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2017/06/08

女性宮家と宮中某重大事件


宮中某重大事件とは1921(大正10)年、先帝陛下と香淳皇后陛下のご婚約後、元老山県有朋が香淳皇后陛下の家系に「色盲の遺伝がある」として、ご実家である久邇宮(くにのみや)家に婚約辞退を迫った事件です。

当時、山県有朋が遺伝病を問題視したのも当然のことでした。

なぜなら、1917(大正6)年のロシア革命で王室を内部から崩壊させた原因は皇太子アレクセイが血友病を患っていたことだったからです。

アレクセイはイギリスのヴィクトリア女王の孫娘である皇后アレクサンドラを通じて、イギリス王室の血友病の血統を受け継いだのでした。


【新婚当時の先帝陛下と香淳皇后陛下】
女性宮家昭和天皇新婚当時5

【日本の皇室と親交があったロマノフ皇帝と皇太子アレクセイ(アレクシス)】
nikorai.jpg

【グレゴリー・ラスプーチン】
ラスプーチンは「自分がいなければツァーレヴィッチ(皇太子)は生き長らえない」と皇后アレクサンドラに取り入り、やがて政界の人事までも采配をふるうようになった。
女性宮家ラスプーチン1☞画像出典:wikipedia


【ロマノフ皇帝一家】
皇帝(ロシア語でツァーリ)の左側の女性が皇后アレクサンドラ。
ロマノフ皇帝一家肖像

【山県有朋(長州閥)】
よくぞ騒いでくれた!!
女性宮家山県有朋1☞画像出典:wikipedia


血友病とは血液が凝固しにくくなる病気で、当時は軽い殴打による内出血で死に至ることもありました。

皇后アレクサンドラの苦しみ、悲しみにつけこんでラスプーチンはロシア王室に入り込みましたが、やがてロシア全土に

「皇后も皇女たちもラスプーチンの情婦になったらしいぞ」

というウワサが広がって、王室の権威は失墜し、やがて「革命」へと歴史の流れは加速度を増していったのです。

なので、あの残酷なロシア革命から四年しか経っていない時ですから、山県有朋が遺伝病の血統を問題視したのも当然のことでした。

もしサヨクの「差別だ!」に屈して、皇統に遺伝病の血統を混ぜてしまったらどうなるでしょうか?

のち、ご誕生になる皇太子や親王、内親王殿下がご病気になって、「〇〇の権威」とか「△△の専門家」などと自称するテロリストが皇室に入りこみやすくなります。

そしてそのあとはロシア王室と同じ運命をたどるのです。


遺伝病といえばこの方も…


斜視は遺伝します。
女性宮家斜視1

そして、「斜視」は朝鮮人に多いといいます。

なぜなら、日本人は特に女性は斜視を気にしますし、後天的な事故によるものなどはのぞいて、わが国では斜視の手術も明治時代から行われてきたからです。

最近、メディアは朝鮮人に乗っ取られているといいますが、昔はまったくいなかった斜視の女優などがフツーにテレビに出ていますね。


京城帝国大学による朝鮮最下層民の眼疾病罹病率


九、眼疾患

其(その)他疾病の主なるものは眼瞼炎、斜視、結膜臚胞症、瞼裂斑、角膜白斑、麦粒腫、角膜薄翳、角膜実質炎、フリクテン、霰粒腫、白内障、角膜葡萄腫、口角糜爛(びらん)、夜盲、老人環、眼球癒着等である。

 病類別罹病率は第二二表の如くである。

【第二二表 朝鮮人の眼疾病別罹病率】
疾患名性別一般(実数)学童(実数)
結膜炎5.21%(43)1.77%(10)
4.98%(43)4.24%(15)
トラコーマ2.55%(21)1.24%(7)
2.55%(22)1.41%(5)
翼状贅片2.06%(17)
1.04% (9)
その他4.24%(35)2.84%(16)
3.06%(35)3.62%(13)
13.33%(225)7.19%(66)


【出典】1942(昭和17)年 岩波書店 京城帝国大学衛生調査部編 「土幕民の生活・衛生」



日本人は民族的に斜視を気にする


出典:1902(明治35)年 博文館 小川剣三郎 「通俗眼のはなし」 第二十六 やぶにらみ(斜視)



