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2017/04/23

済南事件の日本人惨殺遺体|外務省が中国人のビザ発給要件緩和!!


済南事件とは1928(昭和3)年5月3日午前9時半ころ、中国山東省の済南で起きた日本人居留民虐殺事件です。


済南事件済南市地図1

日本人居留民を襲撃したのは、当時共産イデオロギー(思想)に燃え、「国権快復」と外国に奪われた権益回収を叫んでいた蒋介石率いる国民党軍でした。

国民党軍に虐殺された日本人の数は280名、被害人員は約400名といわれています。

日本人居留民は両腕を切断され、腹を切り裂かれ、顔をつぶされて火を放たれ、その遺体は男女の区別さえもつかなかったそうです。

中国の排日は1915(大正4)年5月の対支(対華)二十一カ条問題のころから始まっているので、中華排日の歴史は今年で102年目となります。

その102年目にして、外務省が日本人虐殺の実績がおそろしいほどある中国人へのビザ発給要件を来月8日から緩和するのだそうです。

済南事件が起きた時の大阪毎日新聞によると5月は共産党の記念日がたてこんでいて、日本人にとっては要注意月だったそうです。

なぜなら共産党記念日には共産党が日本人を襲撃するのがお決まりだったからです。

しかも5月8日は、中国にとって国恥記念日である5月7日、9日の間の日であり、今年は韓国大統領選の前日にあたります。


5月の共産党記念日↓↓↓

・5月1日…労働記念日(メーデー)

・5月3日…日本人を虐殺した済南事件記念日

・5月4日…学生運動(五四運動)記念日。第一次世界大戦後のベルサイユ条約でドイツが所有していた山東省の権益が日本に譲渡されることになり、それに猛反発した中国人学生らが中国全土で騒乱を起した五四運動勃発の日

・5月5日…孫文非常総統就任記念日、マルクス誕生記念日(※中国では馬克思紀念日という)

5月7日…国恥記念日。日本が中国に「対支(対華)二十一カ条」の最後通牒をした日

5月9日…五・九記念日。中国が「対支(対華)二十一カ条」を承認した日

5月30日…南京事件(国民党軍が南京の日本人居留民を虐殺した事件)の発端となった日

エリザベス女王1☞中国の排日を煽動していたのはイギリスのグローバリスト=移民政策推進



【出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:B02030115300:昭和07年05月13日(1932/05/13) 「1.一般及雑/7 「メーデー」後五月上旬中ニ於ケル各種紀念日状況ニ関スル件 2」(7コマ目)


5月、もしかしたら北朝鮮が発射したミサイルが日本に着弾したら、日本国内で済南事件が再現されるのでしょうか?

ミサイルが着弾しなくても、増えすぎた外国人が日本人に危害を加えるようなことがあったなら外務省は責任を取れるのでしょうかね?


済南事件の怒りにふるえる当時の大阪毎日新聞
「5月は日本人にとって物騒な、警戒を要する月、5月7日、9日、30日の記念日は要注意」
「支那人の伝統的外人侮蔑の感情は否めない事実である」


済南事件大阪毎日新聞1
支那の排日と経済絶交 自涜的排日の煽動 倫愚曼
大阪毎日新聞 1928.5.15-1928.5.27 (昭和3)

 南北を通じて支那の五月は騒ぎ廻るのに最もふさわしい時候である。五月が遊行シーズンであるだけ、お祭の数も多い。五月一日の労働記念、北京で学生と官憲が武劇を演出した四日の五四記念日、二十一ケ条の要求が提出された七日の五七記念日、二十一ケ条を承認した九日の五九記念日、南京事件の発端を醸した三十日のいわゆる五三十記念日。
 
 数え上げるとまず五つの記念日がこの五月に重なり合っている。これらの記念日は、いずれも内にあっては軍閥反抗の民衆運動を、外に対しては帝国主義反抗の示威運動を記念するの日であるそうだしかも五七、五九、五三十の記念日はわが国の関係するところであり、もし、わが支那に阿諛するの義務を負っているとすれば、五月はとても物騒な、警戒を要する月である。

(中略)

