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2017/03/12

教育勅語とは外来思想からの自衛手段


森友学園のとばっちりで話題をさらっている「教育勅語」ですが、明治天皇がこの御勅語を御下し遊ばされた理由は、日本独自の美徳を外来思想から守るためでした。

外来思想とは明治維新後にわが国に流入してきた民主主義(デモクラシー)、自由主義、個人主義のことです。

第一次世界大戦後には共産主義(ユダヤ思想=マルクス思想=世界統一思想)もわが国に流入してきました。

これらのひたすら「個人の利益、自由、平等」をうったえる外来思想は、「国」という大きな命のことを考える日本人の精神を侵し始めました。

「個の利益」とは旧民主党の「こども手当」のように「国を食いつぶす」ことにほかなりません。

そこで、常に国民の教育に大御心をお注ぎだった明治天皇が、「日本人の美徳まとめ」を国民にお下し遊ばされた、それが「教育勅語」だったのです。

現在サヨクがいっせいに「教育勅語」を「戦争に向かわせる」などと言って攻撃していますが、そもそもサヨクのような軽薄な売国奴がいなかったなら、「教育勅語」が発布されることもなかったのです。

逆を言えば、サヨクがいたおかげで日本人の美徳が「教育勅語」という形で後世に残ることになったわけですね。

サヨクは「教育勅語は危険だ!」などと批判するのなら武力で日本に開国を迫った英米仏独露と自分らがカブレている外来思想に文句を言え!ということです。


【黒船来航】
黒船来航1

【日本に上陸して日本人を武力で威嚇した英米仏独露五ヶ国の兵】
幕末開港らしゃめん五ヶ国兵1【出典】1931(昭和6)年 赤炉閣書房 中里機庵 「幕末開港綿羊娘情史」


またもやブーメランが突き刺さるサヨク


共産 志位委員長 防衛相の教育勅語発言を追及へ
2017年3月9日 NHK NEWS WEB

共産党の志位委員長は記者会見で、稲田防衛大臣が「教育勅語の精神である親孝行など核の部分は取り戻すべきだ」などと発言したことについて、今の憲法の下で許されない認識で、大臣としての資質が問われる問題だとして、追及していく考えを示しました。

稲田防衛大臣は参議院予算委員会で、「教育勅語の精神である親孝行など、核の部分は取り戻すべきだと考えており、道義国家を目指すべきだという考えに変わりはない」と述べました。

これについて、共産党の志位委員長は記者会見で、「現在にも通用する徳目が書かれていると言って、教育勅語を肯定する議論があるが、教育勅語の本質を全く知らない無理解から生まれているものだ。全部の徳目の結論は、いったん事が起これば、天皇のために命を投げ出すという究極の命題につながっている」と指摘しました。

そのうえで、志位氏は「部分的にも真理があるなどといった認識は、絶対に日本国憲法の下で許されないもので、衆参両院の失効決議を全く無視するものだ。そうしたことを、防衛大臣が口にするのは、大臣としての資質が問われる問題だ」と述べ、稲田大臣を追及していく考えを示しました。


【自分を追及しろよwww】
共産党志位1



本記事の資料:重光葵(しげみつまもる)
「明治維新後と第一次世界戦争後に外国の思想が輸入せられた」


出典:1952(昭和27)年 中央公論社 重光葵 「昭和之動乱」上巻 



 三月事件

 第一次世界戦争後、国内の思想界は久しく極右と極左との間を激烈に動揺していた。思想が激しく動揺しながら、政治社会機構は依然たる有様であった点に大なる危険があった。日本の政治指導が、世界大戦による国際情勢の進展に伴わなかったのである。

 戦後、自由民主の思想が盛んな時期に、思想自由の制度の下に、ソ連革命思想が日本に輸入せられ、マルクス主義が流行して来た。日本がソ連と国交を開く(一九二五年)前後から、特に大震災を契機として、日本においても共産党の細胞が各地に設けられて、共産勢力は益々増大した。

(中略)

 日本は封建鎖国の時代より、外界勢力の圧迫によって開国進取の時代に入ったのであり、これと共に、思想自由の制度によって、あわただしく取り入れた個人自由の主義は、充分に鍛練せられる機会がなかった。


【戦艦ミズーリ号上で降伏文書に調印する重光葵】
重光葵_350



本記事の資料:外来思想の反動で「教育勅語」は生まれた
わが国独自の美徳をまとめたものが「教育勅語」

(  )内は管理人による注釈です。


出典:1918(大正7)年 科外教育叢書刊行会 前島義教 「十大詔勅謹解」 教育勅語



【詳説】

 維新の当初、前に述べました通り、開国進取の国是が立てられてから、今までの鎖国とはうってかわって、漸次外国との交通が盛(さかん)になり、彼(か)の国の文明は非常な勢(いきおい)を以て輸入せられました。

其(そ)の結果我が国民の心気(しんき)も俄(にわか)に一転して、徒(いたず)らに新文明のみを難有(ありがた)がり、古来の良い風習をも顧みぬに至りました。

いうまでもなく仁義忠孝の道は、古来我が国の特有で、他に其の比を見る事の出来ぬ善(よ)い国民性であるのに、西欧文明の輸入にばかり熱中し、心酔して居る者には更に其の善いのが判らず、偶偶(たまたま)之(これ)を口にする者があれば、迂遠(うえん:直接の役に立たないこと。実際的でないこと)であるとか、時代後(おく)れであるとかいって、矢鱈(やたら)に之を嘲笑・排斥しました。

尤(もっと)も、明治初年の頃盛に世の中に立って活動していた者は、大抵旧の忠孝仁義の精神教育を受けた者であったから、口には何事も言わないでも、兎に角(とにかく)是等(これら)の道を実行して居(お)りましたが、其の後の者に至っては多くは此(こ)の様なことは古めかしいものとして居りました。

(中略)

 仍(そこ)で、常に教育の事に大御心を御注ぎ遊ばされました先帝陛下には、此の有様を聞召(きこしめ)され、、明治二十三年十月三十日、特に時の内閣総理大臣山県有朋卿・文部大臣吉川顯正(よしかわあきまさ)卿を宮中へ御召しになって、此の御勅語を御下し遊ばされ、国民の拠る可(べ)き道を明かに御(おん)示し遊ばされたものと承(うけたまわ)って居ります。



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