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2016/12/25

朝鮮人経営妓楼=慰安所という証拠


このたび

戦前の朝鮮人経営妓楼が日本軍占領地に進出して行って慰安所になった

という証拠がそろいましたのでアップしておきます。

その証拠とは内容が一致する三つの資料です↓↓↓

ソウル大学名誉教授 安秉直 「ビルマ・シンガポールの従軍慰安所」(日本語仮訳版)
※173~175ページ「解題」

1930(昭和5)年 日本遊覧社 「全国遊廓案内」

・日本商工興信要録 昭和9年版・ 昭和11年版・ 昭和12年版
※遊廓の広告掲載



これらの資料から、朝鮮の朝鮮人経営妓楼の屋号と日本軍占領地にあった慰安所の屋号が一致することを発見しました。

かねてより推測していたとおり、真実の慰安婦は楼主(妓楼経営者)とともに日本軍占領地に渡航していったのです。

「強制連行」ではありません。

それらの資料を照合した結果、ダブリもありますが10件一致しました。

現ソウルにあった彌生町(やよいちょう)遊廓から5軒もの妓楼が日本軍占領地に渡航しています↓↓↓
南北別
朝鮮における遊廓所在地
管轄警察署
遊廓名妓楼名
慰安所名
所在地
慶尚南道統営郡統営面
吉野町
吉野町遊廓一福一福亭
京畿道京城府彌生町京城府彌生町遊廓喜楽楼喜楽館
プローム
松月館松月館
ラングーン
白水楼白水慰安所
ラングーン
一福楼一福亭
ペグー
一富士楼一富士楼
ラングーン
咸鏡北道清津府北星町清津星ヶ丘遊廓一福楼一福亭
ペグー
咸鏡北道会寧面会寧面北新地一富士一富士楼
ラングーン
菊水菊水倶楽部
シンガポール
松月松月館
ラングーン


そして事実は戦後サヨクの創作とはまったく逆で、朝鮮から日本軍占領地に渡航していった慰安婦たちのほとんどは日本人でした。

1930(昭和5)年時点で朝鮮全道に28ヶ所(北朝鮮に9ヶ所、南朝鮮に19ヶ所)の遊廓が設けられました。

北朝鮮遊廓所在地↓↓↓
朝鮮地図貸座敷北朝鮮1

南朝鮮遊廓所在地↓↓↓
朝鮮地図貸座敷韓国1

朝鮮全道遊廓所在地↓↓↓
朝鮮地図_貸座敷所在地

在鮮日本人が朝鮮に多くの遊廓を設置した理由は、日本人男性は外地にいると日本人の女性が恋しくなったからだそうです。

なので日韓併合前は統監府、日韓併合後は総督府に遊廓設置の許可を申し出て遊廓を設置し、日本から日本人の公娼を招致したのです。

要するに日本人男性は、朝鮮人女性など眼中になかったのです。日本人女性の香りが恋しいこともあったでしょうし、朝鮮人女性が伝染病性病に感染している率が高かったことや、

朝鮮人が「病気ニダ、ケガニダ」といっては人糞や動物の糞を食べたり身体に塗ったり、生のヘビやザリガニを食べたりしていたこともあったでしょう。


日本芸者1


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3c.jpg

そんな繊細な日本人男性が軍人になったとたん、目の色を変えて貴重な人員と船と燃料を投入して朝鮮人女性を強制連行した、とか考えられます?

船を出したら護衛機も必要になるんですよ?

考えられませんね。しかも国家存亡を賭けた大戦争中だったのですから、日本は。

GHQが目のカタキにするほど自分の命よりも国の命運を優先する日本人が、経済封鎖されている状況下で朝鮮人女性を追いかけまわし、慰安所にこもって夜通し虐待に熱中したなんて、考えられません。

当時の日本は、たとえが悪いですが、現在もろもろ制裁されている北朝鮮が連合国相手に開戦したのと同じ状況だったのです。


戦前朝鮮の遊廓詳細

★印…安教授の「ビルマ・シンガポールの従軍慰安所」(慰安所従業員の日記)に記載されている慰安所名と一致する妓楼名。
遊廓名
/管轄警察署
所在地
妓楼数
芸娼妓数
内訳
朝鮮人経営
と思しき妓楼
釜山牧島遊廓
/釜山警察署
釜山府溘仙町
(ゆうせんちょう)
15軒
約130人
福岡県、長崎県の
女性が多い
釜山緑町遊廓
/〃
釜山府緑町約20軒
約120人
主に九州方面の女性
鎮海面遊廓
/鎮海警察署
慶尚南道昌原郡
鎮海面連雀町
12軒
70人
朝鮮人20人、
日本人50人、主に
長崎県人、熊本県人
馬山壽町遊廓
/馬山警察署
慶尚南道昌原郡
馬山壽町
10軒
(朝鮮人経営が多い)
約50人
全部朝鮮人
南鮮亭
日鮮亭
吾妻亭
明月楼
壽楼
海月楼
南海楼
嶺南楼
酔仙亭
山月亭
馬山府萬町
遊廓
/〃
馬山府萬町約12軒
約40~50人
朝鮮の女性が多いが
日本人女性も少しいる

