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2017/07/10

従軍慰安婦と近衛メッセージ


近衛メッセージ(近衛親書)とは1941(昭和16)年8月アメリカ・イギリス・オランダによる対日経済封鎖と石油禁輸を受けて、近衛首相が日米関係を改善しようとルーズベルト米大統領あてに送った親書のことです。

近衛首相が日米首脳会談を求めてアメリカに親書を送ったとき、日本の石油備蓄量は平時で3年分、もし戦争になったならば1年持つかどうかといった量でした。

もしこの会談が事前交渉で決裂しなかったならば「アラスカジュノア(ジュノー)会談」として年表に記されることになったでしょう。

こうして日本は連合国によって経済が死滅させられたまま戦争に踏み切りました。

そんな日本に従軍慰安婦朝鮮人徴用工を強制連行する余裕があったと思いますか?

この「ジュノア会談」に向けた事前交渉の外交記録文書はアメリカにもあるはずです。

近衛首相からの親書を受けて「今年の10月にジュノアで会談しよう」と指定してきたのはルーズベルト米大統領でしたし、この「日米交渉」自体がアメリカ人神父らを通じて日本にもたらされたアメリカの謀略だったのですから。


【アラスカ州ジュノア:地図】
地図アラスカジュノア1

1941(昭和16)年8月の統計:日本の石油備蓄量は600万トン、石油消費量は一日1万2000トン、石油消費量の90%以上を輸入に頼っていた


出典:1958(昭和33)年 文藝春秋新社 伊藤正徳 「軍閥興亡史Ⅲ」
     第十二章 近衛の熱誠通ぜず



 一 近衛渡米を決意す
     破局回避への最後の切札として

 石油を断たれるのは、日本が首を締められるのと同じことであった。昭和十六年八月の統計によれば、日本は毎日一万二千トンの石油を消費しつつあった。年額四百三十余万トンである。日本の生産量は、如何に馬力をかけても其(その)一割も充たすことも難かしく、即ち九〇%以上を輸入に俟(ま)っていた。それが遮断されることになったのだから、一年を待たずして大日本は呼吸困難に陥ること明白であった。

 海軍が、大正七年以来、二十余年に亙(わた)って営々として備蓄した石油六百万トンは、平時なら三年分、戦争になって激しく動けば一カ年も怪しい。陸軍は九カ月で、戦車も飛行機も動かない状態になる。だがら、昭和十六年夏の国際状態──日本が米英蘭から経済的包囲を受けている状態──が、あと一カ年続いた後に戦争になったら、結果は説明を要しない。否(い)な、戦争にならない前に日本は跪伏(きふく:ひざまずく)降参の外(ほか)はない。



ジュノア会談に向けた日本側外交記録文書:アメリカが日本の「防共駐兵」を認めず事前交渉は決裂、真珠湾攻撃へ

アメリカは戦前共産運動の中心地でしたし、現在も民族国家を破壊する共和国量産マシーンですから、日本の防共駐兵を認めなかったのは当然のことですね。

仮に日本がアメリカの主張に従って経済が復活しても、北からソ連が侵攻してきて日本人を皆殺しにするのではハナシになりません。


1941(昭和16)年8月28日、日本政府は近衛「メッセージ」発出を契機として日米交渉を再開し、

ジュノア会談近衛メッセージ1


日本政府は善隣友好、共同防共、経済提携をもって明確なる対支和平条件を提示し、

ジュノア会談共同防共1


仏印進駐にかんがみ、日本政府はアメリカ政府に対し石油の対日禁輸または資産凍結等経済的圧迫措置を行うことがないよう申し入れた

ジュノア会談対日石油禁輸資産凍結1

ルーズベルト米大統領から「日米首脳会談は10月ごろジュノアで」と指定してきた

ジュノア会談ジュノアで会おう1

しかしアメリカが「日本が中国、満洲に展開している防共駐兵について譲歩しない限りジュノア会談の実現はない」と主張したため事前交渉は決裂した

ジュノア会談防共駐兵1【出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:B02030736400:「4 日米交渉ノ経緯(自昭和十六年四月至十二月) 2」


