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2017/08/12

広島原爆被爆者を救援した特高警察が受けた仕打ち


戦後、特高警察は「悪の権化」のようにいわれてきましたが、広島の原爆罹災者の救援に当ったのは広島県警察部特高課と県内および近隣自治体から召集された警察官たちでした。

彼らはみずからも被爆、負傷しながら苦しむ市民のために力をつくしました。

そうして二次被爆で自分自身の体調不良がどんどん悪化していくのもかえりみず、任務以上の仕事をこなした特高警察官たちを待っていたのは戦後の「公職追放」でした。

GHQは公職追放者への恩給不支給を勅令で規定させ、原爆症になった特高警察官たちを焼け野原に放り出したのです。

天皇が発布する勅令ならば日本人は逆らえませんからね。


戦前の道府県警察本部は県庁の中にありました
1940(昭和15)年の広島県庁

原爆広島県庁1【出典】1941(昭和16)年 警察協会広島支部 広島県警察部 「広島県警察史」

一方、日本に原爆を投下した側である共産主義者や極左朝鮮人は「ヒバクシャ」になりすまして日本の福祉を食いつぶしている、というのが現状です。

戦後、共産GHQは日本の愛国者や財閥、軍の統制会社の幹部などを「戦争犯罪人」「戦争協力者」などと称して公職追放しました。

その中でも特高警察は国家権力そのものでしたし、共産主義や無政府主義などの危険思想を弾圧する機関だったので、戦後は共産主義者によって「悪」だと悪宣伝されてきたのです。

共産主義者が警察や自衛隊という国家権力を弱体化しようとするのは、自分らの対日テロや日本革命をやりやすくするためです。

共産主義者がさけぶ「平和」は連合国の平和であり、自分らの平和のことです。
日本人にとっての平和ではありません。

だいたい「愛」とか「平和」とか抽象的なスローガンをほざく共産主義者の実態はガッチガチの唯物論者で「形而下(けいじか:形のあるもの)しか信じない」という大矛盾をかかえています。

そしてそんな彼らは、日本人に何をしてくれました?

戦争という暴力革命をしかけてきて、原爆を投下したことですよね?

で、原爆一発で広島市民25万人の生命を奪っておきながら、特高警察に仲間が数人なぶり殺しにされたからといって戦後70年以上も「特高警察は悪だ!」とさけび続けている。

共産主義者には日本人に危害を加える危険性があるから、特高警察にボコボコにされたのです。

そもそもまっとうに国家を運営してきた民族が「そうだ!わが国を解体して世界に提供しよう!同胞も殺しちゃおう!」とか考えますかね?

共産主義とは国を持たない民族のサタニズムと同等の侵略思想です。


広島の被爆・負傷した特高警察官がこなした主な任務


・罹災者の受付や避難先の指示
・救急薬品やその他医療関係品の配分
・応急食糧品の処理
・治安の維持
・災禍跡の整理等
・罹災者救援
・新聞記者への応対
・大本営をはじめとする中央との連絡
・関東大震災の時のような共産主義者や朝鮮人による対日テロ警戒
・配給物の証明発行
・終戦の御詔勅を広島市民に手渡すための紙や謄写版の用意
・終戦の御詔勅を夜を徹してガリ版刷り
・終戦を知った憲兵隊や軍人による乱入を防ぐための夜警
・終戦後、激しい憎悪の対象であったはずの青い目をした連合国側ジャーナリストの保護



すべてを焼きつくされ、水道や川の水も被爆して飲むことができなかった広島市。

原爆による火災は一週間経っても鎮火せず、毎夜亡くなった人たちを火葬する青い火柱が立ち、夜になってもうだるように暑かったそうです。

原爆投下でアメリカが天空にしつらえた地獄へ人々が吸いこまれ、一瞬にして灰になる光景も目撃したはずなのに、特高警察官のこの気力と正気を失わない強さは、なにゆえのものでしょうか。

今の日本にこれほど気力がしっかりした日本人がいるでしょうか?