馬山府元町
遊廓
/〃
馬山府元町
馬山府幸町
遊廓
/〃
馬山府幸町
(さいわいちょう)
吉野町遊廓
/統営警察署
慶尚南道統営郡
統営面吉野町
11軒
(うち朝鮮人経営3軒)
70人
朝鮮人女性20人、
日本人50人、主に
長崎県人、大分県人

福與館
明月館
錦月楼
晋州面大河洞
遊廓
/晋州警察署
慶尚南道晋州郡
晋州面大河洞
約15軒
約100人程度
主に朝鮮人、
日本人女性は少ない
方魚里遊廓
/不明
慶尚南道方魚里3軒
約20人
大邱八重垣町
遊廓
/大邱警察署
慶尚北道大邱市
八重垣町
15軒
約50人
朝鮮人、日本人が半数ずつ
大田面遊廓
/大田警察署
忠清南道大田郡
大田面春日町
一丁目
10軒
52人
朝鮮人20人、
日本人32人、主に九州人
全州相生町
遊廓
/全州警察署
全羅北道全州
相生町
約5軒
50人位
朝鮮人、日本人が半数ずつ
日本人女性は長崎、熊本県人
群山府新興洞
遊廓
/群山警察署
忠清南道群山府
新興洞
約6軒
約60人
群山府山手町
遊廓
/〃
群山府山手町
(やまてまち)
上記新興洞と同様
仁川府敷島町
遊廓
/仁川警察署
仁川府約10軒
200人
大多数は日本人女性
朝鮮の女性も相当いる
木浦遊廓
/木浦警察署
全羅南道木浦府
桜町
(さくらまち)
7軒
(うち朝鮮人経営3軒)
78人
朝鮮人34人、
日本人44人
一の谷
日ノ出
三橋楼
永春亭
玄海楼
明月楼
京城府彌生町
遊廓
/龍山警察署
京畿道京城府
彌生町
20軒
150人
朝鮮人2人、
日本人148人、長崎県人が
多い
君の家
桃の家
★喜楽楼
三芳楼
三幸楼
大黒楼
入船楼
★松月楼
大黒楼
 支店
花月楼
〇丸楼
常磐楼
高陽楼
★白水楼
 支店
山遊楼
金波楼
★一福楼
福井楼
★白水楼
★一富士楼
京城府新地
遊廓
/城東警察署
本町警察署
永登浦警察署
鐘路警察署
東大門警察署
西大門警察署
 のいずれか
京城府新地彌生町の7~8倍の規模
約900人
朝鮮人は少なく、日本人が
多い。主に長崎、熊本、
福岡地方の人

兼二浦遊廓
/黄州警察署
兼二浦警察署
黄海道黄州郡
兼二浦面栄町
12軒
(うち朝鮮人経営4軒)
140人
朝鮮人40~50人、
あとは日本人で長崎県人、
熊本県人が多い
一楽楼
三玉楼
初音
房の家
金波楼
旭楼
勝の家
入船
鎮南浦碑石里
遊廓
/鎮南浦警察署
平安南道鎮南浦
碑石里柳町
9軒
約70人

平壌府賑町
遊廓
/平壌警察署
平安南道平壌府賑町55軒
(うち朝鮮人経営40軒)
280人
朝鮮人130人、
日本人150人、長崎県人が
多い
美人

翠月
長崎
若松
思君
敷島
萬福
藤乃
大船
朝日
東京
松ノ
迎月
真楽
元山陽地洞
遊廓
/元山警察署
咸鏡南道元山府
陽地洞
約8軒
約80人
朝鮮人、日本人が半分ずつ
咸鏡花咲町
遊廓
/咸鏡警察署
咸鏡南道咸鏡街
花咲町
約10軒
120人位
朝鮮人、日本人が半分ずつ
羅南面美吉町
美輪之里遊廓
/羅南警察署
咸鏡北道羅南面
美吉町
(みよしちょう)
12軒
約120人
朝鮮人、日本人が半分ずつ
清津星ヶ丘
遊廓
/清津警察署
咸鏡北道清津府
北星町
14軒
(うち朝鮮人経営2軒)
約140人
朝鮮人30人、
日本人110人、主に長崎県人
壽楼
常磐楼
餘香楼
文化楼
祐多加楼
山遊楼
鳴門楼
栄楼
大盛楼
一鶴楼
花月楼
吉祥楼
野月楼
★一福楼
会寧面北新地
/会寧警察署
咸鏡北道会寧面14軒
約80人
朝鮮人、日本人が半分ずつ
★一富士
平海
徳川
花月
吉野
萬年
松葉
更科
亀鶴
★菊水
九州

