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2018/08/08

トルーマン大統領「私が原爆投下を命令した」


トルーマン大統領は、1953年1月12付シカゴ大学J・ケート教授(米空軍史の編者)宛の手紙の中で「私はポツダムからの帰途、大西洋上の真只中で、前記二都市に原爆を落すことを命令した」と書いています。

ウィキペディアのトルーマン大統領の項を見ていたら、やたら「原爆投下をトルーマンが承認した記録は見つかっていない」と書かれているので、こんなのありますよ?と意味で書いておきます。


【原爆使用の経緯を物語るトルーマン大統領の手紙】
和訳と英文は記事の下の方に書いています。
トルーマン大統領の手紙5

【トルーマン大統領】

トルーマン1


そして7月25日に、アメリカ軍が起草された原爆投下指令書が発令された。これをトルーマンが承認した記録は見つかっていない。

トルーマンウィキ1

あるよwwwww


トルーマン大統領の手紙|和訳


トルーマン大統領の手紙和訳4

 ケート教授 宛     1953年1月12日

1952年12月6日付貴翰只今拝受

ニューメキシコで原子爆弾が成功したという報道がポツダムに届いたときには、当時日本で進行中の戦争の効果に就いて異常な興奮と言葉のやりとりが行われていた。

 翌日私はイギリス首相とスターリン首相に爆発の成功を告げた。イギリス首相はこれを諒解し私の知らせに感謝した。スターリン首相は微笑して爆発の報告に対して私に感謝したが、その意義について諒解しなかったことは確かである。

 私はバーンズ国務長官、スティムソン陸軍長官、リーイ提督、マーシャル大将、アイゼンハウアー大将、キング提督及び其他の人達と会議を召集して、この恐るべき武器の処置について討論した。

 私はマーシャル大将に、東京及びその他の場所に上陸した時の人的損害はどの位かをたずねた。

 これに対してこの様な侵攻戦では少くともアメリカ軍側のみで25万人の損害或いは100万人位になるかも知れない又敵もまた同程度の損害を蒙るであろうというのが彼の意見であった。同席の陸海軍人もこの意見に同意した。

 私はスティムソン長官に日本のどの都市が軍需生産に特別に貢献しているかをたずねた。彼は即座に広島と長崎を他の都市の中から選択した。

 我々は最後通牒を日本に送った。がそれは拒否された。

 私はポツダムからの帰途、大西洋上の真只中で、前記二都市に原爆を落すことを命令した。

 貴翰中、原爆投下の準備をスパッツ大将に命じた命令書は7月25日付であったという事実を挙げておられる。


【原爆投下命令書】
原子爆弾投下命令書3

 それは勿論(もちろん)これ等の命令がそうであった様に、軍事機構を動かすために必要であったが最後的決定権は私の手にあり、我々がポツダムより帰るまでは為(な)されなかった。

 原爆を投下したため戦争は終り、人命を救い、自由国家に事実を直面させる機会を与えた。

 日本が戦争をやめると思われた時、ロシヤは日本の降伏一週間前たらずに解決点にのぞめるように参戦にと急いだ。

 日本の終戦に対するロシヤの軍事的貢献は何もなりきれなかった。捕虜は降伏し、38度線以北の朝鮮と同じく満洲はロシヤによって占領されたのである。

                       敬 具

                 ハリー・S・トルーマン


【ポツダム会談開始から広島、長崎に原爆を投下するまで】
1945(昭和20)年
7月17日
米英ソ三巨頭、ポツダムで会談開始

7月25日
トルーマン大統領、広島、長崎への原爆投下を命令

7月26日
米英華のポツダム宣言発表

7月28日
鈴木首相、ポツダム宣言黙殺を声明

8月2日
ポツダム会談終了

8月6日
アメリカ、無警告で広島に原爆投下

8月9日
アメリカ、無警告で長崎に原爆投下




トルーマン大統領の手紙|英文


THE WHITE HOUSE
WASHINGTON

January 12.1953

My dear Professor Cate;

For letter of December 6, 1952 has just now been deliverd to me.

When the message came to Potsdam that a successful atomic expired on had taken place in New Mexico, there was much excitement and conversation about the affect on the war then in progress with Japan.

The next day I told the Prime Minister of Great Britain and Generalissimo Stalin that the explosion had been a success.
The British Prime Minister understood and appreciated what I'd told him. Premier Stalin smiled and thanked me for reporting the explosion to him, but I'm sure he did not understand its signiticance.

I called a meeting of the Secretary of State, Mr.Byrnes, the Secretary of War, Mr.Stimson, Admiral Leahy, General Marshall, General Eisenhower, Admiral King and some others, to disecuss what should be done with this awful weapon.

I asked General Marshall what it would cost in lives to land on the Tokio plain and other place in Japan. It was his opinion that such an invasion would cost at a minimum one quarter of a million casualties, and might cost as such as a million, on the American side alone, with an equal number of the enemy. The other military and naval men present agreed.

I asked Secretary Stimson which cities in Japan were devoted exclusively to war production. He promptly named Hiroshima and Nagasaki, among others.

We sent an ultimatum to Japan. It was rejected.

I orderd atomic bombs dropped on the two cities nemed on the way back from Potsdam, when we were in the middle of the Atlantic Ocean.

In your letter, you raise the fact that the directive (英文ここまで)



アメリカは太平洋を支配したかった。世界も支配したかった。

日本が国連を脱退するとありもしないルールをでっちあげて「日本は南洋委任統治領を国連に返せ!」とユダヤメディアが世界に日本悪宣伝を流しまくり、ユダヤ米英は支那官憲を抱きこんで満洲を侵略し、正当な継承国である日本を追い出しました。

日本人は人間扱いしてもらおうとガマンにガマンを重ねました。支那、満洲で同胞が虐殺されても、じっと耐えました。でもアメリカに最後の望みを託した時、ハルノートで「共産革命で滅ぶか、経済封鎖で餓死するか、どちらかを選べ」と突きつけられ、ついに日本人の堪忍袋の緒が切れた。それが日米開戦でした。(参考記事:従軍慰安婦と近衛メッセージ>ジュノア会談に向けた日本側外交記録文書)

原子爆弾は共産主義者による人種差別の極致です。LGBT解放などくらべものになりません。私たち日本人は共産主義者によるひどい人種差別に耐えてきました。

でもまた、堪忍袋の緒が切れる時が来たようです。



【出典】
・1954(昭和29)年 富士書苑 森高繁雄編 「大東亜戦争写真史落日終戦編」 

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