HOME > 対日ヘイト・ヘイトスピーチ > title - フィリピンゲリラのボスだったマッカーサー
2018/04/16

フィリピンゲリラのボスだったマッカーサー


大東亜戦争のフィリピンにおける日本人戦没者は約40万人といわれています。その死者の多くがアメリカが支援したゲリラの手にかかった人々でした。

1941(昭和16)年12月8日、真珠湾攻撃と同時に展開されたフィリピン攻略で日本軍がマニラを制圧してから1944(昭和19)年末までに、日本兵約8000名がレイテゲリラによって殺害されたそうです。

アメリカ政府に承認されたフィリピンゲリラは約27万人いたとされ、その司令官はマッカーサーでした。

アメリカが実施したこのゲリラ戦は、ハーグ陸戦条約で禁止された行為でした。


フィリピンゲリラの積極的活動を督励するマッカーサー

アメリカはフィリピンだけでなく、中国や朝鮮半島でも抗日、排日、反日を煽動しました。その結果、多くの日本人が虐殺されました。

フィリピンゲリラを督励するマッカーサー

本記事の参考資料:フィリピン戦線従軍記者の手記:
ゲリラの司令官はマッカーサーだった


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 田村吉雄編「秘録大東亜戦史 比島篇」所収 英文毎日編集部 中村康二 「フィリピン政府の横顔」 ゲリラ

※管理人注:( )内は管理人による注釈です。


 連邦政府の政体を規定したタイデイングス・マクダフィによればフィリピン軍は究極においてアメリカ大統領の指揮下にあるとされており、一九四一年九月非常時宣言によってフィリピン軍は完全にアメリカ軍の一部になった。そしてマッカーサー少将(後の元帥)が、現役中将に復帰してUSAFFE(UNITED STATES ARMED FORCES IN FAR EASTの略)=ユザフェ=の司令官に任命された。これらの将兵がのちのゲリラ先駆者の実体であった。



いま日本と北朝鮮の緊張が高まっても、日本政府やアメリカ政府は在日敵国人について何も言及しませんね。

それどころか日本で「避難してきた敵国人を保護する」ことまで検討されている。

いよいよ日本殲滅が近いということでしょうか?


アメリカとフィリピンゲリラ

フィリピンゲリラは活動区域によってパナイゲリラ、レイテゲリラなどと呼ばれ、セブゲリラとミンダナオゲリラは米軍人の指揮下にありました。

【フィリピンゲリラがいた区域】
パナイ島、レイテ島、セブ島、ミンダナオ島、ルソン島。
フィリピン全ゲリラ

フィリピンゲリラが組織された年を見ると、日本軍のフィリピン攻略後(1942年以降)に組織されています。

ゲリラ名称組織年・活動区域・指揮官・備考
パナイゲリラ
ペラルタゲリラ
1942年8月
ビサヤ地区、パナイ島
マカリオ・ペラルタ大佐(フィリピン人)
フィリピン民事政府
・ペラルタゲリラは1944年10月日本のレイテ作戦
当時は武装人員22600名、装備は武器8000を誇る。
・半武装、非武装ゲリラとして農民、医者、看護婦、
宗教関係者、政府官公吏、インテリを網羅。
・戦後の戦犯裁判ではパナイ第61師団情報主任フェデ
リコ・サルセドが証人として出廷、米軍への情報提供、
米軍から受けた戦時物資補給を証言した。
レイテゲリラ1943年8月にマッカーサー元帥に公式承認された
レイテ島
ルベルト・カングレオン(戦後フィリピン国防長官)
・1944年末までに日本兵約8000名を殺害した。
・米軍のリンガエン上陸を助けた。
セブゲリラセブ島
アメリカ人大佐ジェームス・クーシン指揮下
・1944年4月に当時の連合艦隊参謀福留中将以下
数名を捕獲し、日本の「あ」号作戦に決定的打撃を
与えた。
・古賀峯一連合艦隊司令長官はトラック島空襲を
逃れてマニラに向う途中、ゲリラ地区に不時着、自刃
したといわれた。
ミンダナオゲリラ1942年9月中旬、米軍モルガン大尉が組織
ミンダナオ、スル地区
・1942年10月、モルガン大尉はマッカーサーの直
属部下ファーアイグ工兵大佐を司令官に据え、自ら
は参謀長となって本格的ゲリラ隊組織を開始した。
ファーアイグは民事政府を樹立し、これが全島に拡
がり、ファーアイグは第十戦区司令官に制式就任し
た。

