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2018/06/08

ピョンヤンで日本人3万人大虐殺|日本国「朝鮮同胞を愛せよ」の結果


1945(昭和20)年8月26日、北朝鮮の平壌(ピョンヤン)でソ連軍と北鮮平安南道知事が会見し、日本の朝鮮統治が終わった日。

共産政府樹立に燃える朝鮮暴民が日本人避難民約1万2000名に襲いかかり、たった一日で約3800名もの日本人女性や子供たち、老人たちが虐殺されました。

その後も在鮮日本人と南下してきた満洲避難民は朝鮮に強制抑留され、平壌だけで約3万人の日本人が強姦、銃殺、飢餓、伝染病、寒さで虐殺されていきました。

最近「差別だ、差別だ」とうるさい在日敵国人ですが、戦前日本政府と陸軍省(軍部)、朝鮮総督府は「日本人は朝鮮人を愛せよ、朝鮮人観を改めろ」と強要していました。

その結果起きたのが、終戦直後の日本人大虐殺だったのです。

マニラで朝鮮で、日本人が共産主義者に人道を適用した結果、コレ幸いと日本人が虐殺されたのです。

米朝関係が緊張している今、日本人を「差別主義者」呼ばわりして言論封鎖をかけている人々、マスコミ、役人、企業は日本国内で日本人虐殺が起きた場合、責任を取るのですか? 前例がありますよ?


陸軍省:朝鮮人にあまい政策立てたから日本人は準備しろ
日本政府・朝鮮総督府:日本人は朝鮮観を改めろ、融和だ、融和!
→終戦後日本人3万人大虐殺@ピョンヤン

戦前日本は戦後広められた歴史と正反対だったんですね。


【陸軍省】朝鮮人渡航制限を解除する。日本人は準備しろ

陸軍省内地人啓蒙1_2
昭和十九年十二月二十二日 朝鮮及台湾同胞ニ対スル処遇改善ニ関スル件

戦局ノ現階段ニ処シ朝鮮及台湾同胞フシヲ益々皇民タルノ自覚ニ徹シ一億一心ノ実ヲ挙テ大東亜建設ノ事業完遂ニ辺進シムルノ閣緊切ナルモノアルニ鑑ミ朝鮮及台湾同胞ニ対スル政治上ノ処遇ニ付別途者究ヲ進ムルト共ニ一般ノ処遇改善ニ関シ左ノ方策ヲ実施スルモノトス
 
 第一 内地在任朝鮮同胞ニ対スル処遇改善要領

一般内地人(一般日本人)ノ啓発

朝鮮同胞ヲ包拡シテ之ヲ完全ナル皇国民トシテ同化融合シ真ニ一億一心ノ国民デ団結ヲ国ルハ朝鮮統制ノ窮極ノ目的ナル所以ヲ国民各階層ニ徹底認識セシメ之(コレ)ヲ内地人ノ朝鮮同胞ニ対スル日常ノ処遇ニ反映セシムルコト

内地渡航船限制度ノ廃止

朝鮮同胞ノ内地渡航制限制度ハ之ヲ廃止スルコト 尚之ニ関シ労務ノ計画的配置ノ確保等ノ為必要ナル措置ヲ講ズルコト

三 警察上の処遇改善 (中略)

四 勤労管理の改善 (中略)

五 興生事業ノ刷新

内地在住朝鮮同胞ノ皇民化ヲ益々促進スルト共ニ一般内地人ノ啓発ニ労ムル為興生事業ノ刷新ヲ図ルコト

六 進学ノ指導 (中略)

七 就職ノ斡旋 (中略)

八 移籍ノ途ヲ拓クコト (中略)

【内閣情報部|朝鮮総督府「朝鮮同胞の赤誠」】

四 朝鮮観を改めよ

日本政府総督府朝鮮観を改めよ1_2

陸軍省日本政府総督府内地人啓蒙1_2

 国民精神総動員強調週間に際して内地の諸君に告ぐ

 朝鮮は今年幸に豊年を恵まれましたが、人心の上に於ける愛国敵情操の稔(みの)りは更に豊(ゆたか)であります。玆(ここ)に内外地を通じて緊張の裡(うち)に行はれたる国民精神総動員強調週間の最終日に当り、朝鮮に於ける此(こ)の事実、此の意義の深大なるに対し内地民衆諸君が刮目して洞見され、国民大結束の構成中に占むる朝鮮同胞の大なる地位と貢献とを認識されんことを愬(訴)求する所以であります。

