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2018/03/23

【在日中国人必見!】親日反共中国人治安軍画像集


親日反共中国人治安軍(協力軍、支那側武装団体ともいう)は1939(昭和14)年10月北支(中国北部)で創設された治安軍(八コ団、約15000名)を母体とする軍隊です。

この治安軍は1940(昭和15)年3月、日本の反共精神に呼応した汪精衛一派が新支那政府(南京)を樹立すると、その配下の軍として、剿共軍(共産党を剿〔掃〕滅する軍)として育っていきました。


反共日本軍と談笑する治安軍

脚注には「新中国軍と手を携えて戦野に馳駆する煙草も仲よく分けてのむ 新中国の標語は政治独立、軍事同盟、経済合作、文化溝通の四点だ」とあります。

日華合作2煙草

1941(昭和16)年1月30日、治安軍は大本営陸軍部が新国民政府側正規軍の整備を指示したことを踏まえて、中国における日本軍占領地の治安協力軍とされました。

そして同年12月8日、日本が連合国の日本人差別・弾圧にブチ切れて真珠湾攻撃を決行すると、中国派遣軍を太平洋方面防衛にあてるため、日本は中国における租界、治外法権、新国民政府に対する政治干渉を撤廃した上で、治安軍を新国民政府の防共正規軍として錬成していきました。

この治安軍と今でも白人に事大している中共人民解放軍とのちがいは、治安軍は白人におびえることなく1943(昭和18)年1月9日、米英に対し宣戦したことです。


画像でたどる親日反共中国人治安軍

日本が中国に進軍した目的は、西洋列強をアジアから追放するため、中国人の強力な排日運動にさらされている在支日本人の安全を確保するため、連合国の対日経済封鎖によって入手できない資源を獲得するため、そして西洋列強の傀儡(かいらい)である中国共産党を討伐することでした。

反共日本軍が行く所、赤化蒋介石軍と中国共産党は駆逐され、城内には日本軍の「容共是自殺政策(共産主義を容れることは自殺政策である)」というスローガンが掲げられました。

現代日本人も肝に銘じよう!容共是自殺政策!

容共是自殺政策

中国人の偉いところは朝鮮人のように単細胞的に「反日」を叫ぶのではなく、中華思想はちょっと脇に置いといて「日本がいうこともちょっと聞いてみよう」という姿勢があるところです。

支那事変を早期終結させたかった日本軍は支ソ不可侵条約を締結して抗日戦をやめられない蒋介石を見捨て、蒋介石の部下だった汪兆銘(おうちょうめい。汪精衛〔おうせいえい〕ともいう)一派の単独政府樹立を支援することにしました。

日本はその新政府と和平条約を締結して支那事変を終結させようとしたのです。その流れで「政府だから軍隊が必要だナ」ということになり、治安軍が創設されました。

【中華民国和平南京政府 汪精衛(汪兆銘)主席】

南京新政府汪兆銘氏

汪新政府に属する治安軍(新編支那軍)は日本の協力の下大きな進歩を遂げていきました。写真は中型戦車です。

日華合作10協力軍大進歩

平和なき日々の訓練は武漢平野に展開され日本軍との偉大な協力が行われました。現在の中共の恐怖政治でしかたなく任務をこなすダラダラした人民解放軍とは緊張感がちがいますね。

日華合作8日本軍に協力

銃剣を構えた氷のような一瞬。共産主義で堕落する前の中国人はりりしいです。

日華合作7協力軍銃剣

ちなみにこれは中共が「日本軍に勝利した」という紅区(共産区)の農奴たちです。中共は毎年ソ連から1300万元もの大金を支給されていたのに、この農奴らには一銭もくれてやりませんでした。愛国心のあるなしで、こんなにも国防に対する姿勢がちがってきます。

china_nouminhei.jpg

「日本式に銃剣術の練習 誠に颯爽たる武者振り」。共産党治下はどんなに働いても給料はいっしょ、能率が悪ければ手当なしで残業を強制され、私腹を肥やすのは共産党員だけですから人民はヤル気をなくし、どんどん堕落していきます。

日華合作9銃剣術

汪主席の治安軍閲兵。立ち姿からしてちがいますね。パリのショップの前で大便している中国人とは大ちがいです。

日華合作10汪兆銘氏閲兵

1940(昭和15)年3月30日、南京に汪新政府が樹立され、局部的とはいいながら中国にも平和がきました。遊ぶ子どもらにも春がきました。

しかし(白人事大、中華思想による日本人蔑視に満ちた)中国民衆はかえって、汪兆銘を売国奴あつかいにして、大勢は予期した通りには進みませんでした。

中華思想による日本人蔑視が西洋列強に利用されたことを、いまの中国人は気づいているでしょうか?

