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2017/01/13

米軍によるフィリピンの日本人慰安婦虐殺|ランタップの悲劇


ランタップの悲劇とは1945(昭和20)年6月9日、フィリピンのランタップ川で日本人婦女子および敗残兵が米軍に無差別虐殺された事件です。

戦時中、フィリピンの第十四軍に従軍した毎日新聞記者の手記によると、米軍反攻によりマニラからバヨンボン郊外に疎開していた日本人婦女子は日本内地から来た慰安婦と老婆、赤ん坊まで含めて約3000名いたそうです。

「日本内地から来た慰安婦」ですから、朝鮮人ではなく、日本人です。

この日本人婦女子と日本軍の敗残兵がランタップ川まで追いつめられたあげく、米軍に銃爆撃と戦車砲のシャワーを浴びせられ、虐殺されました。

この虐殺は「悲惨を極めた比島敗走の歴史の中でも、ひときわむごたらしく目を覆う悲惨の極といわれるランタップの悲劇」といわれたそうです。


フィリピン地図


日本人婦女子はバヨンボン郊外の部落で土まみれで稲作をし、収穫した米はすべてバレテ峠で米軍と戦う日本軍に送った。1945(昭和20)年6月1日、バレテ峠が米軍に突破されると、在留日本人たちは台湾高雄へ渡ろうとカサンバランガンまで避難した。しかし、米軍の日本艦船無差別攻撃によってその希望も打ち砕かれた。そして来た道を引き返し、ランタップ川で米軍に虐殺された。

フィリピン地図



虐殺された日本人婦女子のうち、戦前からフィリピンに移民していた者はふたたびマニラに帰る日を夢見、日本内地から来た事務員や慰安婦たちは日本に帰れる日を夢見ていました。

そして彼女たちは日本本土の物資枯渇に加えて米軍に補給を断たれたため、フィリピンで自給自足の生活を送っていました。

安倍総理のフィリピン訪問を受けて、現地の従軍慰安婦らがマニラの日本大使館前で抗議活動をしたそうですが、日本軍には朝鮮人女性20万人を強制連行して、さらにフィリピン女性を強制連行できるほどの潤沢な物資も人員も、その必要もありませんでした。

なぜなら、

日本から来た慰安婦たちですら召集や徴用で男子が一人もいない部落で生活していましたし、

フィリピンはアメリカ統治時代にマニラの公娼制を廃止したことが原因で、現地では性病が大流行していたからです。

第十四軍には朝日新聞、読売新聞の記者も従軍していたそうです。

戦時中リアル慰安婦を見ていた新聞社が、戦後は日本人慰安婦の真実は隠ぺいして「従軍慰安婦」を捏造し、その捏造に他の新聞社も追随したのです。

まったく、日本のマスコミの人間性とインテリジェンスを疑いますね。


【フィリピン戦没者の引揚げ-1949(昭和24)年1月:佐世保】
火葬後の骨拾い。たった一人で骨を拾う。
比島戦没者の引揚げ2


同じく佐世保。1949(昭和24)年1月。
比島戦没者の引揚げ


【マニラホテルよりマニラ湾を望む】
前方海中の黒点は、自沈、撃沈の日本艦船。背景にコレヒドール島が見える。
(昆吉郎氏撮影)
マニラホテルマニラ湾日本艦船


わずか3年間だった日本のフィリピン防衛年表

日本軍がフィリピンに進軍した理由は白人をアジアから追放することと南方からの補給路を守るためでした。

年 月 日戦     況
1942(昭和17)年
1月2日
第14軍、マニラを占領

8月7日
米軍、ガダルカナル島・ツラギ島等で反攻開始
1943(昭和18)年
10月14日
フィリピン、アメリカより独立(フィリピン共和国成立。
ホセ・P・ラウエル、初代大統領に就任)
日本国・フィリピン国間同盟条約、マニラで調印

11月5日、6日
日本政府、東京で大東亜会議開催
(日本、中華民国(汪)、タイ、満洲、フィリピン、
ビルマの各国代表出席、自由インド仮政府代表陪席)
大東亜会議事務局「大東亜共同宣言」発表(6日)
1944(昭和19)年
9月22日
フィリピン共和国、戒厳令を施行し米英に宣戦