★松月
酔月
会寧面三洞
新地遊廓
/〃
咸鏡北道会寧面
三洞新地
5軒
30人位


この↑↑↑一覧中に、昭和初期、北朝鮮の平壌賑町遊廓は朝鮮人経営妓楼が40軒あって日本人公娼が150人いた、とあります。

彼女たちのほとんどが長崎県、熊本県、福岡県、大分県といった九州出身でした。

彼女たちは朝鮮人楼主に買われて、気候温暖な九州から真冬は零下30度を下回る極寒の北朝鮮に送られて行きました。

しかも日本敗戦によって、無事に日本に帰国できた可能性はかなり低い

在鮮日本人に限らず、南方や南洋に行った公娼たちもまた、その多くが共産連合国軍の無差別殺戮によって、おなじ運命をたどったことと思います。

戦後の日本人が心を寄せるべきなのは、共産党がしかけてきたアジア侵略戦争で落命した日本の先人たちであって、

「日本軍に強制連行されたニダ!!」

と、当時の日本の実情からは到底考えられないウソを言いふらしている「自称従軍慰安婦」ではありません。


暴力的サギ師に国民の血税10億円を渡し、日本人には増税する日本政府


元慰安婦34人、現金を受領へ 日韓合意事業
2016年12月24日 毎日新聞

【ソウル米村耕一】慰安婦問題に関する昨年末の日韓合意を受けて韓国政府が設立した「和解・癒やし財団」は23日、合意時点で生存していた46人の元慰安婦のうち34人が、日本政府が拠出した10億円に基づく現金支給の受け入れを表明したと明らかにした。7割を超える生存者が受け入れることになる。(後略)


本記事の資料

遊廓語(さとことば)のしをり


・遊廓(ゆうかく)…ある定められた一廓(いっかく)に、貸座敷(かしざしき)、娼妓、芸妓(げいしゃ)、待合(まちあい)、料理店等の集合している遊里(ゆうり)一本に成る。小芸妓から大芸妓に成る事

・公娼こうしょう…娼妓(しょうぎ)とも花魁(おいらん)ともいう。娼妓の鑑札を持っている女。(管理人注:戦時中の慰安婦は公娼、芸妓、酌婦などの「すでに醜業に就いている女性」だった。素人の女性を強制連行したというのは朝日新聞・韓国・北朝鮮・中共の捏造で、戦前は性病検査を受けていない素人女性の方が性病に感染する危険性が高かった)

・貸座敷(かしざしき)…芸娼妓の置屋、揚屋(あげや)、又は兼営の家等を総称したもの

・居稼ぎ(いかせぎ)…芸娼妓が抱え主(かかえぬし)の家で客を取って稼ぐこと

・二枚鑑札(にまいかんさつ)…一人の女で芸妓の鑑札と、娼妓の鑑札とを同時に二枚持っていること(管理人注:鑑札は娼妓と契約した妓楼所在地の警察署長に願い出て発行してもらう)

・廻し制(まわしせい)…廻し花制(まわしはなせい)ともいう。一人の娼妓が同時に二人以上の客を取って、順次に客から客へ廻って歩くこと

・通し花制(とおしはなせい)…客の廻しを取らずに、一人の客に一人の娼妓が附(つ)きっきりでいること

・時間制(じかんせい)…時間花制(じかんはなせい)ともいう。一時間いくらで客を遊ばせる仕組みで、この場合には廻しを取らぬ事が多いようである

・送り込み制(おくりこみせい)…関西方面に多く、置屋は置屋、揚屋は揚屋と、各専門的に営業をして居る所で、娼妓は置屋から揚屋に送り込まれて行くのでこの称がある

・置屋(おきや)…芸妓または娼妓を抱えておく家

・御定り(おきまり)…標準または並という意味で、どこの遊廓でも此(こ)の御定りが一番勉強してある

・陰店(かげみせ)…表に店を張って居ずに、くぐりを入って、表から見えない処に店を張って居ること

・張店(はりみせ)…娼妓が表店にならんで店を張っていること(管理人注:時代劇などで遊廓の通りに面した格子の向こうに娼妓らがすわっているのが張店)

・揚屋(あげや)…置屋から芸妓または娼妓を呼んで遊ぶ所。料理は仕出屋から取る

・置屋(おきや)…芸妓又は娼妓を抱えておく家。

・台の物(だいのもの)…通し物(とおしもの)ともいい、ただ単に「台」ともいう。客席に出す、酒、肴(さかな)、茶菓等のことである

【出典】1930(昭和5)年 日本遊覧社 「全国遊廓案内」


日本人男性は日本人女性が恋しかった


出典:1930(昭和5)年 日本遊覧社 「全国遊廓案内」



 朝鮮地方

 朝鮮に行って居る人々の中には、比較的女性が尠(少)ない。したがって女性が尊(とうと)まれる。斯(こ)うした傾向は独り朝鮮のみでは無く、至る処の殖民地に見る一般的な傾向である。