【出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C12120305100:陸軍省 「昭和19年12月22日 朝鮮及台湾同胞に対する処遇改善に関する件」(1コマ目)
【出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:A06031021800:1937(昭和12)年11月10日 内閣情報部 「週報第56号」(19コマ目)


朝日新聞従軍記者の手記:平壌だけで3万人の婦女子が死んで行った
(抜粋)


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録大東亜戦史 満洲篇」所収
    元朝日新聞社会部長 木下宗一 「三十八度線に立ちて」

※管理人注:( )内は管理人による注釈です。


 十七才以上の男子はシベリアへ。残された婦女子は飢えと寒さに三万名死んで行った。突如黙認の許可が下りた。老人は杖一本に、母親は幼子を荒縄で、三十八度線さえ越えれば……南へ南へ難民の群(むれ)は続く。

(中略)

 八月二十六日、ソ連軍と平安道知事の会見が行われた。これによって三十七年間に及ぶ日本の統治は終りを告げ、ソ連の軍政が布かれた。厳として怒鳴っていた「軍の健在」はもうあとかたもなく、それに代って朝鮮語
が勢いよくマイクから流れた。

 貴族夫人連(関東軍高級軍人の妻たちのこと)はもとより在住日本人も家の扉を深く下ろして小さく息を吐いていた。
 
 赤旗の波、怒号、叫喚、万歳の渦は、十五日からもう二週間も経つというのに、時折、花火のように街を震わして行く。この渦の流れは危ない様相を呈していた。先導者が一寸(ちょっと)油を注げばパッと燃え上る火の玉だった。

「婦人子供や老人部隊を集結させて護って行かないと危ない」

 避難部隊の世話役が一万二千名に及ぶ婦女子を市内の倉庫に集結させようとした途端、この朝鮮の火の玉と打(ぶ)っつかった。

 逃げる小羊に追う狼、阿鼻叫喚の修羅場が現出して、哀れ、小羊の群れは毒牙にさいなまれる血の惨劇となった。三千八百名の犠牲者が出たと伝えられる平壌最大の悲劇である。


【北へ帰すな!在日韓国人大会|1959(昭和34)年2月25日|大阪】
自分らが望んだ体制なのに「帰国事業は差別」デモ。戦勝国民→難民→強制連行被害者→差別被害者と都合に合わせてポジションを変えてきた在日敵国人。北へ帰すな在日韓国人大会2

【在日韓国朝鮮人用老人ホーム|日本人の税金で建設|東京都】
日本をめざして歩き続けた日本人の老人たちの足はザクロのように裂け、ウジがわき、8月の熱砂に倒れて死んで行った。
老人ホーム【参考記事】在日コリアンと日本人が共に暮らせる老人ホーム「故郷の家・東京」が完成 竣工式には400人が参加(2016.10.20-クリスチャントゥデイ)

「朝鮮戦争終結合意」が出た場合と出なかった場合

在日敵国人が最近「差別だ、差別だ」と騒ぐのは、朝鮮戦争終結合意が出た瞬間「難民」の地位を失い、祖国に帰国しなくてはならないからでしょう。

それでも日本に居座るため、ふたたび暴力で日本人をねじ伏せようとしているのかも知れません。

でも、彼らは国連まで行って「日本人は差別主義者」と宣伝してしまった。


国連チマチョゴリ2

オマケにTwitterやYouTubeに差別主義者を通報してアカウント凍結依頼するという金字塔を打ち立て、あらゆる形の記録をあちこちに残した。

外国から見れば「朝鮮戦争終結でヘイト国家日本から帰国できるようになってよかったね」ですよ。

それにTwitterやYouTubeの保守派アカウントなんか凍結したところで微々たるものです。

日本には「戦前親族が朝鮮に渡ったきり帰って来ない」というご家庭がゴマンとあるのです。

朝鮮戦争が終結しても在日韓国・朝鮮人が日本に居すわれば「なんでまだいるのか?」という世論が、自然とわいてくる。

捏造は真実に勝てません。


【朝鮮人が生死不明にした日本人居留民(民間人)の数=8万5230名】
朝鮮抑留不明者数【出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C15010134600:陸軍省 「終連報丙第456号 昭和22年1月24日 連絡課 第1、東亜地域在留邦人引揚者数表 第2、東亜地域在留邦人残留者数表 第3、行方不明者数表(3コマ目)


【ソ連、中共、朝鮮人に全財産と家族を奪われた日本人避難民】
この子供たちはまだ生きている。家族全員が朝鮮人に殺され、子供一人で引き揚げてきたケースもある。38度線を越える日本人避難民300

