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2017/08/31

最高機密? 金日成替え玉説


終戦直後、朝鮮人民の前にソ連から帰ってきた金日成が姿を現した時、

「ウリが知っている金日成とちがうニダ、若すぎるニダ」

とザワザワしたというのは有名な話です。

日本人にとってはどうでもいい話なのですが、昭和のころ読んだ雑誌に

「本物の英雄金日成は殺されて田んぼのあぜ道に捨てられた」

という記事が掲載されていました。

ということは満洲で殺されたということですね。中国は支那事変に次ぐ国共内戦で稲作どころじゃないし、ソ連に田んぼはないでしょうから。

本物の金日成も連合国から対日工作資金やら朝鮮赤化工作資金やらをもらって抗日運動をやっていたのでしょうが、連合国にとって都合が悪くなったらサッサと殺されて捨てられちゃったんですね。

日本人は連合国に大虐殺されましたが、朝鮮人や中国人のように連合国にこびたりしませんでした。日本人は最期まで反共で日本国を思って死んでいきました。

おそらく、本物の金日成は連合国にこう言ったのでしょう、

「朝鮮人民だけで完全な独立を果したい」。

それから、本物の金日成は毛沢東と2回も会見しているそうですよ。

日本側が把握していたホンモノ金日成のプロフ
(情報源:元河北省政府顧問)


【金日成家系図】
(祖父)金亨権〔日本人警察官射殺で投獄〕
              │                                
(父)金亨稷〔朝鮮独立万歳事件で投獄〕─┬─(母)夫の死後他家へ嫁ぐ? 
                    │
                    │                                                        
      金成柱(日成)────── 鐵柱(弟) ──── 永柱(弟)
  〔17歳で李紅光の部隊に入る〕   
 ※李紅光=中国共産党指導下の東北人民革命軍第一師団長兼参謀長   

・朝鮮光復軍副官李青年が肌身離さず持っていた金日成の写真は色黒、やせ型

・日本のO(オー)特務機関の調書にあがっていた金日成の特徴は身長約160㎝、色黒、やせ型、あだ名は"猿"で動きがすばやかった、李青年所有の写真と同一人物と思われた

・金日成の本名は「成柱」、弟の鐵柱、永柱と三人兄弟

・本物と思われる金日成は満洲事変前、日本の満洲守備隊と交戦の結果、脚に貫通重傷を負い、京城(現ソウル)の病院で一ヶ月間療養した

・中国共産党の毛沢東と2回、会見したことがある。
 時期は1941(昭和16)年3月~4月頃と1943(昭和18)年10月~11月頃

・父親が朝鮮独立万歳事件に参加していることから南鮮生まれの可能性あり

・母親は朝鮮の風習である寡婦強奪で他家へ嫁いだ可能性あり

【1952(昭和27)年:日本側資料「現在の金日成とは大分異る」と書きこみ】
写真は毛沢東と会見した1941(昭和16)年頃のものと思われる。
金日成書き込み1_2
↓↓↓露出調整版↓↓↓※矢印は管理人による
金日成本物

・ソ連の新聞に掲載されていた金日成の写真は終戦後に登場した小肥り、丸顔で首の太い、色白の金日成だった

金日成

【出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C13010013700:1952(昭和27)年 復員局資料整理課 「第12巻・第4篇/第9章 匪賊及住民(3)」


もうひとつ日本人にとってはどうでもいい話なのですが、朝鮮戦争中、中共とソ連の間で「南北統一はさせず時期が来たら中ソ協同で北鮮を奪取する」ということが話し合われたそうです。

これが本物の金日成がジャマになった理由かも知れませんね。

共産党や容共連合国の策謀は100年スパンで実行されますから、「敵はアメリカと日本ニダ!」と思わされているうちに中共とロシアが北朝鮮を侵略するのかも知れません。

まあ、北朝鮮は日米に向けてミサイルをバンバン発射してケンカ売ってますから、北朝鮮人民は最期まで金一家と運命を共にするしかありません。中国とロシアには難民を出さないように北朝鮮を侵略してほしいと思います。

国ぐるみで連合国にダマされている北朝鮮www事大って悲しいねwwwww


金正恩氏「日本人驚がくさせる」=火星12「成功」、米グアムへの前奏曲-北朝鮮
2017年8月30日 時事ドットコム

【ソウル時事】北朝鮮の朝鮮中央通信などは30日、中距離弾道ミサイル「火星12」の発射訓練が29日に行われ、「成功した」と報じた。金正恩朝鮮労働党委員長は「恥辱的な韓国併合条約」が発効した1910年8月29日から107年に当たる29日に「日本人を驚がくさせる大胆な作戦計画」を立て、発射を承認したという。

