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2017/07/12

戦前中国の日本人売春婦(私娼)のすべて


韓国が発見した朝鮮人慰安婦「被害者」動画に日本人女性が映っていますね。

韓国ハンギョレ新聞はこの女性を「慰安所管理者」と報道していますが、この女性は中国人か朝鮮人経営の私娼窟に売られて売春を強要された被害者です。

彼女が中国へ渡った理由は誘拐またはサギで、客は日本軍ではなく、ほとんどが中国人です。

彼女はこの私娼窟に監禁されてから日本人男性を客としたことはありません。しかも性病に感染しています。

そして、彼女の髪や着物が乱れているので中国軍が踏み込んできた時は「接客」の真っ最中でした。

朝鮮人慰安婦動画1_2

この一枚の写真から、これだけの情報が読み取れます。

この日本人女性は韓国や中国、北朝鮮が世界に宣伝している「従軍慰安婦」そのものです。

事実は日本人女性が誘拐され、ダマされ、私娼窟に売り飛ばされて、売春を強要されたのです。

反抗でもしようものなら、日本軍が朝鮮人女性に対してやったと宣伝されている残虐な方法で殺されました。

この写真の日本人女性もこのあとどうなったか、容易に想像できますね。

この時点で、日本人も朝鮮人も中国軍の敵ですから。


支那人と結託した日本人にダマされ、中国に強制連行され売り飛ばされて、売春を強要された日本人女性たち

明治維新後の犠牲者はその多くが旧士族の娘たちでした。なにしろ旧士族は薩長に仕事も禄も奪われて道端に放り出されたのですから、食べていくために働かねばなりません。

それから韓国はよく理解できてないようですが、誘拐された女性は警察や領事館の証明がもらえないので公娼にはなれません。日本軍の慰安婦は全員「公娼」です。


出典:1960(昭和35)年 南方社 河合譲 「村岡伊平治自伝」
     第一編 南支時代 第六章 厦門(アモイ)



 一 山口海員宿泊所

 そのころ、日本や上海より入船ごとに日本娘が三人五人十人と連れてこられ、そのつど支那人旅館に日本の女が出入りするので、調べてみると、これらはみな誘拐者の仕業で、売られる金の半分は船乗りに取られるという。これは以前からのしきたりだという。その娘らは奥地に連れて行かれて売り飛ばされ、賭博の資本金となるというけしからん話。その娘たちは支那人に監禁されておるのである。

(中略)

 拙者にはふんだに家内がおるからといって、お多福を説いて暮しておると、ある日二人の女が支那人の服装でまいる。別室でその女の事情を聞くと、奥地に監禁されておる女を助けてくれと手を合わせてたのみ、前の主人山口氏はわたしらの事情を知っておられるとのこと、その事情を聞くと、誘拐者が二十人連れてきてたが、この二人は運賃三百円の抵当として支那人にあずけられ、その支那人が二人を奥地へ連れて行って一人一千円で売ったという。それより八カ月、監禁されていたがようようのことで、二十円でサンパン(管理人注:三板、舢板:中国などの沿岸や河川で用いる小舟)をやとって逃げ出してきたという。

(中略)

 ところで、奥地から逃げてきたこの二人の女は一人は十九、一人は十八で、従姉妹(いとこ)どうしである。どちらも美人である。

村岡 おまいらはお金はあるか。運賃ぐらいはあるであろう。

女 一銭もありません。

村岡 なにを目的できたのか。

女 日本で、外国にいくと阿媽(あま。東洋英語Amahで、外人に雇われる女中)でも一カ月百円もとれるとのことで、きてみますと、女郎に売られることをしりました。いまとなってはしかたありません。

(中略

 その後、いよいよ宿願の奥地の娘たちの救出を実行に移すことにし、英国領事館に頼み、書記生を借り、これに支那の警官三名、つごう五名で奥地に出発した。

 第一回は三十名を救いだしたが、拙宅に帰り、女の父の職業を聞いて驚いた。官吏、御農家、士族、御商家のお嬢さんばかりで、その理由を申しあげますと、支那人は器量を好むので、みな揃いも揃った美人ばかり。年は十九歳を筆頭に十四歳まで、これを水揚金(管理人注:みずあげ:花柳界で処女の接客婦が初めて男に接すること)三百円以上千五、六百円で売飛ばされたことがわかった。これは前述の山田松太郎の仕業であった。



