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2014/04/30

朝鮮通信使はきたなかった


日韓共同で「朝鮮通信使」を世界記憶遺産にしようという動きがあるようです。

朝鮮通信使というのは、日本に朝貢するために朝鮮から渡日してきた使者のことで、韓国では『日本人は朝鮮通信使を見ると、文明を教えてください!とすがりついてきた』だのと教えているようです。

それとは逆に日本には『朝鮮通信使は汚かった』という記録が残っていて、韓国が国民に教育しているような「熱狂」はありませんでした。


日韓で朝鮮通信使を記憶遺産に 16年に共同申請
2014年4月28日 共同通信

江戸時代に朝鮮王朝が日本に送った「朝鮮通信使」ゆかりの15自治体などでつくる協議会は、韓国側と協力し、関連資料の記憶遺産登録を2016年、国連教育科学文化機関(ユネスコ)に申請する。17年の登録を目指す。
(以下省略)




妄想朝鮮通信使

2007年5月、韓国の釜山市で朝鮮通信使400周年を記念して再現された朝鮮通信使の行列。朝鮮通信使は日本に文明を伝えに来たのではなく、朝貢で来ていた。朝鮮半島は太古の昔から大国日本と支那にはさまれた小国であり、神功皇后の三韓征伐後、日本は朝鮮半島との国交を断絶している。

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大阪人は見た! 汚い朝鮮通信使


江戸時代、鎖国中の日本では、外国人を見ること自体がめずらしかったので、朝鮮通信使を大勢で押し合いへしあいして見物したようです。そしてその感想が『聞いたほどでもない』、『汚い』というものでした。

また、朝鮮通信使側も今の韓国とはちがって、大体ありのままの日本を素直に記録しています。「女帝かどうか」まで記録していたとは、日本に女帝が誕生したら、また侵略してやろうとでも思っていたのでしょうか。


出典:1994(平成6)年 文理閣 「まちと暮らしの京都史」 
     近世12 朝鮮通信使と京都



 沿道に群集して見物

 外国人を見られる唯一の機会

 江戸時代の朝鮮通信使は、徳川将軍の代替わりごとに来日した朝鮮王朝からの正式の外交使節団です。おおよそ五百人ほどの規模で来日し、大坂から淀川を船で遡上し、淀で上陸して竹田街道を北上し京都の市街地に入りました。近世初頭のごく一時期を除けば、この朝鮮通信使は、日本人が外国人を目にすることのできた唯一の機会でした。

 日本人や風景を観察し記録

 この朝鮮通信使が残した日記・記録によりますと、淀で上陸した通信使は、淀城の造りや石垣に日本独特の建物の有り様を見てとるとともに、とりわけその周囲の田園風景に注目しています。

三連の水車がことことと音をたてていることを珍しがっています。そして竹田街道を北上するにしたがって次第に人家が連なってたてこんでいること、さらに沿道に多くの見物人が押し合いへしあいし、木のうえによじ登っている者のあることを記します。

京都の市街地に入るのは夕刻になることが多いのですが、夜になっても灯の落ちない街であってとても賑やかなこと、大坂よりも人口が多いようだということを述べています。

 また、天皇にも必ず言及しています。その情報源は不明ですが、時の天皇がだれであるか、女帝か否かなどについてはよく把握しています。

また奈良・平安時代における天皇と江戸時代における位置付けに違いがあることや、官位のこと、あるいは天皇は基本的に祭祀を担当しているのであって、一カ月の半分は沐浴斎戒し、残りの半月は遊んで暮しているといった観察をしてもいます。

(中略)


 蔑視感なかった見物の民衆

 一方、人々は通信使の行列を見るために沿道に群集しました。大坂の上田秋成は「唐人を二度見たことを年忘れ」と記していますが、これは生涯に二度通信使の行列を見たことが自慢話になるということであり、そうした大イベントだったことを示しています。

 見物人の混雑ぶりは通信使をどのように見たのでしょうか。大坂のある町人は、宝暦十三年(一七六四)の通信使を見物するのですが、往路途中の大坂で見たときに「聞いていたほどのこともない」とか、とくに下級の随行員は身なりが「大いに汚く」との感想を残しています。

かと思うと、その町人は帰路の京都へも見物に出掛けてゆき、そこでは、「大坂で見たときとはずいぶん違って、通信使は皆さっぱりと着替えている」と感心しています。(後略)



朝鮮通信使は、なぜ京都ではこぎれいになったのか?


