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2014/05/04

ワイマール憲法と日本国憲法は国家解体憲法


ワイマール憲法は日本国憲法の手本である、といわれます。その理由は、ワイマール憲法が日本国憲法と同じく外国人が起草した憲法であり、国家権力を最小に個人(外国人含む)の自由を最大に規定し、最終的にドイツ解体を目的とした憲法だからです。

ワイマール憲法採択前、ドイツはヴェルサイユ条約によって空軍を奪われ、所有できる兵器を制限されました。また海外の全植民地と領土の一部を戦勝国に奪われました。

「ワイマール憲法はすばらしい憲法である」とは戦後日本でよく言われることですが、それもそのはず、ドイツがワイマール憲法を採択した時、賛嘆の声をあげ、勝利を叫んだのは世界中の社会主義者たちでした。

日本国憲法改憲については、ワイマール憲法の恐ろしさまでさかのぼらないと議論にならないように思います。

【敗戦国の副総理「ワイマール憲法はすばらしい憲法」】
日本は敗戦国なので、こう言うしかなかったのか?



ワイマール憲法制定・公布までの下ごしらえ



ワイマール憲法が起草された背景には、ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦。現在のロシア)による世界赤化工作があります。

1917(大正6)年のロシア革命によって誕生したソ連は、革命後、世界を自国領にすべくヨーロッパとアジアで世界赤化工作を開始し、赤化目標国に人民戦線(日本の反日勢力のようなもの)を送りこんで、その国の内部から革命を起そうとしていました。

そのため世界中で革命や独立の嵐が吹き荒れ(日本の米騒動、朝鮮の三・一独立万歳騒擾事件など)、ドイツも例外ではなく、第一次世界大戦中にはドイツ社会民主党が、第二次世界大戦中の日本共産党のように「反戦運動」を展開していました。ドイツ社会民主党の背後にいたのはコミンテルン(第二インターナショナル)でした。

ドイツ社会民主党の構成分子は穏健派のカウツキー、ミュラー、シャイデマン、トーマ等で、これに対し極左分子の指導者としてカール・リープクネヒト、クララ・ツェツキン等があり、これら極左分子はのちにドイツ共産党を結成します。

1918年10月、ドイツ各地における暴動(共産党の暴動政策)は熾烈をきわめ、11月9日、とうとうベルリンで革命が成功し(十一月革命)、社会民主党が革命政府として成立しました。

【戦後日本の革命運動】
1946(昭和21)年5月1日、日本共産党は「目下の食料難を解決するには、天皇制の廃止しかない!」と人々を煽動し、革命歌を歌いながら宮中になだれこんだ。第一次世界大戦中のドイツのように、物資窮乏を利用して国民を煽動し、革命を起そうとした。
S210501食糧メーデー

日本共産党の不敬罪に問われたプラカード。『詔書 国体はゴジされたぞ朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民飢えて死ね ギョメイギョジ』。日本政府は不敬罪を適用しようとしたが、GHQが激怒して不敬罪を撤廃させた。
不敬罪に問われたプラカード

1919年3月6日、革命政府はワイマールに第一回国民議会を招集し、ドイツ共和国憲法を起草しました。この革命政府は全ドイツ国民の反対にもかかわらず、多数をもってヴェルサイユ条約を承認し、同年8月11日、フーゴー・プロイス博士(ユダヤ人。社会民主党員)が起草した新共和国憲法いわゆるワイマール憲法を制定しました。


戦勝国が、ドイツの軍事力剥奪


ドイツは講和条約によって、空軍を奪われ、陸軍は10万名、警察隊も10万名まで、海軍は10万トンの艦10隻までと制限されました。

戦勝国が、ドイツの植民地・領土剥奪


また、海外植民地全部とアルサス、ローレンの二州と旧ポーランド領の大部分を失いました。

・アルサス、ローレン → フランス復帰
・ボーゼン、西プロイセン → ポーランド国境割譲
・モレネー → ベルギー編入
・オイベン、マルメヂー → ベルギー国境割譲
・ダンチヒ → 国際連盟保護下へ
・メーメル → 東プロイセンの国境が定められ、メーメルを含む北東地域は放棄。

【ドイツが失った領土】
国境付近は割譲され、外国に編入された。
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【図出典】ウィキペディア ヴェルサイユ条約


ワイマール憲法の特徴



ワイマール憲法は第一条で

「ドイツ国ハ共和政体トス。国家権力ハ国民ヨリ発ス」

と宣言しています。この条文中の「国民」とは、「個人の集合体」を指していたため、外国人(主にユダヤ人)にもドイツ国民と同等の権利を付与することになりました。

ワイマール憲法の特徴は六点あります。その特徴と現代日本の病理を照合すると、現代日本の病理の根源が日本国憲法にあることが分かります。


1. 民主主義


当時からワイマール憲法は「進歩的」、「自由主義的、「民主主義的」といわれていましたが、「進歩的」といわれた理由は、ユダヤ人にも平等に公民権を認め、国会議員の選挙権、被選挙権はもちろん、官吏任用資格、その他国家における重要な地位を確保したからでした。

第二次世界大戦前まで、ヨーロッパでは当然のようにユダヤ人排斥が行われていたからです。

敗戦ドイツがワイマール憲法を採択した時、賛嘆の声をあげて喜んだのは世界中の社会主義者たちでした。


2.連邦主義


もともとドイツは小さな国(ランド)が集合して形成された国でした。これらの国々を統一したのがプロシヤのビスマルクですが、ドイツ帝国結成に際し、ビスマルクは統一にとって必要最小限度の権力を中央政府におさめ、その他の権力はなるべく、もとのまま各ランドの手に委ねました。

