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2018/06/04

日本陸軍中枢を赤化した共産主義者|浅原健三


サヨクがいう「アジアに多大な苦しみを与えた日本軍」は、帝国陸軍参謀本部に潜入した共産主義者浅原健三によって赤化されていました。

つまり、アジアに多大な苦しみを与えたのは共産主義者です。

浅原が潜入したあと、帝国陸軍は従来のソ連を仮想敵とみなした北進政策を南進政策に転換、日本政府から独立します。

その後はみなさんご存じのとおり、「アジアに多大な苦しみ」を与えたのです。

捏造モリカケで安倍政権打倒に血道をあげている極左野党、「日本の保守が戦争を始める!」と叫んで#ネトウヨ春のBAN祭りとかやってるサヨクの目的は「日本を戦争に巻きこみ、第二次世界大戦でやりそこねた日本人絶滅」だと歴史が証明しています。

こういう日本人の生命を危機におとしいれる連中は公安監視対象、テロ等準備罪を適用するべきです。


【無産党時代の浅原健三|1930(昭和5)年前後】
無産党とは生産手段を持たない労働者の党という意味で共産党と同じ。

浅原健三2

【浅原が取り入った石原莞爾】
満州事変の首謀者。二・二六事件は帝国陸軍の共産クーデターであり、その革新勢力が国外まで伸びたものが満州事変だった。帝国陸軍は満洲から日本を改造しようとした。

石原莞爾1【写真出典】Wikipedia


帝国陸軍は日本政府から独立し、手綱が切れた馬のように荒れ狂った。そしてその補給線は地球の円周の5分の1に達した。

【日本軍戦線図】
日本軍戦線図2

#ネトウヨ春のBAN祭りとかやってる歴史を知らない連中。共産主義者による言論封鎖の次にくるのは殺戮では?チベットやウイグル、香港が証明しています。

ネトウヨ春のBAN1_2

「内閣をつぶそう!」と言ったり、天皇をあしざまに扱うところが帝国陸軍そっくりの日本共産党。浅原健三の時代から日本より中国が大事な共産主義者。

日本共産党志位さんツイート2URL:https://twitter.com/shiikazuo/status/1002159268265578497


浅原健三が工作した「政権奪取五カ年計画」|革新という名目の革命

政権奪取五カ年計画とは、毎年一内閣に革新政策をとらせ、その内閣をつぶす。これを繰り返して五年後に一党独裁政治を実現させ、その実権を浅原自身が握る、という計画でした。

戦前日本の組織や制度は非常にややこしいのですが、帝国陸軍もトップが二つあって、一つは用兵、国防を担当する参謀本部、もう一つが軍務を担当する陸軍省というツートップ体制でした(でも陸軍の三長官は参謀総長、陸軍大臣、教育総監)。

もちろん、偽装転向した浅原健三が潜入したのは参謀本部です。偽装転向とは共産主義者が共産主義を捨てたように見せかけることです。

わかりやすいところでは都民ファーストに入党した旧民主党議員ですね。

そして、浅原が帝国陸軍に潜入した目的は「陸軍を赤化して日本の支那侵略をやめさせるため」と革命直後の国力不十分だったソ連を守るためでした。

潜入後、浅原は林銑十郎陸相に取り入り、石原莞爾に近づいて、やがて陸軍人事を動かすほどの実力者になっていきます。

浅原の参謀本部潜入が容易だった理由は、もともと帝国陸軍には共産主義者がなじみやすい土壌があったことです。

その土壌とは、二・二六事件で天皇に忠実だった皇道派が一掃され、政治的策謀を好む統制派が残ったことでした。

統制派には対支策謀のため支那に駐在した支那派、ソ連と関係を持ったソ連派という派閥があり、支那における戦火を避けたい者、日本のソ連侵攻を好まない者がいたからです。

そういった土壌からきた石原莞爾の「日華友好」という思想と浅原の目的とが合致するのですが、連合国や中共の策謀から支那事変は本格化、そしてアジアに赤色の嵐が吹き荒れることになったのです。

日本人をふくむアジア人は共産主義者に大虐殺され、陸軍軍人と陸軍の尻拭いをさせられた日本政府要人は軍事裁判にかけられましたが、浅原は戦争を生き延び、1967(昭和42)年7月19日、70歳で死去しました。


