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2014/05/24

天皇は渡来人の通名を罰した


最近、在日外国人の「通名」使用が問題視されるようになりました。日韓併合時代ならともかく、独立して外国人になった今でも日本人の氏姓を名乗るのは異常なことです。

それを許している日本の行政も異常です。

しかも、日本人の氏姓はもともと天皇から賜るもので、古代は天皇が国民の氏姓を管理していました。のち、幕府が成立すると、氏姓を発行する朝廷の業務が武家社会に引き継がれ、主君から苗字や氏名を賜るようになりました。

豊臣秀吉も、朝廷にお伺いをたてて「豊臣」という氏を賜りました。

【豊臣秀吉】
唐入りじゃ。
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その上、日本人の氏姓は「階級」を表しています。たとえば大伴家持の「大伴」は連姓といって、その支派に大伴大田、大伴山前といった氏がいくつもあって、これらの支派を「小氏」といって本家である「大氏」と区別しました。


「差別反対」、「天皇制反対」を訴えて階級闘争をやっている外国人が、「皇室発祥」かつ「階級」を表す日本人の氏姓を日本人の反対を押し切ってまで名乗りたがるのは、日本人から見れば奇妙なことです。

在日韓国学生同盟1

皇室の家系図を捏造した渡来人への罰 「探湯(くがたち)」


古代、大陸から来た渡来人が勝手に通名を名乗って社会が乱れたことから、天皇が渡来人を罰したことがありました。

古事記によれば、允恭天皇(いんぎょうてんのう。第十九代天皇)の御代、朝鮮支那帰化民の子孫が皇室の家系図を捏造し、我は某皇子の後裔である、と勝手に自称し始めたため、天皇が許可していない氏姓が氾濫し、日本の家族制度が破壊されそうな事態におちいりました

日本は皇室を中心とする「皇室中心思想」をもって社会を組織した「一大家族国家」ですから、この事態は戦後赤色GHQが行った日本の家族制度破壊と同じで、日本人が氏族または家族でガチガチに固めてきた社会を破壊し、日本人になりすました外国人が容易に日本社会に割り込めるといった状態だったわけです。

そこで允恭天皇は、「探湯(くがたち)」という裁判方法で渡来人らを裁くことにしました。「探湯」とは熱湯の中に手を入れて傷つかなければ渡来人の言い分は正しく、ヤケドをするようであれば渡来人の言い分を虚偽・不正とする方法です。

その後、允恭天皇は氏姓を整理・分類して「新撰姓氏録」といったものを記し、渡来人は「諸蕃」に分類することにしました。

【諸蕃】
諸蕃とは漢土、三韓の族なり。
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古代から外国人が日本人になりすますのは、「国体破壊」とみなされていたのです。

現に日本人になりすました外国人が日本の要所に入り込んで、現在のこの日本の状態になっているのですから、憲法改正の際に「探湯」を復活させてもらいたいものです。

【「日本書紀」、「古事記」に記録されている氏姓紊乱(びんらん)と探湯】
允恭天皇の御宇、氏姓紊乱、萬姓があふれたため、虚名を名乗る者や氏姓を自分で定めた者を「探湯(くがたち)」をもって判定した。そして、天皇が氏姓を整頓せられた。 kugatachi_2_2.jpg

【日本人にとって天皇や主君から賜った「名」は命よりも大事なもの】
平家物語「命惜しむな、名をこそ惜しめ」。平家は「桓武平家」といい、皇室から臣籍降下した家柄。天皇は臣籍降下する皇族の家名も賜った。こんなに大事なものを外国人に強制するはずがないのである
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【在日にとっては通名も本名】
日本人は皇室大嫌いな民族が「皇室発祥で階級を表す日本人の氏姓を名乗らせないのは差別だ!」と要求することにビックリしてますが?
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【創氏改名は強制ではない】
20110728創氏改名の法院広告

日本人の改名が困難で、在日外国人の通名変更手続が簡単な理由


昔、日本人の氏姓は天皇に賜わったものなので、改名するには朝廷の許可が必要でした。現在でも日本人の改名が困難なのは、その名残だと思います。

なので、朝廷の氏姓発行業務が現在は裁判所や役所に引き継がれたと考えると、在日外国人の通名変更は、役所で天皇のご裁可をいただいていることと同じだと考えることもできます。


