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2017/04/18

スマラン慰安所白馬事件の真相|偽証したオランダ人慰安婦たち


朝日新聞従軍記者の手記によると、スマラン慰安所白馬事件を裁く法廷で、オランダ人慰安婦らは自分らが生き残るために偽証したのだそうです。

この事件では岡田慶治陸軍少佐が売春強要罪などの罪を着せられ死刑になっていますが、海軍でも慰安所経営者だった青地鷲雄さんがオランダ人慰安婦らの偽証により10年の懲役刑を言い渡されました。

青地さんは法廷に押しかけたオランダ人や現地人に罵声や嘲笑を浴びせられ、その数日後に獄死してしまったのです。

死因は明らかにされませんでしたが、多くの人は「自殺だ」と思ったそうです。


スマラン慰安所白馬事件の犠牲者 岡田慶治陸軍少佐と青地鷲雄さん

スマラン慰安所事件の被告 岡田慶治陸軍少佐。
スマラン慰安所白馬事件1

関係者 青地鷲雄。
スマラン慰安所白馬事件2【出典】PHP文芸文庫 「文蔵」2012年1月号所収 秦郁彦 「スマランの慰安婦たち~『青壮日記』は語る-昭和史奇譚」



青地さんは海軍に依頼されてバタビア(現在のジャカルタ)の近くで慰安所を経営していました。

青地さんの慰安所で働いていた慰安婦は、オランダ人収容所で募集した希望者たちでした。

手堅い青地さんは、日本の公娼制度にのっとってその慰安婦たちと契約書を交わし、署名までもらっていたそうです。

もちろん、未成年者を強制連行して慰安婦にした、ということもありません。

それが戦後になって軍事法廷が開かれると、オランダ人慰安婦らは生き残るために、

「誘拐された」
「未成年者までもが強制された」
「甘い言葉で誘惑された」

などと偽証したのだそうです。

岡田慶治陸軍少佐はその手記「青壮日記」に「故なき罪を一身に受け」と書き記していますが、それはこの慰安婦らの偽証のことを言っているのだと思います。


【当時のバタビア(現ジャカルタ)】
バタビアインドネシア市街

オランダ人にしてみれば慰安婦の募集に応募して、当時「勝ち組」だった日本軍に取り入ればよいことがあるだろう、と考えたのかも知れません。

何よりも慰安婦になれば収容所の外に出ることができ、おいしい物を食べたり、きれいな服を着たり、ダンスを踊ったり、買い物だってできちゃいます。

こういった慰安婦になることで与えられる物は、唯物論者であり物質至上主義者である白人にとって非常に魅力的だったにちがいありません。

オマケにオランダはフランスとおなじで日本にもドイツにも敗戦して、国の将来がまったく見えない状況にありました。

それになにも慰安婦になったのは彼女らだけでなく、戦後朝鮮では生きるためにソ連軍将校の愛人になった日本人女性たちもいました。

アメリカの戦争ドラマ「バンド・オブ・ブラザーズ」では、逃亡していたド・ゴールが帰って来たパリでナチスと寝た売春婦が民衆に半殺しにされるシーンが出てきます。


【「バンド・オブ・ブラザーズ」オープニング】
日本人女性たちを抱き殺した米軍が美しく描かれているドラマ。


しかしオランダ人慰安婦らはパリの売春婦のように、みずからの選択の責任を取ることをしませんでした。

同胞から非難されることをおそれ、袋だたきにされることをおそれて、日本軍人と年老いた日本人にすべての罪をなすりつけ生きのびたのです。

最近、国立公文書館から新たな従軍慰安婦関係資料が出てきたそうですが、敵にこびた女たちの偽証が記された文書などタダの紙クズにすぎません。


慰安婦「連行」文書提出 公文書館、内閣官房に
2017年4月17日 共同通信

 旧日本軍の従軍慰安婦問題で、国立公文書館が新たに関連する公文書19件182点を内閣官房に提出したことが17日、分かった。専門家は「軍の関与と強制連行を示す記述が随所にある」と指摘。一方、内閣官房は取材に「強制連行を示す記述は見当たらないという政府認識は変わらない」としている。