「ヒバクシャ」になりすまして日本の福祉を食いつぶし、なおかつ日本の総理大臣を侮辱する朝鮮人

朝鮮人が広島県で被爆者団体を組織してますね。

戦前、朝鮮人は連合国と密通していたのに原爆投下は知らなかったのですかね?

もしかしてあれだけ「アメリカさまの指導下で祖国独立を果す」とか言ってたのに、使い捨てにされたのかな?

在日朝鮮人はラジオを通じた暗号で「空襲が夜間なら民家に放火せよ」などとアメリカからの指令を受けてたよね?

なんで「被害者ヅラ」してんの? 朝鮮人は加害者、原爆を投下した側だぞ?



長崎県にも入りこんでいますね。

原爆開発にあたってアメリカはウラニューム核分裂発見までに20億ドルの費用をかけ、技術者6万5000人を動員し、大工場を建設しました。

その技術者たちは反共ナチス・ドイツによる迫害を逃れ、ヨーロッパを逃れて渡米したユダヤ人科学者たちと米英科学研究協定によりイギリスから渡米した科学者たちでした。

そしてそこから原爆という兵器にしたてるまでに、さらに莫大な金額をつぎこんだ。

そこまでして共産英米ユダヤは民族国家日本を滅ぼしたかったのです。

帝国陸軍も言っている「日本人がユダヤ人にいったい何をしたというのか?」と。

共産主義とは国を持たない一人種の逆恨みにすぎない。ヨーロッパやロシアの王室に弾圧された。国という後ろ楯のない人種だから居住した国で差別された。

だから天皇を抹殺してやる、神の選民でもないのに世界最古の国を運営している
日本人をみな殺しにしてやる。

白人の反ユ運動と日本人となんの関係がありますか?そんなゆがんだ感情的な理由で大勢の日本人が虐殺されたのです。

そしてその英米巨大資本の手先朝鮮人が「ヒバクシャ」になりすまして、日本に「人道」だの「見舞金」だのを要求しているんですね。

オチが知れてる喜劇みたいに、笑えませんが。




2008(平成20)年に施行された改正被爆者援護法で朝鮮人ヒバクシャが急増

日本政府は韓国を情治国家だといって笑っていますが、日本政府は共産政府、極左朝鮮人を自国民よりも愛する政府です。

本物かどうかもわからない海外「ヒバクシャ」に毎月手当を支給するのなら、原爆投下後の広島や長崎で自分の命もかえりみずに尽力した人たちを救済してほしかった。それしか思い浮かばないです。

そして今、核戦争を始めようとしているのがヒバクシャになりすましている朝鮮人と大統領が広島を訪問した国というのも日本人と本当に原爆で被爆した人たちをバカにしている。

今の日本には命がけで罹災者を救ってくれた特高警察も神風もいないのです。


<在日社会>韓国人被爆者・海外から被爆者手帳の申請可能に
2008年8月15日 東洋経済日報

 8月6日は広島、9日は長崎に原爆が投下された日で、今年63年を迎えた。韓国人被爆者に対する健康管理手当未払い問題など、未だに課題が残されている。5日には広島市中区の平和記念公園にある「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」の前で、韓国人被爆者の慰霊祭が行われた。

 今年6月11日、海外から被爆者健康手帳を交付申請できるようにする改正被爆者援護法が成立し、半年以内に施行されることになった。これによって被爆者健康手帳を持つ韓国人原爆被害者は、早ければ年末には、韓国にいたままで1カ月3万4000円の健康管理手当を、海外公館で申請できるようになる。

これまでは被爆者本人が日本を訪れ、被爆当時に居住地していた地域の地方自治体長に直接申請しなければならなかった。 海外に居住する被爆者は現在、韓国人2300人余(健康手帳所有者1700人余)を含み4500人余と推定されている。(後略)

原爆国外からの手帳申請1【出典】原爆被爆者援護の現状と課題 厚生労働委員会調査室 尼子真央(7ページ)(PDFファイル)


