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2018/07/09

ゴミのように捨てられたA級戦犯の遺骨


東京裁判(極東国際軍事裁判)では七人のA級戦犯が絞首刑になりましたが、残虐な米軍は戦犯を確実に殺すため、戦犯に重い角材や材木を背負わせた上で絞首刑に処したそうです。

そのためか、死刑執行後の刑場にはいたるところ生々しい血痕が点々と散らばっていたそうです。

七人のA級戦犯は1948(昭和23)年12月23日午前0時1分から35分までの間に処刑され、その遺体は横浜久保山火葬場で火葬されたのち、遺骨は米兵が鉄棒で粉々に砕いて持ち去り、いまでも行方不明のままです。

当時のうわさによれば「ニュールンベルグ刑務所で死刑になったナチスドイツ幹部の遺骨、遺灰が空からバラまかれたから、日本の七人の戦犯の遺骨もどこかに捨てられたのだろう」ということでした。

日本の存亡をかけて戦った人々がこんな扱いを受けたのですから、いまマスコミが熱心に報道しているオウム真理教死刑囚の遺骨も共産GHQ式でやればよいのです。

なおA級戦犯の残骨は勇気ある日本人が、米軍が「捨てろ!」と命じたものを救いだし、遺族に手渡したそうです。


東京裁判の判決を報じる朝日新聞|1947(昭和22)年11月13日付

東京裁判朝日新聞2

A級戦犯は重い材木を背負わされて絞首刑、遺骨は米軍がどこかに葬る


 七被告の処刑されたのは、巣鴨拘置所である。刑場はGI用映画館(当時)に並んだ建物で、東条被告達は前記十二月二十三日の午前零時三十分を期して、刑を執行された。刑は絞首刑であったが、米軍はその完遂のために、被告達には重い角材や、生木材木を背負わせた。当時の生々しい惨状は、翌二十四日に早速もうけられた特別清掃班(服役戦犯の中から選ばれた)の人達によって人々に伝えられたが、刑場の至るところ、生々しい血痕が、点々と散らばっていたということである。

 処刑された被告達の遺体は、都内某所で焼却された。もちろん、その一切が米軍の手によって行われ、日本人として立会った者は誰も居なかった。当時の噂を綜合すれば、ナチがベルリンでやられたように、被告達の遺骨は、空からばらまかれるのではないか、と云(い)うことだった。しかし、その杞憂は、一向に起らなかった。遺族達に手渡されることも、もちろんなかった。結局、米軍は暗黙のうちにいずこへともなく葬ってしまったのである。


【巣鴨拘置所から市ヶ谷法廷(旧陸軍省)へ】
東京裁判市ヶ谷1_2

【市ヶ谷法廷に到着した戦犯たち】
東京裁判市ヶ谷2_2

【市ヶ谷法廷から巣鴨拘置所へ】
東京裁判市ヶ谷3_2

【出典】1959((昭和34)年 日本文芸社 「現代読本」第四巻第十二号所収 「遺骨はかくして拾われた!? A級戦犯納骨の謎」


残虐なユダヤ共産主義者|ナチス幹部は縄つきの血を吐いた写真をこれみよがしに報道された


 二年前、ニュールンベルグ刑務所でドイツの死刑を執行したときの、あの憎悪に充(み)ち満ちた残忍、野蛮な死刑執行がくり返されなかったことは、連合軍のためというよりも、世界の良心のために慰めとすべきことだった。

 ニュールンベルグの死刑の執行は、文明の原則に反して公開同様の情況におかれた。死囚の縄つきの血を吐いた写真は、新聞や、写真雑誌にこれみよがしに掲載された。

 これは、正しく、永い間かかって到達した刑罰文化史の進歩を、一世紀も昔に引き戻す「蛮行」であった。


【死刑執行直前、反共ナチスのリッペントロップ外相が残したことば】
余の最期の希望は、ドイツの統一が実現されることだ。
新聞記事ナチス


【ユダヤ共産主義者が起した革命でドイツ帝国は崩壊した】
ナチスに逮捕されるドイツ共産党員カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルク。ナチスがユダヤ人を迫害したのは「人種差別」ではなく彼らの多くが寄生した国を破壊する共産主義者だったため。ドイツ革命は1918年、国家社会主義ナチ党結成は1921年。ナチスはユダヤ社会・共産主義者のドイツ侵略に対する反動で誕生した。リープクネヒト、ローザルクセンブルク