 19件は、法務省がまとめた戦後の東京裁判やBC級戦犯裁判の記録。このうち「バタビア裁判25号事件」資料には、日本海軍のインドネシアの特別警察隊元隊長が戦後、法務省関係者に「200人くらいの婦女を慰安婦として奥山部隊の命によりバリ島に連れ込んだ」と証言した記述があった。




本記事の資料:朝日新聞従軍記者の手記
岡田慶治陸軍少佐と青地鷲雄さんの名誉のために


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録大東亜戦史 蘭印篇」所収 朝日新聞社企画部次長 河合 政 「ジャワの日本人」



 先駆者の死

 戦犯処刑者の中でも、青地鷲雄さん(六三才)の獄死は悲惨であった。

青地老は抑留中のオランダや混血の女性を誘拐して、日本軍人相手の慰安婦にしたということで逮捕された。たしかに青地老はジャカルタの都心に近いところに開設された慰安所のあるじであった。

 だがこれは日本海軍の専用慰安所であり、青地老は海軍から命ぜられて、ここに勤務していたにすぎなかったのだ。

 しかも海軍からはこのために一人の逮捕者も出ず、青地老ひとりがすべてを背負ってしまった。しかも無期を判決された青地老は、刑務所参観者の前にさらしものにされ、悪罵と嘲笑の中で、判決後数日後に死んでしまったのである。

死因は衝撃の激しさからとか病死とか伝えられたが、多くの人は明(あきら)かに自殺だと思っている。

 青地老は大正十年頃夫婦でジャワに渡り、バタビアのモーレンフリート街に、日本人相手のホテルを経営した。ジャワに渡るほどの日本人は、ほとんど裸一貫から一旗あげようとする連中で、目標も何もなく渡航してくるため忽(たちま)ち、無一文となって食うに困るのだが、俠気(きょうき:男気。強きをくじき弱きをたすけるこころだて)の青地老はこうした連中を、一カ月でも二カ月でも無料で泊らせ、激励しては、仕事を世話したりしていた。

特に青地老はインドネシア語はもちろん、オランダ語も英語も流暢であったため、バタビアの裁判所は日本人の犯罪人を裁く場合には、必ず青地老に通訳を委嘱したものであった。

 ここままでゆけば青地老は日本人にとっては、恩人的存在として名物にもなった人であろう。

 思えば青地老の晩年は全く戦争にかきまわされてしまったのだ。

あわただしく引揚船に乗って、何十年ぶりかで故国を踏んだ青地老は、すぐ陸軍から企業担当者としてジャワに戻ることを命令され、妻女は郷里の長崎に残して住みなれたバタビアに帰って来た。

 そして長年の経験を生かしてホテルを経営しようとしたが、すでに軍と特殊関係をもつ日本人に占められて、割りこむ隙もなく、止(や)むなく日本人相手のレストランを開業したがこれもうまく行かなかった。

 弱り切っていたところへ、海軍から慰安所の開設をたのまれ、いくたびか断ったが、ついに"御国のため"の仕事として押しつけられてしまったのである。

 ここに必要な女性は抑留所から希望者をつのり、未成年者はことわっていちいち契約書に署名させたのは、青地老の性格でもあったろう。しかしこうした手堅さも空(むな)しかった。

 希望して働いた筈(はず)の女はほとんど、被害者として証人にたち、裁判ではすべて青地老が、甘言を以て誘惑し未成年者までも強制したとされて、あらゆる弁明も証言も一蹴されてしまったのである。

 インドネシアの土になることを念願した青地老が、いかに懊悩しつつ慰安所の仕事をしていたかは、知る人も多い。

そこに働いていた女たちも決して青地老を憎んではいなかったらしい。

女たちは青地老を罪におとさねば、自分たちの生きるみちがなかったのである。


【ウソつき朝日新聞】
朝日新聞従軍慰安婦1



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