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2017/05/25

米軍が貞明皇后の頭上に投下したモロトフバスケット


今日5月25日は米軍が大規模な東京空襲を行い、わが明治宮殿(戦前の皇居)が全焼した日です。

この空襲で米軍は、昭和天皇の母宮であらせられる貞明皇后陛下がお住まいだった赤坂大宮御所にも無数の焼夷弾を投下しました。

しかも投下された焼夷弾は「モロトフバスケット」別名「モロトフのパンかご」という名の現代のクラスター爆弾に匹敵する凶悪なものでした。


【慈恵病院へ行啓の国母陛下】
貞明皇后2【写真出典】1928(昭和3)年 実業之日本社 増田義一 「金枝玉葉帖:御大典記念」

【貞明皇后陛下作詞曲】
女声斉唱・独唱及び混声合唱「花すみれ」
(国立国会図書館デジタルコレクション)



幸い、貞明皇后陛下がお文庫(防空室)のひさしの下にお入りになるや、そのひさしの上に焼夷弾が落下炸裂したそうで、危機一髪難を逃れられたそうです。

この焼夷弾の中身は固形油やロウ状の黄リンで、燃焼温度は2000度から3000度にもなったそうです。

そしてそのベタベタした中身が焼夷弾の炸裂と同時に建物や人体に飛び散って付着し、すべてを焼き尽くしたのでした。

当時、焼夷弾が足下で炸裂した女性が手記を残していますが、それによると弾の燃え盛る中身が上半身に付着して大やけどを負ってしまったそうです。

焼夷弾は女性の顔を容赦なく焼きつくして、口は肉でふさがり、眼は常時アッカンベーをしているようにたれ下がり、あごとのどは一続きのデコボコしたケロイドになってしまったそうです。

その女性は戦後、何度も整形手術を受けますが二目と見られない顔であることに変りはなかったそうです。

女性としてその苦しみ、悲しみはどれほど深かったでしょうか。


【なめるように日本人を焼き殺した焼夷弾の炎】


戦前、外交官・外務大臣などを歴任した重光葵(しげみつまもる)もこの空襲で自宅を焼かれています。

その時のことを記した手記によれば5月24日から25日にかけて東京にふりそそいだのはソ連(現ロシア)が開発したモロトフバスケット(モロトフのパンかご)と呼ばれた焼夷弾でした。

モロトフバスケットは現代のクラスター爆弾とよく似たしくみでした。

そのしくみとは、モロトフバスケットの一見500キロ級爆弾くらいの容器に10キロ級焼夷弾を約60発つめこみ、それを上空から投下すると弾は尾翼によって旋回し、ある速度に達すると容器がふたつに開いて、中につめた中型・小型焼夷弾が遠心力で周囲に飛散するという極悪なものでした。

この東京大空襲の動画を見てみてください。

米軍が投下した焼夷弾がクルクルと回りながら落ちていっているのがわかります。そしてほどなく地上から油脂焼夷弾特有の黒い煙が噴き上がります。




たび重なる空襲によって、この黒煙と高熱の炎の中で数百万といわれる民間の日本人が虐殺されたのです。

アメリカ共産党としては抵抗勢力である軍国主義に負けるわけにはいきません。アメリカが「日本の住宅を効率よく焼きつくす方法」を熱心に研究したという話は有名です。

天皇の料理番だった秋山徳蔵氏の手記によると、大空襲後、米軍は皇居の焼け跡を偵察しに来たそうですから他の皇族のお住まいも調べ上げていたことでしょう。

彼らはユダヤ人をしいたげてきた「王族」を抹殺すべく、日本の皇族の住まいにも焼夷弾を投下したのです。


焼夷弾の区分・威力・種類・構造・特性についてのまとめ

【焼夷弾の区分・威力】
●焼夷弾の大きさによる区分
・1キロ
・2キロ
・5キロ
・10キロ
・20キロ
・50キロ
●焼夷弾の威力
⑴ 5キロ級焼夷弾
・鉄筋コンクリート屋根は貫通しない。木造の屋根、天井は貫通する。
・小屋組などに命中した場合は天井裏にとどまることがある。

⑵ 10キロ級焼夷弾
・鉄筋コンクリート屋根は貫通する。木造ならば屋根、天井、二階を優に貫通して一階に達する。
・小屋組などに命中した場合は二階床にとどまることがある。