次に「朝鮮戦争終結合意」が出ず、日本が米朝戦争に巻きこまれ、その騒乱に乗じて日本人虐殺が起きた場合。

その時は安易な人道主義に走った人々、マスコミ、役人、企業の責任が問われるでしょう。

自称差別被害者には常に日本と日本の敵国両方にフタマタをかけ、騒乱に乗じて日本人を虐殺してきた実績があるのですから。

「差別」ツィートでラノベ出荷停止|日本軍「朝鮮同胞を愛せよ」


ラノベ「二度目の人生」出荷停止=アニメ化も中止-作者の差別投稿で
2018年6月7日 JIJI.COM

 ライトノベル「二度目の人生を異世界で」の作者がインターネット交流サイト(SNS)で過去に不適切な発言をしていたなどとして、出版元のホビージャパンは7日までに、全18巻の出荷停止を決めた。
 
 同作をめぐっては5月下旬にアニメ化が発表されて以降、作者のまいん氏が中国や韓国に対する差別的な発言をツイッターに投稿していたことが指摘され、声優の降板が相次いでいた。製作委員会はアニメ化の中止を発表した。
 
 ホビージャパンの担当者は「作品の内容とは切り分けるべき事項だが、著者が過去に発信したツイートは不適切な内容だった」とし、「作品中の一部の表現が多くの人々の心情を害している実情も重く受け止めた」と説明した。
 
 まいん氏は自身のツイッターで「不適切な表現があったことを深くおわびします」と謝罪した。(2018/06/07-12:37)


【日本人慰霊碑|北朝鮮】
日本を裏切り、日本人を虐殺した者は誰一人として裁かれていない。共産主義にもとづく虐殺も罪に問われるべき。在鮮日本人慰霊碑



コピペ大拡散希望!!朝日新聞従軍記者の手記:
日本人3万人を虐殺した朝鮮人

共産勢力の日本人虐殺のやり方は、極左野党が粘着しているモリカケ安倍やめろ!と同じです。

そのやり方とは、まず日本人居留民を保護する者を排除して、無防備となった日本人を殺していくという方法です。

どうりで、安倍総理をやめさせたいはずですわな。

それで米軍は南鮮から朝鮮総督府と日本軍を強制送還し、ソ連軍と朝鮮人は日本軍と成人男子をシベリア送りにした。

そして残った老幼婦女子を襲撃して一日で約3800名を虐殺した。

生き残った日本人からは現金と衣類を没収して、極寒の収容所に放りこみ、強姦、銃殺、飢餓、疫病で殺していった。

一つ言っておきたいことは大東亜戦争で日本が戦った敵は共産党の世界同時革命であり、朝鮮人はその日本の敵であるアメリカソ連と密通していたという事実です。

日本人虐殺は北鮮だけでなく、南鮮でも行われました。



出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録大東亜戦史 満洲篇」所収
    元朝日新聞社会部長 木下宗一 「三十八度線に立ちて」

※管理人注:( )内は管理人による注釈です。


十七才以上の男子はシベリアへ。残された婦女子は飢えと寒さに三万名死んで行った。突如黙認の許可が下りた。老人は杖一本に、母親は幼子を荒縄で、三十八度線さえ越えれば……南へ南へ難民の群(むれ)は続く。

 赤旗の波

 まるで火の玉がころげ回っているようだ。街という街には、赤旗がゆれて、その炎の下から、汗まみれの顔や手がピストンのようにおどっていた。

大韓民国万歳!」

「ソヴィエト共和国万歳!」

 リーダーの音頭に合わせて、一つの矢叫び(やたけび:やさけび。戦いの初めに両軍が遠矢を射合う時、互いに高く発する声)が火の海をコダマのように渡って行く。

 もう誰も家に閉じこもっていない。刻々に火の海に吸収されて、そのウネリの下で、老いも若きも、歌い、泣き、おどり、走り、抱き、わめき──歓びに崩れて行った。三十七年間の日本統治から解放されて、始めて自由の息を胸一杯に吸ったその日の京城(けいじょう:現ソウル)や平壌(ピョンヤン)──いわゆる朝鮮の表情である。

 その日とは昭和二十年八月十五日、日本人は皆泣いていたその日である。重大放送があるというので、日本人の家庭ではラジオの前に顔をそろえていると、意外にも天皇の終戦のお言葉であった。"遂に来た!" 血の引いたお互(たがい)の顔がまだ震えている頃、街の一角から「ワァーッ」という叫びがあがった。いつ、どこに用意されていたのか、この叫びを合図のように、家という家から、大韓民国国旗と赤旗が手品師に引き出される小旗のように街にあふれ出た