GHQ&日本政府「公職追放になった者に恩給は支給しない」


内閣人庶第一九号 昭和二十一年四月十七日

 公職追放令ニ伴フ人事手続等ニ関スル件

一月四日附所謂公職追放令ニ伴フ人事手続ニ関シテハ其後遺漏ナク実施セラレ居ル事ト存候処、左記ノ事項ニ関シ連合国最高司令部ト協議ノ結果別紙ノ通報告致置候ニ付貴省(庁)部内並ニ所管ノ関係事項ニ関シ充分御留意ノ上遺漏ナキヲ期セラレ度此段命ニ依リ通牒ニ及ビ候

   記

一、三月二十二日附連合国最高司令部マーカム中佐ヨリ日本政府ニ手交セラレタル文書ニ対スル回答

二、公職追放令ニ伴フ資格審査予定計画 三月二十二日附連合国最高司令部マーカム中佐ヨリ日本政府ニ手交セラレタル文書ニ対スル回答

公職追放通達1


三月二十二日附聯合国最高司令部マーカム中佐ヨリ日本政府ニ手交セラレタル文書ニ対スル回答

(中略)

尤(モット)モ、G項ノ基準ニシテ例ヘバ特高警察、思想警察等ニ該当スル恐(オソレ)アル者ニ付(ツイ)テハ奏任官以下ノ退官退職者ト雖(イエド)モ之(コレ)ヲ除外セズ資格審査ヲ行フ

公職追放通達2

(2)退官退職者ニ対スル恩給上ノ措置
(イ)一月四日附覚書ニ基キ退官退職シタル者ニハ特ニ内閣総理大臣ノ定ムル場合ノ外(ホカ)恩給ヲ給セザル旨勅令ヲ以テ規定シ、二月二十八日ヨリ之ヲ施行セリ。尚、内閣総理大臣ノ定ムル除外規定ニ付テハ目下検討中ニシテ成案ヲ得次第司令部ノ承認ヲ求ムル予定ナリ

(ロ)一月四日以降公職を退官退職シタル者ノ恩給局ニ於ケル恩給予定事務ハ之ヲ停止スルト共ニ、各省ニ対シテハ之等(コレラ)ノ者ノ中覚書ニ該当セザル者ノ恩給書類ノ申達ニ際シテハ、覚書ニ該当セザル旨ヲ特ニ恩給局ニ説明シタル後申達スベキコトヲ通牒セリ
尤(モット)モ公職ヨリ退官退職シタル者ニ付テハ総(ス)ベテ調査表ヲ提出セシメ万一覚書該当者ニシテ恩給ヲ受クル者アリタル場合ニ於テハ遡及的ニ之ヲ取消スコトトス

公職追放通達恩給なし1

【出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:A06050149900:1946(昭和21)年4月17日 枢密院|内閣 「公職追放令ニ伴フ人事手続等ニ関スル件内閣ヨリ通牒」


特高警察官を公職追放しながら「警察官募集」の新聞広告を出した警視庁…そのころ在日朝鮮人は……

昭和21年4月18日の朝日新聞紙面。追放された警察官たちははらわた煮えくりかえりますよね?

公職追放新聞広告警察官募集

昭和21年4月12日朝日新聞紙面。第一回全日本朝鮮青年サッカー大会を開催。祖国独立をめざした朝鮮独立解放共産運動はいったい何だったのか?

公職追放朝日記事朝鮮人サッカー

本記事の資料:広島県の特高警察官がこなした任務の記録


当日、広島市にいた新聞記者の手記からの抜粋です。

中国新聞社調査部長 大下春男氏の手記
「歴史の終焉-八月六日の悲劇-」より

原爆投下直後、廿日市警察署からの救援トラックが到着


 避難者の群はだんだん多くなって来る。しかもほとんど負傷している。その様相は例えようがない。衣服のあるものズタズタに破れ、婦人のズロース(女性用の下ばき。股間部をおおい、太もも丈のゆったりとしたもの)も前の方が僅かに残り、両側は裂けちぎれて擦り切れた腰巻に等しい。全身は赤ぶくれてところどころ血が滲み、顔は焼けただれて皮がさがり、唇は膨(ふく)れあがってホッテントット(コイコイ人の俗称)さながら、皆一様に両腕を少し前に差出し、前膊部(ぜんはくぶ:腕のひじから手首までの部分)から上に曲げ、手首から先を下に向けて幽霊のしぐさだ。その手からもボロボロに破れた衣類のように皮がぶらさがっている。それがのろのろと続いて来る。まったく胸迫る地獄図絵で慰めの言葉もかけ得なかった。