ルソンゲリラ
・日本軍の大部分がルソン島に駐留したので、ゲリ
ラ活動が制限されたがサイパン陥落前後から活動
を開始した。
・米軍がルソン上陸するまで「承認」ゲリラ部隊は
いなかったが米軍反攻後、ゲリラ部隊数は40に達し、
米軍のルソン上陸時は70にまで増加した。


マッカーサーがフィリピンゲリラのボスだったことは、秘密でもなんでもなく、当時は普通に報道されていたようです。

1942(昭和17)年1月4日付 大阪毎日新聞:
マッカーサーが米比軍が合体した米国東亜軍の司令官に任命された


新聞記事マッカーサーゲリラ1

新聞記事マッカーサーゲリラ2
まず第一に指弾されねばならぬのは米国東亜軍司令官マッカーサー、米国アジア艦隊司令長ハート、駐比高等弁務官のセイヤーであろう、マッカーサーは前米国陸軍参謀長、その後比島軍最高顧問となり昨夏比軍合体によって米国東亜軍が生れるにおよび司令官に任命された、

【出典】神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 東南アジア諸国(11-003)大阪毎日新聞 1942.1.4 (昭和17)


ゲリラ戦はハーグ陸戦条約第23条第2項「敵軍占領地の住民を煽動して占領軍に反逆させる行為」違反


出典:1944(昭和19)年 日本評論社 立作太郎 「戦時国際法論」 第八章 敵国領土の占領 第三節 占領軍の占領地の住民に対する権力 

※管理人注:( )内は管理人による注釈です。


ハーグの陸戦條(条)規に於て、(イ)家(即ち家族)の名誉及権利、個人の生命、私有財産竝(ならびに)宗教の信仰及遵行(じゅんこう:したがいおこなうこと)を尊重すべく、私有財産を没収するを得ずと為(な)し(第四十六條参照)、(ロ)交戦者は、敵国人を強制して其(その)本国に対する作戦動作に加はらしむることを得ぬとし(第二十三條第二項参照)、又(ハ)交戦者は占領地の住民を強制して、敵軍又は敵の防禦手段につき情報を供与せしむることを得ぬとし(第四十四條参照、此條は我国之を留保す)、又(ニ)占領地の人民を強制して忠誠の誓を為さしむるを得ずとする(第四十五條参照)。交戦者は占領地の住民を強制して其本国に対する作戦動作に加はらしむることを禁ずるの規定は、住民をして本国軍に対する戦闘に加はらしめ、嚮導(きょうどう:部隊が横隊に編成されている場合、その両翼に配置して整頓・行進などの基準とする者)の役務を負はせ、本国軍の軍事上の地位又は防禦手段に関する情報を供与せしめ、其他如何なる方法たるを問はず、敵国人をして其本国に対する作戦動作に直接に関係せしむることを強制するを禁ずるの趣意を含むと解すべきである。



アメリカのフィリピンゲリラ援助関係資料は、アジア歴史資料センターでも多数確認できます。

陸軍省:アメリカは共産主義でフィリピン人の抗日を煽動した


「ビンソン」ハ北「カマリネス」州ニ於テ六〇%ヲ占メアル鉱山労働者ニ対シ労働問題ニテ詭弁ヲ弄シ同地区一帯ニ勢力ヲ獲得セル

ゲリラ労働問題1

十二日迄一週間ニワタル爆撃効果多大ニシテ各地区共産匪の損害相当アリ

ゲリラ共産匪賊1

【出典】
アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C13071401800:1944(昭和19)年 陸軍省 「垣情第6号 情報記録(2月8日2月17日)」(13コマ目)
アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C14020725000:1942(昭和17)年 陸軍省 「匪首捕獲及び投降工作要領の実例竝に其の教訓 昭和17年12月」(3コマ目)


