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2017/02/20

朝鮮人慰安婦ケンコウトミコさん


読売新聞従軍記者の手記によると、ビルマ(現ミャンマー)のメイミョーに「健康富子」と名乗る朝鮮人慰安婦がいたそうです。

この従軍記者は同じ読売新聞社の同僚たちと陸軍将校用慰安所に指定されたカフェーに遊びに行って、健康富子さんに出会ったのですが、彼女は「平壌のカフェーにいたの」と言ったそうです。

そしてさらに「仁川から船でシンガポールに着いた」と言ったそうです。

陸軍将校用慰安所に指定されたカフェーは大繁盛で、慰安婦たちはラバウル慰安所と同じようにさかんに嬌声をあげていたそうです。

慰安所には酔いどれた軍人がいたり、若い将校は踊れない慰安婦をひっぱりだしてステップを踏んだり、けっこう楽しい職場だったようです。

従軍記者が健康富子さんがいる小ぎれいな個室に入ると、健康富子さんの方から安物の香水の臭いがする身体をそばに寄せてきたそうです。

この慰安所では慰安婦たちの「源氏名(げんじな)には必ず「健康」の二字がついていて、健康富子さんのほかにも健康良子(よしこ)さんや健康春子さんがいた」と書かれています。


源氏名(げんじな)とは:

源氏物語の帖名に擬した優美な名。始めは貴族の奥女中の間に行われ、のち、遊女が本名の外(ほか)に用いた。夕霧・薄雲・若紫の類。

【出典】1953(昭和28)年 全国書房 新村出編 「言林」


この従軍記者の手記から推測できることは、この将校用慰安所は朝鮮人経営だった可能性が高いということです。

その根拠は、


平壌は朝鮮人経営の妓楼(日本軍占領地に行けば「慰安所」)経営者が多かったこと

・源氏名に健康という二字をつけることで朝鮮半島の不衛生さをごまかそうとしている

・源氏名のセンスが悪い



という三点にあります。

さらに健康富子さんを朝鮮人慰安婦だと断定する根拠は、


平壌は朝鮮人の公娼が多かったこと

・従軍記者が「まずい顔だちではない。言葉も案外訛(なま)りが少なかった」と書いていること



の二点です。

健康富子さんは強制連行ではなく平壌のカフェーから慰安婦募集に応募してビルマに来た、もしくはカフェー経営者とともにビルマに進出してきたのでしょうね。


【メイミョー地図】
メイミョー地図1

拡大↓↓↓
メイミョー地図2【地図出典】Googleマップ


【従軍慰安婦文玉珠の証言】
釜山から船に乗ってビルマに連れて行かれ、ラングーンで慰安婦にされ、マンダレーの慰安所に行った。ラングーンの慰安所では荒れた軍人が多く殺されそうになった
従軍慰安婦文玉珠ビルマ1【出典】Wikipedia


朝日新聞が「従軍慰安婦」を捏造したのが1982年、文玉珠が従軍慰安婦だと名乗り出たのは1992年です。

このころならまだこの読売新聞の従軍記者のように実際の慰安所を知っている人が大勢生きていたし、慰安所を経営していた人もまだ生きていたでしょう。

でも日本の大メディアは朝日新聞が従軍慰安婦を捏造すると、何の疑問も提さずに朝日に追随しました。

日本政府もしかりで、朝日新聞が従軍慰安婦を捏造する前の軍関係者の手記や戦記を見れば慰安所、慰安婦に関する記述はゴマンとあったにもかかわらず、朝鮮人のニセ慰安婦に謝罪や賠償を繰り返してきたのです。


韓国国会議員会館ロビーで健康売春婦像展示会、次は国会に建設予定
バッカじゃねーのwww


中都日報(韓国語) 国会に少女像建設を
2017年2月14日

(ソウル=聯合ニュース)ホン・ヘイン記者=14日午後、ソウル汝矣島(ヨイド)国会議員会館ロビーに作家キム・チャンギ氏の少女像作品が設置されている。

正義の党チュ・ヘソン議員と党ソン平等部は来る16日まで韓日慰安婦交渉を廃棄し国会に平和の少女像を建設するための展示会を開催する。


健康良子さん、健康春子さん、健康富子さんがいっぱーいwww
韓国国会議員会館慰安婦像1



本記事の資料:従軍記者も利用できた軍人用慰安所

(  )内は管理人による注釈です。


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録大東亜戦史 ビルマ篇」所収
    読売新聞記事審査部主査 若林政夫 「イラワジ戦記」



