HOME > 原子爆弾・国際条約 > title - 1943年、使用可能になった原子爆弾
2018/08/06

1943年、使用可能になった原子爆弾


一般に「原子爆弾の開発は1942年のマンハッタン計画で進められた」といわれていますが、アメリカが原子力の軍事利用に手をつけたのは1939年8月のことでした。

真珠湾攻撃の2年前です。

そして原爆は1943年に使用可能となり、ニューメキシコ州ロスアラモス原子力研究所で生産が開始されました。

ナチスドイツの無条件降伏は1945年5月8日、大東亜戦争休戦が8月15日ですから、やっぱり日本に原爆を投下したかったんでしょうね。


【テネシー州クリントンの原爆生産工場|1942年11月着工】

テネシー州クリントン原爆生産工場2_2

アメリカが生産した原爆の1発目はニューメキシコでの最初の実験で使われ、2発目が広島、3発目が長崎、4発目と5発目は終戦翌年のビキニ環礁での核実験に使われました。

テネシー州クリントン原爆生産工場1_2

1943年使用可能になった原子爆弾


出典:1954(昭和29)年 富士書苑 森高繁雄編 「大東亜戦争写真史 落日終戦編」 人類史第一頁

※管理人注:( )内は管理人による注釈です。


 用意された"武器"

 真珠湾の前々年一九三九年の八月から手をつけていた"原子力の軍事的使用"に関する米国の研究が"使用可能"の結論をだしたのは、終戦の前前年の春である。

 一九四三年(昭和十八年)にロス・アラモスの研究所で、J・R・オッペンハイマー博士を中心とする科学者たちの手で"新武器"の生産が可能になったのである。

 原爆の投下機としては、B29が選ばれ、終戦前年の夏から、すでにその準備と訓練が進められていた。

 二十年七月十六日、ニューメキシコのアラモゴルドで、世界で最初の原子爆弾の爆発実験が行われた。実験は成功した。


【J・R・オッペンハイマー】
原爆オッペンハイマー2



オークリッジに秘密の大工場、ハンフォードにはプラトニューム分離工場、ロスアラモスには爆弾製造所が建設された


出典:1949(昭和24)年 主婦之友社 山口宗夫 「アインシュタイン」 ヒロシマ

※管理人注:( )内は管理人による注釈です。


 一九三九年八月二日、アインシュタインは原子爆弾研究に関する歴史的な手紙を、大統領あてに書いていた。彼は研究の必要性を説き、その恐るべき威力を予言した。(中略)

 ルーズベルトの力によって原子爆弾の研究が始められた。アメリカ中の学者が動員され、あらゆる資力財力が投げ込まれた。マンハッタン計画と称するのがこれである。

 ローレンス、フェルミらがこの研究の中心になったこともちろんである。そうして、フェルミは一九四二年十二月二日に、ついにウラニュームの連鎖反応を現実に行わせることができた。このときはアメリカも第二次世界大戦の中に引き込まれて既に一年たち、その中の主要な役割を行っていた。


【エンリコ・フェルミ】
19421202フェルミ2

 爆弾の研究、製造は異常な熱意でつづけられた。オークリッジには秘密の大工場が建設され、七万の従業員が働き、ここは人口十数万の市街となった。ハンフォードにもプラトニューム分離の工場、ロスアラモスにも爆弾製造所ができた。

 これらの工場には、人類が初めて作った巨大な分析機が据えられた。銅の不足は五十万ドルの銀貨をつぶして補われた。ウラニュームの鉱石は砕かれ、洗われ、あるいは気化され、あるいは固化され、何千トンという大きな磁石の間を通り、または十万分の一ミリの濾過の孔(あな)をくぐり、アメリカの智力と財力と、いやそれよりも偉大な協力の美徳によって、ウラニューム二三五は分離され、原子爆弾は完成された。

ほとんど同時に更に有利なプラトニューム爆弾も出来上った。実験も成功、直ちにそれは飛行機で運ばれて、ついに一九四五年八月七日(※)午前八時十五分、人類は広島に於て、その威力を知ったのである。

 ウラニューム爆弾は、一発で広島を廃墟とかえ、その翌々日にはプラトニューム爆弾一発が長崎市の半分を死の街としてしまった。

※管理人注:終戦直後の資料には広島原爆投下の日付が8月7日になっているものがある。「朝日年鑑1947年版」など。 


そして1945年6月1日、アメリカ原子力政策諮問機関「中間委員会」は、日本に無警告で原爆を投下することを決定しました。

原爆19450601無警告投下2

むかし、戦争を経験した父に、なぜアメリカはドイツではなく日本に原爆を投下したのか?と聞いてみたところ

「人種差別。日本人の肌が黄色いからだ」

という返事が速攻で返ってきました。

白人の残虐さ、理不尽な日本国圧迫、日本人弾圧は日本人全員に知れ渡っていたのです。

だから長崎に二発目の原爆が投下されたというニュースを聞いた広島市民は「日本人を全滅させる気か」と言い、東条、近衛元首相は自殺を図り、外地の日本人は捕虜になるよりも死を選んだ。

実際、捕虜になるより死ぬ方が楽だった。

アジア人を虐殺し、日本人を集団自決させたのは日本軍ではなく連合国です。

「日本人だから」「帝国主義者だから」という差別で虐殺された日本人たちは、安らかに眠ることはできないでしょう。



【画像出典】
・1987(昭和62)年 講談社 「20世紀全記録クロニック」


関連記事
スポンサーサイト