「やぶにらみ」というのは、眼の球がソッポウを向いているので、男ではまあ、さほどでないが、女ですと、一寸(ちょっと)見苦しいものです。

若い女の方で年頃にでもなると、気にかけるとなお変に見えるものです。昔は丸でなおらないものと極(きま)っておりましたが、今日では、どれでもという訳(わけ)には申されませぬが、大抵は、療治のできるものです。



テロリストのアジトとなる女性宮家創設に執着する民進党

サンケイ新聞も「天皇退位特例法案」はあくまでも「退位」なので、安易に「譲位」と言い換えるべきではないです。


民進幹部が付帯決議案に反対した自民議員に激怒 榛葉賀津也参院国対委員長「全ての議員の努力を踏みにじる行為
2017年6月7日 産経ニュース

 民進党の榛葉賀津也参院国対委員長は7日の記者会見で、自民党の有村治子参院政審会長代理が天皇陛下の譲位を可能にする特例法案を可決した同日の参院特別委員会で、「女性宮家の創設等」の検討を政府に求める付帯決議案の採択に反対したことを批判した。「(衆参両院の)正副議長の尽力と、各党各会派の担当者や全ての議員の努力を踏みにじる行為」と述べた。(後略)


本記事の資料

(  )内は管理人による注釈です。

宮中某重大事件とは


出典:1989(平成元)年 文藝春秋 「昭和天皇の時代『文藝春秋』にみる昭和史別巻」所収 下園佐吉 「宮中某重大事件」(「文藝春秋」昭和30年
10月号掲載)



 大正七年一月、皇太子であった裕仁親王と久邇宮良子(ながこ)女王の婚約が発表された。それから二年たった大正九年五月、良子女王の家系に色盲の遺伝因子があるという理由で、元老山県有朋が婚約破棄を要請する手紙を久邇宮家へ送った。これが「宮中某重大事件」の発端である。結局は翌十年二月に「東宮御婚儀は変更なし」と正式発表され、山県は謹慎、事件はようやく落着した。これは当時政治記者として活躍した人の書くその内幕。

× × × × × × ×

 宮内省の横暴不逞と題して、奇怪千万なる匿名の書面を、政界有力者の間に配付した者があった。

 それは大正十年一月、原内閣時代の、第四十四議会中であった。その内容は、前年秋から元老山県有朋(元帥・公爵)から提議されていわゆる宮中某重大事件、すなわち皇太子妃の色盲事件というのは、今の皇后陛下、当時の久邇宮家の第一王女、良子(ながこ)女王殿下が、今の天皇陛下、当時の皇太子殿下の妃に内定されておりながら、中途において御沙汰やみになるという噂が世間に伝わった。

 それは宮内省侍医寮御用係の保利博士が意見書を提出したのが事の起りであった。その意見書は良子女王殿下は久邇宮家の血統で、その久邇宮家には島津(公爵)家の血が流れており、その島津家の血統には色盲の血統が入っている。だからこのことは御考慮を願いたい、なお当時の侍医寮の池辺棟三郎、御用係三浦謹之助等の大家も同意見であるということが添えられてあって、これが宮内省の問題になった。

 宮内省ではその意見書を伏見宮にお預けになり、伏見宮から久邇宮家へ御辞退なされたらよかろうと、勧告的の手続きが取られたのが事の起り、また久邇宮家ではこれに対して反対の意見書を出されているということであった。

その訳(わけ)は良子女王殿下の御婚約について、最初、内相談があって、それからさらに承諾されたというような経緯のものらしく、そういう手数を二度もやって、強(た)ってお断りしたけれども、どうしてもというので、いよいよお請けするということに決まった。

それにもかかわらず、急に辞退しろということになった。どういう原因かと聞くと、色盲の血統を入れることは畏(おそ)れ多いということを、伏見宮から伝達された。が、それは久邇宮家でも前にお断り申し上げたという事情が明白になった。

 ここで、この問題は政治問題化せんとする形勢となった。どうしてもこういうことが突然と起って来たか、当時いろいろ評判されていた。久邇宮妃殿下は薩州の島津家の出で、山県は反対派長州出身の勢力家であったから、薩長の争いがここに端を発したのではなかろうかという噂もあった。

