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2018/05/14

日本軍が玉砕した理由|アメリカの無差別潜水艦戦


連合国は日本人を自殺好きの民族と見ているようで、中東やフランスでテロリストをカミカゼと呼んだりしていますね。

でも、日本人が死ぬのは万策尽きたときです。

大東亜戦争で日本軍が玉砕した原因は、アメリカのロンドン条約違反にあたる無差別潜水艦戦による日本船撃沈です。

米軍は日本船ならば軍民問わず撃沈したので、孤島の日本軍には物資や援軍が到着せず、孤立させられ、やむなく玉砕したのです。

ロンドン条約とは1915年5月7日、イギリスの汽船ルシタニア号がドイツ潜水艦に無警告撃沈され、死亡した乗客の中に約150名のアメリカ人がいたことから、アメリカが激昂し、提起、締約された「乗客、船員の安全をはかる」ことを規定した条約です。

日本軍だって援軍が来て、避退できる状況であれば死なずに脱出しますよ、キスカ島放棄やガダルカナル島撤退のように。


玉砕した日本軍|日本人には適用されなかったロンドン条約

1942(昭和17)年8月21日、ガダルカナル島で玉砕した一木支隊主力部隊。
米軍に奪取された飛行場を取り返すべく上陸した一木隊主力部隊は、十字砲火と戦車の攻撃を受け、夜明け前、玉砕した。同月17日に上陸した一木支隊先遣隊も飛行場に二回の突撃を敢行、玉砕している。

一木支隊玉砕@ガダルカナル

1943(昭和18)年11月25日、マキン・タラワ両島守備隊玉砕。日本軍の残存者を探し求める米兵。灰燼の島をあちこち歩きまわる戦いの跡。

米軍@マーシャル残存兵探索2

1944(昭和19)年5月24日、アッツ島守備隊玉砕。生還を期す者なく、残存兵力150名、全員一丸となって最後の突撃を敢行、敵陣に大混乱を与えた上、各自手榴弾を抱いて散華。どこの戦線も日本兵に残された最後の武器は、自決用の手榴弾ひとつだけだった。

アッツ守備隊玉砕2

米軍の攻撃で炎上するキスカ島守備隊を乗せた潜水艦。

キスカ守備隊潜水艦炎上2

アッツ島に上陸した米軍の戦死体と戦車。水際に進軍した日本軍と激闘の果て。

アッツ米兵死体戦車2

1944(昭和19)年7月7日サイパン島守備隊玉砕。米軍橋頭堡を単身襲撃した日本兵。焼けつくした土に斃れた。共産党とアメリカが世界一極支配を企図しなければなかった悲劇。

サイパン守備隊玉砕2

ニューギニア戦線。海空から敵を攻撃する道を失った日本軍は、わずかにヤシ林の中に布いた砲列で敵陣をたたくほかなかった。だがその弾もつきた。

日本軍応戦@ニューギニア2

ニューギニアのビアク島に上陸した米軍はシャーマン戦車をたてて日本軍陣地に迫る。死闘一カ月余り、1944(昭和19)年7月、ビアク島守備軍は玉砕、8月中旬にはニューギニアの日本軍連絡途絶。必死に願った援軍は到着しなかった。

米軍@ニューギニア日本軍陣地2

戦闘終了後の沖縄。艦砲射撃、空襲、陸戦、火焔放射器、米軍はあらゆる手段ですべてを破壊しつくした。沖縄は江戸時代から米英が目をつけていた土地。イギリスは東インド会社の中継地として日本に無断で沖縄を測量、アメリカは捕鯨やアジア侵略の補給基地として利用すべくペリーが琉球王を恫喝しに行き、燃料、飲用水の無料供給などの条件を飲ませた。

