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2017/09/10

朝鮮独立に隠された日本人大虐殺


9月9日は北朝鮮の建国記念日だったそうですが、日本敗戦で朝鮮人が朝鮮独立に沸き返る中、約8万人の在鮮日本人が消息不明になりました。

北朝鮮の咸興(かんこう)にあったぼろ寺興福寺の境内には、虐殺や疫病で死んだ日本人の死体が山積みにされていたそうです。

その山積みにされた死体が冬になって凍り、春になると解けて腐り始めたそうです。

朝鮮人が常日頃言っているように、まさに「日本人は犬猫以下」の扱いでした。


北朝鮮地図:咸興-竜岩里|咸興は毎年流行した天然痘の発生地だった

朝鮮の天然痘に関する記事はコチラ→韓国駐箚軍衛生心得「朝鮮人の交通・接触を遮断せよ」

北鮮地図竜岩里咸興

朝鮮独立とは朝鮮人が日本を裏切って連合国と結び、朝鮮人の血は一滴も流さずに手に入れたタナボタ独立です。

そのタナボタ独立を祝う式典で、これまた連合国にあてがわれたニセの英雄をホメちぎるオメデタサの陰に隠されているのは、約8万人にのぼる日本人大虐殺です。

日韓併合時代をふり返ってみれば、朝鮮人はドサクサにまぎれて行動を起してきました。三・一独立万歳事件は李太王葬儀のドサクサ、在外同胞と結託した朝鮮独立運動は第一次世界大戦のドサクサ、そして日本敗戦のドサクサにまぎれて行われたのが朝鮮、満洲、日本国内での日本人大虐殺です。

連日、反日マスコミは北朝鮮が所有するミサイルの脅威を宣伝していますが、万一ミサイルが日本着弾となれば、日本人は日本にいながらにして終戦直後に行われた朝鮮人による日本人大虐殺の危険性に直面するのです。


1947(昭和22)年 朝鮮居留民行方不明者数85,230名|被害者ヅラしている朝鮮民族が殺した日本人の数

朝鮮人が日本人を差別主義者呼ばわりするのは、ナチスドイツがイスラエルに乗りこんで「オレたちはユダヤ人に虐殺された!」とユダヤ人に主張しているのと同じです。

資料では「生存見込数…25569名」となっていますが、在鮮日本人の大半が収容所に入れられ、終戦の年の冬を越せずに亡くなっているので虐殺とみなしました。


出典:アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C15010134600:陸軍省 「終連報丙第456号 昭和22年1月24日 連絡課 第1、東亜地域在留邦人引揚者数表 第2、東亜地域在留邦人残留者数表 第3、行方不明者数表



第三 行方不明者数(昭和21年12月末現在) 
昭和22年1月 終連 管理部調

朝鮮居留民
・生存見込数…25569名
・その他…59661名
・計…85230名

朝鮮抑留行方不明者数1

【自分たちが虐殺した日本人に被害者ヅラをする】
朝鮮人群衆性川崎4


朝鮮人の本質は「力に屈する民族」


建国記念日、国連制裁強化の動きに反発した“奇襲”挑発を警戒
2017年9月9日 産経ニュース

【ソウル=桜井紀雄】北朝鮮は9日、建国69年の記念日を迎えた。北朝鮮国内では6回目の核実験「成功」を祝う集会が各地で開かれるなど、核・ミサイル開発を国威発揚につなげようとしている。日米韓は、節目に合わせ、大陸間弾道ミサイル(ICBM)を日本上空を通過する形で太平洋側に発射させる可能性もあるとみて警戒している。

(中略)

 10月10日には朝鮮労働党創建72年の記念日を控えており、この間に新たな挑発に踏み切る可能性は高い。



本記事の資料:北朝鮮で家族を失った日本人女性
「死にかけた日本人は血清を製造する工場に送られ、消毒液入りの風呂に入れられ、丸坊主にされた」
「日本人女性はパンのためにソ連軍将校の慰安婦になった」
「金日成と、このプラッカードの金日成とは同じ人間なのか」
「興福寺の境内に山積された日本人の凍った死体」


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録大東亜戦史 朝鮮篇」所収
    片山智恵 「四つの魂よ、さようなら」



