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2017/02/09

ビルマの高級慰安所にいた日本人慰安婦たち


読売新聞従軍記者の手記によると、ビルマのラングーンには陸軍将校専用慰安所「粋香園(すいこうえん)」と海軍将校専用慰安所「遥地亭(ようちてい)」があったそうです。

ビルマとは現在のミャンマー、ラングーンは現在のヤンゴンのことです。

ビルマの従軍慰安婦といえば貯めに貯めこんだ郵便貯金で有名な文玉珠(ムンオクジュ)、また「ビルマの慰安婦は全員朝鮮人だった」とする米軍作成「ミッチナ文書」などがありますが、この従軍記者は

「日とともに日本の女の子が殖(ふ)えていった」

と書いています。

粋香園も遥地亭も日本からビルマに進出していった慰安所で、慰安婦たちも日本から進出していった日本人女性たちでした。


【ビルマ:ペグーの大寝仏を仰ぐ皇軍兵士】
ビルマ寝釈迦1


統制、統制の日本から外地に進出していった料亭、料理屋、芸娼妓たち

当時、陸軍将校専用慰安所だった粋香園には次のようなウワサがあったそうです。

粋香園のビルマ進出の理由は、ないない尽くしで開戦せざるを得なかった日本国内の経済事情にあった、と。


"粋香園というのはかつての軍都久留米の料理屋で、杉山元帥が久留米の師団長時代にごひいきにしていた家(うち)だった。

それが大の客筋の師団はなくなる、国内は物資枯渇で統制、統制、そこで粋香園の主が廃業のあいさつをしに元帥邸にうかがったところ、

「まあもう少し待て、俺が、いい口をさがしてやる」

ということになった。それから間もなく戦争がはじまる、直ぐ上京せよということで、お前ラングーンに行けということになったのだと。ありそうなことだ"

【杉山元】
杉山元1


日本や朝鮮の料理屋や妓楼が「慰安所」として外地に進出していった原因が経済事情にあったことは明白です。

若い日本人男性が少なくなり、物資統制が始まった日本や朝鮮で抱えている芸妓や娼妓を遊ばせているわけにはいかなかったのですから。

そして、杉山元帥の口利きでビルマに行くことになった粋香園は総勢150名という「大部隊」でラングーンに到着したそうです。

大部隊のうちわけは芸妓(慰安婦)から女中、下働き、料理番、髪結い、湿気が多いビルマでは楽器も傷むだろう、着物も汗で汚れるだろうという考えから三味線屋、鳴り物屋、仕立屋に洗張り屋、そして性病専門の医者までいたそうです。

洗張り(あらいばり)というのは、汚れた着物をほどいて洗い、また仕立て直すことです。

うちの明治生まれの祖母はふだん着は自分で洗張りして、傷んだ後ろ身頃と前身頃を入れ換えて仕立て直したりしていましたが、粋香園の芸妓(慰安婦)たちの着物は明石ちぢみや絽ちりめんといった高級な着物だったので、洗張り屋も同行したのですね。

【洗張り職人】
洗い張り1【出典】Wikipedia


夕暮れになると粋香園からは芸妓たちが三味線の音を合わせる音(ね)じめや歌が聞こえてきたそうです。

長い間外地にいる日本軍人が慰安所に求めたものは日本女性の香りや「日本情緒」だったのです。

慰安所といってもこういう将校専用の高級慰安所から現地人相手までやる「お安い」慰安所まであったのですから、朝鮮人女性が働いていたのは、この「お安い」または「モグリ」の慰安所だったのでしょう。


朝鮮人女性にどれほどの価値があったと思っているのか?バ韓国


駐韓大使復帰しない場合は駐日大使も帰国を=韓国最大野党
2017年2月7日 聯合ニュース(YAHOO!JAPAN ニュース)

【ソウル聯合ニュース】韓国の最大野党「共に民主党」の禹相虎(ウ・サンホ)院内代表は7日の院内対策会議で、「駐韓日本大使が韓国を離れてから1か月になるが、安倍晋三首相は少女像を撤去するまで帰さないという」として、「韓国を友好国に考えているかどうかが分からない。韓国のプライドを踏みにじる発言をしていることに憤りを感じる」と批判した。

 その上で、「もし一定期間まで大使が復帰しない場合はわれわれの(駐日韓国)大使も帰国させよう。外交部長官がこの問題を検討することを要請する」と表明。「安倍首相のこのような非外交的な態度に我慢してはならない。1か月も我慢したらたくさんだ」と指摘した。

 日本政府は釜山の日本総領事館前に旧日本軍の慰安婦被害者を象徴する少女像が設置されたことへの対応措置として1月9日、長嶺安政・駐韓大使を一時帰国させた。長嶺氏はまだ帰任しておらず、復帰のめども立っていない。



本記事の資料:「慰安所は女郎屋」
読売新聞従軍記者は見た!ビルマの陸海軍将校専用慰安所

「星の旦那たち」とは帝国陸軍を、「錨(いかり)の旦那たち」とは帝国海軍のことを指した言葉です。

この手記のおちょくった口調により、当時の慰安所がどんなふうに見られていたかがわかります。

※(  )内管理人による注釈です。

出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録大東亜戦史 ビルマ篇」所収
読売新聞記事審査部主査 若林政夫 「ラングーンに傲(おご)るもの」