【焼夷弾の種類・構造・特性】
⑴ エレクトロン焼夷弾
・エレクトロンの弾体の中にテルミットを充填し、それに発火装置と尾翼を付けたもの。
・エレクトロンとはマグネシウム92~95%、アルミニウム8~4%よりなる合金で摂氏2000度~3000度の高熱で燃え、消化は困難である。
・テルミットとは酸化鉄粉76%、アルミニウム粉末24%を混合したもので、2000度~3000度の高温で燃え、酸素の供給を断っても始めの間は燃え続ける。これがこの焼夷弾の特性である。

【構造図】
東京大空襲エレクトロン焼夷弾1

⑵ 黄燐焼夷弾
・弾体に黄燐、あるいは二硫化炭素に黄燐を溶解した液体を詰めたもの。
・黄燐および二硫化炭素は空気中で自然発火する。したがってやけどをする危険があり、悪臭と発煙がはげしい。しかし点火力が比較的弱いという欠点がある。
・この焼夷弾は落達すると同時に大音響を発して爆破し、黄燐と弾片が四方に飛ぶ。そのとき黄燐が可燃物に付着して燃え移るが、点火力が弱いため、板などには燃え移らない。また弾片によって殺傷を受ける。弾量は普通520キロ程度である。
※黄燐…白燐ともいう。常温常圧では白色ロウ状の固体である。発火点は約60℃でささいなことで自然発火するため、水中で保存する。空気中で徐々に酸化され、熱および青白い光を発する。ベンゼン、二硫化炭素などの有機溶媒によく溶ける。強い毒性を持ち、ニンニクのような臭いがある。(出典:Wikipedia

【構造図】
東京大空襲黄燐焼夷弾1

【白燐(黄燐)】
東京大空襲黄燐1

⑶ 油脂焼夷弾
・この焼夷弾は図のように下半分はテルミットで、上半分に油を充填あるいは真ん中にテルミットを入れ、そのまわりにベンジンとパラフィンとを混合した固体油を詰めたもの。
・この焼夷弾は真っ赤な炎と黒煙をあげて燃焼すること、油のために床一面に燃え広がることが特性である。
・燃焼状態は5キロ級のものでは一時にパッと発火して火炎の高さ約3メートルもあり、燃焼が盛んなのは落下後5秒から1分半の間で、5、6分で燃え終わる。10キロ級のものでは火柱となり、火炎の高さは約5メートルにも達する。燃焼が盛んなのは落下後5秒から3分の間で、約10分間で燃え終わる。
・この焼夷弾は5~20キロ級のものが多く使われる。

【構造図】
東京大空襲油脂焼夷弾1

⑷ 焼夷カード
・今次欧州大戦でイギリスが初めて使用したもの。
・約5センチ角のものと、10センチ角のものと二種類あって、厚さ約1ミリ、材料はセルロイドあるいはセルロイドの中間に生ゴムをはさんだものとがある。また発火用として雷管が1個~4個付いている。
・これは自然発火によって発火するが、湿気の多い時は相当の時日を経てから発火する。燃焼時間は15秒~10分位である。
・飛行機一機に5万枚ほど搭載することができる。
・焼夷カードの点火力はさほど大ではなく、使用目的は一時混乱を発生させることである。
⑸ モロトフのパンかご(別名:モロトフバスケット)
・ソ連(現ロシア)で考案され、使用されたもの。
・構造は長さ2メートル25センチ、中径70センチ、一見500キロ級爆弾位の容器に10キロ級焼夷弾を約60発入れたものである。
・飛行機からこの焼夷弾を投下すると、弾は尾翼によって旋回し、ある速度に達した時に弾体が自動的にふたつに開き、その中から中型焼夷弾が飛びだす仕組みになっている。小型焼夷弾は遠心力で周囲に飛散する。
・これと同じ発想で、飛行機から投下すると同時に容器が分解して、小型焼夷弾が飛散するものもある。
【出典】1943(昭和18)年 博聞堂 伊藤千代蔵 「空襲と都市」 第十二章 焼夷弾


「重光葵手記」よりモロトフバスケットについて


出典:1986(昭和61)年 中央公論社 重光葵 「重光葵手記」 戦争を後にして(巣鴨日記) 鐘漏閣



 二十五日の空襲は悲惨を極め、宮城(きゅうじょう)初め山手一帯は悉(ことごと)く火の海と化し、焼死者算なく(算無し:計算しきれない。きわめて多い)、三番町自宅は篤等好(よ)く防火に努めたが、多量のモロトフバスケット〔焼夷弾〕に直撃されて瞬時に家は火のたまと化し、漸く身廻り品を携へて、お堀端に出でしも、多量の木材に点火して此処(ここ)も危うくなり、遂に転々御堀の水に沿ひて九段を下り、清麿公像の端にて夜を撤〔徹〕し、それより浅草に至り、電車にて辛うじて日光に避難した。