【出典】1953(昭和28)年 富士書苑 森高繁雄編 「秘録大東亜戦史 東京裁判篇」所収 朝日新聞社社会部 野村正男、共同通信社社会部 小沢武二、共同通信社外信部次長 松原弘雄 「巣鴨の報道合戦」


アメリカの愚民政策の産物サヨクが「日本の侵略戦争ガー」というと思うので、
大東亜戦争の原因を載せておきます。

戦前日本の領土だった満洲、樺太、南洋委任統治領、台湾、朝鮮は侵略ではなく、戦勝国として正式に割譲された領土、日韓併合は旧大韓帝国からの要請で併合に至ったものです。

それらの領土を物欲まみれのアメリカが武力で強奪しに来た、それが大東亜戦争(太平洋戦争)です。


日本を挑発し続けた人種差別大国アメリカ|日本は満洲から出て行け!太平洋から出て行け!さもなくば日本全土を焦土化する

いまちょうど北朝鮮がアメリカにシメあげられているので、その陰湿なやり方を観察すれば日本がどんなふうにアメリカに挑発されたか、よくわかると思います。


 アメリカのフィリッピン派遣軍は多い時は七万一千人もゐた、フィリッピンはアメリカの東亜に於ける前進基地として、所謂(いわゆる)ABCD包囲陣の基地として記憶さるゝ様になった。

 昭和十六年の七月、ルーズヴェルト大統領は比島(フィリピン)陸海軍を米国陸海軍の指揮下に入れる旨を声明し、またアメリカ空軍の誇り「空の要塞」ボーイングを以て開戦数時間にして、日本全土を焦土と化せんと豪語し、マニラを基地とするアメリカアジア艦隊数十隻が南支那海を遊弋して対日牽制を行ってゐたのである。

【出典】1942(昭和17)年 浜松市商工課 「大東亜共栄圏南方諸領事情〔第2〕第2 馬来・比律賓」 第六節 統治



 一昨年海軍々縮予備会議が、ロンドンに開催され、比率保有量の問題が世間に伝はると共に、米国の海軍当局者またはかつて海軍の要路にありし人々は、米国の海軍方針に関する種々の意見を述べた旨、新聞に報導(道)せられた、そのうちの一つは、米国は太平洋の制海権を握るべしといふのであった、所謂(いわゆる)制海権の意味は不明であるが、太平洋は決して米国の私有独占に帰せしむべきではない、公海は何れの国にも公開せらるべきものである、

【出典】1937(昭和12)年 国防研究会 常田力 「世界の動きと我国防」 五、南洋統治領 六、米国の示威運動



東京裁判の判事席|人種差別で日本人を大虐殺したこいつらは言う
「日本は人種差別をするな!」「日本は死刑制度を廃止しろ!」

※赤字の国は東京裁判時点で自国の死刑制度を廃止していた国です(アメリカは15州のみ)。

右からノースクロフト(ニュージーランド)、パトリック(イギリス)、ベルナール(フランス)、ザリヤノフ(リャザノフ)(ソ連)、梅(中華民国)、ウェッブ裁判長(オーストラリア)、クレーマー(アメリカ)、マクドーガル(カナダ)、ローリング(オランダ)、パル(インド)。

東京裁判1_2


日刊ゲンダイ|テロリストの死刑執行前、安倍首相は自粛しろ

人としておかしいのは共産主義的人格攻撃をやる日刊ゲンダイの方。
死刑執行の日に喪服を着ていた女子アナらもいましたね。


安倍首相と法相が オウム死刑執行前夜の“乾杯”に批判噴出
2018年7月7日 日刊ゲンダイDIGITAL

 正気なのか――。オウム真理教の教祖・麻原彰晃死刑囚ら7人の死刑が執行される前日の5日夜、安倍首相が、執行を命令した上川陽子法相らと共に赤ら顔で乾杯していたことが発覚した。ネット上で批判が噴出している。

