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2018/05/25

武士道が招いた日本人虐殺|マニラ虐殺


マニラ虐殺とは日本軍がマニラ市街戦でフィリピン人10万人を虐殺した、とされている事件です。

しかし事実は、日本軍が武士道精神とジュネーブ条約遵守により、アメリカ人・イギリス人の非戦闘員捕虜二千数百名を米軍に引き渡したところ、米軍とその手先であるフィリピンゲリラが日本人居留民と孤立した日本軍人を虐殺したのです。

その犠牲者数は尼港事件、通州事件以上だったそうです。

明治革命政府と大本営が将兵に刷りこんだ誤った武士道「敵には情をかけ、自分は死ね」という教えは、敵国からすれば「甘ちゃん」でしかなかったのです。


【尼港・通州・マニラ虐殺犠牲者数】

・尼港(ニコライエフスク)事件…約700名

・通州事件…日本軍人約100名と日本人居留民約230名

・マニラ市民部隊(日本人居留民で組織)…約1800名


【日本軍が解放した米英人非戦闘員捕虜】
アジ歴収容された英米人@フィリピン2

【出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C14020800000:陸軍省「写真(1) 比島作戦の思い出」(8コマ)


米軍侵攻後の、迫撃砲、野砲、戦車砲とあらゆる砲弾が降り注ぐマニラで、たとえ幼児であっても日本人ならば虐殺されてゆく。

その地獄をまのあたりにしながら、マニラ捕虜抑留所部隊の近藤大尉は人道に暴で報いた米軍を呪いながら戦死したそうです。


【近藤大尉の遺言】

「みろ! マニラを脱出できず、集団軍の後方に逃げられぬ日本人老幼婦女の無惨な最後を、だから敵抑留市民をも全滅させておくべきだったのだ!」

「かつての尼港事件、通州虐殺事件の比どころか、この大量虐殺になにをもって報いたのだ。ひとりよがりの人道主義など糞くらえだぞ」

出典:1957(昭和32)年 日本文芸社 「現代読本 第二巻第六号 われら学徒かく戦えり」所収 元第四十一軍司令部附 陸軍軍曹 池田純宜 「マニラ戦で敵婦女子を救った八人の学徒将兵 敵陣に燦たり青年武士道」


戦前からアメリカは日本に対し「条約を守れ!」「シナ人民の主権を尊重しろ!」などと強要してきました。

でもアメリカは「ジャップは動物とおなじ」とみなし、日本人にはハーグ陸戦条約、ロンドン条約、ジュネーブ条約といった国際法をいっさい適用しませんでした。


・ハーグ陸戦条約…非戦闘員の殺戮禁止、不必要な苦痛を与える焼夷兵器の使用禁止、被占領地民の占領軍に対する敵対行為の禁止(朝鮮独立運動、中国の日貨排斥、ゲリラの利用など)、敵国民の生命・財産没収禁止、捕虜に助命を与えざることの禁止、負傷者の苦痛を増す手段の禁止

・ロンドン条約…無差別潜水艦戦の禁止

・ジュネーブ条約…非交戦者に対する害敵手段の禁止



アメリカが日本の人道に対し、暴で報いたのはマニラ虐殺だけではありません。


【杉原千畝氏と日本のユダヤ人保護に原爆投下で報いたユダヤ共産主義者】

原爆投下3

日独伊三国同盟は防共協定でした。ナチスドイツがユダヤ人を迫害したのは人種差別ではなく、共産主義という危険思想がユダヤ思想だったからです。

第一次世界大戦中、宣伝でドイツ国民を煽動してドイツ革命を起し、ドイツを解体したのはユダヤ人でした。

そしてナチスの迫害を逃れたユダヤ人科学者は渡米し、原子爆弾を製造して日本に投下した。原爆投下は最大の人種差別といわれるゆえんであり、その最大の人種差別をやったのは共産主義者です。