焼夷弾に顔を焼かれた女性は手記の結びでこう記しています。

「こんな恐ろしい、こんな悲しい、苦しい結果をもたらす戦争といふものが、どうか起らないでくれる様に人々が真剣に祈り求めて、ふせぎ得ぬものであらうか」

戦前日本の危機は現在の日本の危機と同じでした。

「花すみれ」のように日々平和だった日本を米ソ共産党が侵略してきたのです。

大東亜戦争のみならず、すべての戦争の本質をコミンテルンの要人だったヨッフェが語っています。


戦争という「破壊と建設」で金もうけ、オマケに敗戦革命、革命後の粛清で人口削減策も実行できる


出典:1943(昭和18)年 内外書房 四王天延孝 「ユダヤ思想及運動」 第七篇 現代のユダヤ運動



 今回の大戦の原因には確かに右の要素が含まれている。

皇紀二千五百八十三年日本に渡来したソ聯(連)の要人ユダヤ人ヨッフェが国を出る前に、

 吾々(われわれ)は今は破壊ばかりやって行くが、建設をやる時には米国の資本でやるのである。

と語った事を現在想起することは誠に意義あることである。

【アドリフ・ヨッフェ】
アドリフ・ヨッフェ1


これを現在の日本に置き換えれば、

「破壊は中国、北朝鮮がやり、建設はアメリカがやる」

ということでしょうね。

これまでアメリカは思想的に敵対しているはずの共産主義国を攻撃したことはありません。

国際金融資本家にとって共産主義こそが憎むべき異人種、異教徒を搾取しつくした理想の体制であり、次々に民族主義国を攻撃、破壊して共和国を量産してきたのはほかならぬアメリカだからです。


禁止されたはずのクラスター兵器製造会社に日本の金融機関が出資


クラスター爆弾メーカー、日系含め金融機関160社が投資=NGO
2017年5月24日 Newsweek 日本版

[ロンドン 23日 トムソン・ロイター財団] - オランダの平和推進NGO「PAX」は23日、国際法で禁止されたクラスター爆弾の製造会社に対する金融機関からの投資が、最近4年間で310億ドルに達したとの報告書を公表した。

2013年6月―2017年3月の間に銀行、年金基金、保険会社など160社以上が、クラスター兵器製造会社6社に投資していたという。

クラスター爆弾は上空から投下されるか、発射装置から射出され、空中で爆発して内蔵した数百もの「子爆弾」を広範囲にまき散らす仕組み。不発となった子爆弾は除去するのが難しく、紛争終了後も長期にわたり民間人に被害を及ぼす。国連によると、シリアの内戦では北部アレッポの人口密集地でロシア軍がクラスター爆弾を使用した。(後略)



本記事の資料

赤坂大宮御所を直撃した無数の焼夷弾


出典:1987(昭和62)年 日本教文社 筧素彦
   「今上陛下と母宮貞明皇后」 皇居宮殿焼失



 この夜、赤坂の大宮御所もまた無数の焼夷弾の直撃にあって全焼、皇太后陛下は危機一髪のところでお文庫(防空室-御殿からはお庭伝いに坂を下りたところに在った)に御避難になった。あとで伺ったところによると廂(ひさし)の下にお入りになるや否や、その廂の上に焼夷弾が落下炸裂したとのことであった。皇太后さまはその後、八月二十日に信州軽井沢においでになるまでこの狭苦しい防空室の御生活をなさったのであった。




焼夷弾で大やけどを負った女性の手記

管理人の祖父は空襲後、焼け野原から焼夷弾の破片を拾ってきて鍋に加工していたそうです。まだ子供だったころ、その焼夷弾鍋が物置にありました。

この手記にある「一面無数に墜ちた焼夷弾の筒のつきさゝった道」という部分が、祖父の焼夷弾鍋のいきさつと重なります。


出典:1950(昭和25)年 文藝春秋新社 「文藝春秋 昭和二十五年十月特別号」所収 戦争犠牲者の手記

※筆者の氏名は一部伏せ字にしました。


 顔に焼夷弾を浴びて
                       ●●●弘子 
 
 眼も鼻も口も顔全体が麻痺して自分の顔ではない様な、それでいて云(い)ひ様のない苦しみせつなさの連続である。いくら見開かうとしても、ヌラヌラベタベタとしたものが、マブタをふさいで開かない。鼻は鼻口を押さへられてでもおる様に空気が思う様に吸へない。

