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2018/01/24

韓国の新捏造「学徒兵が学徒動員」を瞬殺す


学徒兵とは1943(昭和18)年9月23日、学徒の徴集延期制度が撤廃されたことにより出征していった大学生や専門学校生のことです。

従軍慰安婦が賞味期限をすぎたせいか、韓国政府が新たに「日本に強制されて朝鮮人が学徒兵として学徒動員された」と主張していますが、この一行の中に、すでに捏造が4点あります。

韓国政府は挺身隊と慰安婦(公娼制度)を混同したように、今度は学徒兵と学徒動員を混同していますね。

そのうち日本の売国議員どもが「韓国に謝罪と賠償を!」と言いだし、韓国が映画を作って世界に日本悪宣伝という悪循環におちいるのは目に見えているので、捏造出始めの時につぶしておくことにしました。

どうぞ、みなさんの反証としてお役立てください。


ココがおかしいバ韓国政府


・学徒動員とは学徒勤労動員のことであって、学徒兵と学徒動員はまったく別物である。

・出征を国に強制されたのは日本人である。

・学徒兵は主に航空兵力および指揮官の補充として徴集されたので、正式名称は帝国陸軍は「特別操縦見習士官」、帝国海軍は「予備学生」である(航空隊配属の場合)。

・学徒兵とは徴集延期制度撤廃による徴集なので、徴兵制が施行されなかった朝鮮人に学徒兵はあり得ない。


【本物の学徒兵(海軍予備学生)】
韓国がまた英霊の名誉をおとしめる
雲ながるる果てに

【画像出典】1953(昭和28)年 社団法人白鴎遺族会編 「戦没飛行予備学生の手記 雲ながるる果てに」(表紙)


まずは韓国政府の捏造「学徒兵が学徒動員」をごらん下さい

日韓併合時代、朝鮮半島の国防を担ったのは日本でした。朝鮮人は国防の任を日本に依存しておいて、戦後73年経とうという今「朝鮮人が強制的に学徒出陣させられた」と捏造し、国防の任を「被害」という、こんな国は一秒でも早く滅亡すればいいと思います。

しかも問題の記事に掲載されている新聞の画像には「光栄、歓呼、万歳」という文字があることから、朝鮮人志願兵の出征を伝える記事と思われます。

それでも韓国政府が渡航証明がない自称元従軍慰安婦を事実だと言い張るように、「朝鮮人も学徒出陣した」と言い張るならば、その被害者の手元と日本政府側に「学徒出陣の徴兵令書」があるはずです。


太平洋戦争期の朝鮮人学徒兵 4385人が「強制動員」=韓国政府調査
2018年1月22日 聯合ニュース

【ソウル聯合ニュース】韓国行政安全部は22日、日本による植民地支配を受けていた時代の太平洋戦争中に学徒動員された朝鮮半島出身の若者の被害実態をまとめた報告書を発刊したと発表した。報告書は動員の対象者に指定された6203人のうち、4385人が軍人に選ばれ、実質的には強制動員だったと指摘した。拒否した若者は軍需工場などに送られたという。

朝鮮人学徒兵1☞学徒兵の入隊を伝える1944年1月の朝鮮総督府機関紙(資料写真)=(聯合ニュース)


 報告書は行政安全部の過去史(歴史)関連業務支援団と高麗大が昨年10~12月に共同で行った調査の結果をまとめたもの。学徒出陣が行われた背景、動員の規模、部隊配属の実態、生存者の回顧録、旧日本軍の部隊名簿など動員の被害実態を幅広く扱った。

 行政安全部は「これまで学徒兵として動員された朝鮮人は4385人と推定されていたが、具体的な資料がなかった」とし、「今回の報告書は被害実態を総合的に究明するのに重要な資料になるだろう」と説明した。

