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2017/05/08

AFCが旭日旗を問題視する理由?イギリスのジョホール王族暗殺


AFC(アジアサッカー連盟)が旭日旗を「差別的なシンボル」と認定しましたが、今回AFCがそのような認定をしたのは、かつて日本海軍がシンガポール攻略でユダヤ系財閥の資産をメッタメタに破壊したからではないでしょうか?

1942(昭和17)年、イギリスのシンガポール軍港完成により平和と独立をおびやかされていた日本はシンガポールを攻略、イギリス軍は日本軍に無条件降伏しました。

シンガポールは香港、上海にならぶイギリスのアジア侵略の拠点だったのです。

そのシンガポール軍港を建設した土地は、イギリスがジョホール王国の王位継承者を殺害して手に入れた土地でした。


シンガポールとジョホール王国↓↓↓
ジョホールジョホールマレーシア地図1

だから旭日旗が許せないっ!日本軍のシンガポール攻略=大日本帝国海軍がぶっつぶした国際金融資本の資産

いつもだったら帝国陸軍が悪者にされますが、今回は帝国海軍の旗が「差別的なシンボル」だと侮辱されましたね。それは日本軍が気持ちがいいくらいユダヤ系財閥の重油タンクや工廠を破壊しまくって、軍港を占領して旭日旗を掲げたからでしょうか?


炎々と燃え五十哩(マイル)の彼方に黒煙を引くシンガポール市街北方の重油タンク。
ジョホールイシンガポール攻略1

日英同盟破棄以来、総工費二千二百万ポンドの巨費を投じ築工した、東洋最大の軍港セレターは、二月十四日未明敵状偵察のため進入したわが海軍先遣隊の寡兵によって無血占領され、同正午有力部隊到着を前に、軍艦旗は大空高く掲げられた。
ジョホールイシンガポール軍港セレター無血占領1

昭南軍港圧すわが艨艟(もうどう:いくさぶね)ハワイに米太平洋艦隊主力を潰滅し一転忽(たちま)ちにして英東洋艦隊根拠地、シンガポール島を屠(ほふ)った帝国海軍は、南方全域に於ける作戦の自由を獲得し、有事即応の態勢を固め得るに至った。二月十七日、わが無敵艦隊の艨艟は、舳艫(じくろ:船のへさきととも)相含み昭南軍港に堂々入港す。
ジョホール旭日旗1

セレター軍港の守備に任じた、わが海軍部隊は錬磨に監視に寧日(ねいじつ:無事で平和な日)がない。
ジョホール旭日旗2

敵降伏す 死闘猛攻七日間、彼我両軍によって屍山血河を築いたシンガポール市街戦は、二月十五日午後七時、強い夕陽を浴び乍(なが)ら白旗を掲げて、ブキ・テマ高地に現れたマレー軍司令官エー・イー・パーシヴァル中将の無条件降伏申入れをもって終止符がうたれた。
→日本軍は英軍にも勝利しました。日本と戦ってもいない連中に英軍が言いもしない「旭日旗は差別」などと言われる筋合いはありません。ちなみに日本人は「ユニオンジャックはユダヤの権益を守る番犬」と言っていました。それは事実ですからね。
ジョホールイシンガポールギリス軍降伏1

「旭日旗が差別的なシンボル」などと声明で発表してしまうAFCこそ、私怨や思想や人種差別にもとづいた「国籍と政治的見解に関連する差別」をしているのではないでしょうか?

そもそも、スポーツを管轄する団体にふさわしい声明でしょうか?

kyokujitu_ki_350.jpg

戦前からユダヤ系財閥の影響力が大きい国では反日、排日が盛んでした。日本人が命を奪われることもザラでした。

要するに韓国は共産党側ということで確定ですね。

ま、韓国にはずっとこの調子でいてほしいと思います。もし第二次朝鮮戦争が勃発しても、韓国人は旭日旗を掲げた日本の艦船には乗らないでしょうから!

【韓国崩壊】AFCが韓国人に乗っ取られていたことが判明!!!反日組織の実態が浮き彫りにwwwこれはもう政府も関わってとことんやる案件でしょ!



