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2017/08/10

原爆は広島市のあらゆる物体を中空に吸いあげた


広島に原爆が投下されたとき、広島市内のあらゆる物体が中空に吸いあげられたそうです。

共産主義者が「反核」「反原発」の宣伝材料にしている原爆投下後に降った「黒い雨」の正体も、この吸いあげられた物体でした。

なぜ、あらゆる物体が中空に吸いあげられたのか、広島で被爆した共同通信社記者がその手記の中で、現場の状況から判断した理由について書き記しています。

その理由とは、


1. 原爆が上空4000~5000メートルの地点で爆発し、その圧力で地上の建物が粉砕された

2. 同じく上空4000~5000メートルの地点に原爆が発した数千万度の熱によって真空状態が発生した

3. 上空に真空が発生したため、地上の空気が一気に上昇を始め、その力によって倒壊、粉砕された建物や樹木、人間などがいっしょに吸いあげられた。そのため、広島市内は上昇するほこりで暗黒となり、1メートル先も見えない状態になった

4. 吸いあげられた物体は上空の数千万度の熱によって焼かれ、灰になった

5. その後原爆の爆圧と、爆熱で熱せられた空気が冷却したため竜巻が起こり、突風となって豪雨が降った。その雨に上空で焼かれた物体の灰が混じった



この理屈で考えると、現在内閣府国民保護ポータルサイトが日本国民に案内している避難のしかたは逆に危険だといえます。

内閣府は核爆発の場合「遮蔽物の陰に身を隠しましょう。近隣に建物があればその中へ避難しましょう」と案内していますが、72年前、広島に投下された原爆でさえ鉄筋コンクリートの建物を粉砕し、鉄骨は悪魔につかみこわされたかのように破壊したのです。

そして白い服を着ていた人たちは露出していた部分を焼かれ、黒い服を着ていた人たちは服の下まで原爆に焼かれてしまったそうです。

それに近隣で核爆発が起きたら、逃げている時間などありません。閃光を浴びたら、建物が破壊、倒壊し、爆風に吸いあげられて終りです。

楽々園暁部隊兵舎(宇品港方面)で被爆した共同通信社記者の手記


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録大東亜戦史 原爆国内篇」所収
共同通信社整理部次長 中村 敏「曼珠沙華 原子雲(げんしうん)の下の広島」



 紅蓮(ぐれん)の焔(ほのお)-曼珠沙華(まんじゅしゃげ)

 一杯目が終って二杯目のお代りをだそうとしたとき、強烈な、実に強烈なマグネシウムの光のような、閃光を感じ、顔と体がぽっとほてった。郊外電車がごうっと、広島に向ってすぐ裏を走り過ぎた。

 何だろう? 電車のスパークではない、と皆が顔をなぜまわしたとたん、グワンと大きな響(ひびき)がして、広島に面した東の窓ガラスが四散し、食卓を囲んでいた私たちは、吸いあげられるような強い衝撃をうけ、畳とともにぐんと高く持ちあげられた。あっという間につぎのショックは、私たちを棍棒でなぐりつけたように、強く床の上に叩きつけた。

 午前八時十六分である。

 一トン爆弾が公園の暁(あかつき)部隊の、ど真中に落下したと私は直感した。


【管理人注:広島市原爆被害図】
戦後報道されてきた広島原爆死者数17万人はGHQが発表した数字で、実際の死者は約26万人、傷者は約16万人にのぼった。原爆広島市被害図_2

(中略)

 悪魔の正体

 八日の朝、私は魔の爆弾の爆心地と思われる相生橋(あいおいばし)のほとりにきた。私の下宿がそこにあったからである。太田川には傷だらけになった死体が浮き、広島の中心街であった上流川町(かみながれかわまち)から、この相生橋にかけて、くろこげになった死体が、ごろごろしている。

 空は晴れてあくまでも青い。八月の太陽がいやというほど照りつける。疎開先と、郊外から、わが家の焼跡と肉親が犠牲になったこの街に、えんえん列をなして流れこんでいる。

 私は相生橋がT字型になっているところから太田川の中州に渡った。下宿屋の跡に立って、わずかの期間ではあったが、親切にしてくれた下宿屋のおばさんの遺骨を探した。しかし、そこには瓦(かわら)のひとかけらもなかった。ただ白い砂が、ちらばっているばかりである。相生橋のたもとにあった物産館が鉄骨を悪魔につかみこわされたような形をしてかたむいている。

原爆広島市相生橋被爆前1☞被爆前の相生橋【出典】Wikipedia


 私は、きょう、人類が最初に体験したこの恐るべき爆弾の性能について調べなければならないのである。本社からの注文でこんご、原子爆弾の攻撃を受ける場合の参考にするのだから、なるべく詳細に書いて送れということであった。しかし、私には科学的な、ことに、原子爆弾などというものについて、物理的な予備知識が全然なかったので、目で見たままと、感じたままをまとめることにした。