日本人女性がダマされた手口

戦前日本には朦朧(もうろう)車夫等の悪徳周旋業者らがいて、女たちの有り金をはたかせ、虚栄心をたくみに利用して私娼窟という苦界に女たちを売り飛ばしていました。

亀戸、玉の井は私娼窟がたくさんあった所です。遊廓と私娼窟のちがいはお上に公認されている区画が「遊廓」、公認されていないものが私娼窟でした。また私娼窟は「岡場所」とも呼ばれました。


出典:1928(昭和3)年 史誌出版社 道家斉一郎 「売春婦論考」 第三章 帝都の享楽機関



 第十四節 私娼誘拐手段

亀戸、玉の井に於ける私娼の殆(ほと)んどは誘拐された者であると云っても差支(さしつかえ)ありません」とは、市内某周旋業者の偽らざる告白である。彼等(かれら)が誘拐されて私娼に売られるには、彼等自身にも罪はあるとは云え、都市には又恐ろしい悪魔が常に法網をくぐって其(そ)の魔手を差しのべて縦横に網を張りめぐらせて居る。今左に某私娼宿の親父から聞いた誘拐手段の二三を述べて見よう。

朦朧(もうろう)車夫及宿引(やどひき)による誘拐 

・朦朧車夫とは…車の置場を定めずして路傍を徘徊し、往来の者に強いて乗車を勧め、賃金などを貪る車夫
【出典】1919(大正8)年 金港堂書籍 上田万年、松井簡治 「大日本国語辞典第4巻に~ん」


上野、両国、新宿、飯田町等には朦朧車夫などが誘拐の網を張って居るが、殊(こと)に上野駅は甚(はなはだ)しいそうである。彼等(かれら)悪車夫仲間では一種の社会語として「ホー」「ドヤツキ」「ノツヤ」「テンリ」等があるが、「ホー」とは奉公を目的に上京した田舎娘の意味で之等(これら)が若(も)し少しく渋皮がむめていると見ると彼等は決して見のがすような事はしない。彼等は巧(たくみ)に女を欺いて安宿あたりに連れ込み「テゴメ」にした上これを売りとばし、又は「奉公するにしてもそんな田舎じみた着物を着て居ては」と古着屋などに引張って行き有金(ありがね)残らず費消させ「いずれ奉公口が決まったら」と借金させ有金が無くなった頃を見てそろそろ私娼になることを持ち出すのである。更に別の手段としては女の美貌を賞(ほ)め巧みに虚栄心をそそり立て堅気奉公の馬鹿らしい事を説き、私娼生活の面白さを吹き込み、其の気になったと見るや忽(たちま)ち売り飛ばして了(しま)うと云うような有様である。

而(そし)て彼等は自分一人で女を売る場合と、又別に「ノツヤ」に連れ込む場合とがある。即ち「ドヤツキ」とは性質の悪い宿屋の事で、かねて結託して居る。此等(これら)の宿屋に連れ込み応分の割前をもらうのであるが、これを受取った「ノツヤ」は同じように色色な手段に依って女の有金をはたかせて最後に威嚇したり、すかしたりして、遂に亀戸や玉の井の私娼宿に売り渡すのである。こうしたあり得べからざる事実が、白昼の大東京の裏面をのぞいて見ると幾等(いくら)もあると聞けば何人も驚いて了(しま)うであろう。

 次は「ポン引」と云(い)って素人(ポン)をつる者がおる。これはもぐり桂庵(けいあん:縁談、奉公などの紹介屋)などの類で娼宿同様田舎者を引っぱって来て醜業婦になることを勧めるのである。

「出漁師」と云うのがある。それは田舎に出かけて女工募集其の他の名義で素朴な田舎人を口説き娘を東京につれて来る、そうしてこれを仲間の手に渡し、仲間は私娼宿の親父に二三百円から四五百円で売り飛ばすのである。