 折よく廿日市警察署の救援トラックが来た。早速便乗して広島へ向う。車上の警官も声なく目を覆っているのみである。



広島市にたどり着くも火災がはげしく、廿日市署員もうなるばかりだった


 行ける所まで行けというので救援警察官らと別れ、中途同行した沼田、鎌倉両記者と共に市中へ突入を企てた。目指す所は電車線の己斐(こい)鉄橋一つである。火で危いと止(とめ)るのもかまわず渡ることにした。なるほど、鉄橋の枕木は到るところ火をふいている。

 ようやく渡ったものの前面は火だ。やむなく鉄橋を下って観音町(かんのんちょう)へ通ずる道路へ出て次の福島川は越えたが、観音町一帯は渦巻く猛煙である。家屋はいずれもぺちゃんこになっており、それが燃え盛っているので道路前面は真っ暗がり、熱気で窒息しそうである。進むにも進まれない。今兵士が一人無理矢理行ったがとても助かってはいまい、といって、居合わせた自警団員が引止める。やがてそこへ救援の廿日市署員も辿(たど)り着いたが、ううんと唸(うな)るばかりだった。



東警察署は署員のバケツリレーにより火災をまぬがれ焼け残った


こうして全市は夜通し燃え続けたが市の中心部で火災を免れた三つの建物がある。千田町(せんだまち)の日赤病院の本館、広島貯金局、上柳町(かみやなぎまち)の東警察署(現広島銀行銀山町支店)である。

 日赤病院では木造病棟は焼けたが、本館の方は医師、看護婦が一団となって守り続け本館の類焼を危く喰い止めた。

 病院の隣り広島貯金局も、女子事務員数名の決死の働きによって発火を免れたが、この一角は放射能の照射が案外軽かったのかも知れない。貯金局の地下倉庫にいたものは、原子爆発すら知らなかったというのである。

 東警察署は猿候河畔の庁署を引払って貯蓄銀行だった鉄筋建(だて)に仮住居(かりずまい)していた。一、二カ所火を受けたがガラスの破片で負傷しながらも署員が懸命のバケツ送水で消止めたのだった。



焼け残った東警察署でいそがしく立ちまわっていた警察官たち


 当時文理大に置かれていた中国総監府も県庁も全滅している。この大被害の処理を一体何処(どこ)が中心となってやるのか。

 交通も通信も全く死んでしまって外部との連絡は全然つかない。無人島に流されたようなもので心細いことになったものである。

 取敢(とりあえ)ず焼け残った東警察署へ行ってみると、頭を、手を白く繃帯(ほうたい)した警察官があわただしく立廻っている。無傷の者は殆んどいない。県警察部の者や県庁員など軽傷の者がつめかけて来ている。高野源信(げんしん)知事は出張中だったが、他に建物が残っていないので当分の間、此(この)家を仮の対策本部とすることになったらしい。本社もその一角を借りて、原始的な報道活動を開始することにした。



罹災者救援にもっともよく活躍したのは警察官だった。その中心は広島県警察部だった


 原爆にあたって、最も良く活躍したのは警察官だった。

 彼らは逸早く猛炎の街路に進出して負傷の身もかまわず、罹災者の受付や避難先の指示にあたった。東署の対策本部も警察部が中心となっていた。救急薬品やその他医療関係品の配分、応急食糧品の処理、治安の維持、災禍跡の整理等々実に涙ぐましいまでの張り切り方だった。



広島市では関東大震災の時のような共産主義者による対日テロは起らなかった

関東大震災における在日朝鮮人の対日テロについてはコチラ


 罹災者の多くは隣接町村に収容されたが、公園地帯や練兵場に野宿するものも相当の数にのぼった。これらは負傷した家族を抱え、僅(わず)かに持ち出した家財を置いて、昼は炎天にさらされ、夜は暗黒の中に不自由と不安の生活を幾日も幾日も続けたのだったが、東京震災(関東大震災のこと)に伝えられるような不祥事はちっとも起らなかった。