出典:2003(平成15)年 角川書店 桐山桂一 「反逆の獅子 陸軍に不戦工作を仕掛けた男・浅原健三の生涯」 第四章 政権奪取五カ年計画

※管理人注:( )内は管理人による注釈です。


「作戦部長に石原をもってこよう」

 陸相の林(銑十郎)の意向を聞いて、浅原は再び仙台の石原を訪ねている。石原を作戦課長に抜擢する人事構想そのものが、日ごろから浅原が林に吹き込んでいたものであった。

「結構だ、やる」と石原は言葉に力を込めたが、

「ただ、抵抗があるぞ」とも漏らした。

 実際、石原を中央の舞台に立たせることに、陸軍内部では大きな抵抗を呼ぶことになったという。それでも林は反対を押し切って、石原を作戦課長の要職につけている。

 ところで、浅原はなぜはやい時期から林への食い込みを謀ったのか。もちろん林が陸相という地位にあったためであることはもちろんだが、その能力に期待をかけたわけではない。むしろ、(林は阿呆だ)と、浅原はみていた。満州事変のとき朝鮮軍司令官であった林は、独断で軍隊を朝鮮から満州へと越境させ、「越境将軍」とあだ名がついた人物である。浅原は林に巧妙に取りいることで、いわば傀儡(かいらい)として利用する計画であった。浅原と石原は林を総理大臣に据えることを考えていた。

 憲兵であった大谷敬二郎は戦後になって、次のように書いている。

《林陸相と浅原との関係は、真崎大将がそのころ口癖のようにいっていた「林は浅原の虜(とりこ)になっている」とか「林のあとに赤がついている」ということの真偽はしばらく措(お)くとして、浅原のいうところでは、林陸相は軍の機密事項でも、またその当時喧(やかま)しかった軍内部の複雑な事情でも、みんな浅原に洩らしていたらしい

 社会主義運動から軍部への潜入へと方向を切り替えた浅原は、二年もたたずに、陸相自身が浅原の「虜」になり、軍の機密を漏洩するほどの関係を築いていたことになる。

(中略)

 あるとき、浅原のもとに知り合いの中佐・影佐禎昭(かげささだあき)が訪ねてきて、

「東条を助けてやってくれ」と頼み込んだという。真崎の直属下にいれば、自分の将来がないと考えた東条が、影佐を通じて転任の希望を浅原に伝えたというわけだ。

 浅原はさっそく陸相の林に東条の人事を頼み、わずか五カ月後に東条は久留米の第二十四旅団長へと転任することになった。

 また軍務局長・永田の斬殺事件でも東条はおおいに狼狽したという。みずからが属する統制派のリーダーを失ったからという理由だけではなく、そのとき頼みの綱であった林が陸相辞任の行動に出たからである。

「林陸相の辞職を思いとどまらせてほしい」

 東条はわざわざ浅原の常宿まで足を運んで、そう嘆願したという。林はそのまま陸相を辞任してしまったが、浅原は東条の人事について運動した。

 昭和十年九月、東条は関東憲兵隊司令官に就くことになり、久留米まで浅原はその栄転人事を伝えに行った。帰りには、久留米駅まで東条が夫人を連れて見送りにきたという。のちに憲兵を使って、浅原を追い落とした東条だが、そのときは栄転人事を聞いて、浅原の手を握り、感激の思いを伝えたという。

 まさに陸軍人事を浅原という民間人が事実上、動かしていたわけであるが、なぜこれほどまでに浅原が軍部中枢に食い込もうとしたのか。その理由について考えてみたい。

 憲兵だった大谷敬二郎が先に紹介した『昭和維新と浅原健三の陰謀』や『昭和憲兵史』(みすず書房)にも記している証言がある。浅原は当時、「政権奪取五カ年計画」をひそかに実行に移していたというのである。

 政権奪取五カ年計画とは、いったいどんな計画なのか。再び大谷の一文を引用する。

《政権獲得を五カ年後に期待する、いわゆる政治工作五カ年計画というものである。すなわち五カ年後を目標として「一年一内閣」「一内閣一革新主義」を断行して、五カ年後には、板垣を首班とする内閣をつくり、この内閣の手によって、党国組織を完成しようというのである》

《すなわち一つの内閣は一つづつ思いきった革新政策を断行して、つぎつぎに代わっていく。かくて、国内の政治情勢を革新へ革新へと進めていく。(中略)協和会工作を通じて隠密に扶植しておいた、協和会協力団体を一挙に動員して、いわゆる無産大衆を基盤とする党組織すなわち政党へと転入せしめる。板垣内閣の手によって、(中略)天下を完全に掌握するという段取りである。(中略)それはもはや改革にあらずして革命なのである》

 この奇想天外な政権奪取計画については、『日本憲兵正史』(全国憲友会連合会編纂委員会・編纂)にも登場し、そこでは「左翼の闘士である浅原が一党独裁の組織によって政権を奪取しようとした、革命行為であるとみなされた」との記述がある。