米軍@沖縄2

1945(昭和20)年6月22日、沖縄部隊連絡途絶。6月23日、牛島最高指揮官と長岡将軍は米兵の手榴弾の音を聞きつつ自刃した。

牛島指揮官長岡将軍自刃@沖縄2

米軍による日本商船沈没地点概図。商船だけでも恐ろしいほどの日本人虐殺が行われた。

日本商船沈没地点概図


日本軍玉砕年表

年月日玉砕・孤立部隊米軍の対日攻撃例
1943/
昭和18年
5月29日
アッツ島守備隊玉砕1943/昭和18年

4月17日:第32、第35師団を西
ニューギニアに輸送中の船団が
潜水艦攻撃を受け、一個師団が
海中に沈んだ

5月3日:海南島から鉄鉱石を満
載した六隻の大型船のうち5隻が
撃沈される

 〃  :あ号作戦発令、
連合艦隊司令部は敵機動部隊が
パラオに来攻中と判断、ビアク
に増派予定だった5500名のうち
600名を駆逐艦輸送すると決定。
しかし途中で駆逐艦一隻が撃沈
され、残りの駆逐艦も引き返す

5月5日:ボルネオ北端で2万5千
キロリットルの油を積んだタンカ
ーが撃沈される

6月上旬:一個連隊と戦車22台を
積んだ船3隻撃沈 など

11月25日
タラワ・マキン両島の
守備隊玉砕
1944/
昭和19年
2月6日
クエゼリン・ルオットの
日本軍玉砕

2月25日
ラバウル方面日本軍孤立

5月3日
ワクデ島日本軍玉砕

7月7日
サイパン守備軍玉砕

8月2日
テニアン島守備隊玉砕

8月4日
ミートキーナ守備隊玉砕

8月10日
グアム島守備軍全滅

9月7日
拉孟(らもう)守備隊玉砕

9月14日
騰越(とうえつ)守備隊玉砕
1945/
昭和20年
1月27日
コレヒドール島部隊玉砕

3月5日
マニラ守備隊玉砕

3月17日
硫黄島守備軍玉砕

4月7日
海上特別攻撃隊(戦艦大和他
10隻)全滅

※燃料…呉、徳山のタンクには
作戦の片道分、約3000トンしか
残っていなかった。
いくら特攻といえども片道攻撃
は許されない。
そこで呉鎮守府の関係先をかけ
ずりまわったところ、帳簿外の
燃料3000トンが見つかった。
そうして大和隊は日本中の油を
かき集め、出撃した。

5月24日
義烈空挺隊玉砕

6月22日
沖縄部隊通信途絶

6月23日
第32軍司令官ら自刃



ロンドン条約第四編第二十二条の内容

夏になるとマスコミはやたら「対馬丸撃沈事件」を報道しますが、対馬丸撃沈もロンドン条約違反です。

そこは突っこまずに「日本の侵略戦争ガー」と連合国のプロパガンダをタレ流すのが日本のマスコミです。「日本の侵略戦争」というデマは連合国の無法を隠ぺいする魔法の言葉。捏造モリカケと同質。


倫敦条約第四編第二十二条

左記ハ国際法ノ確立セル規則トシテ受諾セラル。

(一)潜水艦ハ其ノ商船ニ対スル行動ニ関シテハ水上艦船ガ従フベキ国際法ノ規則ニ従フコトヲ要ス

(二)特ニ、商船ガ正当ニ停船ヲ要求セラレタル時ニ於テ之ヲ頑強ニ拒否スルカ又ハ臨検若(モシク)ハ捜索ニ対シ積極的ニ抗拒スル場合ヲ除クノ外(ホカ)、軍艦ハ其ノ水上艦船タルト潜水艦タルトヲ問ハズ、先(マ)ヅ乗客、船員及船舶書類ヲ安全ノ場所ニ置クニ非(アラ)ザレバ商船ヲ沈没セシメ、又ハ航海ニ堪ヘザルモノト為スコトヲ得ズ。右規定ノ適用ニ付テハ、船ノ短艇ハ当該時ノ海上及天候ノ状態ニ於テ陸地ニ近接セルコト又ハ乗客及船員ヲ船内ニ収用スルコトヲ得ル他ノ船舶ノ存在スルコトニ依リ、右乗客及船員ノ安全ガ確保セラルルニ非ザレバ安全ノ場所ト看做(ミナ)サルルコトナシ。

