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2017/02/13

濁流に消えたビルマの慰安婦たち


朝日新聞従軍記者の手記によると、1945年7月、ビルマ戦線において決行されたシッタン作戦では、軍人だけでなく多くの慰安婦たちも死亡したのだそうです。

慰安婦たちは「軍服、軍靴、戦闘帽という、兵隊と見分けのつかないいでたちをして」ビルマ東部の友軍区域まで軍と行動をともにしましたが、作戦最後の難関といわれた雨季のシッタン河を渡りきれず溺死したのです。

慰安婦たちが溺死した原因は身体にしっかりと巻き付けた軍票でした。軍票は彼女たちが身体を資本にして稼ぎためた収穫だったので、雨季のビルマの晴れ間を見ては湿った軍票を乾かしたりしていたそうです。


【現在のシッタン河(現ミャンマー)】
ビルマシッタン河1【写真出典】Sittaung River


生きて日本に帰って、軍票を現金に替えよう。

慰安婦たちはそれを励みにアラカンからイラワジ・デルタそしてペグー山系にと、歯を食いしばって耐えてきたのだと思います。

しかし竹で組んだイカダにしがみついて川幅二百メートル、夜目にも白く濁流が逆巻く、流速三メートルはあろうと思われるシッタン河に入ったとたん、その軍票が河の水を吸ってしまったのです。

日本軍が竹でイカダを組んだ理由は、英軍がシッタン河に浮かぶ船をぜんぶ爆撃して破壊したためでした。

英印軍の追撃によってビルマの首都ラングーンを追われてから約三カ月、英軍の銃爆撃やゲリラ、ビルマ国民軍による無差別殺戮、アメーバ赤痢やマラリアといった疫病、飢餓、自力で歩けなくなった兵が担架ごと手榴弾で自爆するダーン、ダーンという音…

そういった苦難の中にあっても肌身離さず持ち続けた軍票の、その重さに耐えられる体力はもう慰安婦たちには残っていませんでした。

イカダから指が離れたが最後、慰安婦たちは金切声をあげながら濁流にのまれ、二度と浮かび上がることはなかったそうです。


【雨季のビルマ】
インド洋の水気の一切を集めたモンスーンが、雨をビルマに叩きつける。六月に入ると北ビルマからタライをひっくり返したような雨季が始まり、まだ太陽の下にある中南ビルマの沙漠を津浪のような河水が襲う。地面はぬかるみに変り、河床道を走る自動車も河水にのみこまれ、インドウ北の鉄道等は雨季が近づくと数キロも取りはずして待機する。雨季のビルマを理解しなくてはビルマの苦悩の半ばは理解できない。
ビルマ地図ラングーンシッタン河


【シッタン作戦とは】
孤立した第28軍の敵中突破作戦でした。日本人が「鬼畜米英」と呼んだように残虐な英軍に投降することは死を意味しました。



本記事の資料:朝日新聞記者の手記(資料画像付き)

ビルマの戦いで英軍の総指揮を執ったのはヴィクトリア女王の曾孫でロシアロマノフ王室とも親戚であるマウントバッテン大将でした。

現在のエリザベス女王の夫であるエディンバラ公もマウントバッテン家の人ですね。

マウントバッテン大将1

マウントバッテン大将はシッタン河で起きた事の一切の報告を受けて驚いたそうです。

当然英軍は執拗に日本軍を狙っていたので、当時の日本軍に朝鮮女20万人の強制連行および虐殺が可能であったか、日本政府はたずねてみるといいですね。

日本軍は英軍には勝利しているのですから。


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録大東亜戦史 ビルマ篇」所収
朝日新聞社外報部 丸山静雄 「シッタン突破作戦」



 濁流に消える慰安婦

 時々河の真っ只中に悲鳴が聞える。まっ黒いものが下流に押し流されながらきれぎれに叫ぶ、

「助けてくれ。兵(つわもの)だ(兵兵団のこと)」

「もう十時間も流れてるのだ。助けてくれ」

 あそこにも、ここにも兵隊が流されてゆく。悲鳴が濁流の中に断続し、終りは泣くように細い声となって消える。

「人を見殺しにするのか」

 腸(はらわた)を裂くような悲壮な憤怒の叫びも聞える。しかし手を出すものはなかった。救いの手をさし出したかったが、誰一人どうすることもできなかった。

しぼるような叫びをききながら、ただ己(おの)れの筏(いかだ)にしがみつくより他になかった。(この時、安〔やす〕兵団は下流の川岸を占領していたが、一日約二百五十の流れる死体をみたという)

 右縦隊のある大隊は、民舟(みんしゅう)一隻を探し出し、これで渡河したため、全員無事に対岸に着いたが、哀れをとどめたのは、慰安婦と飲食店の女たちであった。彼女らは別に一ヵ班を編成していたが、いずれも軍服、軍靴、戦闘帽という、兵隊と見分けのつかないいでたちをしていた。

 アラカンから、イラワジ・デルタにさらにペグー山系にと、終始部隊と行動を共にしてきた彼女らはいま苦難の道を突破して漸くシッタン河畔にたどりついたのだ。ところが濁流に彼女らを待つものは筏であった。足は漸く地を歩いて、ここまで彼女らを運んだが手の力は二百メートルの濁流に彼女らを支えるほど強くはなかった。疲労と五体の重さに、五本の指が耐え切れず筏を離れたとき、その身体は忽(たちま)ち濁流にのまれていた。救いを求める金切声が闇の底をつんざいて流れ、こうしてほとんどすべての女が再び浮かばなかった。