 死人の服をはぐ

「百合子さん、お水」

 何度か、こういわれたのであろう最後の声で私は気がついた。

 星もまたたかない、まっ暗い夜。ほえるような海なりと吹雪。

 私は、姑(はは)の声によって、枕元の薬罐(やかん)に手を伸せばよかった。

 昨日から、三人共昏睡状態であったらしいから、その薬罐の水は、大分前に汲まれていたもので、きっと、薬罐全部が氷になっていたかも知れない。

 ピーン、ピーン、辺(あたり)一帯の水という水が、氷の厚さを増す度に、響く音。人間は、患い、眠っていようとも、自然の現象は勤勉だ。

 私は布団の中から手を伸した。

 ハッ! それは、天地が逆になる程の、私の智慧(ちえ)では考え切れない、……私の手にさわったのは、薬罐の氷より冷い、松井の頭ではなかったか!

 私は、何と叫んだか、……唯(ただ)夢中に喚きつつ、何も見えない闇の中を、手の感触だけで、松井を求めた。

 それは、何と大きな実在感の、物質であったろう。……頭の上から、足の先まで、……僅か、心臓の辺りに、かすかなぬくもりの感じられるのが、何時間か前迄生きていた証拠か。もう、冷いといっただけでは表現出来ない、恐ろしい冷凍感。凍って伸びたのか、頭は薬罐の位置に、足は布団からはみ出している。

「百合子さん、早く、早く、分会長さんに、光田分会長さんに、喜六を、喜六を生きかえらしてくれるように頼んで来て、早く」

 姑は、譫言(うわごと)とも、正気ともつかず、叫びつづけた。

 松井の去った肉体はもう松井ではない。松井は、一体どこにいってしまったのか。

 私を置去りにして、一人で、どこにいってしまったというのか。私一人置いて……

 松井のいない私は考えられない、この私は、正気な私だろうか……大きな岩のような肉体にしがみついて、私は自分の狂わないのが悲しい。

 その岩のような物質のこの手、この胸、それはやっぱり私の思出(おもいで)の松井ではないか。それなのに、その中に松井がいないとしたら……松井って、一体何物だったろう……やがて、郷田さんにたしなめられて、尚一層みじめに、奈落の底につきおとされた。

「死んだ人は、泣いても帰って来ませんよ」

 ああ、人間は、そのような冷酷なことが、いえるのだろうか。

「百合子さん、白い御飯をたいて、喜六にお供えしておあげよ」

 そう叫ぶ姑は、正気なのだろうか…それが、偉大な母性愛なのか……

 一昨日はお天気がよかったので、高(こう)さんの様子をきいて来ると、出かけていったのは、間違いなくこの松井だった。「駄目だ」と絶望にくれて帰って来た迄は、私の記憶にあったのだが…
 
 夜の明けるのは長かった。

 私は松井の氷の肉体の、心臓の辺をさすりながら、夜の白むのをひたすら待った。黎明(れいめい)は、又、松井の魂を呼びもどしてくれるのだと思って……

 しかし、光と共に見たのは、よりはっきりした松井の死であった。痩せてはいない。或(あるい)は栄養失調で、腫れてはいても、決して痩せた身体ではない。長く長く泣いた。郷田さんなんかに、遠慮はしなかった。地底にも響けと…

 光田分会長はじめ、何人かの寮の人人が、顔を出した。私や姑の死ならともかく、松井の死は、誰の頭にも、信じられないという風に……郷田さんの奥さんが、

「あら、百合子さんは、松井さんの最後の言葉を御存知なかったのですか」

 と……私は耳を疑うようだった。

 それは、昨日の午後位からだといわれた。

 松井は、ウトウトとしては、目をさまし、

「百合子、百合子」

 と呼び、その声で呼吸が乱れると一寸(ちょっと)休み、

「百合子、ぼくは、百合子、ぼくは」

 と又何回か、繰返してした。

 それから、暗くなって、いつものように、這(は)って出口へ入ると、隣りの部屋の赤坊の便器になっているバケツに用を足して、長い時間かかって、戻っていった。暫(しばら)くして、再び私の名前を呼びつづけていたが、辺(あたり)がずうと静かになった頃、精魂つきたように、そして、身体中の息をはき出すように、