日本も「近衛メッセージ」をユネスコに登録しろよ

強制連行された女性の数は韓国650万人、北朝鮮840万人、中国が70万人だそうです(出典:Wikipedia)。

このおバカ三国の意識の根底には「日本は豊かな国」という妄想もあるようですね。

日本政府は従軍慰安婦問題の責任を朝日新聞にかぶせて正義の味方ヅラしていますが、ちょっと調べれば捏造だとわかることを約40年間も、あたかも事実であるかのように謝罪して賠償してきたのは日本政府です。


慰安婦ユネスコ登録支援へ 韓国新閣僚が表明
2017年7月10日 共同通信

【広州共同】韓国の鄭鉉栢女性家族相は10日、政府として、従軍慰安婦問題の関連資料を国連教育科学文化機関(ユネスコ)「世界の記憶」に登録する事業の予算を「拠出できる」と述べ、登録推進事業を支援する考えを表明した。元慰安婦の女性らが集団生活するソウル近郊、京畿道広州の支援施設「ナヌムの家」を訪れ、記者団に明らかにした。

 女性家族省は、慰安婦問題の最終解決を確認した2015年の日韓合意が発表された後、登録推進事業から手を引き、登録推進は市民団体が中心となっていた。鄭氏は10日「慰安婦問題はもはや韓日間ではなく国際的な問題だ」と強調した。


共産アメリカの世界戦略「世界制覇」と謀略「ジュノア会談」


Q.なぜ人は殺し合うのか?
A.軍需産業がもうけるため、世界統一のため、そしてそういう勢力と戦うためだよ

アメリカが最初からヤル気のない「ジュノア会談」を工作した理由は、軍需産業で利潤を得ることと時間かせぎでした。

アメリカは日本軍と蒋介石軍に武器を売りつつ、日本が疲弊する時を待っていました。

アメリカはスペインとフィリピン領有をめぐって戦争しているうちに連合国の中でもアジア侵略に大きく出遅れてしまったので、日本から資源豊かな満洲を強奪したくてたまらなかったのです。

のちのトルーマン大統領は上院議員時代、独ソ戦争についてこう言ったそうです、
「双方ともできるだけ多くお互いに殺し合うがいい」。


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録大東亜戦史 開戦篇」所収
     毎日新聞社調査部 新名丈夫 「第二次世界戦争とアメリカ」



 アメリカの世界政策

「われわれがけっして戦争をしてはならぬというならば、日本は満洲から出てゆかなければならぬ」

 日本が満洲を占領した翌年、一九三二年(昭和七年)の初夏、フーヴァー米大統領は日本へ赴任するジョセフ・グルー大使にたいして、こういった。

日本は満洲から出てゆかなければならないのだ

 スチムソン国務長官は、同じことをグルーにむかって、もっときつい調子でいった。しかし、戦争ということについては何もふれなかった。

(中略)

 日本がついにアメリカにたいして戦争を決意するにいたったのは、日本が長いあいだ支那事変を解決しようと努力してきたのに、アメリカは蒋介石にたいして兵器や物資を送り、抗戦をつづけさせて、解決を困難ならしめてきた、というところに最大の動機があった。ところが、日本自体はどうであったか? 日本が長期にわたって支那事変を戦いつづけることができたのは、一にアメリカの援助のおかげであったのだ。

 日本の戦略物資の大部分はアメリカから送ってもらっていたのである。一たん、その糧道を絶たれてしまったら、日本はたちまち戦争できなくなって手をあげるほかはなかった。しかも、アメリカは太平洋戦争開戦の直前までこの仕送りをつづけてきたのである。

 日本と中国との戦争が長びけば長びくほど、双方の出血と疲弊は深まる。アメリカの軍需産業はふとり、戦争経済体制は確立されてゆく。一方では日本、中国ともにアメリカへの従属化はすすんでゆく。──というわけであった。

 このような政策──それはヨーロッパの戦争にたいしても、同じであった。独ソ戦争がはじまったとき、当時の上院議員で、のちに大統領になったトルーマンはつぎのように語った。

「もしドイツが勝ちそうになったら、われわれはロシアを援助すべきでありもしロシアが勝ちそうになったら、ドイツを援助すべきである。このようにして双方ともできるだけ多くお互いに殺し合うがいい」(ニューヨーク、タイムズ、一九四一年六月二十四日)

