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2014/05/06

日本国憲法は喧騒の中で生まれた


日本国憲法がマッカーサー司令部によって起草され、日本政府に強制され、日本国民の意思とはまったく関係なく制定公布された時、日本人は食べるものもなく、着るものも、住む所もなく、ビクビクと進駐軍の顔色をうかがっているといった状態で、憲法改正に心を向ける余裕などありませんでした。

【浅草闇市】
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その上、GHQによって解放された日本共産党は毎日毎日革命運動に狂奔し、GHQもそれを支援している状態でしたから、日本国民は皇居に近づくことも、「天皇」と口にすることすらできず、逆に天皇陛下の悪口を言う者がひとかどの人物のように扱われるといった空気でした。

【生活管理要求の労働者デモ(昭和21年4月12日:東京下町)】
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先月までNHKで放送されていた「ごちそうさん」というドラマで、ヒロインがGHQに突っかかっていく場面がありましたけれども、事実はあのようなことをすればどういう目に合わされるかわからない、そういう時代だったのです。

【米軍の監督で吸いがら拾いをする日本人】
イギリス人捕虜が東南アジアで、日本軍に町の掃除をさせられた報復であろう。
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そういった日本人が一言も反論を許されない状況の中で、日本国憲法は誕生したのでした。なので日本国憲法が謳っている「主権在民」とか「日本国民の意思」という文言は、日本国民のあずかり知らぬところで、外国政府が勝手に使用した、いわば「虚偽」であるといえます。

昨年の7月、麻生副総理が「憲法改正は静かに、みんなでもう一度考えてください」と発言したところ、反日テレビ局や虚報売文新聞社が『ナチス賛美だ!』と捏造して報道しましたが、

日本国憲法こそ、喧騒の中で、外国政府によって書き換えられた憲法

なのです。


喧騒の中で、米国製憲法は出来あがってきた



日本国憲法が制定された時、日本人は食うことに必死で、それに加えて第二次世界大戦を工作した共産党が革命運動を活発化させる、あらゆる犯罪が行われるといった状況でした。

終戦直後の日本人がどのような状態だったかは、資料を要約するよりも原文をそのまま見ていただく方がより空気が伝わると思いますので、いくつか紹介します。


民主主義的憲法改正において、日本国憲法は致命的欠陥がある



出典:1962(昭和37)年 錦正社 法学博士里見岸雄著 「日本国の憲法」 第四篇 日本国憲法 第三款 占領下の日本人



 憲法改正の国民的条件を知る上に、占領下の日本人は、事実どんな風であったかを一見する必要がある。東久邇宮の組閣は八月十七日であったが、公刊された東久邇氏の「一皇族の戦争日記」によると、二〇年九月六日の条に『内閣組織直後』近衛、緒方両大臣と平和的民主的新憲法の制定を実現しようと計画し、内々委員までも予定していたが実現しなかった』とあるから、一往(応)そのような話合(はなしあい)があったにはちがいないが、九月一八日の外人記者団との会見において『現在、政府は憲法改正を考慮しているか』との質問に対して同首相は『われわれは連日マッカーサー司令部の要求に追われてその完遂に全力をあげているので、まだ内政面に関しいかなる改革を行うべきかを考える時間的余裕がない』と答えているから、一往憲法改正のやむなきことは考えたものの、そこまで手が伸びないというのが実情だったろう。

 その頃一般国民はどのような状態にあったかは詳説を要しないと思うが、東京はじめ全国の主要な大都市は、京都と金沢を除きいずれも空襲の戦禍で焼野原となり、住むに家なく、喰うに米麦副食なく、着るに衣服なく、農家を除き、たいていの者はその日その日の食糧や、衣類下着類の買出しに精も根もつきはてているありさまであり、一方には占領軍将兵の横暴、-掠奪、婦女強姦等々-に戦(おのの)き恐れ、彼等のその潤沢豪華の衣食に羨望し、他方には闇行為の横行、集団強盗、集団強姦の悪の百花一時に咲き乱れて、良民は如何にして自己の一身並びに家族の一日の安全を策するかに汲々としており、民主主義だけは各自勝手に悪用したが、憲法の改正など、一二の変物若(も)しくは憲法学でメシを喰っている者の中には多少考えていた者があったとしても九分九厘九毛の国民大衆は、全く何の関心も有していなかった。

このように民主主義的憲法改正としては、日本の国民的条件は、最悪の状態にあったということは、出来上がってきた日本国憲法の負うている致命的欠陥であるといわねばならぬ。

【戦災孤児(名古屋)】
共産党が工作した戦争で両親を殺された子供たちである。
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【俗称朝鮮進駐軍】
戦時中、連合国に加担していた朝鮮人は戦後「戦勝国民」と自称しだした。司法省刑事局の資料では日本在留朝鮮人はほとんど共産運動に加わっていた、とある。
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元特高警察までもGHQの顔色をうかがっていた