「百合子、僕は、あまり長くなさそうだ」

 と一声、更に、

「ああ林檎(りんご)がくいたい。飴がくいたい……、ゆ、り、こ」

 と……それは、まるで、戯(たわむ)れてでもいるような安らかさと、静けさ。

 そして、それに答える私の声のないまま、松井の声は切れてしまった。

「きっと、その時が、臨終だったのでしょうね。私、百合子さんは、御存知だったとばかり……」

 私は、もう戻って来ない、その数時間前を、取戻すすべもないのが……恨(うらめ)しい。

 又、郷田さんは、

「死人に助けて貰(もら)わねばいかんですよ、仏にゃ悪いかも知れないが、まあ許して貰って……裸にしてその服を売るのです」

 と、早速(さっそく)、松井の洋服等脱がしはじめた。私には、とっさに判断もつかずなされるままに、それをみていた。

 松井の死は、その死体が片附く迄、郷田さんは商売を休まねばならず、又一文なしの私を……いずれ、そう長くはなく死ぬと思われていたにしても、見殺しにも出来ないと思ったにちがいない。せめて、着物でも金にしてと、……それは、多くの死人の家族のしていた事でもあった。

 凍ってしまった為か、もう硬直した為か、なかなか洋服は、脱がせられなかった。私は、下着だけは勘弁してやって欲しいと、いった。長い時間かかって、それは脱がせられた。

 私は、それをみながら、その大きな体が、松井と何の関係もなかった存在のように思えて、空間の、目にみえないものに、手を合せて祈った。

「どうか私もお側(そば)にいかして下さい。お一人でなんか、いかないで」

 一彦の死臭のする死体を四日もかかえていた、あの時と比べて、あまりにきびしい、恐ろしい松井の死。

 どの位かたって、

「私はもう死ぬんだから、何も食べなくてもすむのだね」

 と、姑は一声いったようだった。

 翌日、同じ吹雪の朝が来ると、口をゆがめたまま姑が冷くなっていた。

 二つの死骸にはさまれて、私は、何をしていた事だろう。

 もう泣き叫ぶ事も、神を恨む事も、しなかった。死が、私には羨(うらやま)しかった。松井につづいて死んだ姑が、ねたましくさえあった。母子の情が、私に対する松井の愛情よりも……

 又、一彦の死が、私の清らかな悲しみを思出させるのに比べて、半身を削られたように切ない、松井の突然の死は、身体を八つ裂きにされたような、痛み、……そして、自分の存在を否定する空虚さ……

 明日の朝は、私が、こうした骸(むくろ)になっているだろうと信じられた。

「百合子さん、あなた方は、生きる事をしなかったのよ。労働も出来ず、商売も出来ず、お金儲けをしようとしない。お内裏雛(だいりびな)さまのように、夫婦喧嘩(けんか)もなさらないお二人を、私達ずいぶん羨しかったのよ。それが分って?……内地での工員時代は、お金の為に喧嘩のし通し、新婚時代なんてなかった。いくら働いても働いても、晩御飯の時は喧嘩でしたわ。……私達今、幸福といえるのかも知れないの、一度、幸福なあなた方に仇(かたき)がとってやりたいと、そればかり考えてた事もありましたのよ。で、これからね、私達を、絶対に当(あて)になさらないでしょうね」

 次の朝続いて、二つの菰(こも)包みが、私の目の前から運び出されると、郷田さんの奥さんは、私にこう言渡した。

 風がおちて、大きなぼたん雪が、視野をうずめていた。

 目がさめた。

 神経痛の疼(うず)く背中に、湯たんぽ代りの水筒を入れて下さっていた光田分会長の顔が、私の側にあった。

 オヤ? 私は死んではいなかったのだった。それは、欺(だま)されたような、悲しさだった。あれから二日又昏睡状態におち入ったので、私の名前迄、松井や姑の分と一緒に、寮名簿から消して手続きをしてしまうと、肋間神経痛の発作で、私が苦しみはじめたという事だったらしい。