日独防共協定

人権がない日本人のいまココにある危機

以前、このブログで「2018年に日本革命の可能性」と指摘しましたが、エルサレム遷都祭りを背景にアメリカが米朝会談を中止しました。

いま日本海の向こうに、日米交渉決裂→大東亜戦争勃発とおなじ危機が発生したのです。

でも「憲法9条改正反対!戦争反対!」の極左野党やマスコミは「モリカケ問題」で安倍内閣を打倒して憲法改正を阻止し、戦時中の日本軍玉砕をいまの日本で再現しようとしている。

極左野党とマスコミの「モリカケ問題」バカ騒ぎ自体が、彼らが日本人の人権を認めていない証拠ですね。

日本のマスコミに関係する各国の思惑どおりのような気がします。



・第二次朝鮮戦争または米朝戦争勃発となれば韓国大統領府や韓国軍司令部は日本に移転して安全な所で指揮したい、

・経済制裁中の北朝鮮は日本のカネがほしい、できれば三代目もオモニの生まれ故郷に逃げたい、

・愛国心も国家観もない韓国人や北朝鮮人民は日本に逃げてきたい、

・中国は習皇帝陛下爆誕で買った人民の不興を日本制圧で一掃したい、

・自国民の生命は異常に尊重するアメリカは、安倍総理のままでは日米同盟を廃棄できず米兵の犠牲者が増えてしまう、

・イスラエルは神の選民として神の選民よりも歴史が古い日本人を抹殺して世界統一を成功させたい。



戦争とは複数の国の思惑が重なったときに起こされるものです。


アメリカ「話し合いの時間は終わった」米朝会談中止を発表

極左野党とマスコミが都合よく日本国民の心情を忖度して「モリカケ問題」をさけぶたびに、われら日本人は死地へと追いやられているように思います。

極左野党もマスコミも、戦前から日本人を大虐殺してきた共産主義者(グローバリスト)側です。

そんなマスコミが「日大アメフト殺人タックル」などとセンセーショナルなレッテルを貼って日大を攻撃する、まったく「バカか?」と思います。


トランプ氏「北朝鮮と世界にとって大きな後退」
2018年5月24日 産経ニュース

 【ワシントン=大木聖馬】トランプ米大統領は24日、ホワイトハウスで記者団に対し、6月12日にシンガポールで開催が予定されていた米朝首脳会談を中止する考えを表明した。

 これに先立ち、ホワイトハウスはトランプ氏が北朝鮮の金正恩キムジョンウン朝鮮労働党委員長に宛てた書簡を公表した。

 対話による北朝鮮の核・ミサイル問題の解決の機運が高まっていた米朝関係は、重大な局面を迎えた。

 トランプ氏は会談中止について、「これは北朝鮮にとっても世界にとっても大きな後退だ」と記者団に述べた。マティス国防長官らと協議したことを明らかにし、「米軍は世界で最強だ。必要であれば、(軍事的措置の)準備はできている」と強調。一方で、「金正恩氏が対話を選ぶなら、私は待っている」とも語った。



マニラ虐殺の汚名を着せられた山下奉文大将、近藤大尉、小田少尉、斎藤中尉、長原少尉、野口大佐、林中佐、すべての犠牲者の御霊に捧ぐ|本記事の資料

1945(昭和20)年3月5日、マニラの日本軍は全滅しました。もし日本軍にフィリピン人10万人を殺傷する軍備があったなら、その攻撃目標は米軍だったはずです。

当時のフィリピンではもはや日本軍に制空権はなく、米軍の無差別潜水艦戦による撃沈で補給を断たれ、武器も人も食糧もありませんでした。

それに本当の武士道とは、敵は禍根を残さぬよう徹底的に殲滅し(根切り)、武士は生き残って家の存続をはかるものです。一昨年の大河ドラマ「真田丸」の生き残りに命を賭けていた、あれが武士です。