内地(日本国内)に居る時に於てこそ、朝鮮や支那の婦人が珍らしいけれども、暫(しば)らく海外に滞在して居ると直(す)ぐに内地の女が恋しく成る。

風俗、習慣、言語、体臭、あらゆるものが懐かしく成って来る加うるに比較的数が少ないので、朝鮮人の娼妓よりは内地人の娼妓の方が一、二割方値が高い。

値は高くとも喜んで需要されて行くと云(い)う、内地とは正反対の現象が行われて居る。

総体的に料理店の芸妓が娼妓と変化したものが多いので、朝鮮至る処の遊廓にも二枚鑑札の女が居る。そして何処(いずこ)の遊廓にも共通的に感ずるものは、殖民地特有のたいはい的な気分の溢れて居る事だ。

世界を家として歩く流浪民同志の、醸し出した一種特有の気分であるかも知れない。


 釜山牧島遊廓 は朝鮮釜山府溘仙町(ゆうせんちょう)に在って京釜(けいふ)釜山駅から南へ約十丁、市電は南浜入口で下車する。

賃五銭釜山は朝鮮全道の関門で、京城に劣らぬ大都会である。港には朝鮮と内地とを継ぐ唯一の関釜連絡船がある。此(こ)の遊廓も元は料理店の組合だったが、酌婦を昇格さして娼妓としたもので、遊廓として一廓に集合したのは明治四十二年頃である。

目下貸座敷は十五軒あって、芸妓及娼妓は約百三十人居る。福岡県、長崎県の女が多い、店は写真店で陰店は張って無い。

芸妓も娼妓も共に抱えてあって(妓楼に前借金がある娼妓は原則その妓楼に住み込みであった)、全部居稼ぎ制だ。遊興は時間制、又は通し花制で、廻しは取らない。

玆(ここ)の芸妓は殆(ほと)んど二枚鑑札である。費用は甲(二枚鑑札)が一泊七円、乙(娼妓一枚)が一泊六円、半昼、又は半夜は五円で、台の物は別である。

妓楼は梅月、花家、日進楼、常磐、達摩亭、梅の家(や)、舞鶴楼、光月、栄福楼、米利堅楼、明月楼、七福楼、日の出、勢の家、贅沢楼、の十五軒。附近には、東莱温泉、海雲台温泉、松島、等の歓楽境がある。


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 釜山緑町遊廓 は釜山町緑町にあって、溘仙(ゆうせん)洞牧島遊廓と相並立して居る廓(くるわ)で、妓楼約二十軒娼妓約百二十人位居る楼である、主に娼妓は九州方面の人が多く、遊興費制度等は牧島とほぼ同様だと見れば間違(まちがい)はない。

 鎮海面遊廓 は慶尚南道昌原郡鎮海面連雀町に在って、鎮昌線鎮海駅より東南へ約十丁の個処に在る。

鎮海は鎮守府の所在地で、海陸共に交通の要路である。料理店が貸座敷と成り、酌婦が芸妓と成ったものである事は、朝鮮の一般他廓と同一経路を過(すぎ)て来たものである。

目下貸座敷は十二軒あって、娼妓は七十人居る。此の七十人の内に鮮人が二十人居て、他は長崎県、熊本県の女である。店は陰店を張って居て、娼妓は全部居稼ぎ制で送り込みはやらぬ。廻しも取らない。一時間遊びは二円位、御定り(おきまり)は五円で午後六時頃から引け迄で、一泊は七円である。何れも台の物が含んで居る。玆の娼妓は全部二枚鑑札である。

妓楼には、鹿島楼、浪花楼、酔月(すいげつ)楼、金時楼、たまや、朝日支店、朝日本店、玉川楼、清川楼、一文字(いちもんじ)楼、鎮海楼、開進楼等がある。

附近には、海軍記念塔、鎮海桜馬場等がある。


 馬山壽町遊廓 は慶尚南道昌原郡馬山壽町に在って、馬山線馬山駅から南へ約八丁、乗合自動車の便もある。

貸座敷は現在十軒あって、娼妓は約五十人居るが、全部朝鮮の女計(ばか)りである。経営者も朝鮮の人が多い。店には写真も無く、又陰店も張って無い。登楼してから花魁(おいらん)が順次に顔を見せる事に成って居て、其(その)処(ところ)で相方を定めるのだ、娼妓は全部居稼ぎ制で送り込みはやらない。遊興は通し花制で廻し花は取らない。此処(ここ)の娼妓は全部一枚鑑札だ。費用は御定りが五円で台の物が附き、一泊も出来る。