陸軍省:アメリカは潜水艦で戦略物資をフィリピンゲリラに補給した


最近匪団ノ交戦ハ頑強トナリ弾薬増加シアルモノヽ如ク又兵器特ニ「カルビン」銃等ノ新兵器ノ多数鹵獲等敵潜水艦ヨリノ補給ノ益々増大シアルト共ニ活動積極的トナリツツアリ

二、「ボークマン」少佐(米人)ノ北部呂宋島指揮官ハ目下逮捕取調中ノ中東部地区「ゲリラ」隊情報部長「フオンタネリヤ」大尉ノ自白ニ基キ同人ノ陰匿セル情報記録ニ依リ明確トナレリ

ゲリラ敵潜水艦より補給1

【出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C13071365200:1944(昭和19)年 陸軍省 「渡集参乙第342号 渡集団情報記録(乙)第153号(自5月1日至5月15日) 昭和19年6月10日」(3コマ目)


陸軍省:米比軍第二軍管区(フィリピンゲリラ)はワシントンに承認された権威あるもの


(7コマ目)
(二)表記ノ「米比軍第二軍管区」ハ「ワシントン」ニテ認メラレタルモノナレバ権威アルモノナリ

ゲリラワシントン承認1

【出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C13071401700:1944(昭和19)年 陸軍省 「垣情第5号 情報記録(自1月28日至2月7日)/垣情第5号別冊2月11日 ロスバニオス マルキン、ゲリラ隊押収書類」


アメリカの朝鮮・中国における抗日煽動

アメリカが抗日ゲリラを仕立てて日本に反抗させたのはフィリピンだけでなく、

朝鮮半島では宣教師を使って「独立」を煽動し、日本人を虐殺させ、


【京城(現ソウル)の天主会教会】
tenshukyoukai_keijo00001.jpg

【宣教師の煽動により朝鮮で暴動発生、日本人警察官二名が殺戮された】
アジ歴朝鮮人による日本人警官殺害1【出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:A06032002200:1932(昭和7)年3月20日 朝鮮総督府 「朝鮮統治と基督教」(15コマ目)


中国では蒋介石、毛沢東らを使って人民に抗日を煽動しました。

中国での抗日運動はその激しさに在支日本人は命の危険を感じ、そしてその予感どおり済南事件上海事件、通州、通化事件などで虐殺されていったのです。


↓↓↓米第14空軍シェンノート司令官に勲章と感謝状を贈呈する宋美齢↓↓↓

宋美齢は蒋介石の嫁で、米英とともに支那事変で大もうけした浙江財閥の令嬢です。

シェンノートは日本軍補給物資50万トン破壊を目標に中国の基地から南シナ海沿いの日本軍補給路を爆撃、のち北九州空襲を指揮した人物。

シェンノートと宋美齢

打倒侵略強盗日本。反日弁士は激越な世論をかきたてた。

抗日1

「打倒日本帝国主義、日本製品を排斥せよ、日本に抵抗して死ぬと誓え」あらゆる排日スローガン。

抗日2打倒日本帝国主義

在留邦人はあまりのおそろしさに生きた心地もないほどであった。
米英が大陸で抗日を煽動した理由は、中国、満洲、シベリアといった大陸資源の独占でした。日本人の命は資源よりも価値がないのです。

抗日3打倒日本帝国主義

満洲事変を契機として抗日、排日のあらしは全支を吹きすさんだ。
本来、満洲は漢民族の土地ではなく、満洲族である愛新覚羅家の土地だった。それを米英が「東北失地回復!」という抗日スローガンで中国人民を煽動した。