 報告書によると学徒兵は専門学校以上を卒業した者を対象とする動員制度で、1943年末に欺瞞(ぎまん)的な募集と選考により実施された。

 行政安全部は若者を戦場に送り込み犠牲にした日本が与えた被害を正確に明らかにする必要があるとし、「今後、真実の糾明に積極的に取り組む」と伝えた。報告書は国家記録院のホームページ(www.archives.go.kr)で閲覧することができる。


↓↓↓学徒出陣の徴兵令書↓↓↓↓
学徒出陣の徴兵令書

【画像出典】1966(昭和41)年 毎日新聞社 海軍飛行予備学生第十四期会編 「あゝ同期の桜 かえらざる青春の手記」


1938(昭和13)年 内務省警保局
「朝鮮人には志願兵でもまだ早い」

朝鮮人学徒が学業を放棄してのめりこんだのは共産運動でした。こんな日本を裏切って連合国に加担していた民族を強制学徒動員などするはずがありません。

↓↓↓この資料は朝鮮人の共産運動に関する資料です↓↓↓

朝鮮人の徴兵はまだ早い1

(ホ)「朝鮮人を兵隊に採用するのは未だ時期が早い それは大部分の朝鮮人が日本人にはなり切って居ない事で、帝国の為に朝鮮人がどうしても働かねばならぬと云(い)ふ気持が起きて来ない事である」として志願兵制度の実施を時期尚早となすもの等あり。

【出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:A04010461000:内務省警保局 「社会運動の状況(昭和13年下)」 内地在住朝鮮人運動(219コマ目)


1943(昭和18)年9月23日 内閣|法制局
学徒の徴集延期制度撤廃に関する資料

1943(昭和18)年9月 内閣|法制局
「陸軍大臣請議在学徴集延期臨時特例(勅令)ニ関スル件」

出征を国に強制されたのは日本人です。


徴集延期制度撤廃1
昭和十八年九月二十八日
昭和十八年十月二日
「陸軍大臣請議在学徴集延期臨時特例(勅令)ニ関スル件」

勅令第七百五十五号
在学徴集延期臨時特例

兵役法第四十一条第四項ノ規定ニ依リ
当分ノ内在学ノ事由ニ因ル徴集ノ延期ハ之(コレ)ヲ行ハズ

附 則

本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス

徴集延期制度撤廃3

理 由

時局ノ要請特ニ軍ノ幹部補充上ノ必要ニ因リ在学ニ因ル徴集延期ハ之ヲ行ハザルコトトスルノ要アルニ依ル


【出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:A03010130900:1943(昭和18)年 内閣|法制局 「在学徴集延期臨時特例ヲ定ム」(4、6コマ目)


帝国海軍予備学生第十四期会:学徒出陣とは?


出典:1966(昭和41)年 毎日新聞社 海軍飛行予備学生第十四期会編 「あゝ同期の桜 かえらざる青春の手記」 遺稿

※管理人注:( )内は管理人による注釈です。


 学徒出陣

 昭和十六年十二月八日、日米開戦以来一時優勢を伝えられた日本軍も、昭和十八年二月ガダルカナル島撤退以後は全く振わず、続いて四月十八日には連合艦隊司令長官山本五十六元帥が戦死、五月二十九日にはアッツ島守備隊が全員玉砕し、戦況は日ましに日本に不利になって行った。

 このため政府は、同年九月二十三日、全国の大学、高等専門学校などに在学中の学生の徴兵猶予を停止するとともに、徴兵年齢の一年引下げなどの非常措置をとり、国内戦時体制の強化につとめた。

 徴兵猶予を停止された全国の学生は、ただちに本籍地ごとにわかれて徴兵検査を受け、現実に病気の者と、入隊を延期された理工科系の学生を除いて全員が、祖国の急を救うためにペン持つ手に銃剣をとって出陣することになった。

 十月二十一日、雨の明治神宮外苑競技場で、出陣学徒のための壮行会が盛大に開かれた。



学徒動員=学徒勤労動員
1944(昭和19)年3月7日閣議決定 陸軍省
「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」