 原首相は閣僚に対し、一同自重して問題の渦中に巻きこまれる如きなきよう、警告した。同時にこの問題に関する新聞雑誌の記事を差止めたが、もうその時は政友会、憲政会、国民党等はもちろん、その他無所属の議員、民間の有志等々各人各様の行動で、表面こそ露骨に現われないにしても、諸説紛々たる情勢になっていた。当時木場貞長(貴族院議員)から杉浦重剛に送った書簡にも、この間の消息が判る。

(上略)誠に以て憂慮罷在(まかりあり)候。実は昨夜も徹宵(てっしょう:徹夜)寝やらず、種々考案致し候得共(そうらえども)、別に良案も出来上らず(中略)事玆(ここ)に到り候(そうらえ)ては只々(ただただ)此(こ)の大事を耳にするの晩(おそ)かりしを痛恨致す外(ほか)御座(ござ)なく候。併(しか)し今朝に至るも尚(なお)断念致兼(いたしかね)何等(なんら)の方法もがな(もがな:……があるといいなあ)と只今までも苦慮致居(いたしおり)候得共、遂に妙案も浮ばず誠に以て残念至極の至りに御座候云々(うんぬん)。


 杉浦等は問題の政治化を絶対に避くる方針であり、杉浦の門下である古島一雄は、床次内相と会見し、この問題が政治問題化することは、寒心すべき次第であるから、一日も早く山県の提議を中止するよう、政府において適当の処置を取る必要がある旨を警告した。

床次は古島に対しては、政府の方針としてはその問題に触れないことに決定したことを答えたが、床次はこれを坐(座)視するに忍びなかった。床次は人をして杉浦を訪(おとな)わしめ杉浦の意見に悉(ことごと)く同感であること、また対策についても苦心していることを伝えると同時に、山県側近の有力者平田東助を、床次内相自ら訪問し、一刻も早く山県を断念させてもらいたいと勧告した。

 ところが床次のこの平田訪問は、たちまち原首相の知るところとなって、大いに驚いた原はたまたま彼を訪問した蔵園三四郎に対し、

閣僚は断じて宮中問題に関係してはならない、それは諸君が平素やかましく論ずる通りである。君は厳重にこれを床次に警告してもらいたい」

 と辞色(じしょく:ことばつきと顔色)すこぶる激しかった。床次の平田訪問を全然知らなかった蔵園は、原の激した様子を不思議に思いながら、これを床次に伝えた。床次はこの時始めて(原文ママ)平田を訪うた事実、および原首相に秘密で活動を開始した心事(しんじ:心に思う事と実際の事実)について蔵園に語り、辞表と共にこの衷情(ちゅうじょう:まごころ。まこと)をも、原に伝うべく依頼した。

そこで蔵園は辞表は自分が伝うべき筋合ではないといって受取らず、翌早朝再び原を訪い、床次の辞意およびその衷情について具(つぶ)さに語った上、とにかくこの問題は床次に一任してもらいたいと進言した。感慨深げにこれを聴いていた原はただ一言、

「ヨシ解(わか)った」

 と快諾したので、

「有難う」

 と躍りあがって辞去した。蔵園を玄関に見送った原の目には、涙が光っていたという。これを聴いた床次も目にいっぱい涙を湛(たた)えていた。原は床次の意見を容れ、早速(さっそく)中村宮内大臣に対して、

"近日宮中問題に関し、流言蜚語甚(はなは)だしく政治上にも憂慮すべき形勢がある。速かに貴官において世上(せじょう:世間)の疑惑を解くべき方法を取ってもらわなければ、今後発生すべき事態に対し、内閣は責任を取り得ないであろう"

 旨の厳重の談判を試みた。原もまかり間違えば辞職と覚悟したのである。

 ちょうどこの前後に政友会の岡崎邦輔、憲政会の下岡忠治、国民党の古島一雄の三人は奥衆議院議長を訪問、粕谷副議長をも加えてつまり五人で話し合って意見一致した。

佐々木安五郎(普選の六人組、国民党を離れて、純正国民党を作っていた)は議会にこの問題に関し政府に質問を提出している。古島は「これで佐々木は抑えることが出来たが、この問題の本質というものは残っている。この問題がなくならぬ以上は、第二第三の佐々木が出て来る。その時どうするか、それにはお互いがこの問題に対する非公式の意見を定めておく必要がある。一体そういうことが出来るかどうか」