妓楼には、南鮮亭、日鮮亭、吾妻亭、明月楼、壽楼、海月(かいげつ)楼、南海楼、嶺南楼、酔仙亭、山月亭等がある。附近には有名な馬山海水浴場がある。


 馬山府萬町遊廓 馬山府萬町(よろずまち)遊廓は馬山府萬町にあって、主に朝鮮人の女が多いが。(原文ママ)日本人の娼妓も少しは居る。

妓楼は約十二軒位あって、娼妓は約四、五十人位居る。遊興費や制度等は、前述の壽町と大差はないが内地人の娼妓は朝鮮人より一、二円高いのが普通である。


 馬山府元町遊廓 は馬山府元町にあって、遊興費及制度等は右の萬町とほぼ同様だと思(おもえ)ば良(よ)ろしい。


 馬山府幸町遊廓 は同じく馬山府幸町(さいわいちょう)にあってほぼ右と同様である。


 吉野町遊廓 は慶尚南道統営郡統営面吉野町に在って、馬山駅から陸上十七里(一里は約四キロ)あるが海路は馬山港から近い。朝鮮鉄道の自動車部の乗合自動車がある。

当廓には貸座敷が十一軒あって娼妓は七十人居る。内(うち)鮮人経営者が三人居(お)り、鮮人娼妓が二十人居る。内地の女は主に長崎県、大分県の女である。店は張店で、芸娼妓共に居稼ぎ制である。遊興は通し花制で廻しは取らない。費用は一泊御定り芸娼妓(二枚鑑札)は六円、娼妓は五円、一時間遊びは芸娼妓一円、娼妓八十銭である。台の物は含んで居ない、娼楼には内地人経営のは米山楼、開花楼、清月楼、一福、豊後庵、喜久屋、松乃家(まつのや)、よかろう、等であり鮮人経営の家は福與(与)館、明月館、錦月楼等である。

附近には鎮海、馬山等の古戦場があり、産物には煎魚(いりこ)、海草等があって、殊(こと)に煎魚は東洋第一である。


 晋州面大河洞遊廓 は朝鮮慶尚南道晋州郡晋州面大河洞にあって汽車は京釜線、三良津駅で朝鮮鉄道慶南線に乗換え、終点の晋州で下車する、

現在遊廓の貸座敷数は約十五軒位あって、娼妓は約百人程居るが、重(おも)に朝鮮人多く内地人は比較的少ない様である。店は陰店制で、遊興は大阪式通し花制又は時間制で、廻しは一切取らない事になって居る。御定りは五円で酒肴附一泊が可能である。芸妓も呼べる。一時間一円位である又朝鮮芸妓も居るし娼妓の二枚鑑札の女も居る。


 方魚里遊廓 は慶尚南道方魚里にあって、妓楼三軒、娼妓約二十人位居る。他の確実な事は判明していない。


 大邱八重垣町遊廓 は朝鮮慶尚北道大邱市八重垣町(やえがきちょう)にあって、汽車は京釜線大邱で下車する、大邱は慶尚北道第一の都邑(とゆう:繁華な町)であって、慶東(けいとう)線の分岐点になって居る。

妓楼は十五軒娼妓約五十人位居て、店は全部写真制となって居る。芸娼妓は全部居稼ぎ制で内地人及朝鮮人が半分位ずつであって、時間制である。御定りは芸娼妓は六円、娼妓は五円位で台の物がつき、一泊が出来る。二枚鑑札が多く居るので特に芸妓を呼ぶ必要がない。


 太田面遊廓 は忠清南道太田郡太田面春日町一丁目に在って、京釜線太田駅で下車すれば西北へ約五丁である。太田は交通の要路で遊廓も相当の色を示して居る。

目下貸座敷が十軒あって娼妓は五十二人居るが、中には鮮人の女が二十人、内地の女九州人が三十二人程居る、店は写真式で陰店は張って無い。娼妓は居稼ぎ制で送り込みはやらない。遊興は通し花制で廻しは取らない。費用は御定り甲が七円、乙が六円で一泊が出来る。但し台の物は含んで居ない。鮮人の娼妓は此(こ)れより二、三割方安い事になっている。此の他に短時間遊びもあって二円位でも遊べる。

娼楼には京末楼、新花月、長崎楼、築紫(原文ママ)、花月楼、喜楽楼、天龍楼、いろは楼、酔月楼、敷島楼等がある。


 全州相生町遊廓 は朝鮮全罹北道全州相生町(あいおいちょう)にあって、汽車は京釜線太田駅で湖南線に乗換え裡里駅で慶全北部線に乗換え、全州駅へ下車するのである。

現在妓楼約五軒、娼妓は五十人位居て、娼妓は内地人が半分朝鮮人半数位である。内地人は長崎、熊本県人が多い。店は陰店制であって、遊興は大阪式時間制である。御定りは芸娼妓七円、娼妓六円と言う事になって居る。勿論(もちろん)酒に肴(さかな)二品位は附く。