鼻の中全体に色々な汚物がギッシリつまって居る様だ。懸命に吸はうとする空気は、わづかな間からやっと喉に入るのだった。それでも光が見え、空気も通る様に、ガーゼ丈(だけ)を乗せられた私の顔は、昨日の顔全体をグルグル巻きにされ口丈(だけ)を出してた時よりは楽になったのだ。

 昭和二十年五月二十四日の夜半、私共の住む町へB二十九の大編隊がやって来て、その一機の落して行った一個の焼夷弾は恰度(ちょうど)私の立って居た足下に炸裂し、私は此(こ)の瞬間をさかひとして、生れた時の顔ではなくなってしまったのだ。私がもう一歩前に居たら、私は即死して居た。もう少し後に居たら、私はかうまでにならなかったであらう。

炸裂した焼夷弾は私の上半身を火ダルマにした。むき出しの顔にはベタリと火がついて肉までこげてしまったのだ。瞬間ガソリンでも飲まされた様な、喉を感じた。顔の感覚は全然なかった。頭からザアザアとあびせ掛けられた幾杯かの水で火の消えた私の顔は、今までの二倍位にふくれ上り、真白なフワフワした綿みたいに見えたといふ。

火の海の中をどうして脱出したか解らない。とにかく夫の腕にすがって、何処(どこ)かの壕の中に苦しい夜明けを待った。幸ひ附近に外科の博士の知人の別宅があった為(ため)、応急の処置をして頂き、又入院の便も計って頂いて、焼残りの壕の中の荷物と一緒に、借り物のリヤカーに乗せられ、一面無数に墜ちた焼夷弾の筒のつきさゝった道を、あちこちとさけ乍(なが)ら長時間かゝって私を病院にはこび、又私の食物を得るために疲れた足でリヤカーを引っぱって、引返して行く夫だった。

その夜も又あの不気味なサイレンが鳴り響いた。もうどうでも良かった。唯(ただ)じっとして居たかった。死んでもかまはないからこのまゝで居りたいと思ったが、何も見えない病院の階段を、にはかめくらの手さぐりで壕に入れられた。一体此の先どうなるといふのだらう。夫はどうして居るだらう。此の病院は助かるであらうか、私は生きられるのだらうか、暗黒の中に私は人の事の様にボンヤリとそんな事を思ひ続けた。

その頃から吸ふ息が苦しくなり始めた。なんでもいゝから横になりたい。寝たい。私は壕の中で右に左に自分の体をもてあまして、あへいだ。解除のサイレンと共に辿(たど)り着いたベッドの上で、たまらない呼吸困難のために、のたうち廻り始めた。どうしても吸ふ息が入らない。私は胸をかきむしって苦しんだ。その折も折、軍医である院長先生が突然かへって来られ、私を診て下さった。

"これはいかん、直ぐ手術だ" と云ふ言葉をうつろにきいた。手術道具の消毒もあの場合庭で火を燃やして行ふのであったから、それからのひと時は、もう息が吸へない。もう今度こそ死ぬんだらう、と私は目前の死との戦ひであった。

私の喉にメスが突きさゝれ、ガチャガチャと気管がふさがれて其処(そこ)に管が入り思はず吸った空気のうまさ、終生忘れ得ぬ思ひであった。メスの音も、痛さも、何も感じられない。あゝ助かった、楽になった、と私は感謝で一ぱいだった。

と同時に水が飲みたい、と痛切に感じた。水を飲んでも良いですか、と云ったつもりであったけれど、声の出る筈(はず)はなかったのだ。私の焼けたゞれた口は金魚の様にパクパクと動いた丈(だけ)だった。

その夜の苦しさ、息は吸へる様になったといふものゝ、顔一面の大火傷、気管切開と、私の体力はやっとの事で持ちこたへて居たのだ。喉に入れられた管には内部からの汚物が呼吸の度にひっかゝり、管をふさぎ、胸は燃える様に熱く、苦しく、切ない。夜の明けるのがあんなにも待遠い事はなかった。

