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2017/07/08

韓国が発見した慰安婦動画の私娼たち


韓国が「朝鮮人慰安婦被害者の動画を発見した」と宣伝していますが、この動画におさまっているのは私娼です。

そう断言できる根拠は、日本軍指定慰安婦は日本軍と行動をともにしていたからです。

朝鮮人慰安婦動画1

日本軍は戦局が不利になると婦女子は戦闘の足手まといになるので真っ先に避難させていました。避難できない場合はシッタン渡河作戦のような危険な行軍でも行動をともにしました。

この動画の朝鮮人女性はビルマ(現ミャンマー)の朝鮮人売春婦のように私娼だったため日本軍の移動を知らずに置き去りにされたか、中国人経営売春宿に売られたのでしょう。

日本政府は貴重な朝鮮人の私娼(追軍売春婦)の映像が発見されたのですから、この機会に「そいつらは私娼だ!」と強く主張してくださいね。

くれぐれも絶対に「謝罪と賠償」はしないでください。

韓国ハンギョレ新聞「おびえてうつむいていたりする朝鮮人慰安婦」

共産党は売春を禁止しているので、この朝鮮人売春婦らは処罰を恐れているのかも知れません。

この売春婦らは日本軍から見ても中国軍から見ても「違法」な私娼だったということです。


[映像]朝鮮人「慰安婦」被害者を撮影した動画を発見
2017年7月6日 ハンギョレ新聞

 1944年9月8日、中国雲南省松山のある民家の前に7人の女性が裸足で立っている。米中連合軍傘下の第8軍司令部参謀将校シンカイ大尉(中国軍将校)がその中の一人の女性と話を交わす間、他の女性はおびえてうつむいていたり他所を見たりしている。米国立文書記録管理庁で見つけた朝鮮人慰安婦の姿を撮った18秒の動画だ。(後略)
( https://www.youtube.com/watch?v=ZKOPkr82Zlg)



ナム・ウンジュ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2017-07-05 16:33
http://www.hani.co.kr/arti/society/area/801553.html 訳J.S(1762字)


※補足
共産ソ連では売春が禁止されていました。なぜなら共産主義者は「女子の社会的地位向上」などというキレイゴトを宣伝しているので、社会で輝いているはずの女性が万年不況の共産社会で働き口がなく、売春をやっているのは都合が悪かったからです。

↓↓↓共産ソ連に不都合な売春婦には家もなく仕事場は共同便所でした↓↓↓

出典:1932(昭和7)年 明治図書出版協会 伊達竜城 「謎の国赤露を発(あば)く」



 売春婦同業組合の結成

 ロシヤでは売淫は堅く禁じている。禁じるばかりでなく、政府は売淫撲滅に少なからぬ費用を使っている。婦人ホームでは、これ等(ら)の女を収容しては、売淫をするようになった原因を質(ただ)し、それに応じてその禍根を絶つようにしている。自堕落と酒のためにそうなった者は度(ど)し難い種類に属するが、多くの者は生活が出来ないからである。働こうにも働けないからである。

 売春婦の生活

 専門的売春婦の多くは宿なしである。木賃宿(きちんやど:安宿)にキチンした室を持っているのは、余程の売れっ子で大部分は、他所(よそ)の家の入口や階段や廊下にごろ寝をしている。

(中略)

 こうした女の流れは一斉に共同便所へ合流する。彼女等にはそれほど小便が溜っているのだろうか?否(いや)、そうではない。共同便所は彼女等の巣なのだ、楽屋なのだ、仕事場なのだ。



朝日新聞は見た!日本軍に置き去りにされた朝鮮人の私娼たち
「さみしいから泊まってってくれニダヨーーーーー!」@ビルマ


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録大東亜戦史 ビルマ篇」所収
     朝日新聞整理部次長 沢山勇三 「白旗を掲げて」



 月と慰安婦たち

 その晩も珍しく晴れて月がシュエダゴン・パゴダの黄金色の尖端を照らしていた。青い青い月だった。わたしとも一人大尉は、コンクリートの人道に腰を下(おろ)して、アスファルトの車道に長々と足を投げ出していた。向いあって、四、五人の朝鮮出身の慰安婦がしゃがみ込んでいた。はじめ慰安婦たちは、我々に泊ってゆけとしつこくすすめたのである。

「お金なんかどうでもいいんだよ。淋しいから泊っていきなさい」

と彼女らは言った。明日、軍司令部が撤退するというのに、彼女らは何も知らないのである。ただ何か異様な雰囲気だけは感じていたことに間違いはない。客がさっぱりなかった。そこへ夜ふけて将校がふたり現れたのである。金はいらないから泊っていけ。淋しいというのだ。