「おあがりなさい」

 光田さんの顔をみると、涙が出た。

 そのお粥(かゆ)は美味しかった。何杯もお代りがしたかった。しかし、私は遠慮して、もういいといった。……光田さんの前で、とりみだしたくないと思ったから。

 又、その味は、忘れていた母を思出さした。とても、元気になって引揚げられるとは、思えなかったが、一目だけ会って、母の膝で泣きたい。そう思って又泣けた。

 光田さんは、

「もう春が近づいているよ」

 といった。

 春、その言葉はなつかしく身のまわりをみまわして、松井の体から脱がした洋服と、姑の毛糸のチャンチャンコをさがした。

「松井さんが、お吸いになった、うちの煙草のお値段と差引(さしひき)したら、また足が出る位なのよ」

 郷田さん夫妻は、売上金の勘定中だった。後で光田さんから渡された二人の死亡診断書の、死亡年月日には、一月十六日と十七日の文字が記されていた。

 二人の、いや三人の、髪も爪も、とっておかなかった事に、気がついたのは、ずっーと、後になってからのことだった。

九、トウキョウハラショウ モスコウハラショウ
 
 入 院

 私も風呂に入った。

 敗戦以来はじめての風呂。風呂といっても、消毒液の入った温かい湯をかぶって、身体を流すだけのもので、ソ連軍の衛生班によって実施せられたものだった。

「ひどいなあ」

 それは光田さんの声だった。

 ハッとなりながら、みられている自分が羞(は)ずかしかった。

 これが、二十三歳の私かと疑うばかりの、皺(しわ)だらけで、つまめば皮膚が持上がってくる胸の辺は、自分ながら薄気味がわるい。

 その昼過ぎ、珍らしく、トラックが窓の外で止る音がして、ソ連女兵のソプラノが、甲高く響いて来た。

「百合子さん、思いきって、毛布も売る事ね。そのお布団をお柏のように、二つ折にして、その間で寝れば。一人なんですもの」

 風呂から出て来た郷田さんの奥さんがいった。と、その時、

「松井さん」

 と覗(のぞ)いたのは光田さんだった。

「どうですかね。引揚の時が来る迄、咸興(かんこう)のソ連兵の病院に入っては、……無料だし、引揚げる時には、僕が迎えにいってあげるよ」

 私は意味もなく笑った。その好意がうれしく、それに応える方法も、又、その言葉を判断する智慧もなくて。

 それから写真帳だけの荷物を持つと光田さんに抱えられて、外に待っている、トラックに乗せられた。抱えながら「軽いなあ」と光田さんはいった。私はその温い体温と、厚い手の感触に、又涙を思い出すようだった。

 北風が強く、光田さんは、ポケットから風呂敷をだすと、私の頭からかぶせて下さった。

「きっと、元気になるよ。僕が迎えに行ってあげるからね」

 トラックは竜岩里(りゅうがんり)を後にした。

 その光田さんの言葉が、たと、分会長という役目柄からであったとしても、又きまぐれであったとしても、或は、死期も近いと見られた私をあわれんだからであったとして、……私には、唯うれしかった。光田さんは、私以上に、私と白井さん夫妻の間を御存知だった。郷田さんのいわれた蔭口(かげぐち)のためで。


 傍(そば)のベッドの少女を、私は、之(これ)でもう何十回覗きこんだ事であろうか……

 隣の病室の陽気な狂女の騒ぎも、静まって、コトリとも音のしなくなったというのに、私はねつかれなかった。

「幸(ゆき)ちゃんだ。確かに、伊藤幸子にちがいない」

 と、突然、ジャーと、私より離れたベッドで、勢(いきおい)のいい音がして、やがて

「臭いったらありゃしない……ずうずうしいこのお婆さん。知らん顔して」

 と、ねむそうな宿直の附添いの声。

 私は、増々(ますます)興奮していくのが分る。頭の中は、クタクタで、メスで刻まれるように重く、疼(うず)いてる。一、二、三、四と二百迄数えても、効目がない。又しても、あの声が入って来て私を悩ますのだ。──それは、トラックの中で一緒になったかさぶたの帽子をかぶったように、痩せて汚ない男のいった言葉だった。

「どうせ助かる見込(みこみ)のない日本人を収容して、血清を製造するって工場ですよ。病院なんていいやがって、その証拠には、消毒とかいって、着ていた物はみんな取上げるから」