此の外(ほか)にも色々の方法があり、多くは田舎者の娘を誘拐することを職業とするものがかなりあって、盛(さかん)に私娼の種を探してこれを飼屋(買い屋。仲買人のことか)に供給するのであるが、こうして誘拐された女がよく逃げ出さないと何人も不思議に思うかも知れないが一度此の社会に陥(お)ちると捨鉢(すてばち)になり自然淫売渡世に一つの興味をおぼえ出すのである。救世軍等で救い出された魔窟の女が日ならずして二度魔窟に舞い戻る如き、一度淫売生活に落ちた者は再び正道の人間に帰る事が一種の苦痛ともなると云う。浅ましい限りではなかろうか。
 


日本の私娼たちの中には自主的に出稼ぎに行く者もいた……が、


出典:1925(大正14)年 富山房 中川謙二郎 「婦人の力と帝国の将来」 第六章 女子と社会



 第二節 公娼私娼及海外出稼醜業婦

 公娼私娼と云(い)うことは、其(そ)のものが既に国家の恥辱であり、また国民の恥辱であることは云う迄もなく、殊(こと)に女子にとっては大なる恥辱である。然(しか)るに事実我国に於ては、斯様(かよう)な者が到る処(ところ)に存在して居るのは実に嘆かわしい事である。

(中略)

 海外に出稼ぎの醜業婦に就(つい)ては、実に我国の最大恥辱と云うべく、殆(ほとん)ど世界無比のものである。これには、政府としても、漸次其(その)撲滅に尽しつつあると云うことであるが、これ亦(また)我国一般の女子が、大いに意を用ゆべき問題であると思う。海外に於けるかれらの日常生活の状態が、如何に無知であり、云うに忍びない程であるかは、屢々(しばしば)耳にするところである。我国の男子が居(お)らない処にも、かれらは存在し、極寒極暑の地にも、殆どかれらの影の見えない処はないと云う事である。

【参考:日本国内でもこれだけいた密売淫者(私娼)検挙人員数】
年    度検 挙 人 員
1925(大正14)年7,984
1926(昭和元)年8,595
1927(昭和2)年9,118
1928(昭和3)年7,130
1929(昭和4)年7,111
1930(昭和5)年7,046
1931(昭和6)年6,542
1932(昭和7)年5,857
1933(昭和8)年6,644
1934(昭和9)年6,686
【出典】1936(昭和11)年 内務省衛生局 「花柳病予防ニ関スル調」第八表 密売淫者検挙人員及健康診断成績(昭和九年)


自主的に中国へ渡航した私娼は北京や上海の共同租界内で稼業した

特に支那事変後は、日本人を守ってくれるのは日本軍しかいませんからね、私娼といえども日本軍のそばで稼業していました。

なのでハンギョレ新聞の報道のように、人が少ない場所で働くのは不自然です。なぜなら慰安婦は商行為だからです。

日本軍の指定慰安所はこういう後方の北京や上海に進出していた日本人経営妓楼でした。


出典:1926(大正15)年 警察協会 氏原佐蔵 「売笑婦及花柳病」 第七章 支那の売笑婦

※管理人注:戦前、芸妓(げいぎ)、酌婦は私娼に分類されていましたが、警察や領事館または憲兵隊の許可を得れば公娼になることができました。


 二 北京の売笑婦

 尚(な)お外国人の私娼は城内に居住し、殊(こと)に日本人の如きは料理店を開業し、芸妓及び酌婦を置き之等(これら)は客の求めに応ぜしめているが検診等のことは全然ないのであるから病毒感染の危険は頗(すこぶ)る大である。又白人の売笑婦も飯店(即ちホテル)に出入している。

 三 上海の売笑婦

 上海には実に二十数箇国の人種が混合雑居し、殖民地的の気風が旺(横)溢している所であるから従来売笑婦の跋扈は甚(はなはだ)しかった、特に共同租界内四馬路の夜景は上海八景の一だと謂(い)われている程のものである、其(そ)のテー・ハウス(茶館)、に出入して客を漁る売笑婦の群は実に驚異に値するものであったが、租界工部局は数年来此(こ)の行為に干渉し租界内には妓楼の営業を禁じ売笑婦の横行を阻止せんとし、一時は大にさびれていたそうであるが、今日では従前ほど公々然ではないが、茶館又は劇場、支那式レストラントに売笑婦が出入して客を引くようになったとのことである。

(中略)