 だから、アメリカの政策は、アジアでもヨーロッパでも、どちらか一方が勝てばよいのだというような、そんな単純なものではなかったのである。

 独ソ戦がはじまって間もなく、一九四一年九月十一日、正式決定をみたアメリカの世界戦略──それはヨーロッパ戦争がはじまった年から二年間にわたって陸海軍当局が練りに練ってつくったもの──を一見するならば、アメリカが何を目指していたかがわかる。

 それによればアメリカが参戦しないかぎり、連合国の勝利は望めない。そこで、イギリスやソヴィエトや中国などがことごとく敗れ去っても、アメリカは西半球に拠って戦い、最後の勝利を占める、ということを考えている。ということは、アメリカが世界制覇をとげるという考えなのだ。

 世界制覇──これが、第二次世界大戦の全期間を通じての、アメリカの戦略目標であった。そして、それがためにこそ、アメリカは、最後に参戦するまで、できるかぎりの「時」をかせぐことに努力しつづけたのであった。

 日本にたいしても、開戦前の日米交渉にさいして、アメリカは「時」をかせぐというはっきりした政略のもとに一方では日本の戦力を消耗させつつ他方では自国の軍備を充実してゆくという手に出ていた。



世界を攪乱するキリスト教:アメリカ人神父らによって工作された「ジュノア会談」

日米事前交渉が行われる前年、米国メリノール神学校のウォルシュ僧正とドラウト神父が来日、アメリカが激怒しているはずの三国同盟に影響を与えずに日米国交調整ができる、と日本政府に持ちかけました。

対日経済封鎖により行き詰まっていた日本政府は、このあやしいカトリック教徒が勧めるまま日米交渉にのめりこんでいきます。

この「日米交渉」はアメリカが日独間を離間し、日本の足もとをくずしつつ時をかせぎ、それからハル・ノートをたたきつけて日本を戦争にかり立てようとした謀略でした。


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録大東亜戦史 開戦篇」所収
     毎日新聞社論説委員 秋定鶴三 「霞ヶ関の舞台裏」



 日米交渉の「謀略」

 一九四〇年(昭和十五年)暮れのある日、外務次官大橋忠一のところへ、元ブラジル駐箚(ちゅうさつ)大使沢田節蔵から電話がかかった。

「自分の知人の米国メリノール神学校のウォルシュ僧正とドラウト神父の二人が日米国交調整の問題で日本に行きたいが、今日となっては時期を失して間に合わぬだろうか、ということをシアトルから電話で聞いてきたのだが、なんと返事をしたものだろうか」

 という問い合わせであった。

 大橋次官は何げなく

「べつにおそいということもあるまい、くるように返事をしてもよいのではないか」

 と答えた。

 間もなくその二人のクリスチャンは来朝した。そして大橋次官を訪問した。そのとき二人が重大な言葉を口にした

「三国同盟をそのままにして日米国交調整の見込みがある」

 三国同盟は、アメリカからすれば、英米を敵にまわすものであり、相容れぬものであった。ところが両人はそんなことをいったのである。そしてその両人が近衛公、野村大使、陸軍省軍務局の岩畔(いわくろ)大佐などの間をたくみに説きまわって日米交渉をはじめさせるにいたったのである。

 この二人はウォーカー郵務長官と親しく、ウォーカーはルーズヴェルトの幼な友達であった関係からして、両人にはルーズヴェルトとつながっていたことを容易に想像される。

 十二月十九日野村大使の渡米送別会が開らかれたとき、その直前二人は大橋次官を訪問しドラウト神父は一つの演説の草稿を出して松岡外相に送別会で「この通り挨拶してもらいたい。日米国交を調整するためアメリカにこのように呼びかける必要がある」と申し込んだ。一国の外務大臣に向って演説の草稿をおしつけるなどというような出すぎた行為に大橋次官は憤然としたが、相手が神父のことでもあり、親切からの無遠慮と思ってそれを松岡外相に渡した。松岡は一寸(ちょっと)見てそれをほうり出した。