AFC懲罰委員会のメンツ↓↓↓首席が華僑、副首席が中共とのこと

Disciplinary Committee | AFC

MR. LIM KIA TONG          CHAIRMAN (首席)        SINGAPORE
DR HAMID AL SHAIBANI        DEPUTY CHAIRMAN   YEMEN
MS. SHEN RUI            DEPUTY CHAIRWOMAN (副首席) CHINA PR
MS. JOANNE SETRIGHT        MEMBER           AUSTRALIA
MR. ROBERT J. TORRES        MEMBER           GUAM
MR. ROUZBEH VOSOUGH AHMADI   MEMBER           IR IRAN
MR. SYED NAYYAR HASNAIN HAIDER MEMBER           PAKISTAN
MR. YASSER H. AL MISEHAL      MEMBER           SAUDI ARABIA
ENG. TOUFIK SARHAN         MEMBER           SYRIA
MS. NGUYEN THI MY DUNG      MEMBER           VIETNAM

http://www.the-afc.com/disciplinary-committee

ソースURL:http://www.news-us.jp/article/20170507-000003k.html
【参考記事】旭日旗問題、川崎に執行猶予付き無観客処分 AFC「韓国にルーツを持つ人々などの尊厳を害する」2017年5月5日 YAHOO! ニュース


そしてAFC副会長が韓国人↓↓↓

大韓サッカー協会会長の鄭夢奎氏、アジアサッカー連盟副会長に選任
2016年9月27日 中央日報日本語版

 大韓サッカー協会会長の鄭夢奎(チョン・モンギュ)氏(54)がアジアサッカー連盟(AFC)副会長に選任された。

大韓サッカー協会は27日、「AFCが26日、公文書を通じてを鄭氏をAFC副会長に選任したと伝えてきた。25日にAFC執行委員会が東アジアサッカー連盟加盟国10カ国とシャイフ・サルマンAFC会長の推戴を受けた鄭氏を全員一致で選任した」と明らかにした。

AFCの副会長は計5人で構成されている。東アジア地区の担当としてはこれまで中国の張吉竜氏が副会長を務めてきたが、ことし6月に健康悪化で辞任してから空席だった。

鄭氏は「副会長に推戴してくれた東アジア地区の各国協会とAFC執行委員会に感謝申し上げる」とし「AFC副会長の活動を通して韓国サッカーの影響力を高めてアジアサッカーを世界のトップ圏に引き上げるために最善を尽くしたい」と所感を明らかにした。



イギリスがジョホール王国から港を強奪したいきさつを簡潔に

AFCの所在地マレーシアは、戦前シンガポールを中心として発展してきた国でした。

そのシンガポールはもともとジョホール王国のサルタン(王様)の所有でしたが、1824年、イギリスはジョホール王から60万ドルと年金2万4000ドルと引き換えにシンガポールを手に入れます。

そして1896年、イギリスはジョホール王国はじめスルタン領諸国を保護国化してマレー連合州を組織させ、1909年には州となってしまったジョホールに総顧問官を置いて、王国の実権もイギリス人の手に渡ってしまいました。

その後、1923年に日英同盟が失効するとイギリスはアジアで唯一の独立国だった日本を侵略するためとアジア植民地の「平和」を護る要所としてシンガポール軍港建設を計画します。