抗日4満洲事変排日の嵐

抗日救国の伝単(ビラ)はちょっとした裏町の路地にも貼られた。

抗日5抗日救国

不気味な空気が全支をおおい、抗日義勇隊が編成された。旗章に「第八路軍」とある。スローガンは勇ましいが、その下地にあるのは漢民族の白人事大。そしていまの中国がある。

抗日6抗日義勇隊

不安は日にすごく戦雲空を覆うて北京の街も暗い。在留邦人は正金銀行に避難して炊き出しを受ける。

北京城外日本人


アメリカという国は「日本の世界侵略をやめさせる」というキレイゴトの裏で、陰湿な日本人差別と虐殺をやった国です。

日本にしてみれば、「経済封鎖かけといて世界侵略なんかできるかよ?」といったところですが。

そんなアメリカの陰湿なお国柄はいまでも変わらず表では「トモダチ」「反差別」と言いながら、その裏では日本人保守派がSNSで「支那人」「朝鮮人」と書いただけでアカウント凍結といった言論封鎖をかけてくる。

一方、サヨクの待遇はというと、法に抵触するような脅迫でもやらなければアカウント凍結にはならない。

しょせんアメリカもアッチ側なのです。

宣伝される差別と宣伝されない差別

アメリカ発の反差別運動が日本で拡がらない理由は、白人社会の激しい日本人差別にあって、白人がのたまう「反差別」はギマンにしか聞こえない。その裏に必ず何かあると勘繰らずにいられない。

人種差別で200万人~300万人もの同胞が虐殺されれば、その恐怖から「差別反対」などと敵国人に対して言えなくなるはずです。

いわゆる暴力による言論封鎖です。終戦後、日本人が「マニラ虐殺」における米軍の責任を問うことがタブーとされたように。


広がりを見せる“#meetoo” 水原希子、「女性とは一体何ですか?」アラーキーに問う
2018年4月10日 リアルライブ

 女優としても活躍するモデルの水原希子がインスタグラムのストーリー機能で写真家・荒木経惟氏に対する「#meetoo」問題に触れた。

 事の発端は、モデルのKaoRiさんが4月1日に公開した「その知識、本当に正しいですか?」というブログ。記事内でKaoRiさんは、荒木氏からほぼ無報酬でミューズ“役”を務めさせられたり、モデルとしてはもとより人間としてもぞんざいに扱われていたことを告白。女性が性被害を告発する世界的ムーブメント「#meetoo」として注目を集めていた。

(中略)

 水原の勇気ある行動により、KaoRiさんの「#meetoo」もより多くの人の目に触れられることとなった。日本ではまだ浸透しきれていない「#meetoo」もこれを機に大きく広がっていくかもしれない。



本記事の資料:フィリピンに従軍した英文毎日新聞記者の手記:
共産主義でフィリピン人の抗日を煽動したアメリカ


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 田村吉雄編「秘録大東亜戦史 比島篇」所収 英文毎日編集部 中村康二 「フィリピン政府の横顔」 ゲリラ

※管理人注:( )内は管理人による注釈です。


 抵抗の歴史

 フィリピンにおけるゲリラの歴史は永(なが)い。それは血に彩られ、民族の呪詛に満ちた暗黒の英雄詩でさえある。スペインに対する反抗、米西(アメリカ-スペイン)戦争直後のアメリカに対する抵抗などフィリピンの中世、近世の歴史は一面反抗の歴史とも云(い)える。

 約四世紀に亘(わた)るスペインの圧政時代には農民一揆、または修道僧への反抗として血を流した。米西戦争終結に伴うパリ条約の結果、アメリカが比島(フィリピン)をアメリカの領土と宣言した直後にはスペイン時代に培われて来た為政者に対する不信と反感は最高潮に達し、全島民が結束して対米抵抗運動に起(た)ち上った。これを圧(おさ)えようと、米軍が各地で「残虐行為」を行ったことは文献の紹介するところである。

