読んだ。「大勢は、再び抗戦に決しそうだから、そのつもりで」というような意味の事が、書いてあった。



作家|海軍機が戦争続行のビラを撒布した


出典:1988(昭和63)年 文藝春秋「『文藝春秋』にみる昭和史」第二巻所収
    玉川一郎 「敗戦日記より」

※管理人注:( )内は管理人による注釈です。


 八月十五日 この朝爆撃されたる熊谷市民の多くはこの事を知らず、ラジオの趣きを語り、「このデマ野郎」と殴られし者多しと。

 十六、十七、十八日等 朝来海軍機しきりに飛ぶ。雷電等高度はなはだ低し。戦争続行の意思を表示せる横須賀航空隊、皇軍等の署名あるビラ、飛行機により撒布され、あるいは電柱に貼布さる。「パドリオを仆(たお)せ」等の文字あり。「皇軍は健在なり、工員諸君よ工場に帰り作業を継続せよ」のビラを見て、工員ら動かず。すでに工場の多くは十五日正午以後操業を停止したればなり。


【局地戦闘機「雷電」】
雷電


元陸軍中将|大詔のまにまに与えられた任務を遂行するのみ


出典:1988(昭和63)年 文藝春秋「『文藝春秋』にみる昭和史」第二巻所収
    元陸軍中将 有末精三 「ジャングルから来た男たち」

※管理人注:( )内は管理人による注釈です。


 太陽は大本営発表のごとく赫々(赤々)と輝いていたが、我々の心は梅雨空のようであった。敗戦という現実はひしひしと身に迫った。

 参謀次長の河辺虎四郎中将がマニラに向けて飛び立ち、米軍の命令第一号を受けて帰ってきた。それは、八月二十六日に米軍が厚木をはじめ、鹿屋、館山、横須賀などに進駐してくる、二十八日にはマッカーサーが厚木にやってくる、その受け入れ準備に関する指令であった。

これを実行するために各地の接伴委員が決められたが、もっとも重要な厚木の接伴委員長を私がおおせつかったのだ。私は永くイタリアに駐在していたことがあり、「君はファッショと見られて米軍に忌避されるのではないか」と当時の首相東久邇の宮が心配されたり、その他ちょっとしたいきさつがあったが、夜中に緒方竹虎氏が訪ねて来て、

「ともかく君にやれとおっしゃるから引き受けてくれ」

 どうせ捨てた命だ。今はただ大詔(おおみことのり)のまにまに、与えられた任務を遂行するのみと、快く引き受けたのが、八月二十三日のことであった。



共同通信社整理部次長|日本人は孫子の代までアメリカの暴虐を憎みつづける


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 森高繁雄編 「秘録大東亜戦史 原爆国内篇」所収 共同通信社整理部次長 中村敏「曼珠沙華-原子雲の下の広島」

※管理人注:( )内は管理人による注釈です。


 トルーマン大統領も九日の放送で、日本は広島に投下した原子爆弾の威力を知ったであろう。これでも日本が降伏しなければ、さらに日本の都市を爆撃すると、実に驚ろくべきことを、ぬけぬけと言っている。この魔の元素の焔(ほのお)は、ついに日本を降伏に追込み、世界は平和への道をたどることになろうが、広島や、長崎の人たちは、トルーマン大統領がいかに弁解しようとも、孫子の代まで米機の暴虐を憎みつづけるだろうと思った。



北海道新聞社社会部次長|人々は陛下が本土決戦のご決意を発表されると思った


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 森高繁雄編 「秘録大東亜戦史 原爆国内篇」所収 北海道新聞社社会部次長 森川勇作 「北海道戦争末期図絵」