ジョホール王国イブラヒム殿下
ジョホールサーイブラヒム殿下1

そのためにイギリスはサルタンに、ヘレン・ウイルソンという白人女性をに近づかせ、サルタンを夢中にさせてしまいます。


ジョホール皇室1

しかし、ジョホール国王の妃になる条件が「マレー系王族出身の婦人」と決められていたため、王の甥にあたるウンク殿下がヘレンとの結婚に猛反対しました。

その理由のひとつが三十万ドルともいわれた代々の王妃が受け継いできた冠を異人種に渡せば、それきりもどってこないであろう、というものでした。


【ジョホール王国の王と王妃の冠】
ジョホール王冠1

するとある朝、ウンク殿下夫妻はピストルで頭を撃ち抜いた遺体で発見されます。

まだ21歳という若さだったウンク殿下は王の結婚に反対していただけでなく、有力な王位継承者でもあったのです。


ジョホール悠仁親王殿下1

するとやはりというか、王族が不審死を遂げた大事件であるのに、イギリス植民地政府は「嫉妬の結果から起った悲劇」と非公式に発表して事件を簡単にすませてしまいました。

そしてめでたく王室の決まりを破ってサルタンとヘレンは無事結婚し、シンガポール軍港を建設するにはもってこいのテプロー水道はイギリスの手に落ちたのでした。

日本も気をつけましょうね。


ジョホール天皇皇后両陛下1【参考記事】天皇皇后両陛下 生前退位後はほとんど報道されない可能性 2017年4月20日 @nifty ニュース

本記事の資料

支那の排英を排日に転換させたイギリス、支那のユダヤ系財閥のたびかさなる非人道的挑発→日本ブチ切れ大東亜戦争へ


出典:1942(昭和17)年 高山書院 後藤朝太郎 「南洋の華僑」 南洋の混血児と猶太禍




 奸智にたけた英本国では香港総督を早速(さっそく)とり替え七つの膝を八つに折ると云(い)う低頭ぶりで極端な事勿(なか)れ主義をとり赴任した新総督の態度は学者ではあったが見るも哀れな対策をとった。

それがいつしか間もなく排日の方へ転ぜられ、上海紡績会社を中心とする五・卅(三十)事件などになり物凄いデモンストレーションを南京路の目抜きに見ると云う物物しさに転じて来た。

当時の工部局の出方とか英本国側の態度とは今から思うと実に猶太型そっくりの非人道を極めた者で日本側の憤激ぶりもひどいものであった。

爾来排日抗日の頻発上海事件、支那事変のいきさつこそあれ、隠忍自重遂に昨年十二月八日の大東亜戦の火蓋は切られたのである。
 
(中略)

 執拗な猶太(ユダヤ)人の粘りは恐らく尚(なお)も東亜印度(インド)の富に対する魅力を感じて忘れられぬであろう。イラン、イラク、アフガニスタンまでをも取り入れて考えているのであるからその気宇(きう:気がまえ)は相当に大きい。

ソ聯(連)が独逸(ドイツ)を制圧すると信じている英米にとりてはどこまでもソ聯をして勝たせる又そう目算を立てている英米にとり大東亜はたとえ昭南(新嘉波〔シンガポール〕)を中心とした馬来がどうなろうと、濠洲がどうなろうとどこまでも大東亜に対する魅力の向け方と謀略の手は緩めることをせぬであろう。かね(金)あれど、戦術なしとの淋しい言葉のあとには遠からず何等(なんら)かの手を打って来ることであろう。


朝日新聞帝国宣戦布告



支那に対日代理戦争をさせたイギリス
シンガポール軍港は日本を仮想敵として築港された
イギリスのマレー経営の成功はサルタン没落の歴史
王族殺害、欲望のためには手段を選ばない猶太系財閥


出典:1937(昭和12)年 東京朝野新聞出版部 鳥山景三 「極東の陰謀戦:英・ソの裏面工作を衝く」



 一、ウエルズの預言した日支戦争

 どこの国でもそうだが、特に欧州大戦の打撃を痛切に感じているイギリスとして、自分で直接戦争をやりたくはないが、日本と支那を戦わせることによって日本を傷つけることは、彼の望むところであった。連戦連敗にも拘(かかわ)らず、日本に対する支那の抗戦の頑強さは、背後にイギリスその他の力があるのを想像するに難くない。


 二、 シンガポール軍港の秘密

 日本を仮想敵として

 日本は曾(かつ)て日英同盟の期満ちて解消されるのを惜み、それが終っても猶(なお)過去の盟(ちか)いと好誼とを忘れ得ないが、現在のイギリスとしては往時の日英同盟を必要としたような政治上の理由を持たず、そんなものに何等(なんら)の愛着も感じていない。

 世界の有数な軍港で、日本に最も近く、そして日本を最も脅威するものは何処(どこ)かといえば、アメリカの真珠湾軍港などは大して問題でなく、実に恐るべきはイギリスのシンガポール軍港である。

 東洋一であることは勿論(もちろん)、世界的なこの大軍港が目標とするものは我が日本でなければならないがそれはしかも、日英同盟が終るのと入れ代りに築造されたものなのだ。こうした実利主義がイギリス人の性格であり、国民性である。