「武士道とは死ぬことと見つけたり」とは「滅私奉公」という意味であって「死ね」という意味ではないし、武士道とは敵に情をかけることではありません。

明治革命政府や大本営がいうのが本当の武士道ならば、武家は死ぬことを争って戦国時代に滅亡していたでしょう。


出典:1957(昭和32)年 日本文芸社 「現代読本 第二巻第六号 われら学徒かく戦えり」所収 元第四十一軍司令部附 陸軍軍曹 池田純宜
「マニラ戦で敵婦女子を救った八人の学徒将兵 敵陣に燦たり青年武士道」

※管理人注:( )内は管理人による注釈です。


 重囲の中の死闘

 太平洋戦争初期、怒濤のように進撃してきた日本軍のまえに、ひとたまりもなく壊滅した米・比軍は、ヒリッピン(フィリピン)にあった在留米人老幼婦女子、民間人など、多くの抑留者をだし、それを捨てていた。しかしその一部は、軍俘虜将兵(ウエンライト中将以下)とともに、満洲、支那、内地(日本国内)の収容所へ送られていた。

 ところが戦が激甚の様相をみせてくると、比島方面軍は慌(あわ)てて、これらの抑留市民たちを保護しようとして内地へ送還するべく、このマニラ湾からさえ、二千人、三千人の抑留市民をのせて引揚船を出発させた。

 しかし、すでに底をついた船舶量と、途中の状況悪化で送還は遅々として進まず、幾隻かの輸送船は、敵潜水艦に撃沈される悲劇さえ、一再でなくおこっていた。

 このため最後に残されて、サント・トーマス大学構内に収容されていた敵市民は二千余名だった。しかし、これ等(ら)の市民は、いわば、もともと強制労働につくこともできぬ、病身か虚弱、それに女と子供、老人たちばかりであった。

 これを警備保護する収容所部隊というのが、振武集団第四十一軍管理部長麾下(きか:ある人の指揮の下にあること)の林中佐で、その指揮下の兵力はニケ中隊弱であった。また、部隊幹部将校の約二十名というものは、殆(ほと)んどが学徒出身の予備将校で、士官学校出身将校は近藤大尉ひとりだけであった。


フィリピン慰安婦像2

 だが、戦友のなかにとり残された、多くの敵国人を殺すべきか生かすべきか、これは重大である。
 
 ──玉砕は必死である。敵国人のすべてを冥土の道づれにし、あわよくば、老幼婦女子たる彼らを敵弾の楯にし、死地を脱出して友軍部隊に合流する……

 近藤大尉の意見に、林中佐がどのような決定をくだすか、予備士官たちは、学徒出身の純真な眼に苦悩を溢れさせ、じっと部隊長の口唇(くちびる)をみつめた。

 それはまさに、自らの栄光と死が決定される瞬間でもあり、情容赦ない敵弾は、必死に邀撃(ようげき:むかえ撃つこと)する、我が最後の火線(かせん:戦闘の最前線で、敵軍と銃・砲火をまじえるところ)でもあったからだ。

 虐殺か解放か? 地獄

「どうしても、軍司令部と、連絡がとれぬか」

 林中佐は、幹部将校の瞳のうごきを黙殺し、われわれへ静かに訊いた。

「駄目です! どこからも応答がありません」

「そうか……駄目か」

 この間わずかに、二、三分……。あれほどはげしくうちこまれた弾丸が、急にバッタリととまった。つづいて、敵の宣伝放送がはじまった。 「またか……」と、われわれ部隊全将兵は舌うちした。

 そのうち、下手糞な、そのくせ落ついた日本語が喚(わ)めきはじめた。

「日本軍将兵のみなさん! すでに貴方(あなた)がたは退路をたたれ、袋の鼠(ねずみ)に、なっています。これ以上戦ってみても、われわれの重囲を脱出することは不可能です!」

 そこで一息きった宣伝放送は、それと同じことを英語で喋(しゃべ)り、その最後に抑留者に向って、

「ながいあいだ御苦労をかけました。しかし私達は比島へかえってきた。すぐに救出します」 とつけ加えた。日本軍の背後にかくされ厳重な機関銃陣地で囲まれ、弾ぶすまのまえに身動きもできぬ防空壕内の抑留米系市民たちに対する挨拶(あいさつ)であった。