 済南で国民革命軍の戦争労働者が掠奪というボーナスにありついてからこの状態は激変した。本来ならば、国民革命軍が在留邦人に加えた掠奪虐殺の忘却に対し国民革命軍を支持する南方の支那人は謹慎陳謝すべきはずであるが、きょうこのごろの中華民国にはそんな倫理観念は行われぬと見れる。(中略)


済南事件大阪毎日新聞2


 大正四年五月の二十一ケ条問題以来、排日は支那の流行となった。花が咲いても排日、月がさしても排日、ただ国民党の勢力が抬頭してからは打倒帝国主義、経済的侵略という合の手が加わって一層賑かになっただけの相違である。
 
 何ゆえに一衣帯水の隣邦日本をそう憎んで排日を年中行事にしなくてはならないのか、支那側にとっては排日の理由は勿論幾多あろうが、憎まれ排斥される身からすれば要するに面憎く、癪にさわるのであろう位にしか思えない。
 
 四方の蛮夷ことごとく朝貢していたと思っていた大清帝国から、一転して中華の民国になった支那人にとってみれば、島国の倭奴が物につけ、事につけ面憎く癪にさわらざるを得ないのであろう。
 
 民国ももう十七年になった昨今でも、少し深く田舎へ入れば日本帝国の存在など全く知らぬ支那人がおる。朝鮮人だといえば自分の属領の土人とでも思ってか、かえって親切な取扱をしてくれるほどである。
 
 頭から矮小日本と高をくくっている支那人に対しては、世界五大強国の一つだと自負する日本人が面憎い。東夷が山東出兵などするに至ってはいよいよもって癪にさわる。

 早くいえば、支那人の伝統的外人侮蔑の感情と先進国気取の日本人の感情とが排日の原因なのである。ヤングチャイニーズは口を開けば満洲、台湾の返還をもって排日一掃の妙法なりと説く、なるほど満洲、台湾、ついでに朝鮮をも支那に与えたならば、支那人は大喜びであろうが、日本人侮蔑の感情が失せない限り排日など容易になくせるものではない。
 
 自己の真価を知らない者は尊大だ。教育でも普及して支那人が支那自らの正体を十分に認識し得たときに伝統的外人侮蔑の弊を知り初めて対日感情も好転するであろう。それまでは、遺憾ながら日本としては面憎く思われ癪にさわられなくてはならないのであろう。

 いずれにしても、日本人を憎い、癪にさわるという感情が一部支那人の胸中に往来していることは、たといそれが全く誤解に基づいていようとも、否むことの出来ない事実である。
 
 この対日感情を利用して排日運動と経済絶交が生れて来る。排日運動を露骨にかつ極端に実現させたのが南京事変であり済南事変である、そしてこれを平和的手段に移したのが経済絶交(管理人注:日貨排斥=日本の産品と貨幣を排斥する運動)である。


【出典】神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 支那経済事情(9-093)



外務省「中国人旅行者のビザ発給要件を緩和するよ」


中国人のビザ発給要件、5月8日から緩和 外務省
2017年4月21日 日本経済新聞

 外務省は21日、5月8日から中国人のビザ(査証)の発給要件を緩和すると発表した。中所得程度の中国人とその家族に対し、3年間なら何度でも日本を訪問できる「数次ビザ」を発給する。最初は観光目的に限る。中国国外に住んでいる中国人にもビザの発給要件を緩める。外務省は「日中間の交流を拡大し、観光立国地方創生に取り組む」と説明している。



日本人、中国人共生の結末 中国人に惨殺された日本人の遺体写真11枚|グロ注意

血圧が高い方、心臓が弱い方、妊娠中の方、その他体調に不安のある方は閲覧しないで下さい。

写真の遺体は上半身の損傷が激しく、大多数が両腕を切断され、腹を切り裂かれ、焼けて炭化しています。











済南事件日本人惨殺遺体1


済南事件日本人惨殺遺体2


済南事件日本人惨殺遺体3


済南事件日本人惨殺遺体4


済南事件日本人惨殺遺体5


済南事件日本人惨殺遺体6_2


済南事件日本人惨殺遺体7


済南事件日本人惨殺遺体8


済南事件日本人惨殺遺体9


済南事件日本人惨殺遺体10


済南事件日本人惨殺遺体11【写真出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C11110921600:陸軍省 「済南事件邦人惨殺写真」