 彼女らはいづれも軍票を身体にしっかり巻きつけていた。身体を資本に稼ぎためた収獲であってみれば、一寸といえども体を離すには忍びなかった。ペグーの山系では雨の晴れまをみて乾しもした。ジャングル、泥濘、濁流を、そして砲弾、ゲリラの中に持ち続けてきたものがこの軍票なのだ。ただこれ一つをハリに歩きつづけ、今一歩で最後の難関を突破しようというとき、皮肉にも、軍票の重さで流れ去ったものが少くなかったのだ。

 
 英軍の観察

 英軍はこの作戦をどのように観察していたであろうか。もちろん袋の鼠(ねずみ)となった策集団が早晩脱出するであろうことは予想していたが、雨季の真最中にこれを行うとは思いもよらなかったらしい。

 シッタン河の舟という舟を飛行機で沈め、雨季の脱出路を一度封殺したので、まさか山から竹を切り出し、筏によって押し渡ろうとは考えなかったようだ。その証拠には一切の報告を受けたマウントバッテン大将がまず驚いたという。

 終戦後土屋参謀が軍使としてペグーの英第四軍団司令部に出頭すると、チャールズ大尉が真先に

「無茶な作戦ですね」

 とあきれていた。

 四割の犠牲を出したこの作戦は人命を何よりも尊ぶ英軍からみれば、確かに無鉄砲きわまるものであったに違いない。


【資料画像】
シッタン突破作戦

シッタン突破作戦2

シッタン突破作戦3



本当にかわいそうな慰安婦たち

日本人が従軍慰安婦という捏造を絶対に許さない理由は、日本軍慰安所になど行ったことがない「朝鮮人従軍慰安婦」が実際に戦地で亡くなった慰安婦たちの死を踏みにじって私腹を肥やし、日本国の名誉をおとしめているからです。

本当にかわいそうな慰安婦たち、

フィリピンのダバオでカタギの婦女子が米軍に抱き殺されることにたまりかね、人身御供を申し出たのち米兵を道連れに手榴弾で自爆した川口さん、

トラック島の慰安所トラック荘で兵隊さんに少しでも日本情緒を楽しんでもらおうとお茶をたてていたフジ子さん

フィリピンのランタップ川で米軍に戦車砲を撃ちこまれ虐殺された慰安婦たち

米軍に引揚船を撃沈されてしまったラバウルの慰安婦たち

朝鮮の朝鮮人経営妓楼に売られていった九州の女たち

日本共産党員に「女郎」となじられていた上海の慰安婦たち

ラングーンの高級慰安所にいた慰安婦たち

そして、シッタン河の濁流にのまれていった慰安婦たち、

この人たちはまず生きて故国の土を踏むことはなかったでしょう。

唯一の希望は、空襲で焼けただれた鹿屋で桜花特攻隊員だった山本飛曹の子を身ごもった楓さんが無事生き延びて、元気な赤ちゃんを産んでくれていたらいいな、ということだけです。

本当に日本軍の慰安所に行って将兵を慰め続けた慰安婦たちは南洋やアジアの土に河に海に、誰にも忘れられたまま、眠っているのです。


【悲劇のヒロインになりすました国際的サギ組織従軍慰安婦】
従軍慰安婦サンフランシスコ1慰安婦碑または像設置を支持する決議案が採択され、喜ぶ韓国の元慰安婦=2015年9月、米カリフォルニア州サンフランシスコ市議会(中村将撮影)


慰安婦たちを虐殺したのは連合国


【慰安婦像】 「13カ国、数十万人の女性と少女が引きずられて行った」~サンフランシスコ慰安婦碑の説明文確定
2017年1月20日 yonhapnews

(ロサンゼルス=聯合ニュース)キム・ジョンウ特派員=米国サンフランシスコ中心部のスクウェア・パークに今年の年末に建つ慰安婦キリム碑のデザインに続き文章も最終確定した。

米国で「平和の少女像」建設運動を行っている加州韓米フォーラム、キム・ヒョンジョン事務局長は19日(現地時間)、「サンフランシスコ市芸術委員会傘下の視覚芸術小委員会でキリム碑とともに設置される銅版説明文を最終確定した」と明らかにした。

キリム碑銅版に彫られる文章はまず「1931年から1945年まで日本軍に韓国と中国などアジア・太平洋13カ国の女性と少女数十万人がいわゆる'慰安婦'に引きずられて行って苦痛にあった」という歴史的事実が記述される。

キリム碑にはまた「戦争過程で戦略的次元で強行された性暴行は政府が責任を負うべき人類に対する犯罪」という内容も含み、日本政府の反省と謝罪要求を暗に表わした。合わせて「私たちは第二次世界大戦中に強行された苦痛の歴史が忘れられる事が最も恐ろしい」という慰安婦ハルモニの遺言も入れた。

今回の文章は慰安婦正義連帯(CWJC)が草案を作り視覚芸術小委員会と共同作業を経て出た最終案を視覚芸術小委員会委員らが全員一致で通過させたものだ。

日本政府を後に背負った歴史修正主義者らはキリム碑の文章と関連して「コミュニティの分裂を起こす」「日系を対象にした嫌悪犯罪助長」「和解のメッセージを入れるべき」など全方向ロビーと妨害工作を広げたとキム事務局長は伝えた。

これに対抗して日系人権団体をはじめアジア歴史学教授とコミュニティ各界で慰安婦正義連帯が準備したキリム碑文章に支持の書簡を送ってきたという。
(後略)





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