出典:1941(昭和16)年 創元社 太田亮著「姓氏と家系」 序説 姓氏と苗字


 しかし、法制上、氏は公のもので、朝廷から定められ、又賜わったもので、妄(みだ)りに変更する事が出来ぬ。変更する場合には朝廷の御許可がいるのであった。



本記事の資料


「探湯(くがたち)」について


出典:1961(昭和36)年 錦正社 法学博士里見岸雄「萬世一系の天皇」 
第七章 国民と天皇 第一節 君民の三縁結合 1 血縁的結合



 古代から日本には朝鮮支那などの帰化民が多かったことが知られているが、これは当時の日本人の生活の上に多大の利益を齎(もたら)した半面又幾多困難な問題の種でもあった。

言語、風俗、習慣、体質を異にする他民族の方から言っても、朝廷の厚い待遇を受ける半面、つねに困難な事情に遭遇したわけである。帰化人であるが故に受取らねばならぬ社会生活上の差別待遇は、彼等にとって苦痛であった筈(はず)だから之(これ)を取除かねばならぬ。

初代の帰化人は拙劣な日本語、郷愁忘じ難き風俗、改め難い習慣などの故に帰化人でなく見せかけることは殆(ほとん)ど不可能であったろうが二代三代の子孫ともなれば、これらの悪条件は大きく緩和され又は殆んど解消されてしまうから、あとは、氏素性の点だけである。

ここに於て、朝鮮系も支那系も競って日系の系図を擬作し、某天皇の皇子賜姓の後裔であると名乗るようになる。然(しか)るにこれは、氏姓の組織であった日本側にとっては一大事であって、一種の破壊工作と思われたから、探湯(くがたち)といって、神明に誓って熱湯の中に手を入れて傷つかなければ真実であり正しいし、手が爛(ただ)れれば虚偽であり不正であるとされる一種の裁判方法を以て、帰化人の子孫の主張する日系かどうかを判定するような、今日からは考えられない手段まで講じられたし、一方には「新撰姓氏録」のようなものを作り、住民を皇別、神別、諸蕃、未定雑姓の四種に分類し、京都の左京、右京をはじめ、山城、大和、摂津、河内、和泉等の国籍譜を記帳登録したりした。



日本人の氏姓について


出典:1941(昭和16)年 同文書院 新見吉治 「すめらみくに」
   第五章 国体の精華



 姓というは今日の爵位のような氏の尊卑を序でる称号であり、氏はその世襲する職掌又は管理する地名その他の由来があるが、氏も姓も共に本来は私称ではなくて、皇室から賜わったものが多かったもののようである。

この風は後世に至っても存し、氏名を賜わった豊臣氏の如きもその一例である。ここに又氏族制度に於ける皇室中心主義が顕れている。

武家時代主君より苗字を賜わり、片名を賜わるということがどの階級にも非常なる光栄といわれ、主君から氏名を賜わることがあれば旧来の先祖伝来の氏名でも祖先に因んだ氏名でも弊履(管理人注:やぶれたくつ。やぶれたゾウリ)を捨てるかのように何等の執着を感じないということは、ローマの姓氏とは異なるところである。

江戸時代には町人百姓には苗字を呼ぶことを禁ぜられ個人名だけを呼び、何村の何右衛門、何兵衛といった。藩主から苗字帯刀を許されることは非常の光栄であった。これは皇室より氏姓を賜わることの下に移った慣習である。

(中略)

大伴は連姓の氏族であって第一流の貴族であった。大氏であり、その支派に大伴大田、大伴山前、大伴檪津、大伴行方、大伴刈田、大伴柴田、大伴白河、大伴亘理、大伴安積、大伴山田、大伴宮城、大伴良田などというのがある。之(これ)を小氏といった。

 大氏の氏上、小氏の氏上というがあった。これは朝廷から任命せられたようである。こういう氏人が部曲を率いてその職務を遂行した。氏上が官選であるのは個人の人材登用主義を取られたので、西洋のように氏の自治民選によるものではない。

氏人の会議のあったか否かは不明であるが恐らく、天皇の御稜威によって専制、統率していたものであろう。



【韓国人の日本人の氏姓に関する認識はこの程度】


韓国人が日本の氏姓の起源について語る「木下=木の下でヤって出来た子。山本=山の中で。竹田=竹畑で作った子供」
ソース元:2013年6月6日 メトロポリタン速報




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