それともまだ「抗日」「反日」と聞くと、わけもなく頭に血が上るんですかね?

1940年3月30日南京

「汪政権なって新和平政府への喜び いたるところに沸き上る」。

写真は1940(昭和15)年の南京です。あの南京大虐殺(1937年)から、たった三年後の南京です。まあ、なんということでしょう、こんなに大勢の支那民衆が「総力参戦」の旗の下に集まっています。このとき支那民衆が参戦していたのは治安軍が創設された主目的である剿共戦でした。

このように南京に大勢の支那民衆がいた理由は、日本軍が実施していた「帰順工作」です。日本軍は占領地から共産勢力を駆逐すると、帰村を希望する人民を呼びもどす政策を実施していました。

日華合作4南京

同じく漢口の治安軍。街もキレイですね。当時の中国の名物は乞食でしたが、そんなものは見当たりません。

日華合作3漢口

同じく北京の治安軍。画像に見える「生共死」とは治安軍のスローガン「同生共死」のことです。中国人の関心はもっぱら日々の飯と私腹を肥やすことですが、そんな自分さえよければいい中国人に汪政権下「同生共死」と中国への愛国心を抱かせた日本軍はスゴイと思います(なぜ日本軍が…)。

現在の中共一党独裁、恐怖政治では、「愛国心」では民衆煽動ができず、また国論統一もできないので中共サマは「反日」で民衆を煽動するのです。

そして支那民衆はロシア革命以後100年間、「抗日」という米英が作ったスローガンに踊らされてきたのです。

日華合作5北京

反共日本軍が行くところ平和が来ました。写真は日本兵から菓子をもらう中国人の子どもです。日本の菓子は昔から外国人に好評だったようですね。
平和来了(へいわらいら)。

日本兵から菓子をもらう支那の子供

村はずれで見つけた中国人の捨て子に卵と砂糖水を与える日本兵。捨て子は衰弱が激しいようです。中国では子どもが死ぬとその死体を村はずれに捨て、野犬に食わせたそうです。そして母親は毎日その死骸を見に行き、わが子の死体が野犬に食われていないと「死に恥をさらす因業者が!」と子どもの死体を棒でたたいてたたいてたたき抜いたそうです。日本人には┐('~`;)┌な世界です。

支那人の捨て子と日本兵

一方、日本軍が広東城内に入るとおびただしい盲人たちが蒋介石軍や中共に置き去りにされていました。蒋介石軍や中共は村で掠奪を働いたあと火をかけて焼き尽くすのがデフォだったので人民たちは蒋介石軍や中共が来ると聞くや一目散に逃げ出しました(参考記事:人間のクズが支那兵になる)。こんな中共が「パラリンピック」を開催するとは、4000年早いような気がします。

広東城内盲人たち

この親日反共中国人治安軍と白人に事大して甘い汁を吸い続けている中共及び蒋介石軍との違いは、治安軍は1943(昭和18)年1月9日に米英に宣戦したことです。

中国共産党なんざ日本軍と戦った事実もない、革命すら起したことがないのに大陸を統治して国連にも加盟できた理由は「中共が日本に勝利した」からではなく、、白人に事大して白人の傀儡(かいらい)となり、中共人民を搾取しているからです。

日本軍は中共とは戦争していませんからね
終戦時における大陸戦線概見表_2【出典】1954(昭和29)年 富士書苑 森高繁雄編「大東亜戦争写真史 大陸戦塵篇」


今から80年前、日本軍が中国でこういう伝単(ビラ)を配っていたときにもっと多くの中国人が耳を傾けていたなら、習近平皇帝陛下爆誕に泣くこともなかったでしょう。

【陸軍省|剿滅共産党】
剿滅共産党1【出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C13032517200:陸軍省「剿滅共産党」(中国語)


日本にはわかっていたのですよ、支那が共産党を選べば将来支那が、現在のように白人の植民地に逆もどりするということを。

「反日」を使えなくなりつつある"精神的西洋人中国共産党"が発狂中!とりあえず習近平独裁体制誕生、おめでとうございます

日本人のことをどこまで知っているのかは不明ですが日本人に傾倒する中国人が増えてきた、とかで周恩来的使いっパシリに就任した王毅外相が激怒、しているそうです。


王毅外相「精日(精神的日本人)」に激怒――全人代第二報
2018年3月9日 Newsweek

3月8日、王毅外相は全人代における外交関係の記者会見を行なった。記者から出た「精日をどう思うか」という質問に声を荒げて「中国人の堕落者だ!」と激怒。精日とは何か、中国ではいったい何が起きているのか?