 当時の外相グレー卿が、

「日英同盟の尊い記憶を消滅させるに忍びない。」

と、その計画の暴を戒めたのに対して、

「英国の東洋に於ける利害は、旧友の感情に託しておくには余りにも重大である。」

と云(い)って反対したのはアメリイ海相であった。そしてそれがイギリスのいつわらない本心であった。

 イギリスの海軍がいくら世界に冠たるものであっても、海軍そのものは驚くに足りない。しかし日本海の大海戦に於けるバルチック艦隊の惨敗を顧みると、その原因の大部分は有力な軍港を東洋に持たなかったことに帰して考えられる。

根拠地は、いうまでもなく、修理、補給、休養の施設であって、それを持たない海軍は進んで戦争が出来ない。人間でも負傷して手当をしないでいては活動を続けることが出来ないように、軍艦にあっては猶更(なおさら)、艦の破損は艦の沈没を約束する。

軍港が艦隊の家として如何に重要な意味を持つかはこれで判るが、日本ではイギリスの海軍にシンガポール軍港のあることを案外知っていない。知っていないと云って悪ければ、忘れている。これは危険極まる認識不足だ。

 シンガポール軍港の水域は、馬来(マレー)半島の突端部ジョホールとシンガポールの間、テプロー水道と呼ばれる海面で、長さ十四浬(カイリ:1852メートル)幅一浬、水深十一尋(ひろ。水深を表す単位。1尋は約1.818メートルまたは約1.515メートル)、潮流がなくて、風波の難も受けない。そればかりか水道の両端は細長くくびれて閉鎖防禦の天恵があり、東洋艦隊の根拠地として以上、イギリスの全艦隊を楽々と収容することが出来るのである。


ジョホールマレーシア地図2

 それだけならば、天恵的な港湾というにすぎない。一九二九年以前はまだ平和な商港であるにとどまっていた。それが軍港として出現するに至って、乾ドック、浮ドック、埠頭、軍用鉄道及び道路、掘割及び築堤、工場、倉庫、弾薬庫、陸上防禦設備、飛行場、無電施設、営舎等を完備し、東洋殊に日本にとっての脅威すべき存在となったのである。

 その一例として貯油施設を挙げてみるとシンガポール軍港の重油槽の容量は約百万噸(トン)、その他にセイロン島(現スリランカ)ツリンコマリーの五十万噸油槽とアデン、コロンボ、ラングーンの各油槽を入れて二百万噸に達し、それを利用する時はイギリスの主力艦隊は二ヶ月以上も東洋に活躍することが出来、その間には本国からの補給が易々と行われるから、燃料問題は何の心配もいらぬという計算になっている。

 そして、何よりもシンガポール軍港が日本を脅威するのは、作戦圏を基礎として見る時、それが旅順口よりも日本に近いことである。このことは浦塩(うらじお。ウラジオストックのこと)に大軍港が現出した程の驚愕である。これは軍港運用の上からいって、シンガポール軍港は香港まで進出すると考えられるからである。


ジョホールシンガポール軍港香港1

日露戦争当時、我が海軍が佐世保を作戦基点とし、長山列島を前進根拠地としたよりも地理的に優れているのだ。そういう風に見れば、シンガポール軍港と東京との距離は二千七百浬でなくて一千三百浬となる。

そう見なくても、日露戦争当時、航続力二千浬を出ない旅順艦隊の旗艦ペトロパウロスクなどは、旅順口と東京との間一千二百浬で、東京を砲撃して旅順へ帰ることは困難だったが、航続力八千浬を持つイギリスの主力艦ネルソンやロドネーになると、途中補給を受けないでも、シンガポールと東京との間を往復して猶(なお)二千浬以上も遊弋(ゆうよく:艦船が海上を往復して待機すること)する余裕を残すのである。

ケント級の大巡洋艦などは一万四千浬を単独で航海出来る特殊能力を持っているから、シンガポール東京間を二往復出来る。それが香港によって能力を倍加するのである。

空襲にしても、シンガポール空軍根拠地は陸地だけで八十万坪あり、航空母艦は皆三千五百浬以上の航続力を持っているので、日本の年を空襲するのは何でもない。

 イギリスが自分で戦争をしたくないのは明(あきら)かだが、それにも拘(かかわ)らず、積極的に日支戦争に関心を見せるのは、いざといえばシンガポール軍港を控えているという強味(つよみ)からである。