翌朝何も知らずに私の枕辺に立った夫は、"大変だったなあ"と、私の手を握りしめてくれるのだった。夫の声をきいて私は、止め度なく涙があふれた。こらへて来た思ひが一度にせきを切ってあふれ、唯々涙が流れた。

 その日から夫と共に私の戦ひが始まった。顔に乗せてあるガーゼは血とウミでベタベタとなり、それがこびり附いて、マツ毛はマブタ共々開かない。鼻の中にはギッシリ汚物がつまり、喉の管は絶えずつまって、その度に私は呼吸困難となり、ガーゼ交換は入り切れない程の患者さんの居るあの場合さうやすやすとはやって頂けなかった。

待合室にも果ては附近の家々にもゴロゴロと負傷者が寝かされているとの事だった。幾千人の人々が、私と同様な、否それ以上の苦しみの中に死に、又生きんとしているのだった。

ガーゼ交換の苦しみは全身が顔と一緒に持って行かれさうな思ひだった。瞬間息の根が止まりさうだった。私は毎日毎日此の時を待ち、且(かつ)恐れふるへた。夫だけが力だった。"良くがまんした、えらかった"と云はれる事が子供の様に嬉しく、又夫を喜ばせ様と一層がまんした。

口もきけず、目も良く見えず、私は夫の手の平に字を書いては何も彼(か)もしてもらった。私の喉の管は一時の休みなく掃除をしてもらはねば苦しくてたまらなかった。管の入ってた十数日あまり、夫は寝る事も出来ず私のベッドの側に時折ウトウトとしてはビッショリ寝汗をかくのだった。

私は流動物以外食べられなかった。それを得る事もあの空襲下、食物のない時大変な事であった。一罐の粉ミルクをどんなに大事に、小さなスプーンで飲ませてもらった事だらう。

 かうして私は一日々々癒えて行った。その間幾度か空襲され、寝たきりの私は幾度もベッドの下にフトンごと入れられ、夫と共に幾度か最後の決心をした。

五月二十四日から八月三十一日、此の間の入院生活の中にソビエットの参戦をきゝ、又終戦を迎へるのだった。喉の管が取れてから夫は出勤して居た。朝と夕とかならず、毎々毎々訪れてくれた。

"今日はもう少しで機銃にやられる所だった"とその勤め先での難を語る夫、日に日に迫り来る不安な唯中(ただなか)にあって、夜、夫のかへって行く姿を明朝に再び会へようかと私は窓からいつまでも、いつまでも見送っていた。夫が兵隊に取られたけど、即日かへされた、そのかはりに私が負傷したのだと私は考へて、夫の命とくらべたら現在の自分に、がまん出来た。此の上夫の居ない世の中は考へられなかった。我が命にかへても夫丈(だけ)は生きてほしいと、空襲の度に祈るのだった。

 歩ける様になって私は、洗面所で始めて(原文ママ)自分を見てしまった。フラフラと目がまはって、一時に頭へ血が上って行くのを感じた。立って居られない気持だった。口が半分位に左右から焼けた肉がかぶさってしまひ、眼は丁度(ちょうど)ベッカンコーと子供がした時の様に下に引っぱり下げられ、あごと喉は続いてしまってコチコチの肉のかたまりの様になってしまひ、一面真赤な、なんとも云ひ様のないその形相は私の生きる望みを失はせた。

私は小さい時から可愛らしい、とか、きれいだとか、お世辞であらうが、さうした言葉は知ってゝも、みにくい為の人々から侮蔑の視線をあびた事はなかった。私はこれから行きて行く幾十数年に自信が持てなかった。あの苦しみの中から癒えても私には、この様なみにくさが終生残ってしまふのかと、今までのがまんが悲しかった。

両股の皮をはいで移植したり、両方の口端を切り開いたり、縫ったり、眼の下の肉を切り開いてのばしたり、あの恐ろしい、痛い、幾度かの手術の結果も、この程度にしか癒えなかったのかと淋しかった。退院してからの数ヶ月私は人々の顔を見る事が恐ろしかった。

誰にも会ひ度(た)くない。語りたくない。私は部屋の隅に一日中うづくまって悲しみ続け、果ては死なうと考へた。私が生きてる事はかへって夫にも気の毒の様に考へられて、自分の存在価値が解らなかった。だまって家を出た。焼け野原を唯あてどもなく歩いた。草原に長時間しゃがんだまゝで、どの様にして死なうかと考へ続けた。けれど又思ひ直してかへって来た。