 そんなことがあってからしばらくのち、元ニューヨーク駐在の大蔵省財務官井川忠雄が外務省にきて「在米中一人のアメリカ婦人と結婚したが、事情があって離縁した。こんどその女との財産関係を処理するため渡米するから旅券を欲しい」と申し出た。その井川は大蔵省へ行って

「今度大橋外務次官の依頼で渡米することになったから為替をもらいたい」

 といって旅費を手に入れた。すると今度は陸軍の岩畔大佐から

「実は今度朝鮮の高周波製鋼会社とフォードとの間に諒解が出来南米にある遊休工場を日本に持ってくることになった。今度自分が渡米のときこの問題を処理するつもりだが、そのとき井川を通訳に使いたいから公用旅券を出してほしい」

 という電話がかかった。

 また一方では赤星鉄馬という実業家が、ドーマン米大使館参事官との連絡で渡米することになったが、これも旅券をくれといってきた。これらの連中はいづれも外務省を抜きにしてウォールシュとドラウトが近衛、野村、岩畔などに働きかけていた工作のなかに浮び上ってきた人物であった。

 大橋次官はこのような人物がもたらした日米交渉は、そもそもはじめからアメリカの謀略であったといっている。

 日本の軍部は三国同盟を一つの謀略として取り扱い、それによって支那事変を解決しようとしたが出来なかった。そこで今度はアメリカを利用する謀略によって支那事変を解決しようと考えた。ところがアメリカは日本のこのフラフラ腰を見抜いたうえ日独間を離間し、日本の足もとをくずしながら時をかせぎ最後に十一月二十六日のハル・ノートが示めすように果し状を叩きつけて日本を戦争にかり立てようとしたのである。

 ウォールシュとドラウトは最初三国同盟はそのままにして日米関係を改善することができるといった。野村大使が四一年二月十一日米国に着任してまもなく開始された日米交渉のそもそものはじめは、ウォールシュ、ドラウトらが米政府と内面工作をした上で用意した日米諒解案が基礎になっていた。

【陸軍省資料:確かに来日していたクリスチャン】
ジュノア会談メリノール1【出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C14061048500:陸軍省 「第6節 日米交渉の発足」

その他の本記事の資料


連合国による対日経済封鎖や石油禁輸、日米交渉の詳細は終戦間もないころの書籍ではよく取り上げられています。

その日本の岐路だったともいえるアメリカの謀略が戦後昭和史から消されてしまったのは、戦後日本人に事実を知られては「日本が侵略戦争をやった」という捏造が成立しないからでしょう。

元内務省官僚、自民党総裁指名総務、同党総務会副会長の手記:
近衛・ルーズベルト直接会談は日米交渉打開の唯一の道だった


出典:1962(昭和37)年 古今書院 富田健治 「敗戦日本の内側-近衛公の思い出」
    


(二九)第三次近衛内閣成立(昭和十六年七月十八日)
    仏印進駐で新たな暗雲(昭和三十三年一月十日記)

 野村大使は形勢の急迫を痛感したので、七月二十四日ルーズベルト大統領と内密に会談して仏印進駐に付き釈明し、日米交渉の進展につき希望したところ、ル大統領は「世論は従来から、石油の対日禁輸を強く主張しているが、自分は日本に石油を与えることは、太平洋平和のため必要だと説得して来た。然(しか)るに日本で仏印に進駐し更に南方に進出する形勢では、自分の従来の論拠は失われる。米国は錫やゴムの入手が困難になり、比島(フィリピン)その他の安全も脅やかされることになっては、せっかく石油の輸出をやっても何にもならぬ」と石油の禁輸をほのめかした。

この南部仏印進駐は結局日米交渉の最大の危機となったのである。七月二十六日遂に米国は日本資産を凍結し、又英国は、日英、日印、日ビルマ(現ミャンマー)の各通商条約の廃棄をする旨通知してきた。次いで八月一日、米国は棉(綿)と食糧を除いて、石油を含む一切の輸出を禁止した。

(三〇)ルーズベルト大統領へ近衛親書を送る(昭和三十三年二月十日記)

 前号にも述べた通り、私(富田)や伊藤述史氏(情報局総裁)の進言に基づき、近衛公は、膠着状態に陥った日米交渉打開への唯一の道として近衛、ルーズベルト直接会談を決意するに至った。たしか八月初めのことであったと思う。