シンガポール軍港がなかったら、主力艦の損傷を修理するのに地中海のマルタ軍港まで往復だけに四十四日、本国までは六十一日を要する。そんな気の長いことで、東洋に戦端などとても開くことは出来ない。

ジョホールイシンガポールギリス工廠1☞日本軍がシンガポール攻略で破壊したイギリスの工廠


イギリスが戦争をしたがらないというのは出来ないからではない。しようと思えば何時(いつ)でも出来るという成算の上に、日本に対する策謀をめぐらしているのを忘れてはならない。

 それ程重要な意義を持つところのシンガポール大軍港だ。その築造に当って、イギリスが如何に用意周到であったか。次に述べるジョホール王宮の謎は、それを語ってあまりあるものである。


 ジョホール王宮の謎

 シンガポールと相対して、テプロー水道を形づくっているものは、イギリスの保護領たるジョホール王国である。昭和九年の春、その王様のイブラヒム殿下が初めて日本に来朝されて、馬来の猛獣国を興味的に謳(うた)われた以外には、あまり一般に知られていない。

在留日本人は五百人足らずだが邦人のゴム栽培の八割までが其処(そこ)にあるというだけでも、我が国との関係は浅くない。面積七千五百万哩(マイル:1マイルは約1.6093キロメートル)、人口約三十万、住民は馬来人の他に支那人と印度人とで占めている。

 国情などを話すと面白いのだが、それはここで割愛するとして、シンガポール軍港の秘密を語るために、筆者は諸君を単刀直入にジョホールの王宮へと導こう。

 関門海峡程のテプロー水道(即ちいまのシンガポール軍港)をへだててシンガポールの島と向い合っている。緑樹の中に隱(隠)見する赤い屋根、白い外壁の優雅な町───それがジョホール王国の首都ジョホールバルで、古風で明るい町を出ると、郊外は青い芝生の丘陵つづき、まるで湖のように静かな水道を見下ろして、白堊(亜)の王宮が建ち並ぶ。豪華ではないが、別墅(べっしょ:別荘)風の瀟洒な建物だ。深く烈しい愛によって結ばれた、イブラヒム殿下とヘレン妃殿下のお仲睦(むつま)しい生活が偲(しの)ばれるようである。


ジョホール新王室1☞ジョホール新王室


だが、その御結婚への道程は、テプロー水道に架(かか)るジョホール堤道のように平坦なものではなかった。

 思い出すのは、一九三一年三月二十三日の出来事である。

 その日、サルタン(王殿下)の甥にあたるウンク・モハメット・ドビアンアハメンド殿下とその妃殿下とが、これという理由があろうとも思われないのに、突如、情死して果てられたのだった。ピストルで頭を射ち抜いて、二人は一室に重り合って倒れていた。

 イギリスの海峡植民地政府は、嫉妬の結果から起った悲劇であると非公式に発表して、事件を簡単に解決しようとしたが、民間ではそれをそのままには信じようとせず、そこに政治的意味を含めて取沙汰したものである。

 自殺ではなくて、暗殺されたのではなかったか?

 シンガポールの中央警察局が、そうした流言を取締まるために、必要以上の弾圧的態度に出たことも、却(かえ)って疑惑を深めるのに役立っただけだった。

 二十一歳のウンク殿下は、その時、ジョホール国総理大臣官房に勤務する、ジョホール義勇軍の少尉だった。曾(かつ)てはイギリスに留学して、政治と哲学を研究したこともある教養高い聡明な青年である。

タンバタンの広い邸内にあって、読書を楽しむか、椰子(ヤシ)樹の蔭を妃殿下と一緒に散策されるのが、その私的な生活の全部だった。そして国内の信望を担われていた殿下が、思いがけない横死をされたのだ。種々の風評が立つのも無理のない話である。

 ここに説をなす者は、ウンク殿下がサルタンの結婚に反対していたということと横死事件を結びつけるのであるが、真偽は解らない。それが全然のデマであったとしても、何故サルタンの結婚が問題になるのだろう?