内容は国民学校高等科、中等学校、工業学校、商業学校、農業学校、中学校、商業学校および高等女学校、大学高等専門学校、農学校、教員養成諸学校(師範学校)の生徒たちを適性にあった工場や農園に配属するための勤労動員要綱です。


勤労動員1

【出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C12120296100:陸軍省 「昭和19年3月7日 決戦非常措置要綱に基く学徒動員実施要綱」


「学徒兵」は俗称|学徒兵と学徒動員「学徒」つながりでイケると思ったバ韓国政府

帝国陸軍の学徒兵の正式名称は「特別操縦見習士官」


出典:1956(昭和31)年 日本文芸社 「現代読本 第一巻第七号 陸海軍航空肉迫決戦総集版」所収 「炎の闘魂!学鷲決戦史 特別操縦見習士官第二期」

※管理人注:( )内は管理人による注釈です。


 涙の吹き流し

本誌 早いもので、あれからもう十一、二年になります。大概なことはこの歳月には忘れ去ってしまうものですが、われわれの胸にいまだに灼(や)きついて離れないのは、あの至純、国に殉じた"若い多くの人々"です。かつて"戦没学徒の手記"というのが出て、深い感銘を受けたことがありましたが学窓から戦線へ、ペンを剣に持ちかえて敢然国難に身を挺されたあなた方、学徒出身の特操の方々は、何か他と違った戦争に対する考え方を持って居られたんじゃないでしょか……

 いや特に違った考え方なんでものは持っていませんでしたね。動機はみんな単純でしたよ。

臼田 私は二等兵のまま試験を受けましてね。たしか立川だったなァ、あれは。生意気なようだけど、どうもバカくさいと思いましてね、あまり体格がよくなかったもんで、鉄砲かつぎも骨が折れたし──

礒谷 私の場合は徴兵検査のとき受かったのが航空兵ということでしてね、行かせられたのが三重県の気象聯隊だった。なるほど気象じゃ航空兵にちがいないんですが、近所の人の話をきくと女学生部隊、女学生部隊といってるんですね、これじゃ仕様がないというんで、受験する気になったんですが、まだ二十二だったなァ──(後略)



帝国海軍の学徒兵の正式名称は「予備学生」


出典:1957(昭和32)年 日本文芸社 「現代読本 第二巻第六号 われら学徒かく戦えり」所収 元海軍中尉 第四期予備学生 鳴沢邦彦 「熱血!海軍予備学生の手記」

※管理人注:( )内は管理人による注釈です。


 日本が米英に宣戦を布告してから二年目の昭和十八年九月、当時の首相東条英機によって「一億総員戦闘配置につけ!」の令が発せられた。

 学生であるがため、徴兵延期となっていたわれわれの恩典は、これによって全面的に停止させられてしまった。このことはまさかと思っていただけに、当時の青年学徒にとっては寝耳に水という以外にはなかった。