 安倍首相は同日夜、東京・赤坂の議員宿舎で開かれた自民党議員との懇親会に出席。上川法相や岸田文雄政調会長ら40人超と親睦を深めた。

 この時の様子を、同席した片山さつき参院議員が写真付きでツイッターに投稿。〈総理とのお写真撮ったり忙しく楽しい!〉と呟いている。

 写真では、上川法相の隣で破顔一笑の安倍首相。とても、死刑執行前夜とは思えない。

 さすがに、片山議員のツイッターには、〈どういう神経でどんちゃん騒ぎができるのか〉〈普通は気が沈んで口が重くなる〉〈ゾッとする〉と批判の声が寄せられている。

 安倍首相と上川法相は一体、どんな気分だったのか。翌日、7人を処刑するのに酒を片手に笑顔、笑顔とは……この2人、人としておかしい。



本記事の資料|A級戦犯の遺骨を救い出した日本人

A級戦犯の遺骨を遺族に届けた男たち【簡易版】


出典:1959((昭和34)年 日本文芸社 「現代読本」第四巻第十二号所収 「遺骨はかくして拾われた!? A級戦犯納骨の謎」

※管理人注:( )内は管理人による注釈です。


 昭和二十三年十二月二十三日──ここまで書いたら、おそらく思い出される方も多いだろう。いや、日本人として、決して忘れてならない悲しい日であった。東条英機、広田弘毅、武藤章、板垣征四郎、松井石根、土肥原賢二、木村兵太郎のA級戦犯が、祖国"日本"の興亡を賭し、遂には敗運の責任を負って処刑された日である。

 この七被告処刑の蔭(かげ)に、いまなお人々には伝えられない次のような物語があった。当時を思い起せる方々は、その記憶の跡をしばらく繙(ひもと)いていただきたい──

 七被告の処刑されたのは、巣鴨拘置所である。刑場はGI用映画館(当時)に並んだ建物で、東条被告達は前記十二月二十三日の午前零時三十分を期して、刑を執行された。刑は絞首刑であったが、米軍はその完遂のために、被告達には重い角材や、生木材木を背負わせた。当時の生々しい惨状は、翌二十四日に早速もうけられた特別清掃班(服役戦犯の中から選ばれた)の人達によって人々に伝えられたが、刑場の至るところ、生々しい血痕が、点々と散らばっていたということである。

 処刑された被告達の遺体は、都内某所で焼却された。もちろん、その一切が米軍の手によって行われ、日本人として立会った者は誰も居なかった。当時の噂を綜合すれば、ナチがベルリンでやられたように、被告達の遺骨は、空からばらまかれるのではないか、と云(い)うことだった。しかし、その杞憂は、一向に起らなかった。遺族達に手渡されることも、もちろんなかった。結局、米軍は暗黙のうちにいずこへともなく葬ってしまったのである。

 ところが──ここに、被告達の遺骨は、ささやかながらも遺族達の懐で眠っている、と書いたら、人々は奇異の眼をみはることだろう。確かに一般の眼からすれば、不思議な出来ごとである。しかし、この事実の裏には、ほぼつぎのような秘められたエピソード──いや、これこそ、敗れても日本人として大和魂に燃えた人々でなくては、到底なし得ない事柄であったかも知れぬ。

 前にも書いたが、祖国の興亡を賭して、遂には刑場の露と消えた東条以下六被告の遺骨は、米軍の厳しい監視のもとで、いずこへともなく葬られてしまった。しかし、その厳しい米軍の監視をくぐって、危うく射殺されそうになりながら、無事遺骨を持ち出し、それを遺族達にくばった人達があった。(後略)




A級戦犯の遺骨を遺族に届けた男たち【詳細版】


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 森高繁雄編 「秘録大東亜戦史 東京裁判篇」所収 共同通信社社会部 小沢武二 「遺骨物語」

※管理人注:( )内は管理人による注釈です。


クリスマス・イヴにさんざめく米軍キャンプ。その喧噪をよそに、横浜、久保山火葬場へ闇にまぎれて三人の男の姿が消える。東条以下、A級死刑戦犯の遺骨を盗み出そうとの計画は、こうして死に臨むスリルを以て断行された。

 寺の一室で共同謀議

 "七戦犯死刑"の判決がくだったその瞬間から、被告の肉親や、弁護人など関係者はせめても遺骨だけは引きとって肉親の手でねんごろにとむらいたいと考えた。

 判決直後、こうした肉親の切なる希望を実現させるためブルーネット弁護人(東条被告担当)は総司令部にマッカーサー元帥を訪れ遺骨を引渡してほしいと願い出たが、マッカーサー元帥からは「他の一般の戦犯同様処理する」(引渡せないということなのだ)という冷い返事しか得られなかった。