 すると奥議長はそこまでやるのは困るとか、何とかいっていた。古島は、

「西園寺が来ているじゃないか、西園寺にわれわれの考えはここにあるということを伝えてくれ」

 と奥に要望した。奥はそんならゆこうといって出かけたが、帰って来ての話に、

 西園寺が、「君はプライヴェートで来たか、公式に来たか」

 と聞くからプライヴェートだというと、

「そうか、これは元老なんかのタッチする問題じゃない、内閣のやる仕事だ。原の所へ行け」

 といわれて帰って来た。

 更に原のところへすぐ行ったらよかろうというので、原の所へ行った。するとちゃんと西園寺から電話で原に話があったのだった。この時一方には大竹貫一、押川方義等は山県に詰問書を送るのみならず、日比谷公園で国民大会を開くという噂が伝わり、現に衆議院の問題にならんとしたりして、政府も少なからず困っていたのであった。

 中村宮相から山県に送った書簡は、この間の消息を語るものである。

 拝啓昨日は御静養中に推参御高配を奉煩(わずらわせたてまつり)恐入(おそれいり)候、熱海に至り松方侯(侯爵)に面会致し本日帰京仕候処(つかまつりそうろうところ)種々なる運動行われ居(お)り甚だ不穏の状態に有之趣(これありおもむき)候而(しかるに)政府に於ても急に決定相成度(あいなりたく)小生(しょうせい:男子の一人称。わたし)之(の)帰りを待ち居りたる次第に有之候付(これありそうろうにつき)昨日申上候通り小官之(の)決心を実行致候事(いたしそうろうこと)に相決し即ち御内定変更無之(これなき)旨発表致し之(これ)と同時に小官の責任軽からざる感申候(もうしそうろう)に付辞表捧呈前には今一回拝鳳(鳳〔ホウ〕は天子の意)を奉得度存候処(たてまつりえたくぞんじそうろうところ)右之(の)事情に有之(これあり)候に付決行仕候間(つかまつりそうろうあいだ)不悪(あしからず)御承知被成下度(なしくだされたく)奉願候(たてまつりねがいそうろう)敬具        
                           中村雄次郎
  二月十日

山県公爵閣下

 
 二月十九日中村宮相の辞表は聞届けられ、その後任となった牧野伸顕が、その後任となるまでにはこういう事情があった。

 二月初め(大正十年)であった。牧野は松方政義の鎌倉の別荘に招かれた、その時は松方は内大臣であった。中村宮相は責を負うて辞表捧呈中であった。松方は宮内大臣の後任者について、牧野の意見を求めた。牧野はこれに対し、

「宮内大臣の後任者は、薩長出身以外の人から適任者を採用すべきである。時勢は既に推移している。いつまでも薩長が宮中まで専断しているという印象を国民に与えるのは、まことに不可である」

 と、いうのであった。それから二、三日経つと、松方の次男の正作(牧野と友人で同年で、外交官出身)が父がちょっと鎌倉の別荘に来て欲しいといって使いに来た。

 牧野が出掛けると、松方は小田原の古希庵(山県の別荘)で、山県、松方、西園寺の三元老会議の結果、宮内大臣の後任に貴下を推したというのであった。牧野もそのあまりのことに唖然たらざるを得なかった。松方は牧野のいうのを遮って、

"西園寺は最初中村宮内大臣を推輓(すいばん:人を推挙すること)した関係上、後任者に対しては一切沈黙していた。山県はこの度(たび)の宮中某重大問題に関し、山県自身既に問題の人であって、また世間の攻撃の目標も山県に向けて定められたくらいであるから、いささか遠慮したものらしく、これまた西園寺同様沈黙していた。折角(せっかく)三人寄ったものの一向埒(らち)が明きそうでなかったが、やがて山県が貴下は内大臣であるし後任者は当然貴下が推輓すべきであるとの意見であったから、実は数日前牧野を招き後任者の意見を求めたところ、彼はこういう意見であったと紹介すると、西園寺がどうだろう、牧野に奮発してもらったらというので、山県も無論同意した。
 それに皇太子殿下御外遊前の御準備や、吾々(われわれ)いつまでも後任者が決定せぬでは、まことに畏れ多い。こういう訳(わけ)で三元老一致の推輓だから"

 と否応(いやおう)なしに牧野を促すのであった。

 牧野は已(や)むなく、しからば皇太子殿下、御帰朝(きちょう:帰国すること)遊ばすまでという条件付で、山県、西園寺をも歴訪して、これが承認を得て就任したのであった。