 金委員長は発射訓練に立ち会い、「(訓練は)米グアム島をけん制する前奏曲となる」と強調。「引き続き米国の言動を注視し、今後の行動を決める」と警告した。(後略)



本記事の資料:元河北省政府顧問
「本物の金日成は色黒で痩せていた」


出典:1950(昭和25)年 文藝春秋新社 「文藝春秋 10月号」所収
    渡邊龍策「金日成真疑調書-謎の男の神秘をはぐ-」



 金日成と私

 一九四五年十二月のある夜十時頃、北京後拐棒胡同の私の仮寓(かぐう:仮住まい)の門を、荒々しくたゝく者があった。終戦後、日本人は夕暮ともなれば、門をかたくとざして、不安の夜を迎えるのが、ならわしになっていたので、夜半の訪問者とあると、うすきみの悪い、胸さわぎを感ずる。

「誰でしょう? こんな夜ふけに訪ねてくるのは?」

 国府軍何応欽参謀長案の「日僑(在支日本人のこと)管理弁法」に対する意見書の整理を終えて、一服していた私に向って、妻は不安気な表情を示した。

 だが、それがかねて重慶に行っていた、李老人の一人息子であると知った私たちは、すぐ書斎に招じ入れた。

 日本敗戦後十日程たってから、日頃私たち夫婦を慕っていた、向いの朝鮮人李家の老人は、重慶に行って、光復軍の副官をしている一人息子が、間もなく凱旋してくるということを、得意気に私たちに話したことがある。その息子が帰って来たのだ。

 光復軍というのは、戦時中、重慶で抗日戦に参加するために、若い朝鮮人をもって組織されたもので、これが日本敗戦となるや、意気揚々と、北京へ、天津へと、隊伍を組んで乗り込んで来た。

 数日たって、再び李青年が私たちを訪ねて来た時に、私は率直に話してみた。

「国民党と共産党とは、抗日という目標のために、統一戦線をはって戦ったが、今や勝利をかち得て、抗日という扇のかなめがなくなったのだから、おそらく今後は、油と水のように訣別して、再び国共相剋へと進展してゆくと思うがどうだろう、現在、アメリカの斡旋で、国共会談が進捗しかけているようだが、私のみるところでは、とても実現はむずかしいと思う。その場合、君は一体、国共いずれの陣営に協力する積りですか?」

 私のこの質問をきっかけにして、彼の語ることろはこうであった。

「渡邊さんだから、わたしの本心を話すが、今われわれの光復軍は、国民党の指揮下にあるので、もちろん国民党に忠誠を誓う立場にあります。しかし、抗日によって、朝鮮独立という目的を達成したので、光復軍は近く解散することになると思います。隊員の多くは、南鮮に帰農するでしょうが、われわれの如き北鮮生れの者は、同志的つながりをもって、いずれ北鮮に帰って、南北鮮統一運動に参加します。われわれの憧れは、金日成将軍の下で戦うことです」

 当時、私は国民党政府留用の研究専員の立場にあった関係上、応接室の四方山談議の中に、いつも朝鮮問題の論議が戦わされていた。特に、蒋介石主席の秘書邵毓麟氏が韓国大使に任命されても、南北統一がいまだ緒につかず、赴任をおくらせていた期間、私は同氏の依頼で、金日成をめぐる北鮮事情の資料蒐集をしていた関係上、この李青年の抱く熱情に、何かしら惹きつけられるものがあった。

 朝鮮が日本に併合統治されてから、まる三十五年、日本の敗戦という現実によって、宿願の独立が実現しようとした一歩手前で、米ソの冷戦に禍され、運命の三十八度線をもって、民族が二分されてしまったことは、朝鮮民族にとって、限りない痛恨事であったに違いない。その統一独立に対する願望は、年若い少年少女に至るまでも、これを抱いていた。

 李青年が私の家にしげしげと、遊びに来ている時分は、丁度、モスクワにおける米英ソ華四国外相会談で決定した、四大国による五ヶ年の信託統治案に基いて、朝鮮臨時政府樹立を協議する、米ソ共同委員会の設置が進められている時であった。だが、一九四六年三月、漸く京城に設置をみた、米ソ共同委員会も、その生命は僅か一ヶ月半で終ってしまった。臨時政府の樹立は難航を辿(たど)り、民族統一の前途は暗澹たるものであった。