 私の方がどれだけ淋しかったか知れない。慰安所に隣り合って、日本映画社と日本映画配給社の両支局があった。映配の方には、沢山(たくさん)の映画のフィルムがあった。英軍に見付けられて利用されるといけないという報道部長の考えで、これを処分することを支局長に命令してあったが、これを確認するために、われわれ二人が夜中近くになって行ったのだった。フィルムは壕の中へ投げこんで水浸しにしてあった。ますこれでよし───そして帰りがけの駄賃の彼女らとの雑談であった。

「タダでもいいよ、朝まで遊んでいきなさい」

 私の前にいた二十歳にもなるまいと思われる娘はとうとうそんなにまで言った。太股(ふともも)までむき出しにしたシュミーズ一枚の恰好(かっこう)で、時々蚊をぴしゃぴしゃと叩きつけていたっけ───

 あの時、危いから早くラングーンを逃出すようになぜ話してやらなかったか───私はジャングルの月に向って自問自答して見た。そうだ。あのころまでは、私はまだ軍人だった。軍紀がこわかった。───これから俺は人間に返る。───

【ビルマミッチーナで米兵に尋問される朝鮮人売春婦】
米兵と知り合えてうれしそうwwwww
従軍慰安婦米兵1



一方戦況不利なる日本軍と軍指定慰安所の慰安婦たちは…


慰安所は軍が管理していたので、慰安婦と軍が行動をともにするのは当然のことですね。

第11軍漢口攻略戦:日本軍「いつもいっしょ」


作戦に関する覚宮崎大佐慰安所1

二十七日 一、特種慰安所ハ遊廓式ニ集結ス

【出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C11112075900:1938(昭和13)年11月18日~1939(昭和14)年1月22日 陸軍省 「作戦に関する覚 宮崎大佐」(4コマ目)


サイパン、パラオ方面:婦女子は海軍の舟艇に乗せられ台湾で陸揚げ
台湾から内地(日本国内)に帰る予定だった


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録大東亜戦史 大陸篇」所収
     共同通信社調査部 井上満 「孤島の回想」



 東洋のカサブランカ 敗戦の前夜

 南方戦域が不利になったころ、サイパン、パラオ方面の婦女子らは海軍の舟艇に乗せられ、米機の襲来に恟々(きょうきょう)としながら、途中名もない島や、マニラなどに寄港し、長い日数をついやして、高雄港まで引揚げて、ここで陸揚げされた。彼らは数日をへて、別の船で内地へ引揚げる約束だったが、台湾には、そのころもう船はないのだ。そこで彼らのあるものは、高雄で職をみつけるものもあったが、この職というのが、態(てい)のいい軍雑役婦で、実は慰安婦というのが多かった。それを嫌った連中は、そのうち空襲もひどくなった高雄をのがれて、何かを心待ちに、あてどもなく台北にのぼってきた。

 西の方、マレー、ビルマ方面からも戦局が不利になるにつれて、婦人軍属や、一攫千金組の業者などが、次から次と基隆(キールン)にあがった。彼らも、しばらくして内地便に乗船するはずだったがついに便船が得られなくなると、みなほど近い台北の町へのり込んできた。

「台湾新竹に繋留した船が慰安所だった」と虚偽証言したイ・ヨンス】
イ・ヨンス1



パラオ方面:朝鮮人軍属は最後の引揚船に続々と乗りこんだ


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録大東亜戦史 マレー・太平洋島嶼篇」所収 共同通信社通信部次長 多田欣司 「パラオ諸島方面作戦記」



 引揚げいろいろ

 サイパン全員玉砕の発表後一週間目の七月二十五日第二次機動部隊の大空襲が開始され二十七日夕方まで三日間にわたって全く息をもつかせぬ猛爆撃が続いた。

 八月八日に引揚船として広順丸(こうじゅんまる)がマラカル港へ入ってきた輸送船での引揚はこれが最後とあって港は大変な騒ぎであった。海軍施設部隊に徴用されていた朝鮮人軍属が大きなトランク、ボストンバッグを肩に手に続々と乗りこんでゆく。



ラバウル方面1:慰安婦はトラック島に引上げていった


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録大東亜戦史 マレー・太平洋島嶼篇」所収 共同通信社社会部次長 荒尾達雄 「ラバウル航空決戦」