 国際法において「占領地住民にして占領軍に反抗すること」は不法とされている。ゲリラは国際法においては認められていない存在である。

 しかし、このような国際法の規定もフィリピンにおけるゲリラを何ら抑圧するものではなかった。アメリカからの物心両面にわたる絶対的援助と約束を得て、フィリピンのゲリラは成長し強化され、ついにフィリピン作戦を決定的なものにする重大な役割を果している。 

 フィリピン作戦及び軍政を考えるに当って彼らの存在を無視することは出来ない。マッカーサー将軍の帰比が純軍事的というよりも多分に政治的な意図を含んでいたとは一般に考えられていることであるが、それにしても彼のフィリピン上陸を容易ならしめたのはゲリラの存在であった。

 そして日本軍政に最初の成功から急転して失敗をもたらした大きな原因もまたゲリラに在(あ)る。


【マッカーサーのリンガエン上陸を助けたのもフィリピンゲリラ】
リンガエンに上陸するマッカーサー

 アメリカによって承認されたゲリラの総数は詳(つまびらか)ではないが、米国在郷軍人会に登録されたものの概数は約二十七万と称せられている。マッカーサーが最初企図した数は十万といわれ、二倍半以上の数に達し、承認ゲリラ部隊の数は百四に上っている。

 これら正規のゲリラに加えて、老人婦女子に至るまでが伝令、情報勤務に利用され、動員された。これらの人たちが、非武装ゲリラ、又はシンパ(シンパサイザーの略。同情者。共鳴者。特に、左翼運動などに直接には参加しないが支持援助する人)としてレイテ作戦当時はフィリピン約一千の町(ムニシパリティ)、またこれらが包含する村落(バリオ)にあって約二百にすぎない町に存在する日本軍に抵抗したのである。

 ゲリラが戦争当初からあの数と熱意をもっていた訳(わけ)ではない。占領当初の民心はこのような敵性とはむしろ逆なものであったとも云える。米西戦争当時に発揚されたあの民族的抵抗は存在しなかった。


【日本軍のマニラ占領|1942(昭和17)年】
日本軍占領下のマニラ

 局地的な抵抗はあったが決して軍政を根底から揺り動かす程のものではなかった。ガダルカナル反攻を契機にゲリラは始めてはっきりと胎動しはじめ彼らの動向が強く大衆の心に根を下(おろ)したのは一九四四年の半ば、サイパン陥落前後からであった。


【玉砕したサイパン守備隊の遺体】
米軍の日本艦船無差別撃沈により援軍、物資の補給、部隊の移動ならず孤立して玉砕した。
サイパン守備隊

 その組織と活動

 フィリピンにおけるゲリラ活動の様相と手段は地区によって違う。ビサヤミンダナオ地区のゲリラは一面戦闘、一面浸透であったが、ルソン地区ではサイパン陥落を境としてその前を「浸透期」その後を「闘争期」としている。

 オーストラリヤにあるマッカーサー司令部のフィリピンゲリラへの指令は武装が完備するまでは専(もっぱ)ら情報蒐集(しゅうしゅう)に努力せよというのであった。

 この指令は北部フィリピンにおいて実施されたが、他地区では実行されていない。

 軍人を中枢とするフィリピンゲリラが発生以来その組織が一通り完成し、情報の獲得から対日武力闘争に発展して行くまでの努力は決して生易しいものではなかった。

 戦線は遥か南西太平洋に延び、アメリカ帰来の可能性は極めて薄い。一般島民はゲリラに対してむしろ無関心な態度しか示さない。これら少数のゲリラ先駆者たちの将来は暗澹たるものがあった。

 彼らが編成の礎石をかため、それを拡大、強化して行くに当ってまず着手したことは隊員の獲得とその組織化であった。この組織はついに全国的単一組織下におかれたことはなく、ゲリラの伸張状態は場所により、その地方の特性に応じて違ったが、横の関係は比較的に確立されていた。