 金日成がソ連から祖国朝鮮に帰って来たのは、ソ連が抗日参戦をした日であるという。北鮮人民委員会委員長の席についた彼は、人民軍の創設、企業の国有社会化、土地解放、通貨改革など、社会主義政策による、北鮮の体制確立に奮闘していた。

 李青年が訪ねてくる毎に、私は金日成を中心とした話を聞き出すのであったが、ある日、彼はあたりをはゞかりながら、つね日ごろ膚身(はだみ)はなさず持っているという、金日成の写真をとり出して、私に見せてくれた。

 私はこの神秘化された男の写真を見入り、更に、祖国統一という念願を抱いて、金日成を敬慕しつゞけている、純粋なこの李青年の顔を見つめるのであった。

 金日成の風貌

 さて、そこで、李青年が私に見せてくれた金日成の写真であるが、その後、私は北京の研究室で、ソ連系の新聞に掲載されている写真を見て、全く別人のような印象をうけたのには、奇異の感を抱かざるを得なかった。これは、李青年が見せてくれた写真とは、凡(およ)そ似てもつかぬ、ガッチリとした、丸顔の、首の太い男なのだ。現在日本で散見される金日成の写真と同じものである。

【色白金日成】
金日成

 そうなると、疑わざるを得ない。李青年は偽せ者(にせもの)の金日成の写真を、膚身につけて、敬愛していたのであろうか。或いはまた、金日成という人間が二人いるのではないかということにもなる。こんなことから、金日成の替玉説が流布されたりするのであろうが、とにかく、私もこの疑問を抱いて、一昨年暮に帰国したのである。

 満洲事変前後、満洲東辺道あたりであばれていた金日成の風貌は"身長五尺三寸(約160センチメートル)、痩躯、色黒く、猿と綽名(あだな)されている"と、当時のO特務機関の調書にあがっている。そうすると、李青年が、北京で私に見せてくれた写真とそっくりであるから、李青年の大切に持っていた写真は、満洲時代の金日成であると考えられる。だが、現在の北鮮首相金日成は色白な、小肥りであるから、多分に違っている。では別人であろうかという疑問が当然に起ってくる。

 同一人なりと論ずる人々の見解では、なる程、現在の金首相は容貌において、二十年前のとは、相当のひらきがあるというものゝ、その目もと、口もとはそっくりである、漸く肥ってくる年頃からも想像して、やはり同一人とみなす。

 かつての日、金日成が山野を駈けめぐり、一時、琿春に根拠をもった頃、彼と交渉のあった、やはり同性(原文ママ)の金某の語るところによっても、同一人であることを裏書している。

 その金某は後に親日派となり、日本側スパイの嫌疑で、再三捕えられたことのある男であるが、終戦後、日本に居を構えてから貿易商を営み、この春、渡鮮して六月に帰国の予定のところ、今回の動乱のため、杳(よう)としていまだに消息をたっている。この金某から、私は当時の様子を、雑談のうちに聞いたことがある。

「あの当時、日成は二十三、四の色の黒い剽悍(ひょうかん:すばやくて強いこと)な青年でした。」

 更に、彼はつゞけて、

「私が琿春へ炭坑事業のことで出かけていたんですが、そこで会った日成がいうんです。"俺は今にソヴェートと提携して、朝鮮を独立させるんだから、軍資金を調達してくれ"と。当時としては、泥臭い小部隊しかもっていない青二才司令の言葉ですから、どうみても狂人沙汰としかとれませんでした。たゞ、彼は非常に拳銃に愛着をもっている男だという噂は、一部にはひろがっているようでした。しかし、われわれはそう重きをおいていなかったのですが、それが今になって大立物(おおだてもの:かぶとの立物の特に大きなもの)になったんですから、全く驚きましたよ。今の日成の風貌は、随分変ったようですが、やはりその瞳には、十幾年の歳月をへても、変らぬ特徴がはっきりと残っていますね」

 この金某の話によっても、"猿"と綽名されて山野を飛びまわっていた、昔の金日成は、日焼(ひやけ)した小柄の風采のあがらぬ男であったことがわかる。しかし、大胆不敵な性格の持主であったことは、次のエピソードからでも偲(しの)ぶことが出来る。

 多分、満洲事変前後の話であろう。守備隊と交戦した彼は、脚に貫通重傷を負い、京城の病院にかつぎ込まれ、一ヶ月の療養の後、退院したのであった。

 その折、看護婦たちに、

「長々お世話になりました。おかげさまで、すっかり健康を快復して感謝いたします。……実は私は金日成です。」

 と、挨拶(あいさつ)し終ると、自動車に乗って、どこかに消えてしまった。これを聞きつけた官憲が、市街の門を二日にわたり閉めて、調べ廻ったが、影も形も見ることすら出来なかったということである。