10月25日
神風特別攻撃隊(敷島隊)、レイテ島付近で米艦を攻撃
1945(昭和20)年
1月9日
連合軍、リンガエン湾に上陸開始。陸軍海上挺進部隊、
同湾で米船団を攻撃

3月3日
米軍、マニラを占領
【出典】1997(平成9)年 展転社 名越二荒之助 「世界から見た大東亜戦争」


日本の補給路を中共さまに進呈し、脱原発で日本の防衛力壊滅を謀る

旧民主党枝野氏
「石油の輸入が8割止まっても危機的状況ではない、人命に関わる問題ではないから武力攻撃を受けたとは言えない。集団的自衛権の範疇外」

枝野寝ろ1

自民党野田聖子氏
「南シナ海で中国が進める岩礁埋め立てなどは直接日本と関係ない」

野田聖子1


戦前日本の窮状を知ればニセ慰安婦の異常さがよくわかる


安倍首相のフィリピン訪問にあわせ「元慰安婦」らが抗議集会
2017年1月12日 TBS (YAHOO! ニュース)

 安倍総理大臣のフィリピン訪問に合わせ、「旧日本軍の慰安婦にされた」と主張する女性らが、首都マニラで抗議集会を開きました。

 マニラの日本大使館前には、12日、「太平洋戦争中に旧日本軍の慰安婦にされた」と主張する4人の女性と支援者らおよそ50人が集まりました。支援団体には、一時、元慰安婦とされる女性174人が登録されていましたが、高齢化が進み、現在は70人にまで減っているということです。

 この団体は、これまで、日本政府からの公式な謝罪と補償にむけての協議を進めるよう求めてきましたが、フィリピンの政権がこの問題を公に取り上げることは少なく、アキノ前大統領は「日本は義務を果たし終えている」との立場を示していました。ドゥテルテ大統領も公式謝罪や補償を求めない方針を明らかにしていて、今回の首脳会談でも議題となる可能性は低いとみられます。




本記事の資料:毎日新聞従軍記者の手記

(  )内は管理人による注釈です。

慰安婦に関する記述は後半の「婦女子の部落」と「土にまみれて」、ランタップ川の虐殺は最後の「ランタップ川の悲劇」をごらんください。


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録大東亜戦史 比島編」所収
 毎日新聞学芸部副部長 村松 喬 「第四航空軍マニラ放棄」



 敗戦の中には幾多の暗黒の挿話がある。富永中将と幕僚の戦場離脱もその一つであった。歴史が彼らを裁くであろう。ここにはその現場を目撃した筆者の一解釈が物語られている。

 移動命令

 二十年の正月早々、米大機動部隊がミンドロ島サンホセを進発して、南支那海を、ルソン島西岸沿いに北上中という情報が入った。全比島の神経はこの機動部隊の動きに集中した。

 まず第一に予想されたことは、機動部隊のマニラ湾強行突入かもしれぬ、という判断であった。ところが、その動きを見守っていると、機動部隊はマニラ湾を横目に見て、黙々と北上した。この機動部隊は大輸送船団を伴っていることが発見された。
 
 いよいよどこかに上陸する公算大と見なければならなかったが、機動部隊の船足遅々たるもので、発見されてから、二日たってもその指向するところが、どの地点であるか、明瞭には把握出来なかった。マニラ湾口を通りすぎたことで、リンガエン上陸が予想されたが、或(ある)いは、南支那海制圧の意図かもしれないとも観測されたりした。

 四航軍はレイテ作戦当時から、毎日午前十一時と午后(後)四時の二回、航空軍担当の新聞記者と、定例会見を行っていた。

 一月七日のことである。午前十一時の会見はいつもの通り行われ、敵機動部隊は、リンガエン湾に集結中という情報が知らされた。

 午后四時の会見に、各社の記者が集まると、情報参謀から、次のような意味の発表があった。

 まず第一に、第四航空軍は一月七日付をもって南方総軍の直轄部隊から離れ、第十四方面軍の指揮下に入ることとなった。つまり十四方面軍の隷下部隊となった。

 次に山下大将から富永中将への命令によって、四航軍は即日、司令部を北部ルソンのエチャゲ(エチアゲ)に移動することとなった。

 この発表をする情報参謀は口惜(くや)しそうな顔をした。今まで肩を並べていた十四方面軍の指揮を受けなければならなくなったことと、そのために、今まで頑張っていたマニラ死守の軍の方針が、一ペンに変更させられて北部ルソン落ちとなったのだから、一応口惜しいのも当然と思われた。