 このことを伝え聞いた肉親の人たちは勿論(もちろん)、日本人弁護人も非常に残念がり、「仏になってからも敗戦の厳しい現実からぬけられぬとはナンテ因果なことだろう」と相擁(あいよう)して悲しんだものだった。

 なかでも一番積極的だったのは三文字正平(さんもじまさひら)弁護人(小磯国昭担当)で、三文字氏は「いやしくも武士が死刑になっても骨もまつれぬとあっては東洋人として忍びない」と涙を浮べて残念がり遺骨のぬすみ出しを決意した。当時の三文字氏としては、この方法しか考えられなかったのだ。しかしこの事は当時の状況下にあっては非常に危険なことだったのだ。"ばれた場合の銃殺"などということもまんざらの恐怖心とばかりはいいきれないような時期だった。それだけに、三文字氏の決意は固く、しかも計画は隠密裡に進められたのである。

 この計画を実現するための第一の要件は、刑がどこで執行され、遺体はどう処理されるかということであった。一見、なんでもないようなこの情報すら、なかなか入手出来ないのである。米人弁護人を通じて各方面の情報をさぐってみても、はっきりしない。

「国外に連れ出して処刑する」

「判決数日後に刑の執行を終ってもう遺体は処理されてしまった」

 などと、情報はまちまちだった。ようやくさぐり出した情報は「刑の執行はクリスマス直前、死体処理は横浜市西区久保町の久保山火葬場で火葬にする」というものだった。

 この信憑性のある情報を入手した三文字弁護士は「好都合、これなら遺骨のぬすみ出しも有望だ。きっと遺族の人たちの手許(てもと)へ、遺骨を届けてやれる」とよろこんだ。というのは久保山火葬場の興禅寺住職市川伊雄(いちかわただお)師が三文字弁護士の親友だからである。市川師に協力してもらえば成功間違いなしと判断したからなのである。

 判決があって一週間ほどしたある寒い日の夜、興禅寺を訪れた三文字氏と市川伊雄師は寺の奥まった一室で密談を続けた。

 市川、三文字両者間の意気は全く投合した。

「よくわかりました。是非私たちの手で遺骨を御遺族の人たちにお渡ししてとむらいましょう。それが残された日本人としての義務です。幸い火葬場長の飛田美善(ひだみぜん)という男は話のわかる男だから彼に話して一役買わせましょう」

 という市川師の発議で飛田場長が呼び出され、密談の場に加わったのは夜も大分更けた頃だった。市川、三文字両師の涙ながらの口説き落しにもかかわらず、米軍のピストルにおびえた飛田は、さいしょはちゅうちょしていたがようやく納得して、

「よくわかりました。わたくしも日本人です。先生方のおっしゃることと全く同感です」

 と協力を約した。ぬすみ出しの方法は飛田が周到に計画することにしてその夜の共同謀議は終ったのである。

 ナンバーワン、トージョウ

 クリスマス前々日の十二月二十三日早朝飛田場長は突如米軍の呼出しを受けた。「火夫長(かふちょう)の磯崎吉尾(いそざきよしお)と二人だけで火葬の用意をしろ」というのである。いよいよA級戦犯の執行があったのだなと直感した。

 もちろん火葬場は米軍の物々しい警戒である。自動車をとばしてかけつけた報道陣もすべてシャットアウトされている。旧指導者七人をこれから焼くのだと思うと、事の善悪は別として、飛田の気持は複雑だった。

 七つのボイラーには良質の石炭がつめこまれ、火勢の強くなった午前七時ごろ、ホロを下ろされた米軍大型トラックが火葬場へ到着した。七つの棺が積まれている。警戒の軍人もピリッと緊張している。しわぶき(せき。せきばらい)一つ聞えない無気味な静寂さだ。

 磯崎火夫長と米軍兵士が棺の荷おろしにかかった。米軍の現場指揮者は軍曹である。指揮の軍曹が「ナンバーワン、トージョウ」と号令をかけた。東条なのだ。

 ナンバーツー、ナンバースリ、ナンバーフォ、七つの棺がボイラーに納められた。

 格別の異臭もなければ、悪臭もない"歴史"が灰になる瞬間の久保山火葬場の朝はドンヨリとした重い空気に包まれていた。

 ボイラーの口をしめてからちょうど二十分、現場指揮官は燃え具合の点検を飛田場長に命じた。飛田場長と磯崎火夫長の二人は裏ののぞき口からボイラーの一つ一つをあけて見た。