本記事の資料:重光葵
「排外運動ほど対外的に有力なる武器はなく、蒋介石は遺憾なくこれを活用した」
「対日ボイコットで圧迫された日本の経済界は田中内閣を批判した」


出典:1952(昭和27)年 中央公論社 重光葵 「昭和之動乱」上巻
   山東出兵



 蒋介石の支那統一のための北進に関しては、田中大将が了解を与えていたにも拘(かかわ)らず、日支両軍の衝突事件が起った。


田中義一1☞田中義一大将



 赤化していた蒋介石の北伐軍は、共産イデオロギーの下に国権快復の意識に燃え、到るところ暴行掠奪を恣(ほしいまま)にし外国の権益を蹂躙した。済南における日本居留民は虐殺され、日本の権益は危殆に瀕したので、幣原(しではら)外交(管理人注:幣原外相が執った親中政策)時代の前内閣とは異なり現地保護政策(管理人注:日本人居留民を武力で保護する政策)をとっている田中内閣は、直ちに青島を経て二度目の済南出兵を行い、遂に国民軍と衝突した。その結果、日本軍は済南を占領した(一九二八年五月)。


蒋介石1☞蒋介石



これが所謂(いわゆる)済南事件であるが、この事件は拡大されずに済み、蒋介石軍は日本の諒解の下に迂回して北進することを得、北支における満洲軍は撤退し、張作霖は田中首相の強き勧告により奉天に引き揚げた。

日本軍の済南出兵は排日気運を煽り、関税会議以来の幣原外交の日支親善に関する努力の効果は一掃せられてしまった。


幣原喜重郎1☞幣原喜重郎外相



排日運動は忽(たちま)ち支那全土を風靡し、これに対する有効なる対抗策は発見出来なかった。当時の排外運動ほど対外的に有力なる武器はなく、蒋介石は遺憾なくこれを活用した。


中国反日デモ1☞いまだ続く中国の排日貨デモ



支那の対日ボイコットは、たちまち日本の経済界を圧迫し、経済界を先頭に田中内閣の対支政策に関する非難の声が高くなり、田中首相も速(すみや)かに済南事件を解決して、日支関係を常道に復帰させたいと頻(しき)りに考うるに至り、昭和三年(一九二八年)末、遂に、芳澤公使を上海に派遣して、王正廷外交部長との間に事件の解決をはからしめた。


済南事件経団連中国1☞いつの世も中国と商売したい日本の経済界



芳澤公使の尽力によって、済南事件は上海で昭和四(一九二九)年三月に解決を見た。

これに引続き、南京漢口事件も芳澤公使の手で解決を告げて、日本は、南京における蒋政権即ち国民政府を支那の正当政府として承認し、これと国交を開く段取りとなったのである。

これは田中内閣の最後の幕であって、記者が北京関税会議の後、再び上海・南京において、支那問題に関係するようになったのも済南事件交渉のことからであった。


重光葵_350
☞戦艦ミズーリ号上で降伏文書に調印する重光葵全権大使





済南事件後も続いた日本人への暴行-反抗日軍暴行委員会を組織
@上海


出典:アジア歴史資料センター:レファレンスコード:B02030056300:昭和04年01月10日(1929/01/10) 上海日本商工会議所内金曜会 「1.上海/2 暴戻なる上海排日貨の実情(第一号)」



今次排日貨の特徴ごその影響

済南事変を動機とし、日支懸案交渉により激成されたる今回の排日貨運動は、五月上海反抗日軍暴行委員会か組織せられその第一声を挙げて以来、七月に至つては更らに全国反日大会の開催を見、済南事件による反日運動は不平等条約改訂を目標とする全国的運動と化して全国に瀰漫し、その勢ひの猖獗なる、今日迄未だその比を見ず、今や燎原の火のごとく支那全土に亘つて熾烈を極めつゝある。





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