 涙の慰問袋

 年末には植物園(パンパン屋)の女たちもトラック島へ引上げていった。病院の看護婦は、眼を泣きはらして、傷病兵と別れを告げ、ぶえのすあいれす丸でラバウルを出港したが、たちまち撃沈されてしまった。一部のものが救助されてラバウルに逆送されたがそれも間もなく便をみつけてラバウルを去った。 



ラバウル方面2:慰安婦をふくめた全女性を最後の内地行き輸送船に
乗せるも米潜水艦により撃沈される


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録 大東亜戦史 マレー・太平洋島嶼篇」所収 読売新聞社社会部次長 山崎英佑 「ラバウル地底戦記」



 三人の闖入者

 十九年の一月、ラバウルにいた全女性は最後の内地行輸送船で送り帰されたが不幸、ラバウル湾を出て間もなく敵潜水艦のために撃沈されてしまった。

 百人ばかりの慰安婦はもちろん、船員も、便乗の、内地連絡の兵隊も、みんな溺れ死んでしまった。



ビルマ方面1:慰安所の女たちはなじみの将校が看護婦にしたてて船にのせた


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録大東亜戦史 ビルマ篇」所収
     読売新聞経済部 斎藤申二 「ラングーン脱出行」



 玉砕部隊を残して

 ラングーン撤退は、日本人にとってまったく意外であった。しかも知らされたその日のうちに撤退しなければならなかった。

在留邦人の男子はほとんど召集となった。残されたのは老人女であった。女の多くは、商売女である。芸者や将校慰安所の女たちは、なじみの将校が看護婦にしたてて船にのせて逃がした。



ビルマ方面2:水を吸った軍票の重さでシッタン河に沈んでいった慰安婦たち


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録大東亜戦史 ビルマ篇」所収
     朝日新聞社外報部 丸山静雄 「シッタン突破作戦」



 濁流に消える慰安婦

 右縦隊のある大隊は、民舟(みんしゅう)一隻を探し出し、これで渡河したため、全員無事に対岸に着いたが、哀れをとどめたのは、慰安婦と飲食店の女たちであった。彼女らは別に一ヵ班を編成していたが、いずれも軍服、軍靴、戦闘帽という、兵隊と見分けのつかないいでたちをしていた。

 アラカンから、イラワジ・デルタにさらにペグー山系にと、終始部隊と行動を共にしてきた彼女らはいま苦難の道を突破して漸くシッタン河畔にたどりついたのだ。ところが濁流に彼女らを待つものは筏であった。足は漸く地を歩いて、ここまで彼女らを運んだが手の力は二百メートルの濁流に彼女らを支えるほど強くはなかった。疲労と五体の重さに、五本の指が耐え切れず筏を離れたとき、その身体は忽(たちま)ち濁流にのまれていた。救いを求める金切声が闇の底をつんざいて流れ、こうしてほとんどすべての女が再び浮かばなかった。

 彼女らはいづれも軍票を身体にしっかり巻きつけていた。身体を資本に稼ぎためた収獲であってみれば、一寸といえども体を離すには忍びなかった。ペグーの山系では雨の晴れまをみて乾しもした。ジャングル、泥濘、濁流を、そして砲弾、ゲリラの中に持ち続けてきたものがこの軍票なのだ。ただこれ一つをハリに歩きつづけ、今一歩で最後の難関を突破しようというとき、皮肉にも、軍票の重さで流れ去ったものが少くなかったのだ。



フィリピン方面:米軍が迫る中、日本人婦女子は日本軍の最後の拠点をめざして出発した


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録大東亜戦史 比島編」所収
     毎日新聞学芸部副部長 村松 喬 「第四航空軍マニラ放棄」



 バヨンボン陥(お)つ

 迫って来る危険に際して、どう処置すべきか。逃げ出すといっても、半年近く暮したところから、身一つで逃げだすわけにはゆかない。ボンハルを出て、あとどれだけ苦難の道がつづくかもわからない。

 食糧や鍋や釜など、身につけられる物、持てる物のすべてをたずさえて邦人婦女子は、次々と村を出て、日本軍の最後の拠点たるキャンガンを目指して北上した。六十歳を越した老婆から、乳呑児(ちのみご)までの、雑然たる部隊は、部隊としての行動は取れない。一日に二キロしか歩けない病める老婆もあった。街道の上は、ひっきりなしに米軍機が飛び交って、歩けない。道から離れた萱原(かやはら)の中を、あるくのである。

 最後までボンハルに残った人々が、村を離脱したのは、米軍の進入と同時であった。




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