 太っている武藤はまだ半やけにもなっていなかった。やせていた松井の焼死体は子供のように小さかった。木村が一番よく焼けていた。

 約一時間半で火葬はすんだ。七つの灰盤には七つの遺骨がキチンと残されてボイラーから引き出された。灰盤の骨は米軍の持って来た鉄の棒で粉々にされ、それぞれ木製らしい黒色の長さ七寸(約21センチ)位、巾四寸(約12センチ)位、深さ四寸(約12センチ)位の骨つぼにうつされた。

 骨つぼの納められたあとの残骨の処理も厳重だった。

 飛田場長は三文字、市川両氏との約束の履行が不安になって来た。灰盤に残った骨も全部ひとまとめにさせられた。「これも持って行かれてしまうのか」と不安はつのるばかりだった。

 しかしその不安だけは消された。残骨は火葬場わきの共同納骨場に(広さ二坪、深さ十二、三尺(約4メートル))にすてろというのだ。

「こんなら三文字さんとの約束も果せる」

 と思った。

 軍曹の命じるままに、共同納骨場の投入口からすみの方にそっと流しこんだ。この納骨場は最近全然使ってないので七人の人たちの遺骨が他人のと混合する心配もないし、中はきれいになっているので、あとですくい出すのも出来る筈(はず)だ。

「これで大丈夫」

 飛田場長はかねてから打合せてある磯崎火夫長と無言のうちに喜びを目で語りあった。

 これで七人の火葬はすんだのだ。米軍は七つの骨つぼを抱いてアタフタと立ち去ってしまった

 残された二人はひそかに用意してあった線香をたいて合掌、七人のめいふくを祈るのだった。

 ぬすみ出しに成功

 翌日の夜はクリスマスイブ、米軍キャンプは浮かれている。このすきに乗じて残骨ぬすみ出しの計画が進められたのだ。

 二十四日の夜九時すぎ、三文字、市川、飛田の三氏はまっくらな火葬場の中へ消えて行った。飛田からくわしいてんまつを聞いたあと、三文字、市川両氏は問題の共同納骨場を覗(のぞ)いて見た。まっくらの中に白い遺骨が無気味に眠っているのが確認された。

「ありがとう、ありがとう」

 声をつまらせた三文字氏は飛田の手を固く握った。

 ひそかに懐中電灯をとぼして穴を照すと、ますますはっきりした。いよいよ手に入れることが出来るのだ。しかしせまい穴からうまくかき出すことは難事業だった。

 三人で協議した結果、長さ二間(約3メートル)位の棒のさきに、骨をカキ出す時に使用する「カキ上げ」をしばりつけてカキ上げることになり、この道具を用意し、翌日決行することにしてひきあげた。

 翌二十五日夜ついにカキ上げに成功した。カキ上げた作業十二回で残骨全部をかき出してしまった。約一升(1.8リットル)ほどあったのを三文字氏が用意して来た骨ツボに納め、興禅寺へ運んだ。しばらく興禅寺に安置することになったが、バレた場合のことを考えると不安だった。

 そこで、ひとまず三文字氏のオイで上海で戦死した人の遺骨ということにしておいた。

 待ちわびる遺族の人たちに一日も早く知らせてやりたい気持は山々だったが、このことが風評としてひろがり、新聞記者の耳にでも入ったらそれこそいままでの努力が泡になるだけでなく大問題になることも予想されるので、三文字氏としては軽そつに事を運ぶことが出来なかったのだ。折角(せっかく)ぬすみ出された遺骨も市川氏の読経と、時折り訪れる三文字氏の香花(こうげ)になぐさめられるだけで、肉親の人たちの合掌もうけられず、興禅寺のうす暗い本堂に安置されたまま四カ月すぎた。