 この牧野の責任に対し、当時政界の大久保彦左衛門と称せられた、三浦観樹(梧楼、長州出身、子爵、枢密顧問官)将軍は、近来稀に観る適所適材な人事であるとほめていた。

 三月二十一日山県は闕下(けっか:天子の御前)に、一篇の封事(ふうじ:他見をはばかり密封して君主に奉る意見書。意見封事)を上(たてまつ)り、枢密院議長、帝室経済会議顧問、その他宮中の公職並びに先帝以来国家の元勲として、皇室の懇命(こんめい:親切なおおせ。ねんごろな心ぞえ)に浴したる一切の地位待遇を拝辞せんことを請うた。

また松方も内大臣の辞表を捧呈した。原首相、牧野宮相は切に彼等(かれら)を慰留したが、彼等の決心は牢固として変らなかった。が、五月十八日彼等両人に対し優渥(ゆうあく:ねんごろに手厚いこと)なる、御沙汰書が降り、ここに問題は悉(ことごと)く解決し、宮内省の方でも、内閣の方でも、官報号外を以って突然、

「東宮御婚儀は変更あらせられず」

 と発表した。

 この問題は山県が皇統に不純の血を入れてはならぬという純忠至誠と、大正三年五月二十三日東宮御学問所御用係被仰付(おおせつけ)、倫理科担当、大正七年五月久邇宮良子女王殿下学問所倫理担当を嘱託せられていた杉浦重剛の皇徳を重んずるという純忠至誠で、両者とも純忠至誠の点においては一点の疑いをはさむ余地もない、このことを山県に勧告するよう、平田を動かすべくいろいろの人が奔走したのであった。

 そこで山県も自分の純忠至誠を認めるならば、何も問題を複雑化することはないというて退陣したのであった。(後略)




・怪僧ラスプーチンは皇太子の病気につけこんで王室に入りこんだ
・血友病はイギリス王室の血統が原因だった
・ロシア全土に「皇后と皇女たちがラスプーチンの情婦になっている」という噂が広まった


出典:1987(昭和62)年 中央公論社 A・サマーズ/T・マンゴールド著 高橋正訳 「ロマノフ家の最期」 1 帝国の崩壊



 しかし、ニコライがおずおずと進歩的な政治形態への第一歩を踏み出したときに、決定的な災厄の根が彼のもっとも愛する家族のなかに根をおろしはじめていた。四人の皇女に続いて、皇后は待望の皇太子アレクセイを産んだ。だが、皇太子はアレクサンドラが祖母のヴィクトリア英女王から受け継いだ遺伝病──血友病──の持ち主だった。血友病患者は血が凝固せず、ちょっとでも怪我(けが)をすると出血が止まらなくて、ひどく苦しむのである。

 生まれてこのかた、アレクセイはしばしば危篤状態に陥り、侍医たちは手の施しようもなくおろおろするばかりであった。アレクサンドラは絶望のあまり、奇跡的な治癒能力と予言力をもつと評判のシベリアの怪僧ラスプーチンにすがりついた。侍医たちがお手上げになるたびに、ラスプーチンが祈祷を頼まれ、祈祷のたびにアレクセイ少年はもちなおすのだった。前々から信心深く迷信家だった皇后は、息子を救うために神が遣わされた人として、ラスプーチンを信ずるようになった。

 ニコライもラスプーチンを聖者扱いし、彼を通じて幾百万ロシア農民と接しているような気になっていた。しかし、一歩、宮廷を出ると、ラスプーチンはペテルブルクの上流社会で飲んだくれ、女漁りをしていた。皇后と皇女たちがラスプーチンの情婦になっているという噂がたちまち広がった。根も葉もない戯言(ざれごと)だったが、この話は途方もない尾鰭(おひれ)つきでロシア全土に広まった。




ロシア大公女:
・ラスプーチンは政界人事まで指名するようになった
・人々は皇帝と皇后について悪意と冷笑をあからさまにして「革命」という言葉を口にした


出典:1987(昭和62)年 中央公論社 マーリヤ大公女著 平岡緑訳 「最後のロシア大公女マーリヤ」 第二部 目覚め



22.ラスプーチン暗殺


 一九一六年七月、サゾーノフが外務大臣を罷免されると、連合軍の支援を期待できる唯一の道が断たれた。彼の後任に一時期すわったのは、親独派と目されるスチュルメルだった。