 そうして、新聞記者には、四航軍について行動を共にする者はしてもらいたい。各社の都合で四航軍と一緒に動けない者はそれでも差支(さしつか)えない。という申渡しがあった。四航軍としては、今まで航空軍の仕事をしていた記者には、東京出張の日日(にちにち)命令を出すということであった。

 軍司令部は、午后七時に現在地を出発するから、行動を共にしたい者はそれまでに、改めて集合して貰いたいというのであった。

 四時の会見は従来と変りない普通のものだと思って集った各社の記者はあわてた。みんな四航軍と行動を共にするつもりでいたので、最後までマニラに残る覚悟をきめていた。従って移動の準備など全くない、三時間足らずの間に、宿舎へ帰り、荷物をまとめて準備をし、改めてまた司令部まで集合しなくてはならない。各社の記者は浮足立って散っていった。

 四航軍へ出入(ではいり)していた記者は、その氏名を司令部へ登録していたが、それぞれ各新聞社の特派員であって、四航軍の報道班員ではなかった。衣食住はその他の給与一切、四航軍の世話にはなっていなかった。

 午后七時に、朝日、毎日、読売、同盟、その他の記者、写真班が司令部に集合した。軍司令部は厳重な燈火管制の下に、まだ移動準備で蜂の巣をつついたような騒ぎを見せていた。このことは、移動が真実急で、寝耳に水だったことを物語っていた。午前十一時の会見の時はいつもの通りだったから、山下大将の命令が七日の午后、しかも四時前に、四航軍に伝えられたことは確実である。

(中略)

 バレテ峠を越えて

 朝日新聞と毎日新聞はこの時一台の乗用車に同乗していた。彼らは八日早朝から単車でつっ走った。ビール工場で有名なサン・ミゲールに午前十時ころついた。ここには満洲から移駐して来た戦車第二師団「撃(げき)」部隊に十四軍の報道部から派遣された報道班員がいた。

 戦車第二師団は当時日本の虎の子の機械化部隊で、米地上軍との決戦に備えて中部ルソンに陣取っていたのだった。彼らは戦車戦の展開を期待していたが、戦車戦の前に、わが戦車はグラマンの銃爆撃で大半撃滅され、対戦車戦の場合は、米軍のM4型戦車に完全に制圧された。わが戦車砲弾は、敵戦車に命中してもハネ返された。敵戦車砲弾は、わが戦車を貫通するという、比較にならない有様であった。

 毎日、朝日の一行は、正午カバナッツァン、夕刻にはバレテ峠にさしかかる山の下の町をサン・ホセについた。四航軍の梯団からかけ離れて一台、先走っていた。そのために、彼らはかえってグラマンの空襲を受けることなく、日中の街道を疾走することが出来たのだった。

 サン・ホセには北部ルソンへ疎開するマニラからの在留邦人が充満していた。在留邦人はマニラを出て、ここサン・ホセにしばらくいて、便を得てバレテ峠の彼方、バヨンボンに移動しつつあるのだった。

(中略)

 望み絶たれた烏合(うごう)の軍隊

 数時間後になってまた台湾から無電が入った。それは、出航した三隻の駆逐艦は高雄沖でグラマンの空襲に逢い一隻は沈没、一隻は大破、一隻は行方不明となった、というのだった。これは、バシー海峡をはさんでの海上連絡が、不可能になったことを意味した。夜間飛行でも、高雄とカサンバランガンの往復は、どこかで朝を迎え、昼間航行をしなければならないので、これも出来ないことだった。

 カサンバランガンに集まった航空部隊の落胆は見るも無惨であった。希望の虹はかき消えたか。

 ついで、駆逐艦が不可能であるから潜水艦輸送を試みる、という無電が入った。台湾乃至(ないし)は日本内地においても本土決戦をひかえて、パイロットを出来るだけ多く保有する必要に駆られていた。比島で翼を失ったパイロットを救出出来れば、それは直ちに使用可能の戦力となるので、台湾、内地も、その救出には懸命の努力を払ったのである。しかし事態はすべてが悪く回転した。どのような理由かは示されなかったが、潜水艦も回航させられぬ、といって来た。当時バシー海峡は完全に米機の制圧下にあり、潜水艦も安全ではなかったのである。