 四月末板垣未亡人を訪れた三文字氏は声を落して、

「実は皆さんの遺骨をソットぬすみ出して、ある所に安置して霊をなぐさめているのです。しかし事柄が事柄だけに慎重にしているのです」

 と、すべてを話した。遺族の耳に入ったのはこれがはじめてである。

「縁もゆかりもない人たちの無理なお骨折りでまつっていただくなんて、仏も満足でございましょう」

 板垣未亡人はハンケチを目にあててよろこんだ。

「来月三日に熱海の松井さんのお宅に遺族の方たちに集って頂いて、おさしつかえなかったらお参りさせていただけませんでしょうか。勿論先生たちにごめいわくをおかけするような軽そつなことのないよう、十分注意いたしますから、いかがでしょう」

「ええ、よろしうございます。いずれ折を見て皆さんに御分配したいと思っていた折ですから、熱海までお持ちして皆さんにお渡ししましょう」

 話がまとまると三文字氏もホットした。

 五月三日三文字、市川両氏は大型トランクに骨ツボを入れて熱海へむかった。大暴風雨の日で、二人が伊豆山の松井邸についた時はビショぬれになっていた。

 松井邸には、松井、東条、木村、板垣の各未亡人と、広田洋一氏(広田氏長男)が待っていた。武藤、土肥原の両家の人は見えていなかった。

 市川師が祭ダンをつくって大供養したあと、用意して来た七ツの骨ツボに分配しようとしたところ、東条勝子夫人から異議が出た。

「おわかちいただくのは非常に有がたいことですが、でも分配することによって他人の目にふれることも多くなりましょう。もしこの事がウワサにでもなりますと、先生方にごめいわくをおかけするようなことになって、折角手もとに帰った遺骨を、またとり上げられてしまうようなことにならないとも限りません。しばらくは分配しないで、松井さんのところの興亜観音に密葬して頂いた方がよろしいのではございませんでしょうか」

 言葉はていねいだが、固い決意の色が他遺族にもヒシヒシと感じられた。

 東条夫人の意見通りに処置されることになり、ここでも、再び"七人の遺骨"は三文字氏のオイの遺骨として、松井石根大将が建立した伊豆山鳴沢の興亜観音像下に秘蔵され、遺族たちの香花に安眠している。

 残灰ニセ物事件

 熱海の伊豆山興亜観音像下に密葬された"七人の遺骨"は、毎月二十三日の命日に集まる遺族の人達の法要を受けて安らかな眠りを続け、格別の風評も立たず、関係者たちを満足させていた。ところが四年後の昭和二十八年の春長野県に現われたにせ物残灰事件から世の話題となった。

 しかしこの頃はもう講和条約も発効して、米軍の占領も解かれた時だったので、遺骨秘葬が問題にもならず、三文字氏らのぬすみ出しの責任を追及しようとする者もいなかった。

 五月はじめの事だった。東条大将なきあとも大将が好んで建てた東京世田谷用賀の松林に囲まれた家でわびずまいを続けている東条勝子未亡人の手元に一通の封書が届けられた。長野県の一農家からのものであった。

「A級戦犯として処刑された東条大将以下七人の人たちの遺骨が手に入ったので、五月十七日に慰霊祭を行うから七遺族代表として出席してほしい」

 という内容のものだった。

「熱海のほかに遺骨があろうはずがないのにおかしなこともあるものだ」

 といぶかった東条夫人は早速(さっそく)銀座西六の事務所に三文字氏を訪れて事のてんまつを報告、長野の遺骨の真偽をたしかめた。

「そんなバカな話があるものですか、一応飛田に会ってたしかめて見ましょう」

 三文字氏もびっくりして横浜へ車をとばした。飛田場長は不在だったが、すでに退職していた磯崎火夫長は、

「残骨は三文字先生にお渡ししただけです」

 とはっきりいいきり、

「長野県にあろうはずがない」

 とニセ物を暴露した。結局長野県の人は久保山火葬場から七戦犯のものかどうかはっきりしない残灰を手に入れて、"七戦犯の遺骨"と信じて慰霊祭を行うことになったもののようだが、何かスッキリしない後味を残した。

 結局一時は長野行を決意した東条未亡人も「イコツニセモノトハンメイ」の電報を長野の慰霊祭の施主あてに打電、残灰事件に一応のピリオドを打ったのである。(終)




【画像出典】
・1954(昭和29)年 富士書苑 森高繁雄編 「大東亜戦争写真史落日終戦篇」
・1953(昭和28)年 富士書苑 森高繁雄編 「秘録大東亜戦史 東京裁判篇」


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