「日本軍将兵のみなさん!」

 放送はまた日本語にかわった。

「無益な抵抗はやめて降伏しなさい。米軍は俘虜を優遇します。そうです、みなさんはこの凄絶な、マニラ市街戦を戦った英雄なのです。それから、日本軍指揮官に申入れます。ただちに戦闘を停止し、抑留市民を引渡して下さい。繰かえして申入れます。戦闘を停止し、ゼネバ(ジュネーブ)条約陸戦規定に従って下さい


【日本兵の頭部を煮て頭蓋骨のみやげ物を作る米兵】
米軍非道3

「──なにを吐(ぬ)かしやがる! そう易々と降伏なんぞしてたまるか」

 収容所部隊全員は、そういって敵を睨(にら)み据えた。

「部隊長殿!」

 このとき壕内を馳(か)けるように這(は)ってきた斎藤正隆中尉は、身を低くめたまま林中佐に敬礼し、縋(すが)りつかんばかりにして中佐へ言った。

「抑留市民たちを釈放し、この陣地から撤収しましょう。われわれは立派に国際法で定めている、陸戦規定を守る義務があります

 と中尉はいった。東大法科を卒(お)え、外交官試補にもなって、そこで召集されてきたという彼の決意は、誰にもうごかすことができぬほど強いものにみえた。

「うむ──」 と頷(うなず)いた林中佐は、そこで暫(しば)く瞑し、答えなかった。

 独断でことを決しなければならぬいま、陣地を放棄して後退することが、ながいあいだ、日本陸軍の中堅将校として過してきた中佐にとって、どのように辛いことか。

 これを聞いていた、近藤大尉の激怒は頂点に達した。この地獄戦線に追いこまれながら、妙な人道主義を振り廻(ま)わすなど、敗戦主義(共産主義)と同じだ! 腰抜け奴(め)! だから学徒出身将校などものの役に立たんといわれるのだ! と、恐ろしいばかりの青筋をたてて、斎藤中尉に相対した。

「貴様っ、要らん差出口(さしでぐち)をするな! 俺たちは、ここで最後の一兵まで戦うのだ! 四の五のいうと、貴様からぶった斬って、敵陣の血祭りにあげるぞ」

「大尉殿! 違います。真の武士道とは、情もあり、威も備えてこそでしょう。非戦闘員の米系市民は、潔(いさぎ)よく敵に開放し、もしどうしても武士道の意気地を争うなら、あらためて陣を布き、たとえ孤立無援といえど、そこで全員玉砕すべきです! 斎藤は、けっして一時のいのちを惜しんでいるのではありません」

「いうな! 臆病風に吹かれやがって! 浮(うき)あしだって、死を惜しむ詭弁だ!」

「御再考を! お願します」

「うるさい!」

 叱咤した近藤大尉の右手が軍刀にかかり、いまにも斎藤中尉を斬り捨てんかに見えた。

「斎藤大尉殿(原文ママ)! 待ってください」

 一勢に、指揮官の任務を忘れたように、容易ならぬとみて中、少尉、見習士官の数人がバラバラと駈け寄ってきた。いずれも学徒出身の幹部候補生からの将校たちである。

「いけません! 抑留所の市民たちは解放してやりましょう。もしここで虐殺したら日本陸軍の汚辱は、歴史のうえで、拭いきれぬものとなります。お願します斎藤中尉の意見具申を容れてやって下さい!」


【韓国の従軍慰安婦映画「鬼郷」】
従軍慰安婦映画

「ことここに致っては、何をかいわんやだ! 近藤大尉、皆の意見を容れてやってくれ」

「いかん! 俺は絶対に反対だ! 隊長殿、やりましょう、やらせて下さい」

 ことの急を察したのか、大学構内裏手の防空壕六カ所の出入口に備えつけた銃座は充分な目標をさだめ、壕内にひしめきあっている米系市民たちへいまにも弾ぶすまをひらこうと、そこに身構えた射手は、銃把(じゅうは:銃床の、引き金をひくとき手で握る部分)を肩に、しっかと曳鉄(ひきがね)を掴み、この抵抗を失った非戦闘員を狙っていた。