 実はそこに複雑な事情があったのだ。


 医務官夫人とサルタンの渡英

 ジョホールは回教(かいきょう:イスラム教)国である。回教は多妻主義である。日常生活がヨーロッパ風であるとは、いっても、宗教の根は深い。


ジョホールマレイイスラム寺院1☞マレーシアのイスラム寺院


王宮のハレムには、少くも十指にあまる姚麗(姚〔よう〕は美しいの意)の寵妃があったであろうことは想像に難くない。このハレムから、サルタンの愛を一身に集めていた婦人が、一夜、忽然と姿を消してしまった。サルタンの落胆がどんなであったかは、猛獣狩りで鍛えられた剛毅の面影もうすく、眉宇に刻まれる沈痛な悩苦の色にありありと窺(うかが)われた。

 黒い影につつまれて、王宮内は空気までが湿っぽく思われる時、山の端にさす暁の光のように、そこへ現れたのは、現在妃のヘレンだった。

 だが、彼女は、いくら謎の南洋だからといって、天から降ってきたのでも、地から湧き出たのでもない。あるべくしてあっただけで、それは、王家の医務官英人ウイルソン氏夫人としてであった。

 どんな機会が王家を祝福したのかは誰も知らない。ヘレンの持っている何ものかが、サルタンの心を強くキャッチしたその瞬間から、サルタンはサルタン自身を取り返したのだということが出来る。

しばらく王宮に閉じこもってばかりいたサルタンが、それからは、ジョホールバルの郊外遠くドライヴしたり、テプロー水道にヨットを浮べるような日をつづけたそこにいつもヘレンが伴われていたのはいうまでもない。

 それをウイルソン氏の差金であるなどと、まことしやかに噂されていたのだったが、意外なことには、こうした噂は裏切って、事実はまるで反対の方向に展開した。

何を理由にしてか、ウイルソン氏はヘレン夫人を離婚し、その生国のスコットランドへ追い帰してしまったのである。

夫人が帰国すると間もなく、ウイルソン氏はシンガポールの海峡植民地総督官邸の医務官に栄転した。これは破格の抜擢であったといわれるが、謎はここにも横(よこた)わっていた。

 ところが、ウイルソン氏は、そのシンガポールに赴任しないうちに、水の清い、風の静かな、テプロー水道に面したバンガローの中で、ピストル自殺を遂げるようなことになった。

これでみるとウイルソン氏は、シンガポールへの栄転を悦ばなかったようにしかうけとれない。それはまた何故か?

 医務官夫人だったヘレンが、一個の彼女にかえってスコットランドに引き上げると、サルタン・イブラヒム殿下の憂鬱病が再発した。それは極めて自然である。

 側近の人々は憂慮の額を集めて、サルタンに気晴らしの旅行を勧めることに一決した。サルタンはもとより旅行好きの方である。自分でもそれが一番と考えられてか、早速旅装を調えて、気軽に出立された。

 行先は英国ロンドンであった。

 馬来の、酒のように芳醇な空気、樹林の滴る緑よりも、ロンドン名物の霧煤の方が、憂鬱病の治療に効果を奏したとは思われないのに、ロンドンに於けるサルタンはすっかり元気を取り戻して、輝くばかり晴れやかに見えた。

 それも尤(もっと)もな次第である。そこにはあの、医務官と別れたヘレンが、ドリアンのように爛然たる体躯に、マンゴーのように濃艶な媚(こび)を盛って、サルタンの来るのを待っていたのだ。

 サルタンの恋はかなり熱烈なものであったらしい。

 ロンドンからパリへ、スイスへ………と、サルタンの徴行(原文ママ)はいかにも愉しげであったが、一国の主としてジョホールの政治を抛擲(ほうてき:ほうりだすこと)するわけにはいかない。

それで時には馬来へ帰ってこなければならなかったが、勿論(もちろん)、ヘレンを伴うことが出来ないので、ジョホールの土を踏むや、サルタンの容態は悪化する。

そこでまた、機を見ては渡英するという工合(ぐあい)に、病気を理由とするロンドン訪問は数年間の贅沢な慣習となった。

 この厄介なサルタンの病気を完全に治癒するには、ヘレンをジョホールの王宮に入れなければならないのは解(わか)り切っている。

しかもそれが手っ取り早く実行出来ないのは、独立国といい、王室という形式上の障害があったからである。


 王妃冠とシンガポール軍港


 第一に、ヘレンは、サルタンの王妃としてでなければ、断じて王宮に入るのは嫌だと駄々をこねる。この駄々が大きな問題で、国内大多数の賛成を得ることが出来るかどうか解らない。