 憲兵であった森安精一には「浅原事件に就いて」と題したメモが存在する。その森安メモからも引用する。

《一内閣一革新政策で毎年一内閣ずつをつぶして、五年後には即ち最後に満州組の総帥板垣征四郎を首班とする内閣を作り、自分がこれを牛耳る考えであった。浅原は頭脳明晰、努力家で能弁であり人を魅了する態度と熱をもっており、而(しか)も実行力にとみ剛毅なねばりがある》

 どの記述も似ているが、つまり浅原が軍に接近した目的とは、軍の力によって、毎年一つの内閣をつくり、しかも毎年、一つずつ革新政策を断行して、五年目に一党独裁による「革命」をおこすことであったというわけだ。

 戦後になって、三男の傑さんが政権奪取五カ年計画の真偽を尋ねたとき、浅原健三は、

「本当のことだ」と答えたそうである。

 しかも、これが単なる空想や妄想のレベルを超えて、実現にむけて具体的に進められていたことは、昭和十二年以降の内閣の転変を検証することで明らかにしていきたい。

 その前にこの政権奪取五カ年計画で重要な点は、社会主義者であった浅原が一人で画策したものではなく、石原莞爾とまさに二人三脚で立案したものであったことである。

 大谷はかつて憲兵として浅原を取り調べたことがある。これについて浅原はこんな返答をしたという。

「もともとこの案は自分が立てたものではあるが、石原に命ぜられて立案したもので、この計画の骨子は石原に報告し、了承を得ている」

 石原は対ソ戦略のために、満州で軍事産業を興し、近代的な軍備で武装する防衛構想を思い描いていた。満州事変はいわばその一歩であったが、かえって中国国内では激しい反日感情とナショナリズムの高揚を生み、日本国内ではあらたな中国侵略への欲望が高まる結果となった。石原はみずからの構想が思わぬ方向へ動きだしたことを省みて、今度は自分の思いのままになる政権を作りだし、日増しに高まる戦争の危機を回避しようとしたのであろう。

 政権奪取五カ年計画で最終的に首相に擬せられた板垣征四郎について、浅原は口述原稿のなかで「毒をもって、毒を制す」という面白い表現を使っている。満州事変をおこした石原の同志である板垣をトップに据えることで、主戦派を抑え込み、戦争回避を図ることができるという計算である。

「支那事変を防止するために(中略)軍人のうちの主戦派を百名ぐらい、その人名を挙げた。片ッ端から飛ばしてしまう。それから右翼の支那派を百名ぐらい並べた。これはみんな放りこんでしまう。そして、とにかく三十年間、満州を拠点として産業拡張をやる」(浅原口述原稿)

 まさにそれが目的であった。かつて「中国侵略、絶対反対」と議会で叫んだ浅原は、亡き有力者の森恪(もりかく:政友会の政治家)の言葉どおり、軍の力で自分の構想を追い求めようとしたとみることができる。

 政権奪取五カ年計画とは、軍部の権力が内閣をも議会をもしのぐ時代に、社会主義者であった浅原が考えた軍閥打倒計画、戦争回避計画であったわけである。



そういえば安倍さんもそろそろ、就任から5年ですかね?

スペイン版モリカケで左翼が政権奪取ふたたび革命の危機

あっちこっちの元枢軸国で革命工作が仕掛けられているようで。


サンチェス氏が新首相就任=政権運営は難航必至-スペイン
2018年6月2日 JIJI.COM

【パリ時事】スペインのサンチェス社会労働党書記長(46)は2日、国王フェリペ6世の前で宣誓し、新首相に就任した。サンチェス氏は組閣作業に着手し、数日以内に新内閣が発足する。
 
 就任宣誓式でサンチェス氏は「良心と敬意、国王への忠誠心を持って首相としての義務を果たすことを約束する」と述べた。
 
 下院では1日、前与党・国民党幹部の汚職事件で世論の強い反発を受けていたラホイ前首相の不信任決議が可決された。社会労働党に加え、急進左派政党ポデモスやバスク、カタルーニャの小党が賛成に回った。(後略)




【出典】
アジア歴史資料センター:レファレンスコード:B04013105400:1931(昭和6)年 外務省 「要視察人関係雑纂/本邦人ノ部 第二巻 4.浅原健三」
アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C11110637800:1938(昭和13)年 陸軍省 「邦人の思想取締対策に就て」
1940(昭和15)年 高山書院 武田謙二 「新陸軍読本」 三 陸軍官衙
・1987(昭和62)年 講談社 「20世紀全記録クロニック」
・1952(昭和27)年 中央公論社 重光葵 「昭和之動乱」上巻 満洲事変~国防国家(林内閣の成立と紛糾)

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