 戦前フィリピンは次の如く「十戦区」に分れていた。

 第一区=カガヤン、イサベラ、山岳、ヌエバ・ビスカヤ、北イロコス、南イロコス各州(以上北部ルソン島)

 第二区=ラ・ウニオン、パンガシナン、タルラック州(中部ルソン島)

 第三区=パンパンガ、サンバレス、バターン、ブラカン州(中部ルソン島)

 第四区=リサール、キャビテ、ラグナ、バタンガス州、マニラ市(中南部ルソン島)、ミンドロ島、パラワン島

 第五区=タヤバス、ビコール半島(南部ルソン島)、マスバテ島

 第六区=パナイ島、ロンブロン島(ビサヤ地区)

 第七区=ネグロス島、シキホール島(ビサヤ地区)

 第八区=セブ島、ボホール島(ビサヤ地区)

 第九区=レイテ島、サマール島(ビサヤ地区)

 第十区=ミンダナオ島、スル列島

 これらの戦区は戦時中も厳然と存在し、この戦区を中心にゲリラは組織を固めて行ったのであった。フィリピンのゲリラは、大きく分けて二種類あった。一は軍人(特に将校)出身者で、いわゆるユザフェと呼ばれているもの、他は一般住民(シビリャン)若(もしく)はその出身者である。

 軍人出身者のゲリラの母胎はいうまでもなく比島軍、警察隊である。一九三五年連邦政府樹立直後立法された比島国防法がこの軍隊の基礎であった。

 この法律の規定するところは一九四六年(完全独立の予定年)を目ざし、スイスに見られる市民軍(シティズンズ・アーミー)を樹立しようとするもので、毎年四万の国民を教育し十年後の独立達成までには四十万の軍隊を作り上げようと計画されていた。


【サヨク「日本はスイスのような中立国家になれ!」】
中立国には軍隊がないと思っている日本のサヨク。
国会前反安保デモ1

 連邦政府の政体を規定したタイデイングス・マクダフィによればフィリピン軍は究極においてアメリカ大統領の指揮下にあるとされており、一九四一年九月非常時宣言によってフィリピン軍は完全にアメリカ軍の一部になった。そしてマッカーサー少将(後の元帥)が、現役中将に復帰してUSAFFE(UNITED STATES ARMED FORCES IN FAR EASTの略)=ユザフェ=の司令官に任命された。これらの将兵がのちのゲリラ先駆者の実体であった。日本軍に投降後寝返りをうったもの、若(もし)くはバターン、コレヒドールなどの戦場からそのまま山中に逃れたものが米将兵若(もし)くは米民間人と協力しつつフィリピンゲリラの組織化をはかって行った。

 レイテ作戦開始直前、国民化していた当時のゲリラ組織を一つの大きなピラミッドとするなら、その頂点に軍人、並(ならび)に山中にある民政政府の要人が坐(すわ)り部の厚い底辺を構成するのがファン・デ・ラ・クルスの別名で呼ばれる一般島民、特に農民であってその中間に上から中央政府要人、知事、市町長、部落長の順位になる。

 就中(なかんずく:特に)、純粋ゲリラの生活を保証した農民の存在は大きい。彼らが「対日抵抗の大動脈」と呼ばれたのも真に故(ゆえ:理由)なしとしない、比島大学教授で戦前から日本にも知られていたマキシモ・カラウ博士は、