 警察側が未前(原文ママ)防止のため、治安確保に最大の関心を払った事や、民間救援団体の暖い心遣いなど、いろいろ外的な条件もあったには違いないが、戦時下にあって、良いにしろ悪いにしろ、「日本」という一つの精神的なつながりと緊張が、各自の間に深く巣喰うていた事が最大の因(もと)であったことも見逃せないことである。



罹災者救援の中心は若手の太宰特高課長で新聞記者との窓口だった


 原爆当時の広島県警察部には、若手の特高課長で太宰という男がいた。官僚の見本の様なところもあったが、なかなか手際よくキビキビと物を処理していた様に思う。

 この太宰課長も、主水(かこ)町の県庁舎で遭難、頭部に繃帯を巻いたまま、逸早く東署の対策本部詰めと小まめに立働いていた。

 本社では新聞の発行は出来なかったが、口伝隊(こうでんたい)の編成、その他治安の確保難民救済対策など新聞記者との折衝も当分の間は太宰課長が一番多かった。

 原爆から三日目の頃だったか、太宰課長が、

「今後原子爆弾という名称を使用してはいけない。言語に出したものも処罰する」

 と厳重に申し渡したのである。

 差止めばやりの戦時下、特に特高警察は、新聞記事にいちいち容喙(ようかい:横合いから口を出すこと)していた。大体文書で伝えて来るのであるが一つ建物の中ではあるし、手取り早く口頭伝達である。然(しか)も代りの名称は「閃光式新型爆弾」とかいった。

 これは大本営命令だったらしいが、誠に馬鹿馬鹿しい事で、こんなところにも要路の人達が人心動揺を防ぐ為に如何に神経衰弱気味になっていたかが伺(うかが)える。

 新型爆弾なんて子供だましの名称に市民は納得するものではない。

 そのうちに何処(どこ)からか「ピカドン」という言葉が生れて来た。ピカッとした光と同時に、ドカンと来た爆音を一つにもじったもので、原爆体験者には誠に要を得た呼称である。

 さすがの太宰課長も「大衆はうまいことをいうものだ」と感心、この呼称は差止めにならなかった。



共同通信社整理部次長 中村 敏氏の手記
「曼珠沙華-原子雲の下の広島-」より

力尽きた火傷者を収容所に運びこんだのは防護団員と警察官だった


 意識のある人からは、その出身地や部隊名を、収容所名簿に記入できたが大部分の人たちは、口のきけないおし同然であったので、どこの誰であるかどこの中学生なのか、さっぱりわからなかった。六日の夜から七日にかけて死の街広島から夢遊病者のようになって脱出し、力つきて路傍や、橋のたもとに倒れていた人たちを、近郊からかり集められた防護団員や、警察官によって、どんどんこの収容所にはこび込まれたのであった。



太宰特高課長は頭部を負傷、県下の各警察に応援を手配、無電ニュースの発行をよろこび、「応援に警察官を2、3名よこすよ」と新聞記者に約束する


 瀬谷崎(せやざき)君が、

「加藤さんは子供二人の真中に寝て白骨になっていた。一発で親子三人家の下敷になって焼けたんだ。奥さんが亡くなってから、子供を社につれてきて働いてくれていた。子供の顔がいまでもちらつく」

 と言って涙を拭いた。

 太宰特高課長が頭に繃帯(ほうたい)を巻いて現われた。どす黒く血がにじんでいる。

「中国統監府も、県庁の首脳者も全滅し、私が指揮をとっている」

 と言った。しかし警察官も転員もちりぢりばらばらで、仕事が少しもはかどらないが、県下の各警察から応援をもらったり、防護団員を派遣してもらうように手配をすませたと語った。

 私は応援が到着したので、電池を使って無電ニュースを受信し、通信を発行することを語った。太宰氏は非常によろこんで、「お手伝に警察官を二、三名よこす」と言って帰った。若いがなかなかしっかりしている。

 その夜、歌橋記者を通じて、「内務省から広島県庁への指令は、私の社の通信網を通じて、連絡してもらえないか」という太宰氏からの依頼状をうけとった。東京から応援にきてくれた篠原君は、ろうそくの灯のもとで、徹夜してせっせと原稿を書いた。