 先(ま)ず原子爆弾の荒したこの広島市内に立って、驚いたことは、直径四キロにわたる円内に残っている建物は、わずかに五つか六つ、それはいずれも鉄筋コンクリートの建物のみで、これも悪魔の巨大な爪でひっかかれたようになっていることであった。

 建物ばかりではない、二百米(メートル)近くの相生橋は、広島市内がほこる鉄筋コンクリートの立派な、近代的な橋であった。幅四十センチの両側の鉄筋の手すりが、ぱったりと、外側に押しつぶされ、何千万貫あるかしれない鉄筋の橋全体が、ぐっともち上げられて、一米ほど右にずらされているのである。

原爆広島市相生橋被爆後1
☞被爆後の相生橋【出典】Wikipedia


 また広島城の天守閣は、跡かたもなく消え去って、ただ城門のところと思われるあたりに、城の跡をしのぶ土台石が残っているのみであった。この城を囲んで立ちならんでいた、直径一米もある数百本の巨大な老松(ろうしょう)は、飴をねじきったように、根本からぷっつりと折れていた。つみとられたという感じである。墓石のほとんどが、巨大な力を持つ怪物に持ちあげられ、そして静かに、もとの位置をちょっとずらして置いたかのように土台石からずれている。


【原爆投下前の広島城】
原爆広島城1_520

【原爆投下後】
原爆広島城石垣

 私はこのような現象がどうして起ったのかと考えてみた。まず六日の午前八時十六分、爆心地と思える広島城の上空四、五千米で、米軍の爆撃機B29から、落下傘で投下された原子爆弾が爆発した。この爆発でわれわれの想像することのできない圧力が、広島全市に加えられ、民家という民家は、マッチ箱を踏みつぶしたように、くちゃくちゃにされた。一枚の屋根瓦にも、一枚の窓ガラスにも、青々と百年の樹令をほこった老松にも、七つの川にかけられていた二十に近い橋にも、一瞬の間に巨大な力が加えられ、瓦は粉々に叩きこわされ、窓ガラスは破れ、老松は根元からぽっきりと折れ、数千万貫の鉄筋の橋は、直角に爆風をうけたために、この圧力が両側の手すりに二分されてこれを押倒したのである。

 この上空からの瞬間的な圧力がすむと、こんどは原子爆弾が爆発した四、五千米(メートル)の中空が真空になった。

 そこで、こんどは下から、真空になった中空に向って、空気の突進がはじまり、この空気の瞬間的な移動にともなって、叩きつぶされた家屋や、樹木や、広島市のありとあらゆる物体が、中空に吸いあげられたのである。これがため、数千万貫の鉄筋の橋が持ちあげられ、墓石が動き、ぽっきり折れた老松が、中空に吸いあげられようとして、きりきりにねじれ、飴をねじきったようになってむしりとられた。

 この物体が中空に吸いあげられたということを物語っているのは、広島市郊外の屋根瓦であった。一枚一枚の屋根瓦に糸をつけて、上空から、この糸を強く引いたように、屋根瓦は、魚のうろこを、しっぽの方からなぜあげたように、中空に向って立っていることであった。

 また爆発の一撃で叩きつぶされた屋根瓦の下敷になった人たちが、瞬間、再びはい出せるようなすき間ができて圧死をまぬがれているのである。さらに、原子爆弾が爆発した瞬間、道路を歩いていて、最初いやというほど地面に叩きつけられたが、気がついてみたら、四階のビルの屋上に吸いあげられた人もあったのである。

 このように、広島市内のあらゆる物体が、中空に吸いあげられたため、爆発の直後の広島市は、ほこりのために暗黒になり、一米(メートル)の前方を見すかすことも出来なかった。比較的に軽かった屋根トタンなどは、紙屑(かみくず)のように、もみくちゃになって飛散し、広島から遠く離れた宮島あたりまでとばされたのである。 


原爆広島県地図1

 このような爆圧の作用のために、私が六日の朝、楽々園から望見した曼珠沙華の花のような紅蓮(ぐれん)の正体がつかめたような気がした。高度四、五千米上空の、曼珠沙華のような紅蓮の花は地上の物体が中空に吸いあげられ、数千万度の爆熱のために、物体に火がついて燃えたのである。そして静かにこの物体が──物体というよりも、ほこりといった方が適切な言葉かもしれない──広島市一帯に降りかかったのである。

原爆曼珠沙華1曼珠沙華。別名ヒガンバナ【写真出典】Wikipedia

 
 さらに、この爆圧と爆熱のために、広島市郊外では、瞬間的な気圧の変動と、空気が数千度に熱せられ、そして冷却したために、たつ巻が起り、突風となり、豪雨が降った。私がこの豪雨にたたかれたとき、どす黒い雨だと思ったのは、中空高く吸いあげられたほこりが、雨と一緒に降ってきたからである。