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 群山府新興洞遊廓 朝鮮忠清南道群山府新興洞にあって、汽車は京釜線裡里駅で群山線に乗換え、群山駅に下車する。忠清南道第一の都会で錦江の河口に当る港町である。

現在妓楼は約六軒、娼妓は約六十人位居て、写真店である遊興は時間制又は通し花制になって居るから、廻しは取らない。二枚鑑札及一枚鑑札とあって、二枚鑑札は六円、一枚は五円で酒肴附である。


 仁川府敷島町遊廓 は朝鮮仁川府にあって、鉄道は京釜線永豊浦線から仁川線へ乗換え、仁川駅で下車する。西方に月尾島は長く小月尾島の尾を引いているので、此の島の為(ため)に仁川港は至極波が静である。而(しか)しながら満潮の差が大きいので余り感服しない。

貸座敷は総計で約十軒、二百人位の娼妓が居て、大多数は内地人の娼妓多く、朝鮮の女も相当居る、店は全部写真制で、遊興は大阪式の通し花制と時間制であるから、絶対に廻しはない。御定りは一枚鑑札と二枚鑑札に依って多少相違して居るが、一枚なら酒肴附一泊五円位で二枚なら六円若(もし)くは七円と言う事になって居る。従って特に芸娼妓の入用を感じない訳(わけ)である。


 木浦遊廓 は朝鮮全羅南道木浦府桜町(さくらまち)に在って、湖南線木浦駅で下車すれば西南へ約八丁の処である。木浦は黄海に面した港町で、貿易も仲々(なかなか)盛んな処で、町も非常に発展して居る。町の住民は朝鮮人が九分で、内地人が一分位の割合に成って居る。

此処(ここ)の遊廓は大正三年に許可されたもので、貸座敷業者は全部で七軒あって、内(うち)四軒が内地人の経営であり、三軒が朝鮮人の経営に成って居る。娼妓は全部で七十八人居るが、内地の女は四十四人、朝鮮の女は三十四人居る。店は陰店式で写真制では無い。娼妓の揚げ方も居稼ぎ制で送り込み制では無い。遊興の方法も時間制で廻しは取らない。一泊の甲が十円、乙が七円、丙が五円で台の物が附いて来る。此れは内地人の相場であるが、朝鮮人の娼妓なら此の半額と見て差閊(さしつかえ)は無い。玆(ここ)の娼妓は多く二枚鑑札であるから、三味線や唄位は唄う筈(はず)である

遊楼は、一の谷、日ノ出、三橋楼、永春亭、玄海楼、明月楼等がある。


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 京城府彌生町遊廓 は京畿道京城府彌生町(やよいちょう)に在って、京釜線龍山(りゅうざん)駅で下車すれば約十二丁、市電は「弥生町入口」で下車すれば宜(よろ)しい。京城は元王城の所在地で、総督府以下の各官衙(かんが:役所、官庁)、学校等があって朝鮮の首府である。

此の遊廓は好況時代には四十軒近くの貸座敷があったのであるが。(原文ママ)目下は不況の為(た)めに二十軒に減って終(しま)った。娼妓は百五十人居る内に鮮人が二人で、あとは全部内地の女だ。中でも長崎の女が最も多い。店は写真式で陰店は張って無い、娼妓は居稼ぎ制で送り込みはやらない。遊興は通し花制で廻しは取らない。此処(ここ)は元来料理店が貸座敷に変化した処なので、娼妓でも芸妓の鑑札を持って居る者が多い。従って費用も娼妓と芸娼妓とが異なって来る勘定だ。御定り甲(芸娼妓)が七円で、乙(娼妓)が六円だが何れも台の物は含んで居ない。

娼楼は、君の家(きみのや)、桃の家、気楽楼、三芳楼、三幸楼、大黒楼、入船楼、松月楼(しょうげつろう)、大黒楼支店、花月楼、〇丸楼、常磐楼、高陽楼、白水楼支店、山遊楼、金波楼、一福楼(いっぷくろう)、福井楼、白水楼(はくすいろう)、一富士楼等である。


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 京城府新地遊廓 は京城府新地にあって、市内電車は新地停留場で下車する。此処は京城一の廓で、弥生町の約七、八倍もあって、娼妓も約九百人位居る。内地の女は、長崎、熊本、福岡地方が多い、殊に内地人の娼妓が多く、朝鮮人は他に比して比較的少ない。店は全部写真制になって居り、娼妓は居稼ぎで送り込みはやらない。遊興は時間で廻しは絶対にない、二枚鑑札の女の居る事は他と同様である。御定り一泊は芸娼妓七円。唯(ただ)の娼妓は六円で酒肴附である。