警察官が無電ニュースを印刷するためのガリ版と原紙を用意した


 警察の人が、ガリ版と原紙を持ってきてくれた。謄写版は岡山支局から届いている。これで電話と無電を受信して、ニュースの発行ができる準備ができた。



警察官の中にも原爆症が広がったが、みな過労だと思った


 広島で爆撃を受けたものだけが、身体がだるい、力がなくなったと言い出した。私も全身から力がぬけたようなだる気を覚えるようになった。

 私たちばかりではなかった。軍の参謀も警察官も、身体がだるいといって床につくものがでてきた。みんな過労のためだと思った。

 このころから広島郊外の田圃(たんぼ)の稲が白くなって枯れはじめ、赤松や杉の葉も白くなった。鶏が卵を産まなくなったという噂がぱっと拡がった。床についている火傷者の髪がばらばら抜け、目、鼻、口、耳から出血して、ばたばた死んでいくという話を聞いた。無傷の人の頭髪も脱け出したというので、みんな頭の毛をむしってみた。



玉音放送前夜、新聞記者も警察官も泣きながら「終戦の御詔勅」をガリ版刷りした
印刷している部屋は軍人の乱入を警戒して警察官が夜どおし警備する


 電話をうけた瀬谷崎君が、沈痛な顔をして、

「やっぱり降伏だそうです。陛下がかわいそうだ。国民もかわいそうだ。広島のものは浮かばれない」

 と言って大きな目から涙をぽろぽろこぼした。

 降伏、そして陛下がラジオ放送される。

「陛下がネー」

 みんなそう言って泣いた。私は太宰特高課長を呼びよせて、原村の放送所の一室を借りうけ、十五日の午前十一時までに、広島の人たちの手に渡るように、手配することを伝えた。憲兵隊や、軍に連絡しない訳(わけ)にもいかないがもしかすると、兵隊になぐり込まれるかもしれないので、十五日の朝まで秘密に仕事をすることにした。そして万一を考慮して、県の方で警官を出して警戒してもらうように頼んだ。

 十四日の夜おそくなって、御詔勅の内容が電話に吹込まれてきた。私たちは放送所の応接間をしめきって、ガリ版で原紙の一駒(こま)一駒をきった。

 うだるような暑さのために、原紙のろうがとけて字体がくずれる。警戒の警察官の靴音が窓越しにこつこつと聞える。一字、一字、日本降伏の御詔勅を書きながら、涙と汗が原紙の上にこぼれる。太宰氏が腕を組んですすり泣いている。謄写版のローラを静かに押しながら巡査部長も泣いていた。



日本人は孫子の代までアメリカの暴虐を憎み続ける…殺気だった広島市に到着した英国デイリー・エキスプレスの記者を警護し火傷者収容所へ案内し警察署長室で電報を打たせてやった特高課長

このとき広島市入りした連合国側初のジャーナリスト、バッジャー(ウィルフレッド・バーチェット)特派員が本国に打電した言葉が「ノーモアヒロシマ」でした。


 トルーマン大統領も九日(管理人注:リスボン九日発同盟。アメリカ時間九日夜にトルーマンが行ったラジオ演説のこと)の放送で、日本は広島に投下した原子爆弾の威力を知ったであろう。これでも日本が降伏しなければ、さらに日本の都市を爆撃すると、実に驚ろくべきことを、ぬけぬけと言っている。この魔の元素の焔(ほのお)は、ついに日本を降伏に追込み、世界は平和への道をたどることになろうが、広島や、長崎の人たちは、トルーマン大統領がいかに弁解しようとも、孫子の代まで米機の暴虐を憎みつづけるだろうと思った。

 私は繰返し、繰返し、終戦の御詔勅を読みかえした。真っ赤な太陽が、二葉山から静かにのぼりはじめた。米機が四機、ゆっくり広島の上空をかすめて東へ消えていった。

(中略)

 それから数日たって、県庁と軍は、向洋(むかいなだ)の工場跡に移った。広島の建設──街の整理は、県庁が主体になってはじめられた。

(中略)