 と。

 しかし、その声に戦(おのの)くひまもなく、脱衣場、消毒室と、五六人のソ連兵の指図によって、何十人かの日本人従業員が動くと、私達は機械のように、たらい廻しにされ、夕方、頭は丸坊主、紺のダブダブの病衣を着た私が、このベッドに横たわっているのに気がついたのだった。

【ナチスユダヤ人収容所】
ナチスベッド1

 自分の意思は何らの抵抗を許される事なく。こんな事ってあるだろうか…この割れる程に痛い頭は、或は狂ってしまったのか……それとも、あのかさぶたの男がいったように、血清にされる血を、私の痩せ細った身体の中からとられてしまった為か……。

(中略)

 なくなった着物

 脱衣場のベンチに三時間も待った。私と一緒に退院許可の出た何十人かの人達は、自分の着物を受(うけ)とると、なつかしい娑婆(しゃば)の姿になって、どんどん出ていった。私の着物は、盗まれているにちがいない。軍規はきびしく、マダムは早く病衣を返せと催促する。

 盗まれる事のないように、組織されていると信じているので、手まねや片言で、弁解し、頼んでも通じないのだ。私は青くなって、ふるえた。病衣を脱がされたその下の、恥かしい自分の恰好を想像し、もう涙も出ない。その文字通りの、一糸纏(まと)わない裸にされるのだろうか。

 門の外では、明日のメーデーの為の、ざわざわした音が聞える。

「天長節に天皇が自殺した」という噂と、「メーデーには日本人が暴動を起すだろうといって、朝鮮側では大警戒をしている」という声の中で、明日は一体どんな事が起るのか。又、スターリンの大きな肖像が、塀の上からはみ出して通り過ぎる。

 私は、決心して別棟の衣料庫へ行った。衣料庫の番人の二人の日本人は、大豆の炒ったのをかじりながら、闇船に乗ったが、欺されて、元の浜辺に戻ってしまった人の話をしている。

 そこには、保管を命じられている衣料の外(ほか)、死人の衣料も随分あって、適当に処分されているのだろうともいわれていた。

 大豆を私にくれようとするのを断って、私は着物をさがさしてくれるように頼んだ。引揚も近いという気のゆるみから、彼らは勝手にしろという表情だった。

 二教室ぶちぬいて吊下げられてある何百人かの衣料は、一通りみて廻るだけでも疲れそうだ。もう西に傾いた陽をみながら、ズロース、シミーズ、シャツと、目ぼしいものをみつけると、「あっ之(これ)だわ」といった工合(ぐあい)に抜きとって順々に着ていった。毛糸のチョッキと、毛のワンピース迄出来た。あと、ズボンを一つと思っていると、

「人のを取っては、いけません」

 後(うしろ)から声がした。慌てた私は、恰度(ちょうど)手にさわった毛糸のショールを、つかんで、待っているマダムに病衣を渡すと、今度は、門の方へかけていった。誰だって、自分の物だと、いばって着ていても、それは偶然に、ソ連兵や保安隊(管理人注:朝鮮人による主に日本人を取り締まる組織)の没収をまぬがれたものではないか。……私は一人胸に叫びながら、番人の追ってくる気配を、窺(うかが)った。

 門の側迄くると「モシモシ」と追って来る声がした。私は後に向き直った。

「それじゃまずい。之(これ)をかぶりなさい。毛糸は腰にまいて、咸興は未(ま)だ冷たいよ」

 その番人は、頭にかぶるようにと、富士絹の風呂敷を差出してくれたのだった。

 そうだ、私の頭は丸坊主であった。私は黙って受とると、礼をいうのも忘れて、又、病室の方へかけ出した。忘れていたのだ。写真帳をベッドの下においていたのを。

 やがて、まっ赤にやけた夕べの空に向って、教えられた道を西へ、西へ、咸興日本人会にと歩いた。……何だか、心がはずんで、仕方がなかった。

 大通りに出ると、いくつかの交通止めと、金日成とスターリンの顔のかかれたプラッカードにぶつかり、久しく町を歩かなかった私は、その度に、身体がとぶ程、若い制服にどやしつけられた。