「日本人出て来い!」

 いち早く表戸を下して、声をのみながら泣いている日本人宅は、早くもデモの赤旗で包囲された。

 刑務所からは、政治犯が赤旗に迎えられて新しい英雄として登場した。この新英雄に引率された群集は、日本の官憲──憲兵隊や警察署におっかなびっくりで投石して、その反応の無いのを知ると、始めて自分達の「解放された実力」に自信を持ち出した。

「おれ達は勝ったのだ!」

 三十七年間の反発が「戦敗者日本人」へ倍加され、ここに、三万人の死者を出した北鮮の大悲劇が惹起されたのである。

 「満洲貴族」の疎開

 新京(満洲国の首都。現在の長春)にとって運命の朝が訪れた。八月九日である。ソ連機の爆撃によってソ連の参戦を知った関東軍司令部は、蜂の巣を突っついた騒ぎ、満洲国要人も呼びよせられて対策が講ぜられたが通化に退いて東漸するソ連軍と一戦を交えようという説と、最後の一兵まで新京にとどまって死守しようという説が対立した。

 いずれにしても、新京周辺が戦火の巷(ちまた)となることはさけられぬとの結論が出て、足手まといの婦女子老人を急ぎ疎開させることになった。

 しかし、家族だけでも数十万に及ぶ大部隊である。山県求馬(やまがたもとめ)少佐を朝鮮軍(日本軍の朝鮮防衛軍)との交渉に派遣する一方、満鉄を督励して南下列車を編成させた。その日の午後四時に疎開第一列車が新京を出発することになったが、僅か数時間のうちに疎開を伝達することは可(か)なり困難なことだった。勢い、伝達が徹底する軍員軍属に限られ、新京駅に殺到する民間家族を尻目に、午後四時発が夜の十一時発となり南下第一列車がこれら家族の笑顔を満載して朝鮮へ向った。

「なぜ軍人軍属の家族だけを逃がすのか」

 後になって関東軍に対して非難の集中打があびせられる攻撃第一号はここに芽生えていた。だが「満洲貴族」といわれた高級軍人の家族は平壌に着くまでは、笑顔と誇りの中に過(すご)すことが出来たが、三十八度線突破はかえって一番後回しとなり、運命の転落を嘆く身となった。

「満洲貴族」が疎開列車に電気蓄音機まで積みこんだのに対し、民間の一般家族は全くのリュックサック一つだった。長い間かかって築いた財産もすて無蓋貨車にスシ詰めにさせられて、夫や父や兄の許(もと)から離れて行った。そして、それが永遠の別れとなった人も数知れない。

 山県少佐がわざわざ朝鮮軍に疎開交渉に行ったところ

「米軍は南鮮に上陸する公算大である、朝鮮軍は諸般の事情を勘案し、作戦の都合上、一般家族の平壌以南への南下を拒絶する」

 と言って来た。

 日本軍に見棄(す)てられた日本人家族──ここにも「北鮮大悲劇」が生まれる第二の要素があったのである。

 不良朝鮮人の横行

 夜を日についで鴨緑江(おうりょくこう)を南下する避難列車──それが京城の朝鮮軍司令部から南下を拒否されると、丁度(ちょうど)、山を下る奔流がセキに止められて平地に氾濫するように平壌以北の諸都市にあふれ満ちて、黄海道二万八千、平安北道三万四千、平安南道五万六千、咸鏡北道八万五千、咸鏡南道七万九千、江原道二万三千といった風にざっと三十万五千。

 それと北鮮に駐屯した百八方面軍が十三万六千三百、それに在住日本人を合せると、ざっと五十万人が北鮮にあふれていたことになる。

 北鮮の悲劇は、ソ連軍の進駐から始まる。満洲爆撃とともに西蒙古に待機していた機械化部隊が西から朝鮮北境に進入して来た。百八方面軍はこれを迎え撃って、咸鏡北道から南道にかけて激戦が展開された。

 過去三十七年間、営々として築き上げた家産をすて、リュックサック一つを生命として日本人は険しい山を越えて南下した。「日本敗(やぶ)る」と知った不良朝鮮人は、この山越えの南下部隊をのがしはしなかった。関所、関所の山賊朝鮮人に、すっかり絞め上げられた避難民は、平壌への道の半分にも辿(たど)りつかぬうちに無一物になっていた。