 体がだるかった人たちの殆(ほと)んどが、頭髪が抜け、小さな傷から化膿しはじめ、黄色い液体を吐いて、ばたばたと死んでいった。爆弾が投下されたとき広島にいなかった人や、市街片づけの応援にきた人たちまでが、こんな症状を起して死ぬものがでてきた。

 頭髪が抜けた娘や子供たちのなかで目と、鼻と、耳と、口と、肛門から、どす黒い血が出て、死んでいくものが多くなった。

 私は宇品の暁部隊本部に、東大の都築(つづき)博士を訪ねて、広島の人たちが恐怖に追込まれている原爆の人体に及ぼす作用について話を聞いた。

「原爆はその爆発によって発生した放射能というものを、広島全市にばら撒いた。これを当時市内にいたものは大量に吸込んでいる。目に見えない物体だから、自分が吸込んだかどうかみんな意識していない。吸込んだとたんに毒ガスのように人体に作用を起すものでないから、今日までわからなかったのだが、日がたつにつれて、放射能が人体に作用し、ごくわかりやすくいえば、白血球の組織を破壊するから、白血球がどんどん減少する。白血球が減少すると、人体はあらゆる細菌にたいする抵抗力を失い、これがため体の組織が腐敗するという恐るべき作用が起る」

 という話であった。

【広島、長崎に続きまだ日本に原爆を投下する計画だったトルーマン米大統領】
トルーマン1

(中略)

 原爆の広島に連合国人として、一番乗りをしたのは、ロンドンのデイリー・エキスプレスのバッジャー特派員であった。グアム島から連合軍とともに軍用機で厚木に飛び、その足で汽車に乗って広島についた。第二総軍司令部がまだ広島駅裏の二葉山の横穴陣地にいたころだった。長谷川外信局長からロンドンのデイリー・エキスプレスのバッジャー君が広島に行くから、じっくりと原爆の恐ろしさを見せてやってくれという連絡があった。呉にも、広島にも進駐軍がくる前であったので、私は太宰特高課長に、バッジャー君の身の安全を依頼した。

 どんよりと曇った空から小粒の雨が降り出した日の午後一時ごろ、私と歌橋記者は、広島駅に着いた軍装の外人を迎えた。

 腰に拳銃をつけ、小さなリュックを肩にかけて不安そうに、きょろきょろしている。群衆が「目の青い野郎だ」と言って罵声を浴せかけている。

「同盟のものだが、君がバッジャーか」

と聞くと、

「そうだ、多分、出迎えてくれまいと思っていた」

 と言って笑った。

 まず私たちは上流川町(かみながれかわまち)にあった警察署に行った。太宰特高課長が待っていてくれたからである。衣料や配給物の証明をもらうためにつめかけていた人たちが、青い目の人間が現われたので、「もうきやがった」と舌うちをして、敵意にみちた目で彼をにらんだ。私はこの人たちに、

「軍人ではないんです、新聞記者です広島の惨状を報道にきたんです」

 と叫んでみたが、

「爆弾を落しておいて、惨状もあったものか。俺は青い目の人間を見ると胸がむかむかする、早く追いかえせ」

 と罵倒された。

 私たちは署長室で、原爆の焔をはじめて見て、この日までのことを、日記をたどりながらこまごまと説明した。

「まったくの生地獄(いきじごく)であった」

 と、私が火傷者の死の行列を手まね身ぶりですると、彼は、

「もう沢山(たくさん)、私が気が狂い出すかもしれない」

 と言って泣きそうな顔をした。私たちは屋上に出て、

「瓦(かわら)一枚完全なものがない。直径一メートルの老松が、飴をねじきったように折れ、何千万貫あるかしれない鉄筋の橋が移動し、一発で十七万が死んだ」

 ことなどをつけ加えて説明した。彼は恐ろしい爆弾だ! これは悲惨以上である、と繰返し繰返し言った。

 私たちは警察の自動車で、広島市を一巡りして、広島逓信局の焼(やけ)ビルの中に収容されていた原爆で火傷した患者を見た。

 鬼気せまる様相をした火傷者が、じっと彼をにらむ。罵声を浴せかける。女の子が泣きわめくので、

「これで沢山、ここを早く逃げ出したい」 といって彼は逓信局を飛び出していった。

 顔面蒼白である、お湯が飲みたいと言った。頭がくらくらするとも言った。私は、奴(やっこ)さん怖くなったなと思った。広島駅交番のすぐ横に、ちょろちょろ、破れた水道管から水がもれていたので、これで我慢してほしいと言った。彼は手を大きく振って、