米軍による日本船舶撃沈図☞米軍による日本船舶撃沈図



台湾近辺艦船撃沈図☞米軍による台湾近辺艦船撃沈図


 
 最後に残されたただ一つの望みの綱があった。それは、機帆船である。機帆船で夜間航行をして、バシー海峡の島伝いに、日中は島かげにかくれて、台湾に渡るという方法である。が、これも絶対不可能なことが、目の前で証明された。

機帆船1☞機帆船図。主に国内での石炭輸送などに使用された小型の船。


 
 或(あ)る朝、一隻の機帆船が、カサンバランガンの東端の岬のかげに入港して来た。人々は焼きつくような視線をこの機帆船に注いだ。二百トン足らずの船が、巨大な輸送船でもあるかのように頼母(たのも)しく見えた。ところが、停泊するや否や、どこからともなく現れたグラマンの数機の編隊が、忽(たちま)ち機帆船目がけて襲いかかり、銃撃を加えはじめた。

 一機が低空で銃撃して飛び去るとまた次、というように旋回しながら、輪になって、機帆船を攻撃した。それは丁度(ちょうど)飛行機が手頃なオモチャを見つけて遊んでいるように見えた。機帆船からパラパラと人影が海中に飛び込むのが遠望された。そのうちに船は火を吹いた。飛行機はそれを見とどけると、編隊を組んで飛び去った。

 それで、すべてが終った。望みの綱は、断ち切れた。台湾への脱出は全く不可能になった。カサンバランガンでの数日の体験は、甘い希望を打ちくだいてしまった。現実のきびしさは予想以上だったのだ。

 そうなると、カサンバランガンという土地は、何の魅力も意味もなくなった。小さな所に、押し合(あい)へし合(あい)していては、食物が第一不自由になる。脱出出来ないとなれば、早くほかの適当な所に移動して、優先権を確保した方が有利である。カサンバランガンに密集した部隊は、潮が引くように、この土地を離れはじめた。ルソン島の最北端から、再びもと来た道を引き返して、何処(どこ)ともあてもなく南下する部隊が増えた。

(中略)

 婦女子の部落

 バヨンボンという町は、南はバレテ峠、北はオリオン峠を扼(やく)した、南北五十キロ、東西六、七キロの細長い盆地の中心地である。ここは五号国道上に北部ルソンでは、ツゲガラオと共に大きな重要な町である。

 マニラから疎開した在留邦人の婦女子は、一月下旬までに大体、バヨンボンの街はずれ、ボンファル部落に集合した。その数は約三千名。マニラの総領事館員が在留邦人の世話に当り、木原総領事が元締めであった。邦人婦女子は、ボンファルを中心に、高千穂村、旭(あさひ)村、大和(やまと)村などという当時の日本のハヤリの言葉だった名前を付けた村を五つ作って、それぞれ自活体制を作り、自活の道を講じることになっていた。

 邦人婦女子の構成分子は、戦前からマニラにいたものと、戦争以来マニラに来たいろいろな商社の女事務員と、それに軍関係の料理屋慰安所の女たちを加えたものだった。

 ボンハル部落の民家では、五六人ずつで一軒を占領して住(すま)いにした。トウモロコシを植え、サツマイモを植え、自活の道を講ずることが急務であった。

 もう一つ、邦人村の住民たちの仕事は、その地区で軍が収売した米を、精白する、ことだった。そのために、各単位毎に当番が出て、米つきをする。米つき当番でないものは、畑作りをする。そうして精白された米はトラックや水牛の背に積まれて、バレテ峠を守る前線部隊に送り出し、住民の口には一粒の米も入らないのである。

 部落の住民は全部女である。男はすべて軍に召集されるか、徴用されていた。昔からマニラにいた者は、雑貨屋のおかみさんだとか、食堂の経営者だとか、床屋のかみさんだとか、種々雑多な商売の人たちで、彼女たちが一生かかって築き上げて来た財産のすべてをマニラに残して来た人たちだった。

(中略)

 土にまみれて

 一方、戦争のために内地から新しく比島へ来た商社の女事務員や、慰安婦たちは、マニラに対する強い未練はない。内地へ無事に帰れる日の来ることが願いである。ことに料理屋の女たちや慰安婦たちは、自堕落な生活をつづけて、堅気(かたぎ)の女たちから白い目で見られ、お互いに反発し合った。