 家では夫が心配のあまり自転車で私をさがしに走りまはっている事をきかされた。程なくしてかへって来た夫は、泣き乍(なが)ら寝てしまった私の姿をのぞき込んで、何んにも云はず安心してくれるのだった。

私はどうして生れたまゝの顔で居てはいけなかったのだらう、こんな顔になってしまった人が何人あるといふのだらう、誰にも誰にも解るもんか、こんな辛い運命を終生持って生きて行く私の心が誰に解ってもらへるといふのだ……私は自分以外の人の事が考へられず、素直な心にはなれなかった。それまでの私の長い教会生活も、あまりにも大きな試煉の前に私は負かされて唯唯悲しかった。

けれど夫が自転車を買ってその後(うしろ)に私を乗せて人に見られない様にと、礼拝に連れて行ってくれる様になってから、私のかたくなゝ心も少しづゝほぐされて行った。聖書のコリント後書十二の七から十までは私に新しい信仰の炎を燃やしてくれた。牧師先生を通して、又信仰の友の変らぬあつき愛情の中に、私は感謝出来る自分を見出し始めた。

 あれから五年が過ぎて行った。その後も整形手術の為に再入院もしたけれど、時期の早さと、高度の火傷の事とて、手術はうまく行かず、夫は長い無理な生活の結果体をこはし、私の手術どころではなくなった。

今私は色めがねをかけて、口から喉へと続いてしまったケロイドを幾分なりとかくす為、夏冬マスクをかけ、喉にはガーゼをはり附けている。冬は眼が引きつれてをるので風がしみて涙と鼻が出て困る、夏はあの強い光線がたまらない、又ケロイドに陽が当って痒(かゆ)い、整形手術をしたら、少しは良くなる場所もあらうが、長い年月と、大変なお金がかゝる事だらう。

私と同じ様な、否それ以上の苦しみをして来た人、現在まだ苦しんで居る人々が数知れず居る事だらう。

 生れもつかない不具となって、それがまるでその人の罪の結果の如く、遠慮のない好奇心と、侮蔑の視線を向けられる口惜しさは、それを味はった事のない人には到底理解されるものではない。此の様な視線をはね返して強く生きて行く心のよりどころは、神を信ずる確信と、喜びだけである事を私は感ずる。

いくら同情されたとて、癒えやしない、永久に此の痛手はぬぐはれる事はない、デコボコとした喉と口のケロイドをまさぐり乍(なが)ら、私は此の不幸を忘れ去る事は出来ない。私は苦しい。だから私は世の中の苦しむ人々の心が察しられてならない。けれども夫の変らぬ愛情や人々の愛を考へる時、私は元気にならうと思ふ。

肉体の苦痛はそれが終生ともなふ者に取っては一日一日が戦ひだ。私はキリストを信ずる故に負けないだらう。十二分に自分のみにくさを知ってをるから魂の美を一層求めて止まない。其処(そこ)に私の生きる希望を持っている。

神を信ずる真実の平安と喜びを常に持って、多くの人々と愛し合ひ、残る生涯を終り度(た)い、私と同じ様に苦しむ人々のはげましとなれたら、どんなに幸ひであらう、と同時に此の世の中にこんな恐ろしい、こんな悲しい、苦しい結果をもたらす戦争といふものが、どうか起らないでくれる様に人々が真剣に祈り求めて、ふせぎ得ぬものであらうか。

 世界の人々の心が一致して平和への祈りを強くし、神の導きを祈り度(た)いと切に思ふ。

【参考】
コリント後書十二の七から十:我は我が蒙りたる黙示の鴻大(こうだい)なるによりて高ぶることの莫(なか)らんために肉体に一つの刺(とげ)を与へらる。即ち高ぶること莫らんために我を撃つサタンの使(つかひ)なり。われ之(これ)がために三度(みたび)まで之を去らしめ給(たま)はんことを主に求めたるに、言ひたまふ、『わが恩恵(めぐみ)なんぢに足れり、わが能力(ちから)は弱きうちに全うせらるればなり』然(さ)ればキリストの能力の我を庇(かば)はんために、寧(むし)ろ大いに喜びて我が微弱(よわき)を誇らん。この故に我はキリストの為に微弱恥辱(はづかしめ)・艱難(なやみ)・迫害・苦難(くるしみ)に遭(あ)ふことを喜ぶ、そは我よわき時に強ければなり。(出典:1921(大正10)年 警醒社書店 安部清蔵 「新約聖書:対註改訳」




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