出典:1987(昭和62)年 日本教文社 筧素彦(元宮内省総務課長)著 「今上陛下と母宮貞明皇后」 第一回皇居勤労奉仕 栗原郡からの来訪者



 戦(たたかひ)にやぶれしあとのいまもなほ民のよりきてここに草とる

 をちこちの民のまゐきてうれしくぞ宮居のうちにけふもまたあふ

 以上の二首は、昭和二十年の末に始まった皇居内の勤労奉仕について陛下がお詠みになったものである。

 昭和二十年十二月八日、皇居勤労奉仕が口火を切られて以来既に四十一年、天皇、皇后両陛下は、その最初の日から親しくお出ましになって、直接、地方の事情について御下問になり、激励のお言葉を賜っておられる。

 また、両陛下のみならず、貞明皇后さまも、皇太子さま方も勤労奉仕の人達とお会いになることを大へん喜んでおいでになって、それが実に今日までつづいているということは、その発端に関係した私としては、本当に喜びにたえないところである。

 昭和二十年十二月といえば、八月十五日の終戦によって国民は均(ひと)しく呆然自失(ぼうぜんじしつ)、そこへ連合軍が進駐し、いろいろな命令を出し、その違反者を処罰し、また今まで国のため戦争遂行に尽力して来た者たちを追放し、さらには戦犯として処断しようとしていた。

また、日本弱体化の占領政策に協力させる目的で解放された人々は時を得(え)顔に振る舞って連合国と共に天皇の責任追及に狂奔、一般国民またこれに同調、陸海軍は解体され、特高警察も廃止され、官僚達はG.H.Qに睨(にら)まれないように戦々兢々(恐々)としていた頃のことである。

 その頃の皇居(当時は宮城と言った)の有様はどうかというと、緑青色の銅屋根の美しかった宮殿は五月に焼失し、そのあとは片付けもままならぬ瓦礫(がれき)の山、周辺の土手は雑草がしげり、二重橋前の広場も荒廃して、照明燈はこわれ、清掃管理も行き届かず、真正面には占領軍の観兵式用の丸太を組んだ大スタンドが二カ所もつくられているという、まことに情け無い有様であった。しかも食糧は窮乏し、交通は困難を極め、衣料は不足し、宿舎なども無いに等しかった。

【GNQが釈放した日本共産党徳田球一(中央左)ら】
この当時、日本共産党は「米軍は我らの友軍だ!味方だ!」と言っていた。しかしアメリカが反共に転じると、反米闘争をやり始めた。戦時中は日本ではなく、中国共産党、ソビエト共産党のために働いた。
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【空襲で全焼した皇居】
東京大空襲の熱風で、総檜(ひのき)造りの宮殿は二、三時間ですっかり焼け落ちた。皇居全焼後、米軍の艦隊機がしつこく飛来するようになる。「米軍の任務は日本人皆殺しだった」と海軍参謀が語っている。
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アメリカ軍はお召列車を勝手に改造し、車まで積み込んだ



出典:2005(平成17)年 中央公論社 秋山徳蔵著 「味-天皇の料理番が語る昭和」 禿頭(はげあたま)のキスマーク



 しかし、私自身についていえば、ほんとうにみじめな思いをしたのは、終戦後である。

 アメリカ軍が進駐してきた。それを見て、私はこう思った。

 われわれは檻(おり)の中にはいったようなものだ。こうして自由に歩きまわってはいても、日本全土が大きな檻なんだ。マッカーサーが潰そうと思えば、潰せる国なんだ。国が可愛いければ、彼らのいうことを聞かなくちゃなるまい。特に、皇室に対する彼らの考えを好転させるには、彼らにすがらなければならない。そう考えた。

 ところが、うってつけの機会が出来てきた。

 宮内省には、鴨猟の猟場が、越ヶ谷、新浜と二つある。

 これは独特のやり方の猟で、広い池に浮んでいる鴨の群を、かねて訓練してある家鴨をおとりに使って、狭い掘割りに導くのである。その出口の所には、こんもりした竹藪がある。竹藪の尽きた所に、柄のついた大きな網をかまえて待つ。藪の茂みの水路から明るみ出た鴨が、人に驚いて飛び立つところを、網ですくうのである。

 終戦連絡部の人達が仲に立って、むこうの高官達を、この鴨猟に招待した。すると、とても気に入ってしまって、われもわれもと申込が殺到するようになった。

 鴨猟はそう簡単にできないもので、従来はシーズンになってから、せいぜい一月に二回ぐらいしかやらなかったが、こう申込が多くては、とても捌(さば)ききれない。無理をして毎週土曜、日曜にやった。

 一回に何十人という人数がやってくる。そして、とった鴨をすぐこしらえて、醤油をかけて鉄板で焼いて食べる。アメリカ人達はこれを非常に喜んだ。私も毎回出席して接伴に当った。ここで、たくさんの知己ができた。