 私はさらに原子爆弾の閃光が、水中深く作用して、川魚の大部分を死滅させたことを知って戦慄をおぼえた。

 太田川のほとりを歩いていると、背の白い川魚が力なく泳いでいる。一匹だけでなく、すべての魚がそうであった。宇品近くの下流に行くと、鯉、ふな、はや、などが背を白く焼かれて無数に死んで流れていた。原子爆弾の爆熱は、水中深くの川魚の背をも焼いたのである。                                                                  



原爆投下後に「身体が吸いあげられた」という証言は、他の罹災者の手記にもあります。

爆心地から2キロ南にいた軍人の証言


出典:1950(昭和25)年 文藝春秋新社 「文藝春秋」昭和25年10特別号所収
    宇田道隆 「原爆の思い出」



 猛烈なつむじ風が大火事につれて十一時-十四時ごろ太田川の分岐点を中心とする川すじに起った。鉄板から厚い板、ドラム缶、衣類行李(こうり:旅行用の荷物入れ。竹または柳で編み、つづらのようにつくったもの。衣類入れにも使う)から人間までまき上げられ、焼トタン板が紙のように剥がれ飛んだというから凄い。一升酒瓶が宙に浮いておどったり、橋げたにつかまってさかさになりながら昇天を免れた人の話など可笑味(おかしみ)がある。汽車が風でひとりで動き出したり、河の水が七尺も龍巻(たつまき)でまき上げられては瀧(たき)のように降り注いでいる。

 爆発後広島市上に起った黒雲と黒煙は北西に流れて黒雨を降らし、黒塵灰を降らし、無数の紙片(紙幣、債権〔原文ママ〕、帳簿、伝票など都心から上昇したもの)をヒラヒラ、フトン綿やトタン板、ソギ板、蚊帳(かや)片などの焼残り屑(くず)の他に数々のものを降らした。



流川町軍官舎で被爆した軍人の証言


出典:1988(昭和63)年 文藝春秋「『文藝春秋』にみる昭和史」第一巻所収  松村秀逸 「原爆下の広島軍司令部」(「文藝春秋」昭和26年8月号掲載)



 私は黒田夫人がたててくれた抹茶を、いつもの通り、廊下の籐椅子に腰かけて、飲み終ってから、出勤のため、軍服に着換えようと思って、部屋を二、三歩はいったところだった。

 フワッと、身体が宙に浮き上がって、吹き飛ばされた。「やったな」と飛ばされながら、くるりっと身体が一回転した時、榎(えのき)の上に、ギラギラと光る火の玉を見た。

 ドスンと部屋の片隅の違棚(ちがいだな)のところに、おしつけられた、と思ったら、ガクッと家が倒れて来た。ほんの一瞬の間の出来事で、私は、吹き飛ばされ、圧しつけられ、家の下敷となってしまったのである。



当時の学者は広島、長崎に投下された原爆の威力を「火縄銃程度」と言っています。

終戦の年にはもう原子爆弾を長距離ロケット砲と組み合わせて飛ばすという構想がありました。

日本人が平和ボケしていた戦後72年の間に、原子爆弾はもっと進歩しているでしょう。

原子物理学者「広島、長崎に投下された原爆は火縄銃程度のもの」


出典:1988(昭和63)年 文藝春秋「『文藝春秋』にみる昭和史」第一巻所収 中谷宇吉郎 「原子爆弾秘話」(「文藝春秋」昭和20年12月号掲載)



 今回の原子爆弾は原子火薬を使うものとしては火縄銃程度と考えるのが至当であろう。この火縄銃が大砲にまで進歩した日のことをありありと想像し得る人は少ないであろう。

 新しい発明の困難さは、それがはたして本当にできるか否かが分らない点にある。一度どこかでその可能性が立証されてしまえば、もう半分はできたようなものである。米英両国以外でも間もなくいろいろな型の原子爆弾ができる日はそう遠くはあるまい。そしてそれが長距離ロケット砲と組み合わされて、地球上を縦横にとび廻る日の人類最後の姿を想像することは止(や)めよう。



日本国民をぜんぜん守る気がない内閣官房国民保護ポータルサイト

内閣府が推奨している避難の方法を上掲の共同通信社記者の手記と併記してみました。


ⅲ.各物質が用いられた場合

①特徴

●…その後は放射性降下物(放射能をもった灰)が拡散、降下することにより放射線障害などの被害が生じます。

 高度四、五千米上空の、曼珠沙華のような紅蓮の花は地上の物体が中空に吸いあげられ、数千万度の爆熱のために、物体に火がついて燃えたのである。そして静かにこの物体が──物体というよりも、ほこりといった方が適切な言葉かもしれない──広島市一帯に降りかかったのである。