 嵐のまえの静寂……。敵もしばらく鳴りをひそめ、あれほど激しかった弾もとばず、息苦しい空気があたりを包んでいた。

 泥沼に咲く武士道

「待て! 近藤大尉! みなの意見を容れて、陣地は放棄する。ただし戦闘は継続するぞ。たとえ最後の一兵となるとも、絶対に降伏しない。右の目をうたれたら左の目で、片手、片あしでも残る限り、徹底的に死闘し、全員玉砕するのだ!」

「隊長殿!」

 近藤大尉は、がくっと躰(からだ)を折って膝をつき溢れでる泪(なみだ)を、略衣の袖からムキだしの二の腕で、横なぐりに拭いた。予備士官たちとても同じであった。ただひと筋、若い苦悩に満ちた魂のすべてが、いまは、はっきり死をみつめ、自分の背に負わされた重荷をすてて祖国に殉ずることに、一抹の不安も、侘(わ)びしさをももたず、祖国の難に捨て石となる悲運を思わなかった。まったくそれは涼しい眼をした、汚(けが)れなき若ものの群れであった。

「斎藤中尉、すぐに米軍陣地へ軍使をだせ」

「ハッ」

 と答えた斎藤中尉は、さきほど激昂した近藤大尉も混(まじ)え、しばらく協議していたが、結局語学能力も考慮し、大阪外語で西班牙(スペイン)語専攻の長原少尉が最適任である、ということになった。

 そしてもともと収容所部隊の通訳として派遣されてきていた私もその補佐をする、ということでこれに兵二名がつけられることに決まった。

──しばらく時が流れ、ふたたび敵の火線から、激しい銃火が流れこみ、どうやら敵はあとしばらく守備隊を攻撃し、日没まえには実力で抑留市民を奪還する作戦らしく思われた。

 しかしすでに陣地放棄、抑留市民解放の決定はされたのである。寸刻もはやく意思表示をし、徒(いたず)らな犠牲を市民たちに強いてはならない。はやく! と思う心は、やけに準備の遅いのを懸念した。

 守備陣地塹壕中央、林中佐の指揮所のあたりで、五尺(約1.5メートル)角ぐらいの白旗が振られた。

 数秒後、敵味方の火線は、一斉に鳴りを静めた。

 まず長原少尉が、つづいて兵二名、それに私と、四人が壕のうえに、姿をあらわした。

 包囲陣型にある正門まえの敵戦車群まで約三百米(メートル)。この激戦に掘りかえされた校庭は巨大な爆撃のあとの穴が無数にあき、迫撃砲、野砲、戦車砲で掘りつくした土砂が無残に散乱し、とげとげしい鉄片も、灼(や)けつく大地に突きささり、叩き潰された油椰子(ヤシ)樹、火焔樹(かえんじゅ)など、惨めな残体を曝(さら)していた。