 金日成は何名いるか

 巷間に伝えられている金日成の替玉説二代目説は、まず、彼が日本陸軍史観学校の卒業生であったということから生ずる、年齢の食い違いを、有力な根拠としてあげている。

 この説は、初代の金日成なる人物が、塩沢宣憲、臼田寛三、洪志翊などゝ陸士で同期だったいうことから出発している。そして、彼の如き革命的性格の持主は、当時の日本では相容れられなかったし、また、朝鮮人の故をもって、日本で重く用いられなかったのを憤慨して大の排日家となって、朝鮮に帰ったというのである。今、ソ連に捕われの身たる塩沢宣憲元陸軍中将は、陸士では臼田寛三の一期後輩、陸大では同期であるが、それは別として、現在、世田谷の自宅で病を養っている臼田寛三元陸軍大佐の語るところによれば、陸士、陸大を通じて、金姓を名乗っていた者はいなかったそうだ。だから、日本陸士出の当年六十歳位になる筈(はず)の、金日成という人物は全然存在しないといえよう。故に、今年数え年三十九歳になる金首相との年齢的食い違いに関する疑問はないわけだ。

 ちなみに、この風説は、第十八期生である池大永が、卒業後朝鮮に帰り、金日成と行を共にしたことがあるために、金日成として一時宣伝されたものであろうかとも考えられる。

 次に、二代目説でとりあげられているのは、彼がスターリングラード防衛戦に参加し、殊勲によって、ソ連陸軍大佐(ポルコーニック)としての肩書をもらったという噂に、更につきすゝんで、その戦で戦死したので、現在の金日成は二代目か、或いはその盛名を利用している者に過ぎないというのである。

 一九四〇年二月、抗日連合軍の生みの親ともいうべき、第一路軍長楊靖宇が、日本軍に射殺されたのをきっかけに、金日成が股肱(ここう:ひじとひざ)の部下を率いてソ連に入り、独ソ戦に参加したことはしたらしいが、しかし、ソ連入りした彼が戦死したことは考えられない。

 いかに日本軍から打撃をうけたとはいえ、革命将軍として、既に三万からなる兵力を有する司令が、たかゞ一陸軍大佐の待遇に甘んじて死を賭し、しかも、自国の民族解放をよそに、他国で戦死するようなヘマをしたこと、は素直には受けとり難い。

なお、一説として、軍統率者金日成と首相金日成とは、同名異人であるという見解がある。これは、金日成という名があまりにもクローズ・アップされている結果、重要なポストはすべて彼一人で占めていると思い込まれることから生ずる誤解である。一九四八年二月の憲法草案に基いて、北鮮人民共和国の最高主権機関は最高人民会議で、その長は北鮮労働党委員長兼金日成大学総長の金科奉である。金日成のついている首相という地位は、中央執行機関としての内閣の長であって、その任免は最高人民会議常任委員会によって行われるのだ。軍側をみると、実際に朝鮮人民軍総司令兼国防相の地位についているのは、金日成ではなくて、崔鏞健である。

 最後に、隠退説がある。これは、金日成が朝鮮統一独立の英雄として、あまりにも神秘化され、畏敬されている点から、どうしても、初代首相には金日成の名をもってこねばならぬという、一つの便宜主義からとられた手段だとするのである。そのために、かつての金日成はバトンを首相に渡して、退いたというのであるが、本物の金日成が既に戦死でもしていれば別だが、これ程の人物が生存しているのに、この重大な時局下、わざわざ隠退する要はあるまい。特に一部では金成柱という人間にバトンを渡したといわれているが、かくの如きは全く真相をつかんでいない。というのはもともと金日成の本名は成柱で、弟の鐵柱、永柱と三人兄弟である。満洲東辺道において、抗日ゲリラ戦であばれはじめた時に、既に日成の名で通っていたのであるから、昨今急に改名したものではない。

 金日成軍

(前略)

 日成祖父の亨権は、かつて日本警察官射殺の科で、牢獄につながれ、父も牢屋の人となったが釈放された。父は亨稷といゝ、一九一九年三月一日の大韓国独立宣言文発表の日、かの有名な「万歳事件」の犠牲者として、再度獄屋の人となった。これらの事実を目前に見せつけられた七歳の少年日成の小さな胸には、はや抗日への魂が炎え上っていたのだ。