「山や野でニッパ(ニッパヤシ)の小屋に住み、カラバウ(タガログ語で水牛のこと)を使い、裸足で野を耕す質朴な農民こそ、対日抵抗の屋台骨であった」

 と評している。パナイ、ロンブロン島のゲリラ知事として日本軍に抵抗し尽したトーマス・コンフェソールはオスメニヤ大統領に宛てた報告の中で次の如く述べている。

主義のためにたたかった我々の大黒柱は野や山に住み裸足で働く農民であり、また彼らの小供(こども)たちである。過去三年間に亘る戦争がいみじくも証明した如く彼らの家は"自由の城壁"であって、彼らの心には自由な生活への焔(ほのお)が絶えず燃え盛っていた。彼らはバターン、コレヒドールで燃えた焔をそのまま煽ぎつづけ、我々に大きな力を与えてくれた。われわれのアメリカ並に民主政治に対する忠誠は彼らの援助によってさらに力強いものにされた……」

 これら農民、すなわちバリオの住民たちが直接指導者と仰いだのは部落長テニエンテ・デル・バリオである。農民たちが直接日本軍と接触しなかったに対し、部落長ともなれば何らかの意味において日本軍と交渉を持たざるを得ない訳で、これが町長・知事ともなればその接触面は更に拡がり、米西戦争直後のゲリラ情況を髣髴(ほうふつ)とさせる、「二重人格的活動」が大きく写し出されて来る。

 強力なゲリラ部隊

 このような組織と発展を遂げて遂に全国的な背景を持つに至ったゲリラが日本軍の存在に大きな脅威を与えたのはいうまでもないがいまこれらのうちの代表的なものを、若干列挙してみよう。

(ビサヤ地区、パナイ島)

フィリピンパナイ島

 パナイゲリラは最初のころから武装ゲリラと非武装ゲリラの二つに分れ、前者はマカリオ・ペラルタ大佐を隊長とする軍人で、後者は前記のコンフェソールを主体とする民事政府であった。下部組織はみなこの二つの組織に対し絶対的な協力と援助を与えた。

 パナイ・ゲリラの組織は一九四二年の八月から開始された。そして程なくパナイ駐屯の日本軍を同島の各州首都(カピス州カピス、アンテイケ州サン・ホセ、イロイロ州イロイロ)に追い帰して(原文ママ)いる。

 この武装ゲリラと併立して存在したコンフェソールの民事政府は、当初から裁判所までも持ち、緊急紙幣も発行していた。

 ペラルタ・ゲリラは一九四四年十月レイテ作戦開始当時は武装人員二万二千六百、装備は武器八千を誇っていた。これに抗する日本軍の総数は僅か一千に過ぎなかった。

 戦犯裁判に証人として出廷したパナイ第六十一師団情報主任参謀フェデリコ・サルセドは次のようにパナイ・ゲリラの活動ぶりを証言した。

 ……イロイロ地方における情報網は完全な組織の下に確立され、日本軍の部隊名から将校の名前まで知られていた。

 ……一九四二年十二月頃よりサンフランシスコを経由して濠洲(ごうしゅう:オーストラリア)にあるマッカーサー司令部との無線連絡に成功し武器、弾薬、薬品、食糧等の潜水艦輸送が実現、一隻平均二百ないし三百トンの補給をうけた。一九四三年の六月初旬までには全師団戦闘部隊の約半数は完全に武装され、一九四四年の一月には九割まで武装は完備した。日本軍の如く大型火砲類はなかったが、全体としてはゲリラの武装の方がすぐれていた。

 ───これらいわゆるアクティヴゲリラに対し半武装、非武装ゲリラはパッシヴと呼ばれ主として後方活動に従事したが、農民全般から医者、看護婦、宗教関係者、政府官公吏、ならびにインテリを網羅した。

(レイテ島)

フィリピンレイテ島

 アメリカがフィリピン反攻の足がかりにレイテを選んだのはゲリラが最も猖獗(しょうけつ:悪いものの勢いが盛んなこと)を極めていたからであった。先年までフィリピン国防長官をしていたルベルト・カングレオンの率いるレイテ・ゲリラは一九四四年十月、アメリカが同島に上陸する一年二カ月前に、マッカーサー元帥に公式に承認されており彼の部下のために一九四四年末までに八千の日本兵が殺されたと云われている。

(セブ島)