 将校慰安所風景

 翌(あ)くる日、社の連中がうちのメイミョー支局をみると僕を引張り出して、慰安歓迎会とか称して、大いに盛宴を張ってくれた。

若さんはビルマではまだだろう」

「そうだ! 忘れていた。行こう」

 悪友たちは何かボソボソ話合っていた。

 はそういうほうは至ってカンが悪いし、それにだいぶきこし召してトラヤァのトラなので何だかわからぬままに、メイドたちのいと叮(丁)重な見送りをうけながら、ガリという馬車に乗せられた。二、三町(ちょう:距離の単位。一町は約109メートル強)も行ったと思ったら降された。

 バー、カフェー、キャバレーでもない、クラブだろう。ハアハアンと思ったが素知らぬ振りをしていた。

 これは何かのクラブのあとだろう。僕が半年もビルマを彷徨(うろ)つき歩いているうちに、もうこんなものまで出来ていた。いや、これが必要なのだろう。

「どうです、ちょっとしたものでしょう」

「ウン、本牧(ほんもく:神奈川県の地名。黒船来航のころ外国人に売春するチャブ屋があった)だネエ」

 そこは将校用の慰安所だった。

 ホールがあって、妖しげなレコードが鳴っていた。ビールはまだなかったものの、お酒はあった。女の子たちはイブニングではない、ワンピースを一着におよび、なかなか元気がよかった。

 あっち、こっちのテーブルではさかんに嬌声があがっていた。

 「コラッ! 早く女を出さんか」

 と、わめきたてている年配の大尉殿、踊れぬ女の子を無理に引張り出して、ひとりでステップを踏んで悦に入っている若い少尉、ひとかたまりになってクダをまいている連中、相当な御繁昌(ごはんじょう)だった。

 健康という名の女たち

 ホールの横手を入ると階上、階下に別れて小奇麗(こぎれい)な部屋が並んでいた。部屋のドアーの脇にそれぞれの源氏名を書いた名札が出ていた、"健康良子(けんこうよしこ)""健康春子(けんこうはるこ)"どれもこれも"健康"の二字がついていたのにはおかしくもあったが、人を食っていやがある、と腹がたった。

 僕は"健康富子(けんこうとみこ)"さんの部屋に入った。

 安もののカーテンを距(へだ)てて、左手にベッドがあって小さいテーブルと椅子が二つそのベッドの脇にあった。大きな室(へや)をいくつかに割ったのだろう、両側は真新しいチークの板壁だった。

「平壌のカフェーにいたの」

 まずい顔だちではない。言葉も案外訛(なま)りが少なかった。

「仁川(じんせん)から船でネ、昭南(しょうなん:現在のシンガポール)にあがって……」

 彼女は此処(ここ)に来るまでの、いやこれまでの苦しかったことでも急に思出したのか、首をかしげてもの憂(う)く考え込んでしまった。

「あんた、兵隊でないねエ」

「ウン、まあ兵隊みたいなものサ」

 傍(そば)に寄る彼女の身体から、すっかり忘れていたむせかえるような女臭が、安物の香水に混って、つよく僕の官能を刺激した。

「きのうも髪のながい人、来たよ(兵隊ではない人、の意)」

 どんな人と、きこうとして、僕はあわてて、口をつぐんだ。知ってもしようがないことだし、それが戦線での僕らの仁義だからだ。

 そんなことがあった翌日から僕は猛烈な発熱で、すっかり参ってしまった。別に猪(しし)を食った覚えもないのに、ビルマの関税であるデングにやられてしまったのだ。

 所詮、メイミョーは英人が安いビルマ人やインド人の労働力を使って、贅(ぜい)をこらしてつくりあげた、植民地支配者たちの憩いの場所なのだ。


朝日新聞や韓国が捏造した「慰安所」↓↓↓







補足資料:本牧について


出典:1931(昭和6)年 竹酔書房 酒井潔 「日本歓楽郷案内」



 本牧ガール

 一般には本牧ガールで通っているが、これを厳密に云(い)えば、大丸谷ガール、十二天ガール、小湊ガール、本牧ガールと四つに区別しなければならない。

 つまり四つの場所を総称して世間では本牧、本牧と呼んでいる。

 けれども、実際に各々レッキとした地名があり、距離も二三丁乃至(ないし)七八丁づつ離れているものだ。

 そのうちでも本牧は最も海に近く、前にも云った様に第一キヨとカノの両ホテルは第一流、往来から玄関まで約七八間(けん:長さの単位。主に土地・建物などに用いる。普通1間は約1.818メートル)もある堂々たる構えだ。

 第一キヨ・ホテルのお濱さんと云えば、口も達者、腕も達者、殊に千軍万馬の強物でも、まるで子供が大人にからかわれるようなありさまだから、我も我もと押かけてゆく。

 本牧の女王としてお濱さんの名は余りに有名である。彼女のことは今日までどれだけ書きつくされたか知れないが、彼女の名前は本牧のチャブ屋が存続する限り、永久にいろんな語り草として残るであろう。





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