 星の旦那たち

 三カ月ぶりでラングーンに帰った僕はその復興ぶりにまず驚いたが、同時にラングーンが印度(インド)人の街であり、ビルマ人の街でないことを発見して二度驚いた。

 印度人の生活力の旺盛さは華僑を凌(しの)ぐくらいだ。ラングーンの目抜(めぬき)通りを歩くと、めぼしい商店や気の利いた飲食店はどれもこれも印度人か、中国人経営、ビルマ人経営なんか一軒もなかった。

 三度びっくりしたことは陸海競って専用料亭を持ち、日とともに日本の女の子が殖(ふ)え、いやな言葉だがいわゆる慰安所という、お女郎屋が雨後の筍(たけのこ)のようにニョキニョキ出来てゆくことだった。

 そのお職(おしょく:同職の中でかしら立った人)は、なんといっても陸軍の星の旦那方が御専用の粋香園(すいこうえん)に止(とど)めをさす。

 こいつがラングーンに進出したことについてはこんなことが、まことしやかにいわれていた。

 粋香園というのはかっての軍都久留米の料理屋で、例の割腹自殺をした杉山元帥が久留米の師団長時代にごひいきにしていた家(うち)だとかで、大の客筋の師団はなくなる。統制統制でにっちもさっちもゆかなくなって、廃業の御挨拶におやじが元帥邸に伺候(しこう:参上して御機嫌をうかがうこと)したところまあもう少し待て、俺が、いい口をさがしてやるということになった。それから間もなく戦争がはじまる、直ぐ上京せよということで、お前ラングーンに行けということになったのだと。ありそうなことだ。

 それはともかくとして、ラングーン一流のクラブをいただいて、そこに陣取ったこの一隊は総勢百五十名になんなんとする大部隊で、芸妓(げいしゃ)、雛妓(はんぎょく)はもとより女中、下働き、料理番。これまではわかるがあとが凄い。髪結いさんに三味線屋、鳴物屋(なりものや)、仕立屋に洗張屋(あらいばりや)にお医者さんまで、これが婦人科兼泌尿科であることはもちろんのことだ。それに青畳、座布団、屏風、障子、会席膳一式まで海路はるばる監視哨つきの御用船で、つつがなくラングーンに御着到になったのだ。

 湿気の多いビルマでは三味線も太鼓も鼓(つづみ)も、こわれやすいし、御相手がお相手で、相当の破損を覚悟してのことと、暑いビルマではおべべも、汗まみれになるというので仕立屋さんや、洗張屋さんの配属となったもの。それでも輜重(しちょう:「輜」は衣類をのせる車、「重」は荷をのせる車の意。旅行者の荷物)行李から、衛生隊まで引(ひき)つれての進撃ぶりは大したものだ。それだけに、お値段も滅法おたかく相手にもしてくれなかったが、何もかも留守宅送金の僕ら軍属どもには無用の長物、高嶺の花だった。

 灯ともしごろともなれば、青、赤、黄の小旗のついたトヨダさんが門前に並んで、椰子の樹蔭(こかげ)から粋な音じめ(ねじめ:三味線などの弦を巻き締めて、適正な調子に合わせること。また、その結果の美しく冴さえた音色)がもれて来るという始末で、チークの床に青畳を敷きつめた宴会場では明石(明石縮〔あかしちぢみ〕のこと。経たてに生糸、緯よこに撚よりの強い練り糸を用いた縮織物。さらさらした高級な薄物着物地で、近世初頭以来、明石・京都西陣などで、明治中期から第二次大戦前まで新潟県十日町地方で産した)か絽縮緬(ろちりめん:織目に絽のような透き間のある縮緬)の単衣(ひとえ)かなにかをお召しになった久留米芸妓のお座付(おざつき:芸妓が宴席に招かれて最初に三味線をひいて歌うこと。また、その歌)からはじまってあとは、例によって例の放歌乱舞が日毎夜毎の盛宴に明け暮れていた。

 S奴(やっこ)姐(ねえ)さんは×参謀、M丸さんはY隊という具合で、僕ら軍属や、民間人はとても姐さん方に拝謁を得るのは難事中の難事だった。

(中略)

 錨(いかり)の旦那たち

 海軍の錨旦那方はバンドの川っぺりにこれは基隆(キールン)仕立の遥地亭という、いとも小じんまりしたやつを、御設営になって、しんみりとチンカモ(男女が仲むつまじくしているさま)でやっていた。

 大衆的なのは白木屋が陥落と同時に開いた食堂だ。ここにはあの僕らを苦しめた印度支那山脈を、自動車路の完成と同時にいちばん乗りして来た女性としての山越え第一号のM子さんがいた。

 若い将校どもは肉感的な彼女に、われこそは、われこそはと名乗りをあげていた。

(中略)

 僕らが帰(か)えるころからますますさかんになって行った、こうした方面の女性が、あの敗走時、どういう運命におかれただろうか、それを考えるとぞっとする。




【写真出典】
アジア歴史資料センター:レファレンスコード:A06031080900:昭和17年4月1日 内閣情報局 「写真週報」 214号


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