 リュックサックにシャツ一枚でも入っているうちはまだよかった。最後の一枚まで献納して関所を越えて行ったが、若い女子部隊には山賊の眼が異様に光った。手をしっかとつなぎ合い、男子がその前後を守って行くが、草をかんで歩き呆(ほう)けた身体は、男といえども子供ほどの力も出ない。残忍冷酷にただ泣いて「敗れた者の宿命」にもだえるばかりである。

 地獄のような暑さだが、山の色は日本とそっくり、松の梢(こずえ)にはきょうも蝉が鳴いていた。

「まあいいよ。日本に帰れさえすりゃ、こんな蝉の鳴いている田舎の家で芋でも作って暮そうよ」

 げっそりやせ衰えた老爺が、慰めとも励ましともつかぬひとり言。一服するタバコもみんな取り上げられて、松葉をかむ唇の青さ。

 北鮮に生れてまだ日本の国を知らぬ娘部隊は、もう一枚のハンカチさえ持たぬ流浪者なのに「日本」と聞くと、一里も歩けぬ身体も忘れて

「さア行きましょう、歩きましょう」

 と立ち上る。一時間でも早く、日本を見たいのである。敗れた者の劣等感を、早く日本にたどりついて清めてしまいたいのである。

 ソ連軍の進駐

 九日夜、新京を出発した「満洲貴族」の避難列車は十二日平壌に入った。避難というより旅行気分で、軍や憲兵隊、日本人会の世話で平壌の日本人住宅に温かく迎え入れられた。すぐ日本に帰れるという安易さがあり、他人様の厄介になっているという「見え」も手伝って、満洲貴族の品位そのまま、ぜいたくな日常を送っていた。しかもここ数日、ラジオのマイクは昔のままの強い口調でこう怒鳴っていた。

「朝鮮軍は厳として健在である。日本人に対する迫害事件が各所に起っていることは誠に遺憾である。切に朝鮮側の自重を望む。軍は依然として健在である」

「ほんとうでござアますよ」

 名誉ある軍人を夫に持つ貴族夫人連は、そのラジオを聞きながら、連日お茶の会やスキヤキ・パーティを催していた。

 そして八月二十四日。

 よごれた軍服に汗をにじませてソ連軍先遣隊が堂々の陣容の下に平壌に進駐して来た。その日、朝鮮は三十八度線を境として真っ二つに分断され、列車は天幕で遮断された。

「日本人で軍籍にある者は平壌に集結せよ」

 矢つぎ早の命令がソ連軍の名で通達された。そしてこの職業軍人の一隊は平壌南方の三合里(さんごうり)に連行され、やがてシベリアの奥深く消えて行った。

 八月二十六日、ソ連軍と平安道知事の会見が行われた。これによって三十七年間に及ぶ日本の統治は終りを告げ、ソ連の軍政が布かれた。厳として怒鳴っていた「軍の健在」はもうあとかたもなく、それに代って朝鮮語が勢いよくマイクから流れた。

 貴族夫人連はもとより在住日本人も家の扉を深く下ろして小さく息を吐いていた。

 赤旗の波、怒号、叫喚、万歳の渦は、十五日からもう二週間も経つというのに、時折、花火のように街を震わして行く。この渦の流れは危ない様相を呈していた。先導者が一寸(ちょっと)油を注げばパッと燃え上る火の玉だった。

「婦人子供や老人部隊を集結させて護って行かないと危ない」

 避難部隊の世話役が一万二千名に及ぶ婦女子を市内の倉庫に集結させようとした途端、この朝鮮の火の玉と打(ぶ)っつかった。

 逃げる小羊に追う狼、阿鼻叫喚の修羅場が現出して、哀れ、小羊の群れは毒牙にさいなまれる血の惨劇となった。三千八百名の犠牲者が出たと伝えられる平壌最大の悲劇である。

(中略)

 平壌へ運命の道

 北鮮を追われた避難者の群れは「平壌へ、平壌へ」と流れて来た。列をなした「乞食」の群れである。

 草履(ぞうり)をはいている者は殆(ほと)んどいない。女も子供もみなハダシである。山を越え、熱砂を踏んだ足の裏はザクロのように裂けその傷口にはウジがわいている人もいた。老人や病人は歩く精魂も尽き果てて、熱土に頬を伏せ二日も三日も動かなかった。中には合掌しながら、トボトボと南下して行く人々に「別離」をつげている病人の姿も──しかし、南下する人々はこれらの人々に施す一粒の御飯もない。手を引いてやろうにもその力さえない。

