HOME > 従軍慰安婦 > title - トラック島の慰安婦と発狂するバ韓国
2017/01/07

トラック島の慰安婦と発狂するバ韓国


釜山の慰安婦像設置に対抗するため、日本政府が駐韓日本大使を一時帰国させ、日韓通貨スワップ交渉も中断とかで韓国が発狂していますね。

そもそも慰安婦の大半は日本人女性で、日本軍人が望んだのも日本人慰安婦でした。

予科練出身の元海軍中尉がその手記の中でトラック島の慰安婦について記していますが、元海軍中尉は「フジ子」と名乗る慰安婦のうなじやおくれ毛を見て、故郷の母親を懐かしく思い出しています。

元海軍中尉は外泊の許可が出たので寄港したトラック諸島の「トラック荘」という慰安所に行ったのですが、慰安所ではゆかた姿の仲居に部屋まで案内されます。

案内された部屋は十二畳という広さで、慰安所のサービスで海軍中尉らにもゆかたが提供されます。

そして料理ができるまでの間、フジ子という慰安婦が薄茶を立てて海軍中尉らをもてなします。

これが実際の慰安所であって、

韓国が主張する、

日本軍の基地や駐屯地の敷地内にある板敷きの「慰安所」で、強制連行されて来た朝鮮人女性たちが日夜日本軍人から虐待された

というのは完全な捏造です。

日本の軍人たちは、慰安婦に内地に残してきた母や妻や恋人の面影を求めていました。

朝鮮人女性の需要はきわめて少なかったのです。


【トラック島春島の海岸】
トラック島1

【トラック尋常小学校】
在留日本人児童を教育するために設置された。
トラック島2

【トラック公園の高松宮殿下御成記念塔】
1928(昭和3)年9月高松宮殿下には練習艦隊に乗組ませられ御寄島遊ばさる記念塔はトラック教育会の建設に係る。
トラック島3【出典】1931(昭和6)年 トラック教育支会編  「トラック島写真帖」


慰安婦像を増やせば日本が恐怖して金をくれると思ってたニダ


韓国外相、世論の険悪化懸念 少女像問題巡り駐韓大使に
2017年1月7日 朝日新聞

 韓国・釜山に慰安婦問題を象徴する「少女像」が設置されたことで日本政府が対抗措置を取った後、韓国の尹炳世(ユンビョンセ)外相が6日に長嶺安政・駐韓大使を呼んだ際の会談の詳細が明らかになった。尹氏は両国の世論が険悪化することに危機感を示し、日韓関係維持を望むことを伝えたという。(後略)




本記事の資料

(  )内は管理人による注釈です。


出典:1996(平成8)年 光人社 大多和達也 「予科練一代」
    トラック諸島の休日



 久しぶりにトラック島に寄港した「隼鷹」(空母)は、飛行機隊を春島基地に送り、燃料、食糧および弾薬の搭載を行いながら、各部の整備を急いだ。

 島の一方を文字どおり切り開いた飛行場ではあるが、五十機ぐらいの小型機はらくに収容できる。日ごろの発着艦で狭い飛行場への着陸は苦もないが、ランディングしても、いっこうに例のないプレッシャーとショックがかからない。ああ、ここは陸上飛行場だったっけ、と久しぶりにブレーキを踏む。

 搭乗員に対しては、二十四時間の入湯上陸(外泊)が許可された。そこで私は、艦爆隊の同期生中岫(なかぐき)兵曹長と整備の山口兵曹長を誘い、トラック本島に上陸した。

 前にも書いたとおり、英気をやしなう場所もかぎられており、士官用、特准用、下士官兵用に分かれている。そこで、われわれは特准用(特務士官および准士官、すなわち下士官出身の士官)として指定されていた「トラック荘」の敷居をまたいだ。

 小高い丘の中腹に建っているトラック荘は、風も涼しく吹き抜け、海も見える。浴衣姿の仲居さんが案内してくれた部屋は、床の間つきの十二畳で、襖(ふすま)越しに四畳半がしつらえられ、いかにも悩ましい雰囲気がただよっている。

 待つほどもなく部屋に入ってきた女性は、芸者でもなく女中でもない。いわゆる酌婦(宴席で客に酌をする職業の女性。外地では日本領事館や憲兵隊で公娼として許可されれば日本軍の慰安婦になることができた)といわれる種類の女性だろうが、なんとはなしに素人くさくてすがすがしい艶(つや)がある。

「ようこそいらっしゃいました。フジ子と申します。今日はどうぞごゆっくりと……。お料理ができますまで、暑気払いにおウスはいかがですか?」

「おウス? おい、物知り博士の山口分隊士、知っているかい?」

「馬っ鹿者、茶道で言うおウスだよ。ほら、こうやるやつだよ」

 同年兵とはいえ、四つも年上の山口兵曹長は、ソッ歯をさらにむき出しながら、左手を筒のように丸め、その中をかき回すように右手を動かした。

「ハハァ、これか?」と、わたしと中岫がいっしょになってお茶をすする素振りをすると、彼女は右手の甲を口にあてながらあやしく笑った。そして、三人は呵々(かか:大声で笑うさま)大笑した。

 この世に生をうけて二十四年、おウスなどというものを味わったことのない無骨者は、気をきかせて店が出してくれた浴衣の襟許(えりもと)をただし、殊勝にも膝をそろえた。久しぶりにあいまみえた大和撫子の指先は美しく、繊細にかがやいて見えた。南の珊瑚礁に住んでいても陽やけ一つせず、抜けるように白く見える彼女の襟足で、茶せんの動きに合わせるようにホツレ毛が小刻みに踊っている。

 見よう見まねの不作法で、舌にのせてころがしたおウスの味はまた格別であった。不思議に心がなごんだ。五臓六腑が洗い流されて毒気が消し飛んだような気がする。

 トラック諸島の珊瑚礁を白波で洗い、椰子の葉を揺るがせて窓から飛び込んできた南の潮風が、飲むほどに酔うほどにほてりかえる私の頬をなでてよぎった。その風が流れてフジ子の黒い髪をゆさぶり、彼女のうなじで乱れている。それを見て、故郷の母を思った。不思議なこともあるものである。

 殺伐な戦場の空気の中で寝起きし、限りない太平洋の水平線を相手に飛びつづけている毎日では、異性を夢見る男の本能も、親兄弟を重い(原文ママ)浮かべる慕情も忘れていた。久しぶりに接した女性の艶に、母を思い出したのである。と同時に、インド洋作戦の後、寄港した呉軍港で手にした母の便りが瞼(まぶた)に浮かんだのであった。そして、そのおとずれに同封されていた、波打つ黒髪の乙女の姿が浮かび上がった。

 予科練習生として海軍に身を投じて以来八年余、血の通った温かい母親のおせち料理の味をとんと忘れていた。気がついてみれば、あと数十日で昭和十七年が暮れようとしている。

 考えてみると、甘い金団(きんとん)を食べ過ぎて胸の焼ける思いをしたり、栗漬けをほおばり過ぎて小間物(こまもの:へど)を広げてしまったことが思い出される。生唾がグーッとこみ上げてきた。母のあの料理で、そのうえ、あの写真のような清純な女性のお酌で……。なんとも言えない内地の正月、穏やかに晴れ上がった初春の空に舞う追い羽の音。年に一度の晴れ着のたもとを踊らす娘たちの嬌声……。

 とんだところで、ひょんなときに、里心がついたものである。






関連記事
スポンサーサイト