締約国ハ他ノ一切ノ国ニ対シ前記規則ニ其ノ同意ヲ表センコトヲ勧誘ス


【出典】1943(昭和18)年 照林堂書店 信夫淳平 「戦時国際法提要 下巻」 第六章 海上戦闘 第二款 潜水艦戦



共産主義者による日本人差別はつづく

大東亜戦争での日本の戦没者は約300万人といわれますが、その大半が一切条約(国際法)を適用されずに虐殺されました。

日本の左傾与党や極左野党は、彼らが人権を一切認めない日本人の国会で総理大臣や大臣に、一個人が受けた「セクハラ」について謝罪させます。


麻生氏「おわび」 セクハラ問題「はめられた」発言で
2018年5月14日 朝日新聞

 安倍晋三首相は14日午前の衆院予算委員会で、柳瀬唯夫・元首相秘書官(現・経済産業審議官)が加計(かけ)学園関係者と面会したことについて「報告は受けていない」と述べた。柳瀬氏の発言を追認した形で、秘書官からの報告は「私がなんらか判断する必要があるときが基本。国家の重大事でもない限り途中段階で説明を受けることはほとんどない」と語った。公明党の中野洋昌氏の質問に答えた。

 衆院予算委では、財務省の福田淳一・前事務次官のセクハラ問題をめぐり、麻生太郎財務相が「(女性記者に)はめられたという可能性は否定できない」と発言し、その後、撤回したことも取り上げられた。

 首相は「こうした(セクハラ)行為を受けた方は非常に心に傷を負う。被害者に寄り添った対応、あるいは発言が求められるのは当然であろうと思う」と指摘。麻生氏は自らの言葉でセクハラ被害者に謝罪するべきだと求められ、「おわびを申し上げます」と謝罪した。


本記事の資料

条約違反の無差別撃沈でラバウル11万5千、東ニューギニア5万数千の日本軍を孤立させたアメリカ

「孤立」とは日本の極左やマスコミが大好きな脅迫ですね。「日本は孤立」ということばを多用する人間には気をつけましょう。


出典:1954(昭和29)年 富士書苑 森高繁雄編「大東亜戦争写真史 特攻決戦篇」 中部太平洋波高し

※管理人注:( )内は管理人による注釈です。


 恐るべき海の狼

 当時、対日戦用の米潜水艦は大体、七十五隻であったが、交代でハワイが濠洲の基地で休養するため、戦場には平均二、三十隻がうごいていた。

 それでも、撃沈される日本船の量はどえらい数に上っていた。一月は二十四万総トン、二月は二十五万総トン余で、それに空襲其(その)他による喪失を加えると、一月は三四万、二月は五二万総トンという数字である。新造船は一月が七万、二月が八万総トンに過ぎなかったから、日本はこの競争だけでも敗戦街道を走っていたわけである。(中略)

 こうした米潜の猛攻は六月も続いた。米潜は独(ドイツ)海軍にならって「狼群戦法」を採用しはじめていたが、六月上旬、サイパン行きの最後の船団がこれにやられた。

 西ニューギニアの攻防

 連合軍の四月の攻略目標はまずホランディアであったが、日本軍にとってここは一番の弱点だった。西ニューギニアは絶対国防圏の南翼であり、ホランディアには第十八軍が後方補給基地として多量の兵器弾薬糧食を貯えていたが兵力は兵站部隊だけしかいなかった。


【ニューギニア方面地図|1944(昭和19)年2月29日-同年6月10日】
ニューギニア方面図2

 米軍としてもアドミラルティから一挙にホランディアに飛びこむのは危険と考えていた。次の上陸地点はアドミラルティ基地機の威力圏内というのが常識である。ニミッツが空母群で支援するというのでマックァーサーも承知したが、この攻略戦は「無鉄砲作戦」と名付けられた位だった。

 四月十七日、通信状況からマックァーサー軍はどこかに行動を起しそうだったが、はたして海軍哨戒機は十九日には船団を、二十日には機動部隊を発見した。このミッチャー部隊は、二十一、二日の両日ホランディア方面を荒しまわった。