海軍にほれこんだ新聞記者:
ルーズベルトが「ジュノー(ジュノア)」を会談場所として指定してきた、アメリカは日本の「防共駐兵」を認めなかった


出典:1958(昭和33)年 文藝春秋新社 伊藤正徳 「軍閥興亡史Ⅲ」
     第十二章 近衛の熱誠通ぜず



 二 米大統領も乗り気
    "ジュノー(アラスカ)で会いたい"

 ルーズベルト大統領は当時大西洋上にあった。英首相チャーチルと軍艦の上で会見し、戦争目的に関する米英両国の見解を議定していたのである(大西洋憲章として知られたもの)。八月十七日に、ルーズベルトは華府(ワシントン)に帰ったが、直ぐにハル長官と協議した後、他の何人よりも先に野村大使を引見し、二人は親しく会談した。ル大統領は「こんなことは言いたくないが、ハッキリしておく方が宜(よろし)いから」と前提して、「若(も)しも日本が隣接諸国に対して武力を行使し、或(あるい)は武力の威嚇による支配の政策を続けるなら、米国は凡(あら)ゆる手段を以て抵抗せざるを得なくなるだろう」と率直に述べた後「日本が膨張政策活動を中止し、太平洋の平和維持を眞に欲する証拠を示すなら、意見交換の為に、適当なる時と所を定めることを欣快とする」と結んだステートメントを野村に手交した(之(これ)はハル長官が予(あらかじ)め用意しておいたもの)。

 そうして雑談の間に、「ホノルルに行くのは地理的に困難である、といって日本の総理が、サンフランシスコやシアトルに来ることも困難であろうから、恰度(ちょうど)東京と華府の中間に当るアラスカのジュノーは何(ど)うだろう。日本からジュノーまで何日くらいかかるだろうか」と問うた。野村が「約十日と見ればよかろう」と答えたのを継いで、「気候としては十月中旬頃がいいかも知れぬ」と言い、野村の受けた印象では、ルーズベルト大統領は、近衛との会見を歓迎しているようであった。

 四 予備交渉中の難問題
     「米は防共駐兵」をも認めない

 前記ル大統領が、近衛とのジュノー会談を示唆した八月二十八日の夜、ハル長官が野村に諸問題の原則的一致を必要とする旨を語った一節に、「米国は単に日支会談の橋渡しをするというだけでは困る。米国は日米間の親和を求むると同様に米支間の親和を欲している。米国政府の行動の結果、支那が崩壊するようなことになっては大変である。従って米国は、日支交渉の原則を知悉し、支那を納得させる必要がある。之(これ)に依って日支間に和平を築き、英蘭ソの各国をも同調させる必要を信ずるもので、それだけ米国にとっては大仕事であり且つ重要なる問題である云々」という主張があった。

ところが、八月四日から再興を企てた日本の対米提案に於ける支那関係の項は、「米国は日支直接交渉の橋渡しを為(な)し、和平条件等には介入せざることとする」旨が明記されている。ハルが野村に対し、最近の日本の提案は範囲を "narrow down" していると不満の意を表明したのは、一つは此(この)点を諷した(ふうする:ほのめかして遠まわしに言う)ものであった。

 従来の日本案は、対支和平条件を原則的に列挙し、米国が仲介の労を執る前提を諒解させるように出来ていたが、八月以降の各修正案に於ては、和平条件は日本の自主的に決めるべきものであるという線に沿って、これを削除して了(しま)ったのである。素より非賠償、非併合等の原則は、従来声明した通りであり、機会均等や門戸開放についても諒解を取り附けることは可能であったが、「撤兵」の一事に至っては、日本はアメリカや支那が要求するように簡単には応諾の出来ない事情があった。

 支那事変のために動員された大軍は、事変解決の後は速かに撤兵することは、約諾して差支(さしつか)えないが、北支及び内蒙の幾つかの地点に、幾許(いくばく)かの兵力を駐屯させることは、軍部の生命線として断じて譲り得ない国策の要点と考えられていた。日本は之(これ)を「防共駐兵」と名附けて、アメリカの諒解を得ようと努めて来たが、米国が煮え切らず、荏苒(じんぜん:歳月のすすみゆくさま)日を経るにつれて、アメリカは硬化し、日本も石油禁輸後は抵抗心を反撥(発)し、斯かる点までアメリカの指図を受けるには及ばぬ、という見地から、「日支和平は直接に商議する」方針を樹立した次第であった。