(中略)

 米軍がバレテ峠で、日本軍の陣地に撃ち込む長距離砲の音が、ドロドロドロと、遠雷のように聞えてくる。風向きによって、その音が、遠く聞えたり、近く聞えたりする。邦人婦女子たちは砲声を聞きながら、米をつき、畑を作った。

 労働がつづく。すると、女たちは、身なりに構わなくなった。第一、女の美しさを認めてくれる男性の存在がここではまるでないのだから、それも是非ないことである。髪はボサボサ、顔もロクに洗わないような女たちが、泥や、籾糟(もみかす)にまみれて、ハダシで働いている姿は、みじめでもあったし、情(なさけ)なくもある風景であった。

(中略)

 バレテ宣戦遂に崩(くず)る

 バヨンボンには部隊も入っていた。一月末には、そのため、バヨンボンの街に、B24の大爆撃があった。この爆撃で、街の比島人(フィリピン人)は挙(こぞ)って街の外へ逃れ出た。バヨンボンの東には、バレテ峠を源としてカガヤン川に合流する大きな川が流れていた。西側は二キロほどの幅で、山の下まで見渡すかぎりの水田であった。水田は刈り取られたあとで干上がっていた。街の比島人はこの水田に出て、またたく内に小屋を建てて住んだ。日本人とは絶縁した地域を作り、そこが比島人部落であることを、米機に確認させ爆撃の難をのがれた。

 米機も、しかし、ボンハルの邦人の部落は爆撃しなかった。例によって、二三十米(メートル)の低空で部落の上空を飛翔することはあっても、銃撃も、爆撃も加えなかった。そこが、非戦闘員の婦女子の避難地であることを確認している模様であった。

 邦人婦女子は米つき作業をしても、その米を食うことは出来ない。何を食っていたかといえば、やはり米である。彼女たちは、米を比島人から買って食った。衣料品との物々交換である。このころは、日本軍の軍票ペソは、全然反古になって、百ペソも一センタヴォ(フィリピンの補助通貨。現在は1ペソの100分の1が1センタヴォ)の値打もなかった。物を買う手段は物々交換だけである。

 比島人も、ボンハルだけは、米機が銃爆撃しないことを知っていて、邦人相手に商売にやって来た。シャツ一枚が米一ガンタ(約一升)という相場であった。女たちは、わが身をはいで食いつないでいったわけである。

 トウモロコシやサツマイモを作ってはいるが、一瞬にして出来るものではない。この南の国でも、種を下(おろ)して収獲するまでには、やはり半年はかかるのである。その間、食いつないでゆくことは容易な業(わざ)ではない。

 そうして作っている自活食糧であったが、その汗の結晶が実って、彼女たちの口に入るかどうかは、一にかかってバレテ峠の戦況によるのである。一たんバレテ峠が破れれば、バヨンボンまでは一瀉千里(いっしゃせんり:一たび流れ出ると一気に千里も流れ去る水の勢いの意。物事が速やかにはかどり進むこと)、何の妨害物もない平坦な道で、一挙に攻め入られることは明らかであった。

 そして、事実ボンハルの、邦人婦女子たちは、畑の作物が漸く収獲期に入るという直前にすべてを放棄して、ボンハルから、退避しなければならないことになったのだった。

 六月一日には、バレテ峠は、約半年の抵抗が終って米軍に突破された。日本軍は一月の半ばから、この百キロの峠で、米軍と対峙(たいじ:向き合って立つこと)し、猛烈な砲爆撃に堪(た)えて、戦った。だが、一つの陣地を取られ、一つの峰を取られして、ジリジリと確実に押されていった。

 バレテの運命は直ちに全北部ルソンの運命とつながるので、十四方面軍は出来るだけの力をここに投入したのだった。そのために、北部ルソンに散っている各部隊が、つぎつぎと再編成されて、南下してバレテの戦線についた。五号国道を、夜になると、兵隊の群れが、半ば放心したような状態で南下していった。その姿は、これから戦線に向う兵隊だとはどうしても思えなかった。敗残の軍隊が力つきて行軍してゆく姿である。彼らがすでに敗残兵であることは間違いのない事実だった。つまりは敗残兵のよせ集めが、再び戦線に投入されるのだから、敗残の上塗りに出かけてゆくようなもので、どこを押してみても、勇ましい気合は出て来ないのである。