フィリピンセブ島

 セブ・ゲリラ米人大佐ジェームス・クーシンの指揮下にあって、一九四四年四月に当時の連合艦隊参謀福留中将以下数名を捕獲し、ア号作戦(サイパン)直前の大本営に決定的打撃を与えた。古賀司令長官が殉職を伝えられたのはこのときで、トラク(トラック島)から空襲を逃れマニラに向う途中ゲリラ地区に不時着し古賀提督は自刃したと云われた。


【トラック島空襲|逃げまわる日本商船】
米軍は「パールハーバー不意撃ちの報復」としてトラック島を急襲し、日本の民間人、民間船もかまわず攻撃した。
トラック島空襲逃げ回る日本商船

【古賀峯一連合艦隊司令長官】
広く知られている戦死理由は「スコールに巻き込まれた結果の不時着」とされている。
古賀峯一連合艦隊司令長官_250

 福留中将以下数名はクーシン大佐に軟禁され、彼らの引渡しのため現地警備隊長大西精一中佐はゲリラと一時休戦条約を締結したこともあった。

(ミンダナオ、スル地区)

フィリピンミンダナオ島

 ミンダナオ地区ゲリラは早くより米人W・W・ファーアィグ大佐の下に統一され民事政府とともに大々的抗日を行っている。

 戦争開始直後日本軍はイリガン、ダンサラン、カガヤン、ブキノドン、ダバオ、コタパトなどの各地を占領したが、西ミスアミスとサンボアンガ州には駐屯しなかった。同地区にゲリラが発生するまで日本軍は僅か二回しか哨戒を出さなかった。この地区で比島警備隊のモルガン大尉(米人)がゲリラ隊の組織に乗り出したのは一九四二年九月の中旬であった。十月にはマッカーサーの直属部下であったファーアィグ工兵大佐を司令官に据え、自分は参謀長となって本格的なゲリラ隊組織を開始した。ファーアィグは直ちに民事政府を樹立し、これが全島に拡がって彼は、第十戦区司令官に正式就任をした。

 勿論(もちろん)いろいろな確執はあったが全島的に単一戦線を構成して、日本軍に統一した戦闘を挑んだ。マッカーサーがレイテに上陸した一九四四年十月末までにミンダナオゲリラは約四万の兵力を擁するまでに強化され、ミンダナオ、スルー島において日本軍に莫大な損傷を与えた。

(ルソン島)

 ビサヤ、ミンダナオ地区のゲリラ活動が一面浸透、一面戦闘であったのにひきかえ、ルソンのそれがサイパン陥落前後を境に浸透期、闘争期の二つに区分出来ることはすでに述べたが、その最大の理由はゲリラ行動が非常に制限されたからである。日本軍の大部がルソンという単一の島に駐屯し、ルソン第一主義をとったことは彼らに極端な不自由を与えずにおかなかったし、それと同時に、濠洲からもっとも遠いということや、海岸線の関係から潜水艦が活躍しにくいという点も大きな理由であった。

 米軍がルソン上陸するまで「承認」ゲリラ部隊がいなかったにかかわらずレイテ作戦が開始された頃ルソンのゲリラ部隊数は四十に達し、ルソン上陸時は七十にまで増加していた。その発生時期や環境はまちまちであった。

 日本との接触を避ける意味で山中に逃れそのままゲリラとして居着いてしまったのかアメリカの勝利が確実になった頃を契機に雪達磨(ゆきだるま)のようにふくれ上ったものに至るまで雑然とした様相を呈していた。しかも規模に至っては隊員わずか数名から完全装備した隊員数万というものまでがルソンという島に犇(ひし)めき合っていた。




【写真出典】
・1954(昭和29)年 富士書苑 森高繁雄編「大東亜戦争写真史 南方攻守編」
・1954(昭和29)年 富士書苑 森高繁雄編「大東亜戦争写真史 大陸戦塵編」

関連記事
スポンサーサイト