 しかるにアメリカは、撤兵を最後の重大事項として取り上げ、しかも撤兵は全面的なることを欲し、「防共駐兵」も認めない方針であることが段々と明らかになって来た。そこで九月十二日には、

「日支両国の安全を脅かし、且つ支那に於ける平和と秩序とを危くする共産主義、及び其(その)他の破壊的活動を阻止する目的を以て、日支間に共同防衛を協定する意思を有し、その履行には、両国の合意に従い、一定期間日本軍の駐屯を含む」

 という説明を行ったが、ハルは賛否の言を避けて何等(なんら)コンミットする所はなかった。そうして野村が受けた印象では、日本がこの一点を譲歩しない限り、近衛・ルーズベルト会見の見込みはなく、事態はいよいよ悪化するであろうというのであった(豊田外相宛九月十六日の報告)。


【野村吉三郎大使】
ジュノア会談野村吉三郎大使1【出典】Wikipedia



元外交官、外務大臣、特命全権大使:
日本の南仏印占領は自存自衛のためである
英米蘭の対日経済封鎖で日本は8000万人の人口を養えなくなった
ジュノー会談の事前交渉はアメリカ国務省からの提案だった


出典:1952(昭和27)年 中央公論社 重光葵 「昭和之動乱」下巻 第七編 日独伊の枢軸(近衛第二次及び第三次内閣) 日米交渉 その二



 日本の南進と米国の凍結令

 南仏印占領の軍事上の意義は極めて明瞭である。カムラン湾は、海を隔ててマニラとシンガポールとに対し、陸はシャム(タイ)に続いている英米の東亜における根拠地は、すでに日本軍の一撃の距離の内に収められた。英米蘭は、日本の意図を明瞭に汲み取り、日米交渉は、殆(ほと)んど中絶の有様となった。米国は、直ちに日本に対して凍結令を実施し、日本商社に対して、米国における資金を凍結し(一九四一年七月二十六日)、日本との通商を全面的に停止し、本格的経済戦争に移行してしまった。米国の対日経済戦争はかくして白熱し、英国もオランダもまた同様な措置に出た。日本が、八千万の人口を養うために必要とする海外貿易は、日本軍隊の占領区域以外は、洋の東西を問はず、悉(ことごと)く失うこととなったわけである。米国は、経済的には、全く日本活殺の権を握ることとなった。これより後の日米交渉の中心点は、本筋を離れ、寧(むし)ろ日米経済交通を復活し、日本が米国より油を輸入するためには、日本は如何なる譲歩をしなければならぬか、と云(い)うことに帰着するに至った。


【米英が先に日本の安全をおびやかした】
イギリスはマレーのジョホール王からシンガポールを強奪して軍港を建設し、米軍に貸し出した。
ジュノア会談地図1_2

 近衛・ルーズベルト会談

 米国側は、一時この洋上会談を歓迎し、大統領は会合地点としてアラスカの一地点ジュノーを指定して来たが、国務省がこれまでの交渉の経緯を検討した結果、この両首脳の会合を行う前に、一般的重要問題について予(あらかじ)め合意に達するの必要がある、特に近衛公の経歴及び性格に鑑みて、合意に達せざる前の会合は危険であり、或いは却って、日米関係の急迫を意味することとなり、米国の最も必要とする時を失う恐れがある、と云うので、日本側の矢の催促に拘(かか)わらず、(八月二十八日近衛首相は、野村大使を通じ、直接メッセージを大統領に送り、今次の会議を事務的会合とせず、両首脳者の直接交渉によって問題を大局的に処理せんとする趣旨を高調して、会議期日の決定を求めた。)先(ま)ず政府間の交渉を継続して、主要なる諸問題につき合意に達することを先決問題とする、と云う回答を日本に発するに至った(九月三日)。


【戦艦ミズーリ号上で降伏文書に調印する重光葵】
重光葵_350



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