「これを飲んだら死ぬ、お湯はないか」

 と言った。残念ながら、市内には、そんなお上品な飲物などはなかった。

 バッジャー君は、警察の署長室でタイプを叩いて長文の電報を書いた。

「原爆になめつくされた広島には家も木も人もない。広島に残されたものは粉々になった瓦礫(がれき)と、焼けただれた神に見捨てられた人々と、悲しみのみである」

 彼の電報はあらましこのようなものであった。そしてこのあとに、私と太宰氏の話を、こまごまとならべてあった。

「これで私は第一報を打てた、私の日本にきた使命の大半はの仕事ですんだ」

 と彼は大よろこびした。彼はエジプトで生れたといった。そんな関係でエチオピア戦線に従軍したとも語った。大東亜戦争がはじまるとすぐ、彼はビルマに派遣され、英軍に従軍した。彼は左足のズボンをまくり上げて、

「この傷は日本軍の戦闘機の掃射でやられた」

 と言って笑った。

 広島を爆撃したB29機が、グアムの基地を飛び出すのを彼は見送ったということであった。グアムの基地にあった連合軍は、日本からの原子爆弾の報復をおそれ白布で作られた特別の閃光除けの服をまとったと語った。彼は広島のこの惨状を見て、

「神は、この罪は許さないかもしれない。あまりに悲惨すぎると思う」 と言った。

 彼はその日の夜、広島をたって京都に向った。電報局がやられているので苦労をして彼の第一報を電話で東京本社に送り届けた。

 この電報が、外国人の打った第一報となったのである。


管理人補足:
トモダチアメリカはバッジャー電が世界に報じられると記者会見を開いて原爆症患者の存在を否定し、広島への外国人記者の立ち入りを禁止するとともに、急設病院も閉鎖した

原爆ノーモアヒロシマ
「ノーモアヒロシマ」広島の惨状を見た豪人記者、本社へ打電
1945(昭和20)年9月3日

イギリスの「デーリー・エクスプレス」紙特派員ウィルフレッド・バーチェット記者が、東京からタイプライターと食糧を携帯して単身広島に入り、連合国側ジャーナリストとして初めて原爆の被害現場を取材。「ヒロシマを二度とくり返すな」とロンドンに打電した。

 バーチェットはこう書いた。

「30日後の広島では、人がなおも死んでゆく。あのときに無傷であったというのに、原爆の疫病としか描写するほかない何ものかによって死んでゆく。(広島の様相は)怪物大の蒸気ローラーが通り過ぎ、木端微塵(こっぱみじん)に抹殺、壊滅したようだ。……この原爆の最初の実験場で、私は4年の戦争期間中、もっとも恐ろしい戦慄すべき荒廃の姿をこの目で見た。(これに比べると)太平洋諸島(の戦場)は、エデンの園みたいなものである。……この荒廃がもたらされた瞬間から、生き残った人は白人を憎んだ。その憎悪の激しさは、原爆そのものに決して劣らない……」

 バーチェット電が世界に報じられた直後、アメリカの原爆災害調査団は記者会見を行い、放射能障害による原爆症患者の存在を否定。広島への外人記者の立ち入りを禁止するとともに、急設病院もただちに閉鎖する処置をとる。

【出典】1987(昭和62)年 講談社 「20世紀全記録(クロニック)」



【資料出典】
・1954(昭和29)年 朝日新聞社 「朝日新聞 重要紙面の七十五年」
・1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録大東亜戦史 原爆国内篇」
・1988(昭和63)年 文藝春秋 「『文藝春秋』にみる昭和史」第一巻所収
           中谷宇吉郎 「原子爆弾雑話」

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