(中略)

精日(精神日本人)とは何か?

「精日」とは「精神的日本人」のことで、日本を礼賛し、日中戦争(中国では「抗日戦争」)時代の日本軍の軍服などを着て楽しむ中国の一部の若者たちのことを指す。(後略)

【中国共産党は今もウォール街とズブズブだそうで】
王毅1

【白人とズブズブ毛沢東】
毛沢東1【写真出典】Wikipedia


【スチルウェル米陸軍中将と蒋介石その妻宋美齢】
蒋介石宋美齢スチルウェル米陸軍中将

【第二次世界大戦を工作したユダヤ共産主義者たち】
「白人の自由」でアジアを搾取しつくすと宣言した「大西洋憲章」をとりまとめたルーズヴェルト米大統領(本人がユダヤ人)とチャーチル英首相(ママがユダヤ人)。共産党とは国際金融資本の手先です。共産主義も資本主義も形はちがえど結果は「搾取」です。
ユダヤ共産主義者たち

ちなみにこの時ユダヤ人らが乗っていた英戦艦プリンス・オブ・ウェールズは、後日日本軍が撃沈しました。ちょっとした手ちがいで。

【プリンス・オブ・ウェールズ号上のチャーチル英首相】
プリンスオブウェールズ号上のチャーチル

本記事の資料

1939(昭和14)年10月、北支に治安軍が設けられた


出典:1968(昭和43)年 朝雲新聞社 防衛庁防衛研修所戦史室 「戦史叢書 北支の治安戦〈1〉」 附録 永津佐比重 「治安軍練成の思い出」

※管理人注:( )内は管理人による注釈です。


 昭和十四年十月、北支(中国北部)に治安軍(八コ団、約一五〇〇〇名)が設けられた。

 私は新軍の編成に先立ち、まず軍事顧問部を充実することが急務であると考えた。特に許可を得て、陸軍省に行って自ら指導教官要員の詮衡(せんこう:原文ママ)に当たった。これら将校の素質如何が顧問部の生命にかかわるからである。各聯(連)隊区において、幹部候補生出身の予備役青年将校の中から志願者を募らせ、私の面接試験に合格した優秀者を召集して北京に派遣してもらった。第二回の選抜試験にも上京した。これは成功であった。彼らは、よく顧問部の核心となり、治安軍将兵の心をしっかり掌握してくれたことは、その後のいろいろの事例により明らかであった。

(中略)

 昭和十四年初頭、臨時政府は新たに戸口調査を開始し、壮丁(そうてい:成年した男子)徴募の準備を始めた。従来、政府が戸口調査を命ずると、民衆は敏感に反応し、新鋭の徴収、賦役負担などを予想し、ましてや兵隊云々とでも聞けば、驚いて逃亡する者が続出するのが常であった。

そこで私は、随分気懸(がか)りではあったが、募兵区域を河北省の鉄道沿線地区、特に日本軍の威力が十分に及ぶところに限定した。各県知事が軍宣撫班や新民会(中国の場合は親日中国人の団体。朝鮮の新民会は共産主義的団体だった)の協力を得て、慎重に業務を進めた。特に身元保証を厳密にし、共産党員の潜入防止に努めた。徴集は比較的順調に進捗し、同年十月、治安軍が編成された。(後略)



1941(昭和16)年陸軍省:
匪賊で帰順した者の中から剿共軍に採用し軍費を支給する


出典:アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C11110935000:1941(昭和16)年 陸軍省 北支那方面軍司令部 「(10)支那側武装団体の状況並に其の指導概況」(15コマ目)

※管理人注:( )内は管理人による注釈です。


 6 剿共軍

一、皈(中国語:キ、かえる、かえすの意)順匪賊(ひぞく:日本の山賊のようなもの。ここでは思想を持たないふつうの匪賊のこと)中兵力大ニシテ素質比較的良好ナリシモノヲ臨時政府治安部ノ所管トシ政府ヨリ毎月一定ノ軍費ヲ支給シ所在日本軍ノ指揮下ニ治安警備ニ任ゼシメ来レルモノヲ剿共軍トス
現在剿共第一、第二、第三路軍アリ兵力約八千人其(ソノ)素質ハ第一路軍以外ハ概ネ良好ナリ、将来逐次内容ヲ整理シ良好ナルモノハ治安軍隊ニ改編スル計画ナリ
軍費ハ首領ニ対スル請負(うけおい)制度ニシテ治安総署ノ支出スル金ハ年額約二百五十万円ナリ