原爆内閣府弾道ミサイル2

②留意点

◎核爆発の場合

●とっさに遮蔽物の陰に身を隠しましょう。近隣に建物があればその中へ避難しましょう。地下施設やコンクリート建物であればより安全です。

 この上空からの瞬間的な圧力がすむと、こんどは原子爆弾が爆発した四、五千米(メートル)の中空が真空になった。

 そこで、こんどは下から、真空になった中空に向って、空気の突進がはじまり、この空気の瞬間的な移動にともなって、叩きつぶされた家屋や、樹木や、広島市のありとあらゆる物体が、中空に吸いあげられたのである。これがため、数千万貫の鉄筋の橋が持ちあげられ、墓石が動き、ぽっきり折れた老松が、中空に吸いあげられようとして、きりきりにねじれ、飴をねじきったようになってむしりとられた。


上着を頭から被り、口と鼻をハンカチで覆うなどにより、皮膚の露出をなるべく少なくしながら、爆発地点からなるべく遠く離れましょう。

 白いシャツを着ている人々は、顔、腕など露出した部分だけが焼けただれ白いシャツの下の皮膚は火傷を負っていない。黒い着物をきていた人たちは全身に火傷を負い、紺がすりや黒い生地で作った、モンペをはいていた女はこの黒い部分の下の皮膚を火傷していた。全裸のまま、焼けただれた乳房をつかんで、さまよい歩いている人もあった。私の目の前でバタバタと死の行列の人たちが倒れる。そして胸をかきむしる。かすかに水が飲みたいというこの痛ましい行列のなかに、三つくらいの女の子を背負った三十がらみの母親があった。しかもこの背の子供は、ろう人形のようになって、すでに、こと切れているのである。


原爆内閣府弾道ミサイル3

【出典】内閣官房 国民保護ポータルサイト:武力攻撃やテロなどから身を守るために~避難にあたっての留意点などをまとめました~
【引用文出典】1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録大東亜戦史 原爆国内篇」所収 共同通信社整理部次長 中村 敏 「曼珠沙華-原子雲(げんしうん)の下の広島-」


日本政府もまた北朝鮮の弾道ミサイルが約40分間も飛んだのに、緊張感ゼロの対応でした。

日本政府は民族国家を破壊するアメリカ、先の大戦で日本人を地上から抹殺しようと企図したアメリカに追随しているので、当然といえば当然の対応でしょうか。

現在の政権与党も日本人に対しては共産党批判や韓国批判という実にお金のかからないリップサービスばかりです。

そして二度と天皇が終戦を決断できないように、天皇退位特例法を成立させた。

そういう日本人に対する仕打ちとは逆に、政府は在日朝鮮人・韓国人に対しては何億円もかけて国会を運営してヘイトスピーチ解消法といった法律を作って保護しました。

テロ等準備罪にしても戦前の治安維持法と同じで、次の戦争でも共産主義者や朝鮮人を監獄に保護して、戦争で愛国者たる日本人を虐殺したあと、日本革命のために出獄させるという算段なのかも知れません。


【終戦後、府中刑務所から釈放された日本共産党の徳田球一ら】
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【1949(昭和24)年4月27日在日朝鮮人デモ(深川)】
在日朝鮮人デモ1949深川

終戦直後、満洲や朝鮮でソ連軍中国人朝鮮人による日本人虐殺が起きたとき、日本人には日本という避難先がありました。

でも近い将来北朝鮮のミサイルが日本に着弾して起きる騒乱に対して、私たちにはどこにも逃げ出す場所はありません。

日本政府は明らかな米朝戦争なのに、「わが国も米国と協力」などと宣伝して米国に追従する気満々、北朝鮮に「核ミサイルを撃ち込んでくれ」と言っているのと同じです。

戦前について調べれば調べるほど、戦後日本人が政府にダマされて続けてきたことが明らかになっていきます。

ああ、困ったもんだ。

ぜんぜん日本国民を守る気がない日本政府


ミサイル警報「Jアラート」はどんなときに鳴るのか
2017年7月4日 BUZZ FEED NEWS

7月4日午前、北朝鮮が弾道ミサイルを発射した。菅義偉・内閣官房長官は記者会見し、「本日9時39分ごろ、北朝鮮西岸より弾道ミサイルが発射され、約40分間飛しょうし、日本海のわが国の排他的経済水域に落下したと推定される」と述べた。飛行機・船舶等への被害は確認されていないという。

今回のミサイル発射で、国の緊急速報「Jアラート」は鳴らなかった。(後略)




【資料出典】
1900(明治33)年 史伝編纂所 瀬川光行編 「日本之名勝」
・1995(平成7)年 毎日新聞社 「毎日ムック 戦後50年」

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