 私は、生来のかんしゃく持ちも、負けず嫌いも、自尊心も、恥も、なにもかも一擲した。たいこもちになった。

 この人ならばと思う人には、翌日鴨を持っていって、ご機嫌をうかがった。料理人、ハウスキーパー、洗濯屋などの世話も、いろいろとまめにしてやった。

 いちばん、やりきれない思いをしたのは、ウィットニー少将の場合である。

 私の世話した料理人が、奥さんと喧嘩(けんか)して出てしまった。それで、私にすぐこいというのである。いってみると、奥さんがイライラしている。

「あのコックが、いなくなった。代りのものをすぐ連れてきなさい」

「すぐって、そう簡単にいるものではないですよ」

というと、

「じゃ、前のコックを呼んできなさい」

 仕方がないから、そいつの家にいって、なだめすかしてみたが、どうしてもいうことをきかない。

 仕方なく、ウィットニーの家へいって、その旨を報告すると、奥さんは威丈高になって、

「私達は、お前の国の仕事をするためにきているのです。お前の国を助けるために、仕事をしているのです。その私達に、食事をさせないのですか。食事をしなければ仕事はできません。これは日本の運命にかかわることです」

 コックの世話をしないことが、日本の運命にかかわるとは、とんだ春秋の筆法だが、その頃の私の胸には、その言葉はドキンときた。それで、万止むを得ず、大膳の料理人を一人、十日ばかりつなぎにやって、その間に代りをみつけたものである。

 日本人の誰に、こういうことをやったことがあるか。

 春が近くなって、鴨がだんだんいなくなると、下総の御料牧場に招待する。

 上野の駅にいってみると、元のお召列車を改造している。顔を背けたくなる。それに自動車まで積んでゆくのだ。私たちも、一緒に乗ってゆくのだが、いまおれは囚人なんだぞ、日本という国が囚人なんだぞ-ということを思い出しては、自分に言い聞かさなければ、やりきれたものではない。

(中略)

 こういうことも、サンフランシスコに於ける講和条約調印の日を最後として、ピッタリやめた。私の一生のうちで最も屈辱的な時代であった。陛下のおっしゃることなら、絶対になんでもきくが、その他の人のいうことは、きくべきことしかきかぬと、誰にでもそういっている私が、太鼓もち同様のことをやった-しかし、これは自らすすんでやったことで、それには自分で納得できる理由があってのことだから、当時こそ腹が煮えかえるようなこともあったが、いま思い出してみて、決して恥とは思わない。

【天皇の料理番 秋山徳蔵氏:宮内省大膳課にて】
半世紀以上昭和天皇の台所を預かる。戦時中は日に日にお痩せになる昭和天皇に少しでも栄養のあるものを、と心を配り、支え続けた。共産党や日教組が宣伝したデマ「天皇は戦時中も毎日、金の箸で鯛の尾頭付きを食っていた」は秋山氏が完全否定している。
大膳課での秋山徳蔵氏




革命騒ぎは巣鴨の獄中まで聞こえた



出典:1953(昭和28)年 文藝春秋新社 重光葵著 「巣鴨日記」



 昭和二十二年五月三日 土曜日 雨 新憲法実施さる

 本日は新憲法実施の日なり。憲法実施準備委員会の主催で国民的記念会が宮城前で開催せられ、天皇陛下の行幸を仰いだ。委員長芦田均、吉田首相等の演説があり、夫(そ)れから御祭騒ぎの示威運動行列も行われるとの事だ。

他方新聞は、総司令部の指令による追放範囲の拡張が行われ、地方的にも又新聞界にも追放は徹底的に実現せらるると報じて居る。

(中略)

 去年のメーデーは赤色で政治的であった。今にも赤化革命が勃発するかと思われた。主役者は徳田や野坂であった。マック司令部は側(そば)から見て極力之(これ)を煽動するが如くであった。本年のメーデーは労働祭であった。マック司令部は極力共産党を抑圧した。 

 選挙も知事選挙から参議院衆議院及地方議会選挙総(すべ)て米国式で、四月から五月にかけて次ぎ次ぎに行われた。社会党は進出して衆議院で第一党となった。自由、民主党は接近して相続いて居る。政局は新憲法の運用により恐らく社会党中心に動くものと推測される。

 日本の選挙も政治も総司令部の指揮棒の動くが儘(まま)に動く。国民に自主性のない情けない事であると共に、大局から見て常識でもある点は頼もしい点とも称し得る。

【1946(昭和21)年5月1日「食糧メーデー」】
日本共産党は「皇居には米がうなるほどある。天皇の台所を見せろ!!」と国民を煽動し、宮中になだれこんだ。
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日本共産党に煽動され、皇居前広場に集ったデモ隊。
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【「赤旗(アカハタ)に掲載された昭和天皇の風刺画】
「この大剣を隠しおほせるか」。「大権」を大剣とモジッている。終戦直後の極左の思い上がりと革命騒ぎがうかがい知れる。
20110910「赤旗」に載った昭和天皇を戯画化したもの


【東京の焼跡】
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【大阪の焼跡】
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【神戸の焼跡】
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【岐阜の焼跡】
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【ギブ・ミー・チョコレート】
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【イモの配給】
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【買い出し列車】
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【買い出し】
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【壕生活】
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【大阪の青空マーケット】
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【名古屋広小路の青空マーケット】
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「気がついたら変っていた」のは、日本国の憲法です。






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