 第二には、三十万ドルの王妃冠の運命が危ぶまれる。それは歴史的な王室の宝物であって、これを一旦白夫人の有に帰してしまっては、猶(なお)永久にジョホール王家に伝えることが出来るかどうかということであった。

 ヘレンをサルタナ(正妃)に───というサルタンの意志がはっきり表明された。一九三〇年の秋、王室最高機関部の討議はいよいよ沸騰した。

 馬来側官吏と王族の大分部に共通な反対論の根拠は、恋愛と結婚とを別個の問題とするにあった。

 いうまでもなく、馬来人には馬来人の伝統というものがある。そして、王妃冠は、ジョホールの国宝であり、王室の象徴である。これを戴く資格は馬来系王族出の婦人に限らなければならない。

王家に何のゆかりもなく、全然人種の異(ちが)う白人に、どうしてジョホールの正妃たるべき資格があり得よう。もし強いて王宮に入るというならば、ハレムの生活に甘んずべきであると主張するのである。

 その中でも、最も強硬な反対者であり、勢力もあったが、後に横死された王甥のウンク殿下であった。彼はサルタン・イブラヒム殿下の正統がない場合の有力な王嗣継承候補者だったのだから、その立場からいっても、反対論に強硬たらざるを得ない。

 反対論も反対論だが、賛成論の英国官吏には、王意を尊重するという有利な条件がある。そして背後には大英国の威力だ。反対派の中心人物であった王甥夫妻の横死によって、サルタンの結婚問題の決定が促進されたのは、当然であろう王甥夫妻の横死に英国側の意志が働いたと疑われる点もそこにある。

 国内の反対を押し切ってまで、白人王妃冊立を貫徹しなければならなかった、サルタンの真意は遂に測り知ることを得ないが、ジョホール王宮の問題から眼をシンガポールに転ずるならば、そこにイギリス植民地政府の意図は充分に推測出来る。

 植民地の経営には、印度(インド)でいい加減手を焼いているイギリスである。馬来半島に勢力を占めたのは、一八二六年にオランダを破ってからで、一八九三年には半島の土王と保護条約を結ぶに至った海峡植民地のマラッカは一八二四年にオランダからイギリスの有に帰し、ペナンは一七八六年に占領し、リオ群島中の重要な位置にあるシンガポールは、ジョホール王が持っていたのを、代償六十万ドルと年金二万四千ドルを与える条件で、一八二四年に手に入れたものである。

 そして着々開拓の実を挙げたが、ジョンブル一流の穏健な懐柔政策も、効果を百パーセントに期待することが出来ないばかりではなく、排英の空気は東洋に漲(みなぎ)って暗澹たるものがある。

 唯(ただ)ひとつの信頼は、シンガポール軍港の上に懸(かか)っている。絶対的堅固に、完全に………その築造の秘密を確保するためには、断乎(固)としてジョホールの王宮内から排英派を追い出さなければならなかった──のではあるまいか。

 一九三一年の九月であった。

 ジョホールバルの各官衙(かんが:役所、官庁)の屋上高く、半月に星の散らばったジョホール国旗は、イギリスの国旗と交叉されて、へんぽんと微風に靡(なび)いた。

 ジョゲの太皷(鼓)の響(ひびき)が、密林を過ぎて四隣の土人(原文ママ)部落から伝わってくる。華僑の店舗からは五彩の花火がうちあげられ、爆竹の音が旺(さか)んに鳴っていた。

 サルタンの結婚式はこうして祝福され、それと相応じて、テプロー水道の上に、東洋を制圧し、英領植民地の平和を護るシンガポール軍港は、予定通り完成されることになったのである。

 しかし、吾々(われわれ)は忘れることが出来ない。シンガポール軍港の完成には、少くとも三つの人柱を要したが、この怪物はそれに満足していないで、きっと沢山(たくさん)の犠牲を求めて、東洋に風雲を呼んでいるということである。




【写真出典】
1927(昭和2)-1929(昭和4)年 志賀重昴全集刊行会編 「志賀重昴全集 第4巻」 一七 ジョホール国蘇丹(スルタン)イブラヒム殿下
1942(昭和17)年 大本営海軍報道部 「大東亜戦争海軍作戦写真記録 1」 シンガポール攻略
アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C14110613900:陸軍省||陸軍 「人種」



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