 日本人の売笑婦

 悲しむべきことではあるが上海には日本人の芸娼妓、酌婦、密売淫者等が非常に多い。就中(なかんずく)主なるものは甲種芸妓(之(これ)は内地(日本国内)の芸妓程度)百五十人内外、乙種芸妓(内地の娼妓)四五十人有るとのことである。其の他酌婦・密売淫は之(こ)れ以外であって、彼等(かれら)上海に渡航しても届出をしないので正確の数は知り難いようである。彼等の居る場所は主として料理店、飲食店であり、料理店は上海共同租界工部局の規定により酒類販売のライセンス(免許)を受けたもので公然飲酒の出来る家である、領事館では此種の料理店に限り芸妓を置くことを許している。飲食店とは此の免許状のない家で、公然と酒類の販売は許されていないけれども、裏面を潜って黙許の形式で飲酒せしめているが、芸妓の出入を許されないから酌婦を置いて客を招いている。最近に於ける料理店は二十五軒内外、飲食店は七十軒もあるとのことである。

 従来共同租界内に日本人の妓楼があったが、今は租界内では許されず、従って租界外の雑居地に純日本式の妓楼が有るようになった。又甲及び乙種の芸妓は内地の彼等同類以上に売笑行為が常習となっている、彼等は芸よりも他のあるものを売ることが主なるものである。



日本軍は兵が支那の私娼窟に出入りすることを厳禁していた

支那の性病は支那が連合国の一大植民地だったことから性病もインターナショナル化して猛悪だったので、日本軍は支那の私娼窟に出入りすることを禁止していました。

支那は日本人売春婦に対し公娼、私娼ともども梅毒検査を実施していなかったので、日本人売春婦であっても性病感染率は高かったのです。


出典:1923(大正12)年 支那風物研究会 中野江漢 「支那の売笑」



〔附記〕
(二)北京に於ける駐支外国兵の中で日本兵のみは花柳界に出入を絶対に禁止してある、

(三)日本婦人の売笑婦には検黴(梅毒検査)が行われて居(お)らぬ



支那へ渡った日本人売春婦の中には支那人の妻になったり愛人になる者もいた

上海事変の一因になった中国軍による中村大尉虐殺事件を日本領事館に通報したのは、支那人の妻になった元日本人売春婦だったそうです。

この日本人妻は夫の支那人が寝物語に中村大尉虐殺を誇らしげに語ったのを聞いて、翌日日本領事館にかけこんだそうです。


出典:1932(昭和7)年 岡村書店 鹿山鶯村 「明け行く満蒙の透視」



 日本娘の心意気

 成程(なるほど)そう云(い)えば、日本の女は男よりも剛胆(ごうたん:胆力がすわっていること。大胆)であるのかも知れない。洮南(とおなん)で聞いた話ではあるが、彼(か)の中村大尉虐殺事件を日本領事館に知らせて来たものは、日本の醜業婦だったとのことだ。しかもそれは醜業婦をしていた女(もの)だったが支那人の妻となってから、酒場を開業させて貰っていた。ある夜その亭主が泥酔して床に入って後、その妻であった日本婦人に、中村大尉虐殺を寝物語に誇らし気に語った。ところがその女は…日本人が虐殺されたと聞くや、穢(けが)れ切った躯(からだ)の奥に潜んでいた民族的良心が、むらむらとたぎって来て、夫の支那人と枕を一つにして寝るに堪(た)えられなくなった。然(しか)しその夜は何食わぬ顔で、その誇らし気に語る夫の話を根掘り葉掘り聞きとって寝た。明けて彼女は脱兎のように自分の家を飛び出して、荒茫(こうぼう。茫は遠く広々としているさまの意)はて知れぬ曠野(こうや)を走って日本領事館に駆け込み、件(くだん)の事情を詳細に告げ知らした。そこで始めて消息を絶っていた吾(わ)が中村大尉の様子が判明したのだった。わたしはこの話を思い出した。やっぱり日本の女性である。