※管理人注:( )内は管理人による注釈です。


 僕は翌日社を休んだ。宿酔(ふつかよい)である。ラジオは天皇が放送すると伝えている。

「いよいよ決戦ですな。陛下おん自ら放送されるというのだから、本土決戦のご決意を発表されるんだ」

 陛下の終戦の大詔(たいしょう)放送は電波管理で明瞭にききとれなかった。

「矢張(やっぱ)り本土決戦ですな。陛下の玉音は悲壮ですね」

 こう受けとった人が多かった。



北海道新聞社次長|8月18日池田戦車隊「ご詔勅がでたというのに、困ったのう」

終戦後の8月18日、ソ連軍が北千島に上陸、迎え撃った日本軍との激闘の末、日本側戦死350名、行方不明350名、ソ連側は約1000名の死者を出しました。

ユダヤ共産党は多くの国の民を迷わせ、大多数で少数派だった日本人をあの手この手で殺戮しました。「共産主義はユダヤ思想」というのは陰謀論ではなく、常識です。


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 森高繁雄編 「秘録大東亜戦史 原爆国内篇」所収 北海道新聞社旭川支社 報道部次長 山口武光 「霧の中の死闘-知られざる北千島戦線-」

※管理人注:( )内は管理人による注釈です。


 一体札幌にある北東方面司令官は、北千島の事態をどう考えているのであろうか。ソ連軍の上陸とともに自衛戦闘に移行せよ、と、訓電したまま、一さい沈黙に入ってしまった。占守島(しゅむしゅとう)は四領山の決戦はすでに前哨戦として砲火は交えられているのだ。

 堤司令官は幌筵(ほろむしろ)にいて刻々の戦況をきいていた。

「柳岡参謀長、こりゃあ容易ならぬ事態だな」

「はっ、全くそうであります。全滅を覚悟で戦わにゃなりますまい」

 司令官も参謀長も初老に近い軍人だった。堤中将は宿舎でよく独りで茶をたてている風流な武人。柳岡大佐は酒をのんで豪放な参謀長であった。二人とも戦争中は今日の事態のあることは覚悟しておっても、終戦後かかる戦闘になるとは考えていなかった。

「ご詔勅がでたというのに、困ったのう」

「しかし北東方面軍の指図がこなければ……」

「いやまて、そうするうちに兵が倒れて行くではないか──」

「それなら、ソ連が停止すべきでしょう」

「と言ってものう」

 司令官も参謀長も家郷(かきょう)へ帰るべき兵が、草丘(そうきゅう)を血で染めてゆくのは耐えられなかった。



8月18日、高松宮殿下が厚木航空隊の叛乱を鎮圧平定遊ばさる

厚木航空隊の叛乱は、昭和のころはよく語られたものですが、平成の御世になってからピタッと聞かなくなったように思います。

おそらくこの叛乱の原因が戦前の輔弼(ほひつ)大権主義なので、その事実を知られたら天皇の戦争責任を問えなくなるサヨクが隠ぺいしたのでしょう。

輔弼大権主義とは天皇を国政の外に置き、政府と軍部が国策を提出、決議し、天皇はただ追認するだけという戦前日本の政治形態のことです。


出典:1958(昭和33)年 日本文芸社 「現代読本 第三巻第五号-日本特攻隊総出撃!」所収 元厚木海軍航空隊海軍少尉 横田喬夫 「嵐を呼んだ厚木航空隊の最後!!」

※管理人注:( )内は管理人による注釈です。


 ポツダム宣言受諾は側近の謀略だ!

 厚木航空隊(第三〇二空)蹶起(けっき)の動きは、確か二十年八月十日ポツダム宣言受諾の報が入ってからだと記憶している。

 通信隊で米国放送を聞いてはじめてそれを知ったわけだが、それからしばらくして、陸軍の連絡将校がその報告をたずさえてやってきた。そのとき陛下が終戦の宣言を録音に取られたといっていた。それを聞いて司令の小薗(こぞの)大佐ははらはらと涙を流し、