 しかし、アメリカの学生たちはすでにわれわれよりはるかに早く、ペンを銃に持ちかえ戦争に参加していた。

 このような緊迫した空気の中に、徴兵検査の終った学生は第三期予備学生として志願、十月初旬に後輩の歓呼の声に送られて、土浦に入隊して征った。



補足資料:アメリカの学徒兵養成機関「海軍予備士官要請団」略称N.R.O.T.C

アメリカは日本の徴集延期制度撤廃よりも3年早い1940年に全大学を兵学校に転換させ、いたいけな少年たちを戦場に送り出しました。

しかもアメリカには女性兵士もいたのです。これがいま日本で「反戦」とか「女性差別反対」とか言っている連中の本性です。


出典:1943(昭和18)年 毎日新聞社 高戸顕隆 「学徒出陣」

※管理人注:( )内は管理人による注釈です。


 米国の学校教育対策

学生より兵力を 米国においては、前述せる如く本年末までに総兵力一千万の整備を目標として、諸般の充員対策を着々実施してゐるが、かゝる厖(膨)大なる兵力を、しかも極めて短時間に整備せんがためには、正規の軍人のみをもってしては到底所用数を充足することは出来ない。特に初級士官においては、正規の兵学校卒業者が僅少のため、これが補充を主として一般学生に求め、全国の大学及び専門学校の学生中より多数の予備士官の急速養成に努力してゐる。米国が学校教育に対して如何なる態度を示してゐるかは、陸軍長官スティムソンの『戦争遂行のためには、学校教育を犠牲とするも已むを得ず』といふ発表、及び大統領帷幄(いあく:作戦計画を立てる所。本陣。本営)の第一人者たる武器貸与部長官ホプキンスの『戦時においては、弾丸は学校の卒業証書より重要なり』との言明が、これを語ってあまりあるものと思ふ。なほ各大学の対校競技を禁止したのをみても、如何に真剣であるかゞ窺(うかが)われる。

(中略)

海軍予備士官要請団 (Naval Reserve Officer's Training Corps ──略称N.R.O.T.C)この制度は一九二六年創設されたものであるが、当時は僅か六校に過ぎなかった。しかしその後逐次増設せられ、一九四〇年両洋海軍の整備に着手するや、多数の大学に本制度を採用した。本制度は、正規の海軍予備員ではないが、各大学在学中の学生をもって組織せられ、配属将校が海軍予備士官に必要な教育を施してゐる。

(中略)

 一九四〇年制定された予備生徒は、大学二ヶ年以上の在校者にして、年齢十九歳乃至廿(二十)六歳の応募者を募り、これらは初めノートルダム大学において、三等水兵として一ヶ月の準備教育を受け、海軍士官としての能力の有無を検査した後、その合格者はプレーリー・ステート、コロムビヤ大学、ノースウェスタン大学、アナポリス兵学校において約三ヶ月間術科教育を受けたるのち、予備少尉に任官せしめられる。

 米国のこれら学生対策中、もっとも力を入れてゐるのは飛行機搭乗員の養成であって、青少年に対する航空思想の普及宣伝と共に、学生に対する航空教育訓練により、搭乗員の大量養成に全力を注いでゐる。


【日米ともに血を流しあったのは前途ある少年たちだった】
写真は空母エセックスで監視にあたる少年兵。
空母エセックス少年兵


【空母エセックスはこうなった】
1945(昭和20)年4月11日、特攻機が投下した至近弾により燃料タンクが浸水、ジャイロとレーダーに損傷を受けた。5月14日には特攻機の爆弾が艦首付近で炸裂した。〇内は特攻機。
特攻エセックス

エセックスの至近まで突入しながら命中を逸し、海中に激突しようとする特攻機。垂直尾翼と右水平尾翼がひどく破壊されたコントロール不能といえる機体を操り突撃を続けた特攻隊員のすさまじい闘志がしのばれる。特攻機の周りの黒い影は米軍の高射砲。
特攻被弾エセックス

【鬼畜ヘンリー・スティムソン(陸軍長官、国務長官等歴任)】
日系移民強制収容政策、原爆開発担当者、原爆投下を正当化し、日米の未来ある少年たちを戦場に送った。ユダヤ人=共産主義者。
ヘンリー・スティムソン1【画像出典】Wikipedia


元学徒兵の手記「日本もアメリカも航空要員の養成に躍起となった」


出典:1956(昭和31)年 日本文芸社 「現代読本 第一巻第四号」所収 元陸軍少尉 岡本治一郎 「特別操縦見習士官-生活日記-血の熊谷陸軍飛行学校」

※管理人注:( )内は管理人による注釈です。


 じっとしておれなかった

 太平洋戦争を特徴づけ、それを深刻化したものは実に航空機であった。今次大戦のどの一コマを切りとってみても、そこには航空機が決定的の役割を演じていた。

(中略)