【米軍のマニラ占領】
米軍@マニラ占領2

 戦車群まであと五十米。はやくもそこここに散開する敵兵が、不敵な面構えで歩をすすめる太平洋戦争中はじめての日本軍軍使を、奇異、畏敬、無残さを混えた眼で追っていた。

 戦車に到達するまでもなかった。おそらくここを攻撃し、抑留市民救出にむかった部隊本部の者と思われる敵将校がひとり、拳銃を腰に吊っただけの軽装でとびだしてきた。

 と同時に、ついそのあたりの兵も起(た)ち、銃を構え、白旗を垂らしている私たち四人を、ばらばらと包囲してきた。

「降伏ではない! 軍使だ。部隊本部へ案内し、指揮官に会いたい!」

 と、長原少尉みずから、流暢な英語で叫んだ。びくっとした敵の中尉は、慌わててとまどったが、流石(さすが)に踏みとどまり、にこっと微笑し長原少尉に対した。

「私は部隊本部付シコルスキー中尉です。貴官は?」

「サント・トーマス地区収容所部隊付長原少尉です」

「──これは部隊付通訳池田、あとは警備兵。収容所部隊指揮官の要求書を持参しています」

 長原少尉は厳として憶せず(原文ママ)、通告した。

 われわれはすぐに、戦車群のかたわらに案内され、そこに待つワトキンス中佐と対した。

「御健闘に深甚の敬意を表します」 いかつい顔にも似ず、中佐の言葉は丁重であった。

「軍使の趣旨を、合衆国大統領にかわってお訊ね致します」

 米合衆国大統領陸海軍最高司令にかわって、といい、西南太平洋戦区司令官マッカーサーに代ってといわぬのが奇妙に聴(きこ)えた。日本軍なら、きっとそうはいわない。

「抑留市民の身柄を、即刻貴官の部隊に移すことを認めます。ただし、他の条件を御承諾になっての上です」

 長原少尉は

一、収容所部隊の撤退は、武器携行のまま許さるべきこと。

二、あらたに陣地を構え、武力をもって拮抗するは武士道の本懐(ほんかい:かねてからの願い。本望。本意)たり、よって戦闘再開も、承諾のこと。ただし十二時間は攻撃を停止し、収容所部隊に前記陣地構築の余裕を与えること。

「以上二カ条だけが、抑留市民釈放の交換条件で、現在市民たちは無傷でいる」

 と長原少尉は説明した。

「部隊幹部将校とも評議のうえ回答する」

 ワトキンス中佐は、シコルスキー中尉を招き、数台謂集(いしゅう:よりあつまること)したジープのかたわらに、部隊幹部の召集を命じた。暫らくの時が過ぎる。ジープの上に座る通信員は、刻々上級司令部と連絡する無電を評議中の幹部へ、忙がしく伝えた。キナ臭い灼けつく土地のうえで、結果をまつ私たちは敵十五、六名の自動小銃に囲まれ、そのわずかな、そのくせながい時間を待った。

「上級司令部と連絡の結果日本軍の二条件を承認します。あらためて武士道の意気地を争いましょう。貴部隊の撤退は包囲圏西方の一方をあけますから、そこら最短距離のマニラ湾埠頭地区にむけて脱出して下さい。蛇足ですが、その附近には、日本海軍陸戦隊の守備陣地があります」

 要求は認められた! 日本の武士道もたった。のこる道は、ただいかにして後の死を飾るべきかだけである。別れ際に、握手を交したワトキンス中佐は、林中佐へのことづけとして、アメリカ煙草二箱、洋酒一本を贈った。

 近代戦争という凄絶なみなごろし、虐殺のなかで、ここに相対した日米両軍の一小部隊泥沼の死闘中、さわやかな人道主義、古色ゆたかな武士道を、誇らかに、咲かせたのである。

 数十分後、はやくも行動をおこした収容所部隊は、林中佐以下の幹部がまず、一団となって先頭にたち、重傷、軽傷の部下将兵をまとめ、すべての兵器を背にあるいは携え、完全武装のまま、白昼の敵中撤退を開始した。

 従軍の敵記者が、その行手(ゆくて)に立塞(たちふさ)がってカメラの放列を施(し)き、歴史的な一瞬をとらえようとする。(そしてこの一駒は、のちライフ誌に大きく報道された)粛々と去る日本軍の一小部隊。もし敵抑留市民二千数百を救ったものが、誰かときかれれば、学徒兵の良識と殉国の熱血にたぎりながら、なお失わなかった人道主義といえよう。米軍将兵また、声もなくこの日本軍を見送った。


【ユダヤ人ヘンリー・ルース主宰ライフ誌】
「一人でも多くのジャップを殺せ!」
米軍非道ライフ誌【出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:B02032496600:1944(昭和19)年8月14日外務省「3. (1)に関する新聞記事」(6コマ目)