 兼二浦面遊廓 は黄海道黄州郡兼二浦面栄町(さかえちょう)に在って、京義線黄海黄州駅から乗換え兼二浦駅で下車すれば東北へ約十五丁、借切りの自動車でも賃金が駅から四十銭である此処の遊廓は、大正七、八年頃の好況時代には非常なもので、一時貸座敷が十八、九軒もあり娼妓の数も百六、七十名居たものであったが、財界不況と共に其の数も減り、娼楼は十二軒内(うち)四軒は鮮人 娼妓は百四十人居て、朝鮮の女も四、五十人居る。内地の女は長崎県、熊本県の女が多い。店は陰店を張って居て、娼妓は全部居稼ぎ制である。遊興は通し花制で廻しは取らない。一枚鑑札の娼妓と、二枚鑑札の娼妓が居て、費用は御定り一泊が二枚鑑札で七円、一枚が五円である。台の物は含んで居ない。娼楼には、一楽楼、三玉楼、初音、房の家、金波楼、旭楼、勝の家、入船等がある。土地には三菱製鉄所がある。


 鎮南浦碑石里遊廓 は平安南道鎮南浦碑石里柳町に在って、平南線鎮南浦(ちんなんほ)駅から西南へ約十丁、乗合自動車の便がある。大同江の河口にあって、海陸共に便利な処である。

貸座敷は目下九軒あって、娼妓は約七十人居る。店は写真制で芸娼妓は居稼ぎ制遊興は全部通し花制で廻しは取らない。費用は甲七円五十銭、乙は六円で、甲は二枚鑑札の女が相方であり、乙は娼妓が相方である。何れも台の物が附かない。

妓楼は、浪花楼、やなぎ楼、魚伊楼、近花楼(きんかろう)、山陽楼、一六楼、千鳥楼、深川楼、翠月楼、の九楼。


 平壌府賑町遊廓 は平安南道平壌府賑町(にぎわいちょう)に在って、京義線平壌駅で下車すれば東へ約三丁、駅から乗合自動車で黄金迄行けば賃五銭である。

此処も元は料理店であったが、酌婦の風紀を取締る必要上、明治四十二年に集娼制と成って現在の所に移転したもので、二枚鑑札の女の居るのは料理店時代からの遺物である。目下貸座敷は五十五軒あって内十五軒が内地人の経営であり、他の四十軒は全部朝鮮人の経営である。娼妓は内地人百五十人、朝鮮人が百三十人居て、内地人は重に長崎人が多い。

店は写真式で陰店は張って無い芸娼妓は全部居稼ぎ制で送り込みはやらない。遊興は通し花制で廻しは取らない。費用は甲(二枚鑑札)が六円で、乙(一枚鑑札)が五円で一泊が出来る。但し台の物は別勘定だ。

娼楼には、美人、静、翠月、長崎、若松、思君、敷島、萬福、藤乃、大船、朝日、東京、松ノ、迎月、真楽等がある。


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 元山隔地洞遊廓 は咸鏡南道元山府隔地洞にあって、汽車は京元線元山駅へ下車する。

妓楼は約八軒、娼妓は約八十人位居り朝鮮人半分内地人半分位となって居る。「御定り」は一枚鑑札と二枚鑑札になって居て、一枚鑑札は五円、二枚鑑札の芸娼妓は六円位となって居る。酒肴附で一泊が出来る。遊興は廻し制度でなく、全部通し花制で、店は陰店を張って居る。

 
 咸鏡花咲町遊廓 は朝鮮咸鏡南道咸鏡街花咲町(はなさきちょう)にあって、汽車は京元線元山駅から咸鏡線に乗換え、咸鏡駅で下車する。咸鏡は元山に次ぐ咸鏡南道の都邑で、南部にある西湖津は咽喉に当って居る。

現在貸座敷数は約十軒、娼妓は百二十人位居て、内地人と朝鮮人と半々位である。店は陰店を張って居り、遊興は時間制で通し花制であるから廻しはとらない。御定り一泊は芸妓、七円娼妓六円が相場で全部本部屋になって居る。廻し部屋はない酒肴は酒一本肴二附品(原文ママ)である。鑑札には一枚と二枚鑑札とあって、此の地では特に二枚と呼んで居る。


 羅南面美吉町美輪之里遊廓 は咸鏡北道羅南面美吉町(みよしちょう)に在って、咸鏡線羅南駅で下車すれば西南約十八丁の処にある。乗合自動車及乗合馬車の便がある。

明治四十一年に遊廓の許可地と成ったもので、其れ以前には二、三の日本料理店があって、其処(そこ)で芸妓を抱えて居た事に起因するものである。

現在は貸座敷が十二軒あって、娼妓は約百二十人居る内には内地人の娼妓が約六十人居り、朝鮮人の娼妓が約六十人居る。朝鮮人娼妓の服装及言語は、殆んど内地人の其れと大差無い事は会寧辺と同じである。中には勿論朝鮮服の娼妓も居る事は云(い)う迄も無い。