 日本軍の抵抗はほとんどなく、アイケルバーガー中将の二個師団が二十二日、タナメラ湾、フンボルト湾、アイタペに上陸した。

 この上陸作戦は、大男が鉢巻をして、病人の寝床にふみこんだようなもので、すっかり拍子抜けの態で無鉄砲どころか大袈裟(おおげさ)作戦とでもつけたら似合いそうだった。

 こうして、順風に帆をあげたマックァーサーはさきにはアドミラルティを攻略してラバウルの十一万五千の日本軍を孤立させ、いままた濡手でホランディアをつかんで東ニューギニア五万数千の日本軍を太平洋の孤児にしてしまった。


【フンボルト湾に上陸するマッカーサー】
フンボルト湾に上陸するマッカーサー


孤立とは移動を妨害すること


出典:1954(昭和29)年 富士書苑 森高繁雄編「大東亜戦争写真史 南方攻守篇」 興廃の岐路 最期の抗戦

※管理人注:( )内は管理人による注釈です。


 リンガエン湾へ上陸

 フィリピンではゲリラが厄介な存在であって、これに悩まされた日本軍は米軍ルソン島上陸の場合に、全住民がゲリラ化することを懸念し、十九年十一月中旬から武装ゲリラ団の討伐を始めた。

 米軍の母艦機は十九年十二月十五、十六の両日マニラ湾を攻撃した。続いて翌二十年一月六、七の両日にもルソン島を再び攻撃した。そのころの米爆撃隊とゲリラ隊は道路、橋梁、トンネルを破壊して、日本軍の移動を妨害することに努めていた。

【フィリピンゲリラに助けられ、リンガエンに上陸するマッカーサー】
フィリピンに上陸するマッカーサー


ロンドン条約第四編第二十二条が締約されるまで

ドイツ潜水艦の雷撃で自国民約150名が死亡したことに激昂したアメリカが、そのドイツとおなじ手段で日本人を大虐殺しました。

われわれ日本人には理解できないことでも、彼らには日本人を虐殺する明快な理由があります。差別、という理由が。


出典:1943(昭和18)年 照林堂書店 信夫淳平 「戦時国際法提要 下巻」 第六章 海上戦闘 第二款 潜水艦戦

※管理人注:( )内は管理人による注釈です。


 第一項 第一次大戦に於ける潜水艦の通商破壊行動

一〇〇九 独逸(ドイツ)は別に述ぶる如く、一九一七年二月一日以降、英仏伊の三国を繞囲(囲繞:いにょう:ぐるりとかこむこと)する海面及び地中海東部に於ける無制限の潜水艦戦を開始した。(中略)

一〇一〇 独逸の潜水艦戦開始以来之(これ)に依り中立国船の遭難したものは、一九一五年二月十九日の諾威(ノルウェー)の一商船を始めとし、同年五月末までに十八隻に及んだが、中にありて中立諸国殊に米国を聳動(しょうどう:驚かし動かすこと)せしめたものは、同一九一五年五月七日、英国の最大汽船の一たるルシタニアが大西洋上に於て無警告にて撃沈され、老弱男女を含む一千二百有余名の乗客(中に当時尚お中立の米国民約百五十名)を僅か二十分間を出でざるに海底の藻と化せしめた事件である。

米国民の独逸潜水艦に依れる遭難はこれが始めてではなく、その少し前も英船Falabaの、次では米船Gulfieldの独逸の雷撃にて沈没する際には、便乗の米国人にして生命を失へる者もあった。けれども数は孰(いず)れも一二名に過ぎなかったので、さしたる問題にもならなかった。然るにルシタニアの遭難米人は百五十名にも及んだので、米国特に東部諸州にては民論激昂し、独逸膺懲(ようちょう:こらしめること)論は頓(と)みに高まった。啻(ただ)に米国に於てのみならず他の中立諸国にありても、今さらながら独逸潜水艦の行動とその破壊力の大なるに驚愕した。(中略)