 マニラ虐殺の最後

 こうして脱出した部隊を待っていたものは、やはり死であった。

 マニラ港湾地区に到達した林部隊は、直ちに野口大佐の指揮下に入り、追いかけるごとく追ってきた敵と相(あい)対峙(たいじ:向き合って立つこと)した。


【野口大佐】
アジ歴比島野口大佐2【出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C13071385100:陸軍省 第四十一軍司令部「第2章 作戦経過/2 「マニラ」市周辺の作戦(自2月初旬至2月下旬)」(3コマ目)

 軍司令部との連絡は完全に絶たれた。連日連夜の敵攻撃は、耳を聾(ろう)し、目を眩ます強烈な砲爆撃をともない、崩れるコンクリート建物、焼け落ちる木造家屋の下敷に、血漿を飛散させて圧(お)し潰した。炎々たる猛火のなか硝煙に燻(くす)んで、死臭が地を這(は)う。

 この砲煙弾雨のなか、こんどは在留日本人の老幼婦女子が逃げ惑い、夫の名を、子を呼び、親をもとめ、巷(ちまた)から巷を走る。まったくの阿修羅、阿鼻叫喚──。しかも戦線は日毎に縮少され、追いつめられた。

 悲劇はこれにとどまらなかった。米軍の鉄環がジリジリと縮められていくにしたがい、米軍に呼応して起(た)った比島ゲリラが、勝手知った市街に潜入し、日本軍残存将兵の背後から襲い、老幼婦女子の惨殺をしはじめた。

 ゲリラに掴まったが最後、たとえ幼児といえど、それが日本人である限り容赦しなかった。「みろ! マニラを脱出できず、集団軍の後方に逃げられぬ日本人老幼婦女の無惨な最後を、だから敵抑留市民をも全滅させておくべきだったのだ!」「かつての尼港事件、通州虐殺事件の比どころか、この大量虐殺になにをもって報いたのだ。ひとりよがりの人道主義など糞くらえだぞ」

 と怒り、報いるに暴をもってした米軍を呪った近藤大尉も死んだ。おし黙ったまま、キリキリと痛む胸を押え、みなごろし、虐殺に耐え、比島ゲリラを押えられぬ米軍を憎悪しながら、小田少尉も、斎藤中尉、長原少尉も戦死し、私もまた重傷の身を、最後の総攻撃に参加して斃(たお)れた。野口大佐、林中佐以下も折重なって自決、ここにマニラ市街戦、大殺戮は終った。(後略)



アメリカ「虐殺も掠奪も侵略もすべて日本がやったのだ!」(1946年)

軍事裁判@横浜裁判所2


「血の入浴」と呼ばれた住民虐殺の罪で銃殺される日本軍将校。ラングーン中央刑務所(1946年7月15日)。

カラゴン@ビルマ戦犯処刑2


補足資料:従軍記者が見たマニラ市街戦と日本人狩り

フィリピン人も親米反日で、米軍侵攻後のフィリピンではフィリピン人による日本人狩りが横行しました。

現在、日本政府が推進している外国人特区とか大丈夫なんですかね?


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 森高繁雄編「秘録大東亜戦史 比島篇」所収
    社会タイムス外信部 小林勇 「マニラ市街戦」

※管理人注:( )内は管理人による注釈です。


 斬込隊の作戦空(むな)しく

 米軍先遣隊の主力はサント・トーマス大学の米英人抑留所に向い、一部はマラカニヤンの大統領府に向かった。米軍もマニラの情況はあまり分っていなかったようだ。マラカニヤンの直(す)ぐ隣り、サン・ミゲルのビール工場には、日本軍守備隊が入っていたのである。

 サント・トーマス大学の正門まで乗りつけた米軍戦車隊は、入ろうか、入るまいかと一瞬躊躇していたが、そのままどうと入りこんだ。(中略)

 警備隊としてもここで戦闘して無益の殺生はやりたくない。米軍としてもここで戦闘して抑留者を殺すようなことになっては困る。

 両者の希望は一致した。警備隊は翌未明にこの抑留所を離れ、山の本隊に合することになった。これは今まで抑留者を保護して来たものの立場として機宜に適した措置といえる。(後略)