一、該部隊ノ指導ハ顧問部トシテ直接実施セズ各兵団毎ニ実施シアリ



1941(昭和16)年1月30日 陸軍省:
新国民政府側の正規軍その他の武装団体の整備、指導要綱を指示


出典:1968(昭和43)年 朝雲新聞社 防衛庁防衛研修所戦史室 「戦史叢書 北支の治安戦〈1〉」 第四章 昭和十六年度の治安戦

※管理人注:( )内は管理人による注釈です。


 新国民政府側武装団体の整備指導

 大本営陸軍部は、前述の対支作戦計画を示達するとともに、昭和十六年一月三十日、大陸指第八百二十四号により新国民政府側の正規軍その他の武装団体の整備、指導要綱を指示した。その狙いは日華基本条約成立に伴う新国軍の建設と、これによりわが在支兵力の削減の肩代わりとなる警備力を充実し長期大持久の戦局に即応しようとするものであった。その内容は、後述するような批判もあったが、中央としては中南支、北支、蒙疆など各地方の建設進度に応ずるよう育成し、漸進的に統一強化する考えであった。



1942(昭和17)年12月
 "大東亜戦争完遂のための対支処理根本方針"決定
・南方につぎこむ兵力を支那大陸から抽出転用する
・汪兆銘国民政府、英米に宣戦す


出典:1954(昭和29)年 富士書苑 森高繁雄編「大東亜戦争写真史 大陸戦塵篇」 新たな構想

※管理人注:( )内は管理人による注釈です。


 "同生共死"へ

 太平洋全域にわたる緒戦の優勢も、開戦後半歳(年)、ミッドウェーの惨敗からけちがつきだした。四月には、マックアーサーが西南太平洋反枢軸連合軍司令官に就任して、夏には、反攻の鋒先(ほこさき)がガダルカナルにうちこまれた。

 その年の夏から秋にかけて、一挙に支那事変を解決する決意のもとに進められた支那派遣軍の重慶進攻作戦の準備も中止しなければならない局面になった。ブーゲンビルやニューギニア方面につぎこむ兵力を、支那大陸から抽出転用しなければならなくなったからである。

(中略)

 大陸戦線に対しても、従来通りの考え方では駄目だ、頭を切換えて、政戦略ともに一八〇度の転換が必要だ──そういう考え方から十二月末に決定をみたのが、"大東亜戦争完遂のための対支処理根本方針"だった。

 それは、汪兆銘の国民政府の対米英参戦を機会に、日本は、租界も治外法権も撤廃し、国民政府に対する政治的な干渉も努めて避けてその政治力を強化する一方、重慶(蒋介石の国民党政府のこと。南京陥落で日本に敗戦した蒋介石は重慶に遷都、抗日戦を続行した)に対しては一切の和平工作をしないという内容であった。

 国民政府は翌年の一月九日に米英に対して宣戦した。"同甘共苦"から"同生共死"にまで転換したのである。



中国ではわが子が死ぬと野原に捨て、死骸が野犬に食はれるまで棒でたたいてたたいてたたき抜く


出典:1932(昭和7)年 岡村書店 鹿山鶯村 「明け行く満蒙の透視」

※管理人注:( )内は管理人による注釈です。


 小児を葬る

 支那では、嬰児や小児が死ぬと、その死体は菰(こも)に包んで、野原の中に捨てるといふことだ。さうしてその母親は、捨てた子共(こども)の死骸を毎日見廻って、死体が野犬に喰はれておれば、非常に安心して家に還(か)へる。若(も)し何時(いつ)行って見ても捨てたまゝになってをれば、それこそ棒を以てこの菰包みの死骸を敲(たた)いて敲いて敲き抜く、そして、「犬にも食はれずにかうして死に恥を曝(さら)すと云(い)ふは、何んと云ふ因業(いんごう)なことだ。そら、その悪業をかうして敲き出してやる、」と云って、打ちのめすのだといふことである。

毎日毎日母親は死骸を見まわって敲いて帰る。若しどうしても野犬に食はれなければ、今度は処(ところ)を換へて捨てる。そして食はれるまでは毎日のやうに見廻るのであった。そのうちには野犬が来て喰ってしまふ。さうすると母親は非常に悦(よろ)こんで、これでやっと子供の悪業がつきたと安心して家に還(かえ)るのだといふことである。何んといふ残忍なことだ。母親として可愛(いとし)い自分の子供を菰に包んで野中に捨てるさへ、日本人はとても痛はしくて出来ることではない。それが更に棒を以てその可愛子(いとしご)の死骸に鞭(むち)打つといふ気持ち。なるほどこれでは、支那人の心理は永久に了解することは出来まい。とわたしはつくづくさう思った。




【写真出典】
・1954(昭和29)年 富士書苑 森高繁雄編「大東亜戦争写真史 大陸戦塵篇」

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