「畜生! やっぱり本当だったのか」

 つぶやくともなくいった。このとき小薗大佐の心ははっきり決ったらしい。決意のほどをありありとしのばせた小薗大佐の沈痛な面持は、

「やるな!」

 と、士官室に集った士官の誰もの能裡に、一瞬さっとひらめいた。

 小薗大佐は当時三〇二空の司令のほか、横鎮(横浜鎮守府)の航空参謀を兼任しており、終戦には断固反対を唱えていた。

「天皇が間違った決定を下されたときは、当然臣下がそれを諫めなければならない。ポツダム宣言の受諾などとんでもないことだ。これもみんな側近の謀略にほかならない」

 そう固く信じて疑わない小薗大佐は、連絡将校が帰ると早速(さっそく)、横鎮の戸塚司令長官を長官室に訪ね、

「降伏などということは絶対にあり得ない。それは側近が陛下を誤らせているのです」

 と直談判した。しかし戸塚長官の態度は断乎(だんこ)たるもので、逆にその非をさとした。以来十四日まで戸塚長官は小薗大佐の説得に努めたが、小薗大佐の決意は動かず、三〇二空は次第に不穏な空気に包まれていった。(中略)

 高松宮の説得

 いつまでもこのような硬着(原文ママ)状態をつづけているわけにもいかず、我慢しきれなくなった海軍省では、その日ついに小沢長官と米内海軍大臣が、直接鎮圧するというところまで話が進展し、はては陛下みずから出馬されるといわれたとか。さんざん会議でもみにもんだ揚句、米内海軍大臣が、

「私が行きます。どうかこのことはおまかせ願いたい」

 決意のほどをみせた。それを高松宮が聞かれて、折よくそこに居合わせた横鎮陸戦隊参謀の柚木少佐に、報告をくわしく聞かれたあと、

「陸戦隊は待機しとるか?」

 質問され、辻堂附近に展開している旨柚木少佐が申し上げると、

「ちょっと待ってい給え」

 こう言葉静かにいわれて、三〇二空に電話をかけられた。電話が通じると高松宮は飛行長を呼び出されて、何か長いこと話しておられたが、

「判断を決してあやまってはいけない。御聖断は大きな見地からなされたんだ。分ったか、分ったな、分ったな」

 と一際声を大きくして、何度も何度も念を押されて電話を切られ、明るい表情でくるりと柚木少佐を振り向かれて

「おい、厚木航空隊は分ったよ」

 といわれたという。高松宮のこの説得は、これまでの如何なる方法よりも、効果があった。


【昭和天皇と弟宮さま方|1921(大正10)年】

左から昭和天皇、三笠宮殿下、高松宮殿下、秩父宮殿下 日光御用邸にて

昭和天皇とご兄弟宮さま方2


唯物論者ユダヤアメリカと唯心論者大和民族の戦いだった大東亜戦争

100万人のアメリカ兵を生かすために日本人25万人(広島原爆記念館長永岡省吾氏の調査では広島だけで死者26万人)を原爆で殺したというアメリカ。

唯物論者が「生命を救った」などとガラにもない言いわけをするので、こんな変なことになるのです。

一方、昭和天皇は一声で100万よりもがはるかに多い命をお救いになられたと思います。しかもアメリカのようにみにくい言いわけなど必要ない、実に明瞭な形で。

しかも状況は、サタニズム(悪魔崇拝主義)といわれる共産党が目前まで攻めてきていた。

天皇のこのお力と勇気を私たち日本人は「大御心(おおみこころ)」と呼び、自分自身も「明(あか)き心」でいようとお手本にしてきたのだと思います。

今日は長崎鎮魂の日ですね。



【写真出典】
・1988(昭和63)年 文藝春秋「『文藝春秋』にみる昭和史」第二巻
・1989(平成元年) 文藝春秋「文藝春秋」にみる昭和史別巻「昭和天皇の時代」
・1995(平成7)年 光人社 雑誌「丸」編集部編「日本軍用機写真総集」

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