「さようなら、さようなら」

 眼で「別れ」をつげて、あすにも自分に襲ってくるであろう運命の道を歩いて行く。

 平壌にはもとからの在住者が二万八千人もいるところへ汽車で送られて来た疎開者が一万二千名も入っていた。そこへ、北鮮からのこのハダシ部隊が毎日々々流れて来た。

 若松小学校の避難宿舎は、これらの人々を迎え入れて日と共にふくれ上って行く。中には一椀のカユを振舞われ優しい言葉で迎えられると悪夢のような数日の怒りがこみ上げて来るのであろう。

「畜生、ロスケの奴!」

「山賊朝鮮人め!」

 髪を震わして、勝利者の暴力を訴える婦人。敗(ま)けた者の「宿命」に、悲しいあきらめを残して、これらハダシ部隊の大部分は草履を恵まれて立って行く。

 一日でも早く、一時間でも近く、祖国日本の姿に接したいのである。南へ、南へ、三十八度線突破の一念に燃えながら──。

 乏しい食糧のところへ、これらの南下部隊を迎えいれて、若松小学校の疎開本部は苦しい生活が続いた。一日一人一合の米が心細くなって、一日二食のカユになった。子供たちは腹をすかして母親を困らせた

 ある日──それは何かの祝い日にあたっていたので、肉入りの味噌汁が大鍋で作られていた。そこへ朝鮮人の子供がいつもの通り、四、五人からかいにやって来た。遊びに来るというのではなく、子供ながらも自分達の優越感をほこりに来るのである。そんな時に、この野郎! とでも言おうものなら、後の復讐がそれこそ大変である。朝鮮人の顔役がズラリと顔をそろえてやって来て、打つ、ける、なぐるの「見せしめ」が始まる。

 この日も悪い奴がやって来た! と思ったが、炊事当番の人々が知らぬ顔をしていると

「負けたくせに生意気だ」

 と喰ってかかって来た。余りの雑言にきっと眼をすえると

「これでも食(くら)え!」

 と言いざま、足許の土砂をすくってパッと味噌汁鍋に叩きこんで逃げて行った。

 久しぶりの御馳走(ごちそう)だというので、窓、窓には笑顔が並んでいたが、この光景に、窓の表情はたちまち青ざめた憤りに変った。

 男子狩り

 今日もまた「命令」と称して朝鮮人のトラックが乗りつけて来た。カーキー色のものは服といわず靴といわず、一物も余さずかっさらって行く。これらは軍需品だから没収するというのである。これから寒さに向うというのにシャツ一枚でも無駄には出来ない。その貴重品をトラックに山積みにして今日も引揚げて行く。

 避難の人々は、最後の一枚を没収されまいためチエを絞り出した。あすもまた現われるであろう没収団のため、あり合せの染料でほかの色に染め変えてしまった。

 その翌日──。

 朝鮮側の「命令」は例の通りやって来た。

 一同は一夜で変った黒や青色の服で列をつくったが、予想に反して今度は服装には目もくれず、意外な「命令」が言渡された。

「今後は一切の所持金を提出せねばならぬ。もし、この命令に違反し、一銭といえども所持していることが後で判った場合は銃殺される。では、本日直ちに提出するよう」

 有無を言わせない強制処置である。今後何カ月かかるか判らぬ永い苦難を前に「金」こそは命の綱である。その命の綱を一銭残らず供出したら──今までは子供がおなかをすかせれば芋の一つでも買ってやれたのに、無一文は死の宣告も同然である。

 しかし、「銃殺」で脅された一同は、泣く泣く最後の一銭までも提出してしまった。その夜──カユをすすった避難民一同は絶望の中に寝られぬ夜明けを迎えた。

 その朝も、恐怖のマトである「命令」が来た。一日々々、この命令で心臓をしめつけられて来た一同は、「命令」の姿が現われると、もうそれだけで身体が震え出した

「命令──」

 冷厳な、その命令は疎開本部代表に針のような鋭さで伝達された。

「十七歳以上、五十歳までの男子は一人残らず軽装で集合せよ」

 十分の猶予が与えられた男子は校庭に集合した。

 この部隊はそのまま朝鮮保安署(朝鮮保安隊は終戦後朝鮮人が組織した日本人取締部隊)に連行された。残された婦人達は"いつもの使役だとよいが……"と去りゆく男子部隊をいつまでもいつまでも見送っていた。