その理由について考えてみたのですが、皇室には、慰労や褒賞として衣を下賜するという慣習がありました。天皇が目の前で衣を脱いで下賜されることもあったので、家臣にとってその衣は家の栄誉であり、もちろん家宝になりました。

されど、朝鮮通信使はどうだったのでしょうか?その衣目当てでワザと汚くして来日したのか、もともと汚かったのか、着替え持参だったのか、皇室ではなく幕府に衣を賜ったのかは分かりません。

参考までに、皇室が衣を下賜されていたことの資料を添えておきます。


「伊勢物語」より:親王(みこ)に御衣(おんぞ)を賜る


出典:1994(平成6)年 新潮社 新潮日本古典集成 「伊勢物語」



 八十五

 むかし、男ありけり。わらはより仕うまつりける君、御髪(みぐし)おろして給うてけり。正月(むつき)にはかならずまうでけり。おほやけの宮仕へしければ、常にはえまうでず。されど、もとの心うしなはでまうでけるになむありける。

むかし仕うまつりし人、俗なる、禅師なる、あまたまゐり集りて、正月なればことだつとて、大御酒(おおみき)たまひけり。雪こぼすがごと降りて、ひねもすにやまず。みな人酔ひて、「雪に降り籠(こ)められたり」といふを題にて、歌ありけり。

 思へども身をしわけねばめかれせぬ
  雪のつもるぞわが心なる

とよめりければ、親王(みこ)いといたうあはれがり給うて、御衣(おんぞ)ぬぎてたまへりけり。



【現代語訳】

 むかし、男がいた。元服前から仕えていた君が、出家してしまわれた。(男は)正月には必ず御挨拶に行った。男は公の宮仕えではないので、絶えず伺うわけにはゆかない。けれども、昔の真心を失ったわけではなかった。

昔、その君に仕えた人々、僧でない人も、僧になった人も、大勢集って、正月だから特別だというわけで、大酒を賜った。雪がはげしく降って、一日中やまなかった。みな酒に酔って、「雪に降りこめられた」ことを題にして、歌を詠むことになった。

 いつもわが君のことを思っておりますが、公の務めと二つに身を分けることが出来ませんので、今絶え間もなく降りつづく雪が、こんなに積ってここに閉じこめられるのは、むしろ私の望みにかなったことなのです

と男が歌を詠むと、親王様はいたく感じ入られて、衣をぬいで、褒美に与えた。



菅原道真公:恩賜の御衣を毎日捧持して帝の余香を拝す


出典:1999(平成11)年 西日本新聞社 「菅原道真」 太宰府での生活



 右大臣という地位にありながら、なかなか思うようにいかず、道真が身辺にある危機感を感じつつあった折の詠である。断腸の思いである。

 この昌泰三年九月十日重陽後朝の詩宴の詩と一年後の「九月十日」の歌を併せ読むと一層道真の行動に忠誠心以外何ものも存在しなかったことがはっきりする。

 去年今夜侍清涼  去年の今夜 清涼に侍す
 秋思詩篇独断腸  秋思の詩篇 独り断腸す
 恩賜御衣今此在  恩賜の御衣 今此(こ)こに在り
 捧持毎日拝余香  捧持して 毎日余香を拝す



大正天皇の侍医:白絽一疋(いっぴき)を下賜せらる


出典:1988(昭和63)年 文藝春秋 「『文藝春秋』にみる昭和史」第一巻所収 
    入澤達吉 「大正天皇御臨終記」



六月十八日(金) 晴 わりあいに冷気なり

 十時聖上拝診
 御内儀より御満那料(金三百円)および白絽一疋(いっぴき)を下賜せらる、これは聖上永々御病気にて尽力せるためなり。




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