 同じ道を、米を背にした水牛の群(むれ)が南下してゆく。バレテに送られる米である。兵隊が水牛の口をとって歩いてゆく。

 バレテ峠の彼方では、米軍が、トラック、ブルドーザー、飛行機、すべての近代武器と輸送機関、作業機関を駆使して、豊富な食糧と豊富な人員を擁して戦っている時、その相手をしている日本軍は、まるで源平時代の戦闘様式輸送様式で戦っているのだった。

(中略)

 バヨンボン陥(お)つ

 三日には米軍はサンタフェに殺到し決河(けっか)の勢いでバヨンボン盆地に突入して来た。一たん峠を破ったあとは、何の抵抗もなくアリタオを通過し、六日にはバンバンの線に達した。米軍の戦法はまず爆撃し、砲撃し、ついで戦車が進んで来る。そのあとに歩兵がつづくのだった。夜になると、戦車が前方に向って猛射撃を加え、昼間進出した線から、僅かに後退して夜の宿営をするのだった。

 米軍は一瀉千里の進撃をつづけた。六月八日にはバヨンボンを占領し、つづいて九日にはバガバッグまで進出した。

 バヨンボン郊外のボンファル部落の邦人村は、米軍の進撃を前にして、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。米軍がバヨンボン盆地に入って来たという情報が入ってくる頃には、もう間近に迫っているという有様である。邦人たちは、爆撃と戦車砲の砲撃の音で、米軍の進撃状況を判断するだけであった。

 迫って来る危険に際して、どう処置すべきか。逃げ出すといっても、半年近く暮したところから、身一つで逃げだすわけにはゆかない。ボンハルを出て、あとどれだけ苦難の道がつづくかもわからない。

 食糧や鍋や釜など、身につけられる物、持てる物のすべてをたずさえて邦人婦女子は、次々と村を出て、日本軍の最後の拠点たるキャンガンを目指して北上した。六十歳を越した老婆から、乳呑児(ちのみご)までの、雑然たる部隊は、部隊としての行動は取れない。一日に二キロしか歩けない病める老婆もあった。街道の上は、ひっきりなしに米軍機が飛び交って、歩けない。道から離れた萱原(かやはら)の中を、あるくのである。

 最後までボンハルに残った人々が、村を離脱したのは、米軍の進入と同時であった。

 ランタップ川の悲劇

 しかし、事態は最悪の方向へ進んでいった。明るくなって、米機が活動を始める時間が来た時、すべてが一瞬のうちに決定した。米機は、予定の通り日常の活動を開始した。

 米機はランタップ川の岸に、蟻(あり)のように黒く密集している日本軍を発見した。異常な数の飛行機がランタップの上空に集合して来て、猛烈な銃爆撃を開始した。橋は見る間に落された。

 川岸に密集していた人と車の群は恐怖のどん底にたたきこまれた。大混乱が現出した。バタバタと倒れてゆく。その中を叫び声をあげて走る者もいるが、走ったとて、身をかくす遮蔽物は何一つないのだ。泳いで川を渡ろうとする者が続出した。しかし、前日の雨で水かさを増している流れは、思ったよりもはげしく、大半が水に流されてしまった。

 一方、後方から戦車が現れた。ランタップ川は修羅地獄と化した。逃げまどう人の群の中に、戦車砲が撃ちこまれた。銃爆撃と戦車砲のシャワーであった。それを防ぎ、抵抗する手段も方法もないあわれな兵隊と在留邦人たちは、彼らの肉や骨に敵の弾をうけて死んでいくよりほかに、この場面に対処する方法はなかった。人間の経験し得る最も悲惨な状態がランタップの川岸に現出した。

 恐怖におびえた脚はすくんでしまって、逃げることも出来ず、地べたをはい廻(まわ)りながら結局死んでいった。無数の命が、巨大な足にふみにじられる虫ケラのように、何の価値もなく消えていった。悲惨を極めた比島敗走の歴史の中でも、ひときわむごたらしく目を覆う悲惨の極といわれるランタップの悲劇は、こうして起ったのだった。この場所で生き残った者は、ほんの数えるほどしかいない。




【写真出典】
・1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録大東亜戦史 比島編」
・1995(平成7)年 毎日新聞社 「毎日ムック 戦後50年」



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