 如何に優秀な航空機があっても、これを操縦し、敵と闘い得る操縦者がいなかったならば、それは無きにひとしい。古今の名刀も、腕の凡庸なものが用いたら庖丁と同じになる。

 飛行機は時によれば、これを一朝一夕に生産できるが、航空要員は決して短日月で養成することはできない。だから、敵味方ともに航空要員の養成に躍起となったのである。

 当時の熾烈なる航空消耗戦において、消耗の率の多いのは、何といっても空中勤務者(戦時中陸軍のパイロット、特攻隊員の呼称。海軍は搭乗員と呼んだ)であった。

 アメリカが、その搭乗員の補給のために、全国の大学、専門学校をあげて航空士官学校に早変りせしめたのも当然であったろう。

 わが陸軍においても、以前から学徒に航空将校の道を開いていたが、この空中決戦態勢のため、特別操縦見習士官の制度をつくった。すなわち大学学部、大学予科、専門学校、高等師範学校──以上の学生は「じっとしてはおられぬ」と叫びつつ、学窓より直接大空へと挺身して行ったのである。

出陣学徒壮行会米国の大学は1

【画像出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:A06031089100:1943(昭和18)年11月3日 内閣|情報局 「写真週報 296号」(3コマ目)


英霊の手記「我ら銃を執り祖国の急に身を殉ぜん」

いま日本では北朝鮮や中国の脅威がしきりに宣伝されていますが、大東亜戦争における日本の敵も共産党でした。

連合国という共産軍が天皇抹殺と日本植民地化・共和国化をたくらんで、いままさに日本に襲いかかろうとしている…。当時の学徒が、英霊が「じっとしてはおられぬ」と叫んだその胸中がよくわかります。


出典:1953(昭和28)年 社団法人白鴎遺族会編 「戦没飛行予備学生の手記 雲ながるる果てに」

※管理人注:( )内は管理人による注釈です。


市島保男  東京都

早稲田大学
神風特別攻撃隊第五昭和隊、二十年四月二十九日沖縄東南海上にて戦死、二十三歳

 我が選びし道なれば

 昭和十八年十月十五日(金)晴

 十時半から学校で壮行会を催してくれた。戸塚球場に全校生徒集合し、総長は烈々たる辞を吐き我らも覚悟を強固にす。

  なつかしの早稲田の杜(もり)よ。
  白雲に聳(そび)ゆる時計塔よ。いざさらば!

 我ら銃を執り祖国の急に身を殉ぜん。我ら光栄に充てるもの、その名を学生兵。いざ征かん国の鎮めとなりて。記念碑に行進を起すや在校生や町の人々が旗をふりながら萬歳を絶叫して押し寄せてくる。長い間、心から親しんだ人達だ。一片の追従や興奮でない誠実さが身に沁みて嬉しい。思はず胸にこみ上げてくるものがある。図書館の蔦(つた)の葉も感激に震へてゐるやうだ。静寂なる図書館よ。汝の姿再び見る日あるやなしや。総長のジッと見送って呉(く)れたあの慈眼、佐藤教授の赤くなった眼印象深い光景であった。学半ばにして行く我等の前には、感傷よりも偉大な現実が存するのみだ。この現実を踏破してこそ生命は躍如するのだ。我は、戦に! 建設の戦ひに! 解放の戦ひに! 学生兵は行く! いざさらば、母校よ! 教師よ!



なお、この記事は英霊のみなさんのお力添えにより完成しました。

私たち日本人は過去・現在・未来の日本人すべてが天照大神が創造したひとつの魂です。靖国神社の分祀ができない理由です。

私たちが特攻隊員の遺書を読んで、まるで自分のことのように胸がふるえて、涙があふれるのはなぜでしょうか?それは私たちと英霊がひとつの魂だからです。

英霊がまだ生まれ来ぬ私たちのために命を投げ出してくれたように、今度は肉体を持った私たちが英霊を守る番なのだと思います。

わが国の隣りにある英霊の死を踏みにじって私腹を肥やそうとする国から。


【写真出典】
・1997(平成9)年 株式会社ベストセラーズ 「写真集カミカゼ 陸・海軍特別攻撃隊」下巻



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