 かつて青島(ちんたお)の戦(たたかい)に、青島要塞の築城図を盗み出して来たものは、独乙(ドイツ)人の妾婦(ラシャメン)日本婦人であったことを聞いている。

 こうしたことを聞くにつけても、日本の女はたとえそれが醜業婦という下賤な職業に身をくずすとも、そんな危険な奥地に分け入って、何時(いつ)か日本の花を咲す。その心意気は素晴らしいものであると思った。やっぱり日本の女は民族の先駆者である。日本の歴史は、常にこうしてかくれた日本婦人の先駆開拓によって、民族発展の経路を辿(たど)って来たものであることをわたしは知っている。恐らく現代以後もまた日本民族の世界的先駆者達は、この轍(わだち)を踏みつつ、民族発展の先導を務めあげるに相違ない。北満の地にこの清らかな日本の花は何時(いつ)麗しい実を結ぶか。

(中略)

 日本の娘達よ。身は穢れ肉は爛(ただ)れても、決してその民族的魂の高揚を忘れてはくれるなよ。お前達は、そしてその輝やかしい魂を常に秘めて、はるかなる彼方へ進出するがいい。民族の先駆者としてその尊(たっと)き犠牲を運命の波に浮べ、飽(あく)まで風雪を犯し炎熱と闘いつつ、全世界に高く女性の武器を鳴らして輝けよ。決して、魂までも腐爛(ふらん)さしてはならない。日本娘の心意気! そこに凡(すべ)ての力は宿るのだ。

 わたしは、こう心の中で叫びながら龍江飯店旅店(りゅうこうはんてんりょてん)へ戻った。連(つれ)はみんな寝(やす)んでいた。

 廊下には支那の可愛らしい女が佇(たたず)んでいた。それは仇(あだ)に散るべき花だった。



慰安所管理者=妓楼経営者はブルジョアだった@明治時代

日本軍の慰安所はこの写真のような、日本人経営のりっぱな料亭や飲食店でした。上の写真のような土でできた小屋ではありません。

そして慰安婦(公娼)たちは、大半が日本から進出してきた公娼(娼妓、芸妓)でした。

慰安所管理者(=妓楼経営者)やその妻たちはきっちりと髪を結い、りっぱな着物を着て、明治時代に写真を撮るほどの裕福な生活を送っていました。


1900(明治33)年マニラの日本人経営妓楼
女郎屋女将女郎屋明治33年マニラ

ピナンの妓楼経営者
女郎屋女将24

ラングーンの妓楼経営者の妻
女郎屋女将25

オランダ領ディリの妓楼経営者の妻
女郎屋女将26

【写真出典】1960(昭和35)年 南方社 河合譲 「村岡伊平治自伝」


以上、ハンギョレ新聞の写真に写っていた日本人女性を私娼と断定するにいたった資料でした。

反日韓国へ 次の捏造を待ってるよwww
徹底的につぶしてやるからなwwwww

従軍慰安婦の問題点は「日本軍に強制連行され、強姦され、殺された」だったのに、この記事では「慰安所の日本人管理者」などと書いています。管理者がいるなら、りっぱな商行為です。

それに朝鮮人従軍慰安婦は兵営内に設けられた慰安所で日本兵に虐待されていた、と韓国は宣伝していたのに、この記事では「民家」になっています。

ウソ、捏造は現実味をもたせるために少しずつ事実に近づけていき、やがて破綻するのです。


[映像]朝鮮人「慰安婦」被害者を撮影した動画を発見
2017年7月6日 ハンギョレ新聞

 1944年9月8日、中国雲南省松山のある民家の前に7人の女性が裸足で立っている。米中連合軍傘下の第8軍司令部参謀将校シンカイ大尉(中国軍将校)がその中の一人の女性と話を交わす間、他の女性はおびえてうつむいていたり他所を見たりしている。米国立文書記録管理庁で見つけた朝鮮人慰安婦の姿を撮った18秒の動画だ。
( https://www.youtube.com/watch?v=ZKOPkr82Zlg)

 これに先立って公開された写真で妊婦だったパク・ヨンシムさんと、顔に火傷を負った女性は、治療を受けていたために動画に登場しなかったと推定される。動画の中で拳をぎゅっと握りしめている2人の女性は、脱出の過程で別れたが再び落ち合ったと考えられる。研究チームは、映像の中で他の女性たちとはちょっと離れて立つ着物を着た女性は、慰安所の日本人管理者だったと推定した。(後略)

ナム・ウンジュ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2017-07-05 16:33
http://www.hani.co.kr/arti/society/area/801553.html 訳J.S(1762字)


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