ドイツの十一月革命によって各ランドの王家が廃止され、ワイマール憲法の制定によって共和制政府が樹立されると、連邦国家と統一国家という二元主義が採られることになり、各ランドにも共和制政府と比例代表制議会が設けられました。

その結果、ランド同士の衝突、ランド同士の合併、ランドと中央政府との衝突など、ドイツ国内は混乱を極めてゆきました。

現在、日本で推進が謀られている「道州制」は、この当時のドイツと同じ混乱を生じさせるということです。


3.反プロシヤ中心主義


ワイマール憲法採択によって、ドイツが連邦国家と統一国家という二元主義を採ったその混乱に乗じて、イギリスとフランスは「大戦の責任はプロシヤにあり」と宣伝し、最も力を持っていたランドであるプロシヤを弱体化させ、南北ドイツ分断を企図しました。

そのため、ランド同士の混乱、分裂は激化しました。

これは「大阪都構想」によく似ています。将来、東京都と大阪都が出来、道州制が施行されたのち、内乱でも起れば東京都側勢力と大阪都側勢力に分裂し、日本は永遠に一つになることは出来なくなるでしょう。

その混乱に外国勢力が混じれば、ますますややこしくなります。

「大阪都構想」は日本を東西に分断する国家弱体化政策の一つだと断言できますね。

【言いだしっぺ】
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4.議会主義


新聞や出版物という宣伝に煽動される愚かな民衆が、愚かなる多数による議会主義政治を誕生させ、その愚かなる国会が政府を任命するために、国内分裂が激化しました。

【民主党政権】
マスコミと結託して与党の座を盗んだ異民族政党。ドイツ社会民主党のように対外協調主義を採って、日本をおとしめた。野田内閣発足

政党対立による民族の分裂、この政党と財閥の結合、そして国家機構や官吏機構でもその対立や分裂が効果を上げたのです。

その上、ドイツは比例代表制を選挙制度に採用したので、細かく別れた小集団の対立、民族社会主義ドイツ労働党、ドイツ国権党、経済党、ドイツ農村党、農村連盟、キリスト教社会人民奉仕団、保守人民党、ドイツ・ハンノーヴァ党、中央党、ドイツ人民党、ドイツ国家党、国権同盟、バイエル人民党、ドイツ農村党、ドイツ社会民主党、ドイツ共産党などの小党が分立、抗争するありさまでした。

政党の中で、社会民主党は多数を占めましたが、絶対多数を占めて単独内閣を組織するに至らず、常に他の政党との連立内閣を作る必要に迫られました。

この状況も現在の日本政界に似ています。

【赤いコバンザメ】
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5.国民総投票


外国人に参政権を付与した結果、ドイツは国家の高所要所をユダヤ人に乗っ取られてしまいました。

1934(昭和9)年、ベルリンで開催された講演会で、ドイツ内相フリックはユダヤ人を排斥する理由について述べています。


出典:1988(昭和63)年 文藝春秋 「『文藝春秋』にみる昭和史」第一巻所収 鈴木東民 「ナチスは日本に好意をもつか}



 彼はドイツ国家の強大と、その文化の維持のためには、ドイツ国民の血液を純潔に保たなければならないから、ユダヤ人あるいはアリアン以外の他民族との雑婚を禁ずるのだと言い、ユダヤ人を排斥するのは、彼らが国内の政治、経済、財政、教育等、あらゆる方面に侵入してきて、ドイツ人の生活を脅かすからだと言った。



もし日本が、在日外国人に参政権を付与すればどうなるか、ナチスドイツ誕生以前のドイツが教えてくれています。


6.労働者評議会


ワイマール体制下のドイツでは、国家権力は最小の領域におしこめられ、国民の自由が最大を占めたため、ドイツは自由主義的野蛮国家の典型と考えられるまでになりました。

あまりにも拡大された個人の自由は、ついにドイツを国家という縛りからも「解放」してしまいました。国内においては保守と革新の対立、外国人がドイツの主人たるドイツ人を搾取している現状、国外にあっては激動の20世紀初頭、帝国主義(資本主義)国の植民地政策という地球分割が行われ、それと対立する共産主義国ソ連の台頭という大問題があっても、ドイツは国家としてなんの力も持ちませんでした。

なぜなら、ヴェルサイユ条約によって軍事力を剥奪され、ワイマール憲法によって主権を奪われたドイツは、崩壊寸前だったからです。

Show the Flag!!
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「ワイマール憲法」と「日本国憲法」の制定・発布は、怖いくらい似ています。ワイマール憲法はドイツの空軍を奪いましたが、日本国憲法は日本の軍拡や集団的自衛権まで否定できるのですから、ワイマール憲法の改悪版というしかありません。

それに、「日本国憲法」の問題点は、9条だけではありません。

「日本国憲法」が存在し続けるかぎり、日本はワイマール体制下のドイツと同じで、外国勢力による国家解体を免れることはできないのです。




【資料出典】
1940(昭和15)年 昭和書房 船田中著 「世界は斯く動く」 45ページ 第二節 三 ワイマール憲法治下のドイツ

1941(昭和16)年 アルス 八条隆孟著 「ナチス政治論」 5ページ ワイマール体制

・1979(昭和54)年 日新報道 モルデカイ・モーゼ著 「日本人に謝りたい」 4 戦後病理の背景-日本国憲法はワイマール憲法の丸写し

・1986(昭和61)年 中央公論社 重光葵著 「重光葵手記」 第六 蘇聯(ソ連)の役割

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