 冷めたい雨が降って来た。軽装だというのでシャツ一枚で出かけて行った夫。この雨にぬれたら──親子三人で満洲からの死線を突破して来て、いまここで病気にでもなられたらという妻の気遣いから、彼女はたった一枚の染めかえた外套(がいとう:コート)を引っぱり出して夫の後を追った。保安署の前は、あちこちから連行された男で一杯。降りしきる雨の中を列作ったまま、一歩も動くことを許されぬ列、列、列の男たち。

 彼女はズブぬれの群列の中からやっと夫の姿を発見した。シャツは冷雨に叩かれて、顔は死人のように青ざめていた。妻の手から外套をうけとった彼は、その外套の下で、しっかと妻の手を握った。

「さァ、もうお帰り。みんなに悪いから」

 雨に叩かれて、びしょぬれになって行く妻が気の毒でもあった。

「ひょっとすると──」

 彼の胸には、もう二度と妻に会えぬだろうという不安がかすめていた。使役なら、こんな大雨の中をいつまでも引張っておく筈(はず)がない。もうとっくに解散になっているだろうに、今日はいつもと違った。妙に厳しい指導ぶりである。

 夫が外套を着終ると、彼女は満足したように

「でわ……」

 といって彼の側(そば)を離れた。"子供を頼むよ"かれはそう言いたかったが、のみこんだ。安心し切った妻が、雨の中を駆けて行くのを彼の眼はいつまでも追っていた。

 この雨中の別れが、長い、長い別れとなった。この男子部隊はその夜移駐を命ぜられ、シベリア送りとなってしまったのである。

 日本人の叛乱?

 男子部隊がいなくなってから、若松小学校の疎開本部はシューンとなってしまった。笑い声一つ立てる者もなく夜になると老人の警備員によって厳重に警衛された。

 ソ連兵が時折現われるようになったからである。鶏小屋をねらう野犬の群れ。危ない。

 寒い夜だった。警備員が例によって入口という入口を固めていると、突如トラックが入って来た。警備員が飛び出した時には、三十名ばかりの武装した朝鮮保安員が手に手にピストルを擬して事務所におどりこんでいた。

 男といっても五十歳以上の老人組、それに一番年かさでも十二、三の少年ばかり、寝ていた婦人連も全部起されて、両手を上げたまま後ろ向きに立たせられ、所持品はもとより、着物の縫い目まで全部調べ上げられた。「口答え」した男子はその所持品とともにトラックののせられて拉致された。

 「何のための夜の検索?」

 残された避難民には夜も眠られぬ日が続いた。一週間ばかりして拉致された人々が帰宅を許された。それによると──。

 十日ばかり前、警備員といさかいをした男の一人が、突如ピストルをかざして警備員をおどろかせた。半分はふざけた気持ちだったらしいが、このピストル騒ぎが、いつの間にか朝鮮側の耳に入った。

「日本人は叛乱を企図している。その証拠にピストルを多数隠匿している」

「井戸に毒薬を投げこみ、朝鮮人殺害を企図している」
 
 いつの間にか一挺のピストルからこんな筋書(すじがき)となって朝鮮側を刺戟(しげき)した。勿論(もちろん)、何らの証拠も上らなかったが、それ以来、若松小学校に対する朝鮮側の監視は厳しくなった。

 遂に「命令」が来た。若松小学校は朝鮮側に接収せられ、疎開本部は分断させられた。その一部は隣接の女学校の六つの教室に移住を命ぜられたが、その教室には既に避難民が一杯つまっていた。オケの中のドジョウのような生活だった。

 さらに千五百名余の婦人部隊は下船橋(しもせんきょう)地区の元工員宿舎に移住を命ぜられた。しかし、この付近にはソ連兵の兵舎があるので、婦人連は進んで行こうとはしなかった。しかし命令を拒むことは出来なかった。数名の老人に護衛されて、この「小羊部隊」は大同江(だいどうこう)を渡って行った。寒い夕暮れだった。

 漸くその工員宿舎に辿(たど)り着いて、これから夕食の仕度にとりかかろうとする時、四、五人の朝鮮人が怒鳴りこんできた

「誰の許しをうけて来たんだ。俺たちの顔を立てなけりゃ、一歩も入ることはならん」

 この怒号に一同は立ちすくんだ。おなかをすかした子供たちは母親の袖にかくれて泣き叫ぶ始末。

 そこへ保安署の制服を着た三人の朝鮮人が飛んで来た。朝鮮語で話し合っていたが、怒号していた朝鮮人らはすごすご引き揚げて行った。だが、その捨(すて)ぜりふはかえって婦女子たちをすくませた。「おぼえてろ!」心臓を刺すようなあの捨てぜりふ。