【イスラエルの守護天使「大天使聖ミカエル」】
大天使が踏みつけているのは竜(悪魔)。
アメリカニューヨーク州アダムス街発カルト宗教灯台社「天皇制は悪魔の制度」大天使ミカエル

黒煙マニラの空を蔽(おお)う

 五日、敵兵力はどんどん増強され、その火力は、いよいよ猛烈になって来た。北岸部隊は依然同じ陣地にがんばり続けている。

 朝九時頃、邦人非戦闘員が二十名ほど米軍に引立てられて、リサール街を北に歩いている。

「もう捕虜が捕ったのか!」

「ざまあ見ろ!」

「殺してしまえ!」

「首を斬ってしまえ!」

 沿道の群衆は勝手なことを叫んでいる。そのなかを邦人の一隊は黙々歩いてゆく。写真を撮るアメリカの兵隊もいた。

 この惨めな捕虜の一隊にまじって、陸軍の兵隊が一人いた。戦闘で負傷し米軍に捕われ、夜遅くビリビットの監獄に運ばれて来た。

 アメリカの兵隊が門衛と話しをしている隙に、闇の中から鋭利な刃物がぶっすりと捕虜の胸を刺した。傷口から一晩中血がたらたら流れた。かれは、二人の肩にすがって、やっと足を運んでいたが、途中で絶命した。

 パシグ河にかかる五大橋は逐次破壊された。最初にアラヤ橋、続いてケソン橋。物凄い音をたてて橋は、根元からぼっつり切落された。

 戦争だ! マニラは一大戦場になるのだ。フィリピン人は、ようやく事態の重大さに気附(づ)いた。火の手は北岸の各所から上る。大きな建物の各部屋に仕掛けておいたガソリン罐が、物凄い勢いで火を噴き始めた。

 焦土戦術だ!

 群衆は、ますます興奮してゆく。いままで日本人と親しくして来たフィリピン人も、身の危険を感じ、どこで手に入れたのか、てんでにピストルや銃を握ってゲリラに早変りしてゆく

 燃える家の中から死物狂いで荷物を運び出すもの、肩一杯に荷物を担いで安全地帯に運んでゆくものなど、右往左往するなかを、掠奪隊が燃え残りの建物にたかり、目の色を変えて手当り次第に物を奪っている。

 ゲリラに護衛されて、いままで日本側に協力して来た高官が街を巡視している。腕には何かの腕章をまき、歓声をあげる市民に手を振って応える姿は、まるで英雄の如くさっそうとしている。

 黒煙がいよいよ大きくマニラの空を蔽ってゆく。

 戦争だ、戦争だ。街という街は興奮と混乱が錯綜する。その中を逃げ遅れた日本人が、影のように通り抜けてゆく。

「日本人が捕った」

「あの家の前で一人殺されたそうだ」

 危い、危い。日本人の幾人が、無事に目的地まで、辿(たど)りつくことが出来ただろう。米人には、日本人もフィリピン人も、見分けはつかない。だが、フィリピン人は人種的本能で、日本人を直ぐ見分ける。

 見附かったらそれきりだ。

 日本軍に夫が殺された、子供が殺された。そんなことだけで、女までもがゲリラにまじって騒ぎたてている。

 恐怖の街マニラ

 フィリピン人同志の、醜い争いも各所で起った。

「あいつは日本人のスパイだ」

「あいつは日本人を男に持っていた」

「あいつは親日派だ」

 あいつは、あいつは……。ああきりがない。

 密告されたフィリピン人は、また米軍に告げ口をする。

「あいつは日本人に物を売っていた」

「あいつの子供こそスパイだ」

「あいつは日本の商社に働いていた」

 あいつは、あいつは……。ああ、これまたきりがない。どのフィリピン人も、いつ襲って来るかしれない密告に戦々兢々(せんせんきょうきょう)としている。(後略)




【出典】
・1954(昭和29)年 富士書苑 森高繁雄編「大東亜戦争写真史 南方攻守篇」
・1995(平成7)年 毎日新聞社 「毎日ムック 戦後50年」


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