 街は右側通行であった。

「フン、丸坊主か、早く行け、ぐずぐずしてると銃殺だぞ」

 私達の思出では、金日成は匪賊の親方でしかなかった。その金日成と、このプラッカードの金日成とは同じ人間なのか。

【ホンモノ金日成】
金日成本物

 又貼紙の"金九を打倒しろ"とは一体何者なのか。

【ニセモノ金日成(左)と金九(右)】
金九(本名:金亀)は民族派朝鮮独立運動の首魁だったがイギリスに対日工作資金をせびって私腹を肥やした朝鮮の英雄金日成金九1

 街の騒音と埃(ほこり)に、折角(せっかく)の美男金日成の顔が、気の毒な位、ひらべったく感じられ、

「金日成って、映画の題名か」

 そう思っても、不思議ではなさそうなプラッカードだと、一人で笑った。

 咸興日本人会についたのは、すっかり暮れた頃であった。

一〇、帰 国

 内職稼ぎ

 ソ連人の家の塵箱(ごみばこ)から拾って来た布切で作った、マスコット人形を、市場で売ると、全部で百円になった。

 有名な咸興の市場は、あらゆる物資が出まわり、戦前以上の活気を呈して、喜びも、悲しみも、怒りも、笑いも、ごっちゃな声をあげている。私はその人間の中で、百円のうちから買った二十円の餡入餅を頬ばりながら、次に、何を食べようかと、見て歩いた。

 百姓仕事しかなかった、あの竜岩里の冬に比べて、今、咸興ではどんな仕事でもある。ラジオ技師、旋盤工、大工、菓子職人等は、高級の待遇を受けていたし、洋裁師、女給仕等、女の高級収入をうる人達も随分あると、いわれている。

 私は、同じ日本人避難民の中を歩いて、掌が十七糎(センチ)と覚えていたので、物指(ものさし)一つ使わず、原型を作り、最も経済的な裁方(たちかた)で、ブラウスや子供服を仕立ててやり、一人では、食べるのに余るお金がとれた。又裁断の残りでは、子供足袋や、動物人形など、一寸(ちょっと)気のきいた物を拵(こしら)えては、市場へもっていって金に替えた。

 財布の底には数日で、百円の貯金も出来ている。極貧者には、一日二合の配給米が無料だったので、私も、近藤先生にお願いして、極貧者にしてもらい、その金は、引揚の費用にとためこんだ。しかし、自覚症状では、病院にいた時より、進んでいるような自分の身体を案じて、美味をあさる日もあった。

 市場に群がっている、白い鮮服の間から、春の空を仰ぎながら、いかがわしい朝鮮料理等の立食いもしてみた。牛の舌を半焼きにして食べるのなどは薄気味がわるかったが、大蒜(にんにく)の臭いのつよい朝鮮そばなどをはじめて美味しいと思った。又、平和な装いにかえった朝鮮婦人にまじって、ソ連の将校に伴われていく、桂さんの奥さんを見かけた事もあった。色の白いせいか、すっかりモスクワ風にやつしたその横顔が、古風な馬車にのって過ぎるあたり、ハッと見送る程、美しかった。

 ソ連の兵舎に残飯もらいに行くと、美しい娘さんだけ手招きして、美味しいものをやったと、病院で子供たちがいっていたように、パンのために、いつかそのような生活に入った人々も多いのだろうか。

「日本人避難民に、春になってから、配給制度が実施せられたのも、主に、ソ連軍の司令官以下各将校達の、愛妾(あいしょう)になった日本人の女のお蔭(かげ)だ。彼女らの純情な気持に、応えてくれたのだ」

 とも、広くいわれている今だった。

 何十里か、山川を歩き、お産をしては、その子を葬って来た悪夢のような過去を、ひきむしるように、私は思わず「桂さん」と後を追ったが、すぐ又あきらめてしまった。桂さんの奥さんに比べて、今の自分の容姿の醜さが、耐えられなかった。

 土師(はじ)の小母(おば)さん等と、寝おきしている、興福寺の井戸端の桜の花は、あまり沢山(たくさん)ついていないが、みすぼらしいぼろ寺の境内には、却ってふさわしい。

 厳寒の頃に、山積された日本人の凍った死体が、つい先頃、この庭で氷が解けて腐りはじめたので、何十人かの人夫を動員して、方附けたばかりだというので、この井戸をのまない人が多かったが、私は鏡の代りに、この釣瓶(つるべ)に顔を写しては、平気でのんだ。


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