「なぁに大したことは出来ませんよ。奴らがやって来たらいつでも連絡して下さい。すぐ来ますからね」

 三人の制服朝鮮人は一同を慰めながら帰って行った。この三人は李さん、金さん、尹さんという元日本の伍長や上等兵だった。

(中略)

 一日に米四合食え

 寒波が襲ってくるにつれ病人はつぎつぎに死んで行った。若松小学校では七十八人の死体が菰(こも)包みのまま、校庭の物置に積まれていたことがあった。木箱を作れるところはまだよかった。着たままの姿で通夜が行われ近しい人人の手で大八車にのせられて、平壌から約八キロのところにある竜山寺(りゅうざんじ)へ運ばれる。この寺の奥が山になっていて日本人はここを竜山墓地と名づけていた。

 始めは麓だけが墓地だったが、だんだん中腹から山頂まで土饅頭となって後には全山これ墓地、山麓を流れる小川はもともと透き通った清らかな流(ながれ)だったのに、今では油が浮いて白濁の川となってしまった。

 真冬になると土が凍結してスコップが通らないので、形ばかり雪や土を掘って埋めるようになった。風雨にさらされて今では白骨が全山にさらされているだろうといわれる。ここに眠る日本人ざっと四千柱

 こんな死亡者が出たのは栄養失調もあったが、悪疫、特に発疹チブスが出たためだった。避難民の中から毎日、あまりの死亡者が出るのでソ連の衛生班が見回りに来て見ると、チブス患者が続出しており、その媒介であるシラミをわかせていない人はいなかった。

 その翌日、ソ連の女軍医が消毒車と一緒にのりこんで来た。露天のシャワーが特設せられ、強力な消毒液入りのお湯を浴せられた。このシャワーを浴びている間に、着物の方は消毒車で蒸気消毒、といったあんばい。有無を言わせぬスピーディな処置だった。

 そのシャワーの脱衣場──そこには一時間とたたないうちに、蟻の巣を突っついたような真黒いうず巻きが出来た。各人の着物から振い落とされたシラミの集団である。

 病人はソ連の病院へ移され、室内の消毒もあって、この夜以来、疎開者たちは晴れて安眠出来るようになった。

 女軍医のきびきびした指揮ぶり──

「やはりわたくし達は彼女たちの勇断に救われたのだワ」と婦人連の感謝はいつまでも語り草になった。

 ソ連の第二十五軍司令官としてチスチャコフ大将が平壌に着任し、その下のソ連軍行政司令部が同じくロマネンコ少将を司令官として平壌に設置せられた。

 二十五軍の政治顧問としてボルサノフ氏が赴任した。この人は元駐日大使館の参事官を勤めたことがあり日本語も達者だった。日本人会の代表を引見して

「今後の行政はソ連が一切やる。何も朝鮮側にぺこぺこして遠慮することは一つもないから……」

 と強調した。

 それ以来、朝鮮の街の顔役はほとんど姿を見せなくなった。それに代って「朝鮮共産党北鮮分局責任書記」という名で金日成が民衆の前に始めて姿を現した。英雄現わるとして熱狂的な歓迎だった。

 この陣容が成ってから日本の避難民へ、ソ連からの爆弾的なお土産が贈られた。米である。夢にまで見たコメ。

「避難民に限り、一日大人一人米四合、子供二合、魚類大人三百グラム、子供百五十グラムを給与する。但し……」

 これからが素晴らしい。

「但し、毎日給与されたる白米並びに魚類は必ず残すことなく食い終ること。もし万一残すようなことのある場合は、次回よりの給与を廃止する」

というのである。

 今までコウリャン(モロコシの一種。経済解放前の中国人民の主食)のカユ一日二食で過して来た避難民は大地に頭を垂れて喜んだ。

 その翌日から、たき立ての御飯が朝も昼も夜も腹一杯つまった。ウンウンうなりながらつめて行く大人や子供──それはうれしい悲鳴でもあったが、また皮肉な運命でもあった。つまり、下痢患者続出、引いては、竜山墓地行き急昇という皮肉な一時期を作ったのである。(後略)


【川崎市で朝鮮人差別の落書きwww】
朝鮮人差別の落書き2ソース元URL:https://news.biglobe.ne.jp/domestic/0608/tbs_180608_0174754208.html



【出典】
・1995(平成7)年 毎日新聞社 「毎日ムック 戦後50年」
・1954(昭和29)年 富士書苑 森高繁雄編「大東亜戦争写真史 楽土興亡篇」


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