店の制度は陰店でも無ければ写真式でも無く、登楼して茶を飲んで居ると、娼妓が一人一人挨拶をし乍(なが)ら顔を見せて行く。其処で相方を撰(選)定すると云う方式を採って居る。娼妓は総(すべ)て居稼ぎ制で送り込み制では無い。遊興は時間制で廻しは一切取らない。娼妓中には一枚鑑札者と二枚鑑札者と居て、二枚鑑札者の御定りが台附七円一枚鑑札者は台附六円である。芸妓一時間の玉代が金一円宛(ずつ)である。

妓楼は、富士見楼、光明楼、富貴楼(ふきろう)、吹集、三州楼、安佐可楼、三七十楼、高正楼、大黒家、笑山楼、羅南館、平壌楼、等である。


 清津星ヶ丘遊廓 は咸鏡北道清津府(せいしんふ)北星町に在って、咸鏡線清津駅で下車すれば東南へ約五、六丁行った海岸通りを南へおれた処である。乗合自動車を利用すれば、北星町入口で下車する。賃金は市内十銭均一である。清津は開港場であって咸鏡北道第一の都会である。

此の遊廓も元は料理店の組合であったが、大正八年に現在の個処へ遊廓の許可が取れたので、直ちに玆(ここ)へ移転して来たものである。

従って建築も設備も堂々たるもので、他の大都市の其れに優(すぐれ)るとも決して劣るものでは無い。現在貸座敷数は十四軒あり(内二軒は鮮人経営)娼妓は約百四十人(内鮮人三十人内地人は主に長崎県人百十人)居るが、尚最近に二軒程増加する意気込みである。

店は陰店を張って居て、娼妓は居稼ぎ制である。二枚鑑札の芸娼妓も多く居るが、此れも送り込みはやらない。遊興は全部通し花制で廻しは取らない。費用は芸娼妓が一夜七円で、娼妓は六円である。台の物は別勘定である。

此の遊廓独特の鴨緑江節「津々の、海より深い私の思(おもい)、主は知ってか知らいでか、高まつ山の月さえて、かりの音(ね)身に沁(し)む秋の空」附近には朱乙温泉があって、汽車自動車の便もある、朝鮮八景の一としても有名である。

娼楼には、壽楼、常磐楼、餘香楼、文化楼、祐多加楼、山遊楼、鳴門楼、栄楼、大盛楼、一鶴楼、花月楼、吉祥楼、野月楼、一福楼等である。


 会寧面北新地 は朝鮮咸鏡北道会寧面に在って、清会(しんかい)線会寧(かいねい)駅で下車すれば南へ約四丁の処である。円タク及人力車の便があって、殊に人力車の賃金は安く、駅から遊廓の玄関に横着けさしても、車夫に十銭も与えれば大悦(よろこ)びであると云う有様(ありさま)だ。

此の遊廓は明治卅(三十)九年の、日露戦争直後に四軒の、日本料理店を開業して芸妓を置いた事に始まり、大正五年には同業者が八軒に殖(ふ)え、芸妓は完全に娼妓の内容を含んで居たので、玆に貸座敷組合として遊廓の許可地と成ったものである。

現在は貸座敷が拾(十)四軒あって、娼妓が約八十人居る。内(うち)四十人が内地人で、他の四十人は朝鮮人である。但し玆の朝鮮娼妓の大半は和服を着用して居て、言語も殆んど内地人と大差無い迄に精通して居る。

玆の遊廓は元来が芸妓町だったので、娼妓にも二枚鑑札の女が大勢居る。店は陰店式で娼妓は居稼ぎ制である。送り込み制はやって居ない。時間制で廻しは取らない。御定りは二枚鑑札の娼妓を呼べば六円、一枚鑑札の娼妓を呼べば五円と云う事に成って居る。前者を甲と云い、後者を乙と呼んで居る。御定りには酒肴が附いて一泊が出来る仕組みである。豆満江節、国境警備の歌舞等が盛んである。

妓楼は、一富士、平海、徳川、花月、吉野、萬年、松葉、更科、亀鶴、菊水、九州、都、松月、酔月、等である。


 会寧面三同新地遊廓※原文ママ は朝鮮咸鏡北道会寧面三洞新地にあって鉄道は京城発の京元線から更に咸鏡線南経由咸鏡線北部の会寧駅で下車する。支那吉林省との国境に近い長白山脈中にある小都会である。

現在妓楼は五軒娼妓は三十人位居て、店は陰店制で、遊興は時間制又は通し花制で、一切廻しを取らぬ事になって居る。遊興及其の他の制度は前記の三洞北新地とほぼ同様であると思えば宜しい。





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