 九月、プロトポポフの内務大臣任命に世間は唖然とした。内実はラスプーチンの指名だったのである。プロトポポフは変人で、政界ではとかくの風評がある人物だった。

 この頃になると人々は皇帝と皇后について、悪意と冷笑を明らさまにして批判しはじめていた。ついに「革命」という言葉が頻繁に人々の口の端にのぼるようになり、たちまちどこでも聞かれるようになった。戦争への意欲は失われ、関心のすべてが国内事情に集中した。ラスプーチン、ラスプーチン、ラスプーチン。まるで流行歌のリフレインだった。彼の仕出かした失敗、彼のショッキングな個人的行状、その神秘的な威力。

 この力は絶大で私達の世界をあまねく暗黒の内に封じこめ、太陽までも掩蔽(えんぺい:おおいかくすこと)するようだった。なにゆえにかくも浅ましき一卑劣漢が、これほどの暗影を投じられるのだろうか。すべてが不可解で、説明のつかない、信じがたい狂気の沙汰の連続であった。

(中略)

二 

 毒気のあるゴシップが喧伝されるわりには、宮廷において彼がその地位と権力を手に入れた理由は、そもそもが単純なものだった。皇后は愛する皇太子(ツァーレヴィッチ)の生まれついての不治の病いの血友病が、年齢を重ねるごとに悪化することを承知していた。内出血からくる発作の頻度はますます増す一方だった。軽い殴打が死亡につながるといわれる病状であれば、内出血の再発するたびに哀れな子供は地獄の苦しみを味わっていた。

ラスプーチンだけがこの苦痛を和らげられるとなると、皇后が彼を唯一の希望の星、救世主と見なしたのも当然至極のことだった。日々陰鬱に明け暮れるアレクサンドル宮にこもったまま、心痛の絶えることのない皇后は、神経をすっかりすり減らして廃人同然だった。

一人息子が苦しみに身悶えする小さなベッドだけが置かれた四角い空間に自らを封じこめ、異常な境遇に生きていた皇后を思い浮かべるならば、宮廷でラスプーチンが振(ふる)った権勢にもうなずくことができよう。

 ラスプーチンはずる賢くも、自分がいなければツァーレヴィッチは生き長らえないとの決まり文句を、抜目なく四六時中連発しては、皇后の心をがんじがらめにしていった。

さらには傲慢にも、帝室一家の奇跡の施術者という慎しみ深い役割りでは飽き足らなくなり、より広範囲に自力を誇示したくなった。その当時にまつわるおびただしい文書が公けになった現在、ラスプーチンが皇帝皇后に言上した忠告は、ロシア農民階層に共通した固有の常識を、そのまま伝えていたこともあったと言って差しつかえないかも知れない。




色盲の遺伝について


出典:1936(昭和11)年 阪神急行電鉄株式会社編 「日本婚礼進化博覧会誌」 遺伝する眼疾患



 眼の色、眼の形、涙器の異常、眼筋障害、眼球の種々なる部分の欠損症、眼球着色変状、緑内障、眼の悪性腫瘍、眼屈折異常、角膜、鞏膜、虹彩、水晶体、硝子体、網膜、視神経の先天異常、夜盲症、色盲等は遺伝します。

 色盲の遺伝

一、色盲は遺伝性疾患で全色盲と部分色盲とがあります。
一、全色盲は非常に稀(ま)れな病気です。
一、普通色盲と云(い)うのは部分色盲で殆(ほと)んど総(すべ)ては紅緑の色盲です。

(中略)

 色盲遺伝の型式

一、色盲の女が色盲の男と結婚すれば生れた男の子も女の子も全部色盲です。

一、色盲の女が色盲でない男と結婚すれば、生れた男の子の全部は色盲で、生れた女の子の全部がコンダクター(色盲伝達者)です。(「コンダクター」とは色盲でなく色盲の遺伝物質を持って居る者のことです。)

一、色盲の男が色盲でない女と結婚すれば、生れた男の子は全部完全で、女の子は全部「コンダクター」です。

一、色盲の男が「コンダクター」の女と結婚すれば、生れた男の子の半数は色盲、女の子の半数は色盲で残りの半数は「コンダクター」です。

一、「コンダクター」の女が、色盲でない男と結婚すれば、生れた男の子の半数は色盲、女の子の半数は「コンダクター」です。



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