 父は逝き、母も去り、両親を失った日成が十七歳になった時、父の遺品のピストルを腰に、かつて万歳事件に蹶起した李紅光の部隊に身を投じたのであった。

 彼の所属した支隊は、部隊の中心をなしていたが、その支隊の一小隊中の粒選(よ)りを率いて、反日意識に猛る同志を集めて、抗日遊撃隊を組織したのであった。

 遊撃隊を編成した当初の武器としては、まことに粗末なもので、拳銃、火縄銃、日本兵の三八式歩兵銃という程度のものであって、後になって、新兵器を入手しているが、おそらく、ソ連から間島省をへて運ばれたものに違いない。間島省には兵器工場はあったが微微たるもので、話にもならぬものであるから、そこでは優秀兵器など整備出来るわけはない。

 後年強化された金日成の兵力は、三万といわれ、大行李、小行李、慰安婦部隊を従え、軍紀と秩序が保たれていたといわれる。そして、意表に出るゲリラ作戦には、関東軍も手の施しようがなかった。

 豆満江の沿岸-一道溝から三十六道溝-の山岳地帯を(一道溝は一里以上ある)、日本軍に追撃された金軍の一日の行動力は、十七、八道溝という驚くべき移動力をもっていたのに反し、日本軍は七道溝乃至(ないし)九道溝位であったから問題にならない。

 なお、今次動乱における北鮮軍の威力の一つの基礎をなすものは、彼の指導による短期陸軍幹部養成学校を卒業したものが二十期あって、これらの者たちが参画しているということである。

(中略)

 金日成・毛沢東の会見 

 国際間の消息筋では、現在ソ連は朝鮮を国連の手に委ねて、そこに平和と統一を回復させるよりも、むしろ少くとも三十八度線以北の北鮮は、時期がくれば、中共と協同の行動に出て、公然とこれを奪取する意図をもっているとみている。

 去る七月三十一日、北京を訪問したと伝えられる、モロトフソ連副首相は、十日間の北京滞在中、中共政府との間に、北鮮を中心とした諸問題について折衝をなし、大体、次のような協定を締結したと報道されている。

「もしも、韓国側の反撃が効を奏して、三十八度線以北に攻め入った時には、毛沢東主席は、北鮮軍援助のために、中共軍十五万を派遣する。重火器及び弾薬はソヴェートが供給する。

 その真偽は別としても、なんらかの形でこうしたコースを辿(たど)る意図のあることは想像に難くない。北鮮軍と中共軍とは、ソ連の操つる絲(糸)によって、互いに連繋を保っていることは否めない。

 さてそこで、われわれが物好きな詮索欲を出して知りたいことは、かつての日、果して金日成毛沢東と会見したことがあるかどうかということである。会ったとしたら、いつ頃であろうか。

 この興味ある話題に簡単に解答を与えるならば、少くとも二度は会見していると推測される事実がある。

 それは、昭和十六年三月、四月の頃と、昭和十八年十月、十一月の頃の二回である。

 その経路は、一回は判明しないが、二回目だけは詳(つまびらか)にされている。

 それは、湖北口から薊県(けいけん:現在の薊州区)を通って、延安に行って、毛沢東と会見している。一説には朱徳との会見になっているが、朱徳と会見するならば、当然毛沢東とも会っていると想像される。

【毛沢東(左)と朱徳(右)】
毛沢東と朱徳

 その道中行が面白い。部下五、六十名と共に、ナツメ売りを装い、大車二台にナツメを満載し、武器をその中に隠して潜行したということである。

 薊県に入ってから、このナツメ売り一行は、李運笙部隊の案内によって、延安に辿(たど)りついたのであった。

 思いを当時の状況にはせ、今日の北鮮軍、中共軍のつながりと行動に及ぶ時、今昔の感あらたにするものがある。

 正体を現わさぬ金日成を、神秘的偶像として英雄視するが、金日成その人自身は、英雄の名は冠されても、神秘的人間ではない。戦いという現象によって、自己の目的を達成するために、自己の姿をくらますことを、余儀なくさせられたまでのことであろう。戦争と動乱が、彼の革命的情熱をかつて、謎の男をデッチ上げてしまったといゝ得よう。

 だが、とかく赤い国々では秘密のヴェールが好きである。

 その指導者たちは、自分たちは常人とは異った存在であるとの意識をもたせるためか、その生活について、極度の秘密の殻の中に閉じこもる。金日成もまた、その例外でないかも知れない。

 民衆がかれらによって、踊らされることなく、かれらまた、一個の赤裸々な人間として、その閉ざされた高殿から降り来って、民衆と共に真実を語るのは、いつの日であろうか。 (元河北省政府顧問)


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