一〇一八 然しながら水上艦にありても勿論(もちろん)であるが、潜水艦は中立船に対しては無論のこと、敵船に対する破壊にありても、之(これ)を行ふに方(あた)り決して無制限たることが許さるるべきでない。これは潜水艦の性質が何であっても、その性質論に打勝つべき人道上の当然の要求である。

されば第一次大戦中独逸潜水艦に依りて加へられたる累次の経験に鑑み、今日では之に関し成文国際法規として各国の間に儼(厳)たる約束が成立ってある。即ち一九三〇年(昭和五年)の倫敦(ロンドン)条約の第四編の潜水艦に関する第二十二条の規定がそれである。(中略)

一〇二八 是(これ)に於てか英国代表は、潜水艦の全廃不可能とあらば、せめては華府(ワシントン)条約の規定の復活を望ましとすと唱へ、米国代表も亦(また)潜水艦の廃止が不可能とせば、その商船に対する行動を水上艦と同一の国際法規の下に律せしめ、船員及び条約の安全を計るに非(あら)ずんば之に攻撃を加ふるを得ずと為(な)すべしと論じた。

そこで潜水艦の使用法規の研究を附(付)託せられたる特別委員会に於ては、審議の末に結局華府条約の第一条及び第二条を多少の修正を加へて復活せしめ、同第三条及び第四条に関しては意見の一致を見ないので復活を抛棄することになった。それを総会に於ても採択し、遂に決定となったものが倫敦条約の第四編を成す所の左記第二十二条である。

左記ハ国際法ノ確立セル規則トシテ受諾セラル。

(一)潜水艦ハ其ノ商船ニ対スル行動ニ関シテハ水上艦船ガ従フベキ国際法ノ規則ニ従フコトヲ要ス

(二)特ニ、商船ガ正当ニ停船ヲ要求セラレタル時ニ於テ之ヲ頑強ニ拒否スルカ又ハ臨検若(モシク)ハ捜索ニ対シ積極的ニ抗拒スル場合ヲ除クノ外(ホカ)、軍艦ハ其ノ水上艦船タルト潜水艦タルトヲ問ハズ、先(マ)ヅ乗客、船員及船舶書類ヲ安全ノ場所ニ置クニ非(アラ)ザレバ商船ヲ沈没セシメ、又ハ航海ニ堪ヘザルモノト為スコトヲ得ズ。右規定ノ適用ニ付テハ、船ノ短艇ハ当該時ノ海上及天候ノ状態ニ於テ陸地ニ近接セルコト又ハ乗客及船員ヲ船内ニ収用スルコトヲ得ル他ノ船舶ノ存在スルコトニ依リ、右乗客及船員ノ安全ガ確保セラルルニ非ザレバ安全ノ場所ト看做(ミナ)サルルコトナシ。

締約国ハ他ノ一切ノ国ニ対シ前記規則ニ其ノ同意ヲ表センコトヲ勧誘ス。(後略)

一〇三七 斯(か)の如くにして倫敦条約第二十二条は、同条の規定を以て締約国間に於ては国際法の確立せる原則と為し(同条第一項)、更に他の一切の国々に対し同意を表せんことを勧誘する(同条第二項)。乃(すなわ)ち列国の多数がその勧誘に応じて之に同意を表せば、本規定は世界の普遍的国際法規となるは勿論、仮に列国中に同意を躊躇するものありとしても、既に世界の最主要海軍国たる日英米三国間に依り国際法の確立せる原則として受諾せられたものであるから、よしんば拘束力が該三国間のみに限らるるにしても、実に於ては世界を支配する国際法規となったも同様である。(後略)




【出典】
・1954(昭和29)年 富士書苑 森高繁雄編「大東亜戦争写真史 特攻決戦篇」
・1954(昭和29)年 富士書苑 森高繁雄編「大東亜戦争写真史太平洋攻防篇」
・1954(昭和29)年 富士書苑 森高繁雄編「大東亜戦争写真史 南方攻守篇」
・1983(昭和58)年 講談社 千早正隆編「写真図説 帝国連合艦隊-日本海軍100年史」

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