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2016/11/26

特攻に先がけた人々2 帝国海軍|特攻隊とマスコミ(5)


帝国陸軍と同じく帝国海軍の特攻も、日米開戦初期から行われていました。

海軍特攻の始まりは、1941(昭和16)年12月8日真珠湾攻撃で特殊潜航艇が行った特攻と淵田美津雄中佐率いる空襲部隊が行った水上機母艦カーティスへの突入でした。

陸軍と同じく海軍特攻もその始まりは戦闘中の将兵が自己判断で行っていたもので、それを現場司令官の軍令下に組織化したものが終戦前年から実施された特攻隊でした。

なので、特攻隊は反日マスコミが印象操作するような「昭和天皇が命令して大本営が実行した」ものではありません。

日本が戦った敵はアメリカ共産党ソビエト共産党が仕立てた連合国軍という共産軍だったのですから、

その共産軍がいままさに日本と皇室に踊りかかろうとしている時、英霊が命を投げ出して戦局を好転させよう、祖国と皇室を守ろうとした熱情は、痛いほど理解することができます。

たとえ「狂乱」といわれようと、そうやって私たち日本人は三千年もの長い間、この日本と皇室を護り抜いてきたのです。


【海軍特殊潜航艇の特攻-九軍神特別攻撃隊の大戦果】
九軍神1【出典】1943(昭和18)年 大阪出版社 英文大阪毎日学習号編集局編 「大東亜戦争記録画報 前編」


海軍特攻のはじまり一覧

英霊は韓国や反日マスコミが宣伝するように泣き叫んでいる者を操縦席にくくりつけたりはしていません。

事実はそれとはまったく逆で、被弾して帰投は無理だと判断した隊長が部下である列機を集めて母艦までの針路を示し、別れを告げてから敵格納庫に突入するなど、冷静そのものでした。

列機とは隊長機に従う航空機のことで、「僚機(りょうき)」と呼んだりもします。

【編隊列機:例:陸軍八紘皇魂隊】
編隊列機

年月日隊 名場 所目 標
1941/
昭和16年
12月8日
淵田美津雄中佐
率いる空襲部隊
真珠湾米軍の対空砲火を受けた機が
水上機母艦カーティスに突入、
大火災を起す。
その僚機も次々に突入し、敵艦
の損害を拡大させた
第三制空隊長
飯田房太大尉
(第二波攻撃隊)
敵弾のために愛機の燃料
タンクを裂かれガソリンが
もれたため、列機を集めて
母艦に帰る針路に誘導した
のち部下に別れを告げ、
敵の格納庫に突入した
12月10日
ころ
航空部隊マレー沖海戦英極東艦隊の主力プリンス・
オブ・ウエールズおよびレパ
ルスを撃沈した時、わが一式
陸上攻撃機一機がプリンス・
オブ・ウエールズに体当たり
したと米誌報道
1942/
昭和17年
3月
陸軍機ジャバ(ジャワ)
上陸作戦
艦団に突進してくる敵水雷艇に
体当たりして艦団を守った
6月
友永丈市大尉ミッドウェー
海戦
赤城、加賀、蒼竜が猛火に
包まれ、飛竜が孤軍奮闘して
いる時に、戦機を失うことを
おそれ、燃料タンクの破れた
飛行機に片道の燃料を搭載
させ、上官に別れを告げたの
ち敵空母に肉迫、その魚雷
二本がヨークタウンに命中
10月26日
攻撃機一機南太平洋海戦燃えながら、空母ホーネット
に体当りした
不明陸軍機アンダマン島
付近
イギリス艦船に突入
1943/
昭和18年
10月19日
航空兵曹長
小松咲雄
マリアナ沖
海戦
空母大鳳から艦上爆撃機に
搭乗して発艦、大鳳に向って
くる魚雷に体当りを決行した
1944/
昭和19年
10月14日
雷撃機台湾沖海戦敵弾を受け火だるまになった
わが雷撃機が巡洋艦レノに
突入、敵艦の損害は大きく、
戦列を離れて修理のため、
ウルシーに向う
10月15日
第二十六航空戦隊
司令官
有馬正文少将
フィリピン
クラーク・
フィールド
基地
戦勢を判断し、一機一艦を屠
(ほふ)る体当り戦法によって
戦勢挽回の機をつくろうと飛行
機に搭乗し出撃
【出典】1960(昭和35)年 自由アジア社 元海軍航空隊参謀 安延多計夫 
  「南溟の果てに-神風特別攻撃隊かく戦えり」 このままにしてよいのか


戦争を工作した共産主義者が特攻隊をおとしめる

戦時中マスコミは「弾の落ちてこない安全な場所」から「一億総特攻」を煽動していました。

日本共産党などの共産主義者は日本の戦争から逃亡してソ連やアメリカ中国に渡り、日本敗戦工作に余念がありませんでした。

そして「われらこそが本当の日本人」などという在日朝鮮人は空襲を恐れて祖国へ逃げ帰ったり連合国や共産党と結託して日本敗戦工作にいそしんでいました。

だいたい在日半島人には「日本に弾圧された民族の記憶」が感じられません。彼らの行動、言動は日本人がシベリアに行って「強制連行されて強制労働させられた、ロシアは謝罪と賠償をしろ!」と要求するのと同じなのです。

日本人はシベリアに移住して謝罪や賠償や権利を要求しようなどと考えたりはしませんね。シベリアと聞くだけで恐怖を感じるからです。

それに「ソコソコ文化文明のある国」が外国に武力で侵略され、植民地にされそうになったなら、朝鮮と日本で日米戦争なみの大激戦があってしかるべきなのです。


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在日半島人は主張する歴史から日本に存在している理由まで何もかもが生半可で、まったく真実味が感じられない。

共産主義者と不法滞在者こういう日本の危機を一度も救おうとしたことがない、日本のために涙一粒汗一滴流したことがない、外国と結託してその威を借りている連中が英霊をおとしめつつ、英霊が守った日本を強奪しようとしているのです。

この日本に日本人として生まれた者は過去から未来の日本人まで、一つの生命、一つの肉体なのです。

なぜなら日本の国土、草木一本にしてもこの天地間一切のものは天照大神が作りたもうたものだからです。

ですから、いかなる方法をもってしても、英霊の魂といま生きている日本人の魂は決して分断することはできないのです。



「特攻」十死零生の作戦に選ばれた、若きエリートたちの苦悩
ある、元特攻兵の証言

2016年10月29日 現代ビジネス is-Media

特攻。「十死に零生」のこの作戦を命じられたのは、当時のトップエリートを含
む若者たちだった。なぜ彼らは特攻隊員として選ばれたのか。歴史の「闇」を、
『特攻』の著者で、毎日新聞・栗原俊雄記者があぶり出す。

「統率の外道」と呼ばれた作戦

戦史には詳しくなくとも、「神風特別攻撃隊」(特攻隊)とご存じの読者は多いだろう。近年でいえば特攻を題材にした小説『永遠のゼロ』が大ベストセラーになったことが記憶に新しい。

その特攻は、今から72年前の10月に始まった。第二次世界大戦末期、アメリカやイギリスなどの連合軍に追い詰められた大日本帝国陸海軍の航空機が、搭載した爆弾もろとも敵艦に突っ込む攻撃隊である。成功すれば、搭乗員は必ず死ぬ。

(中略)

全体の戦果はどうだったのか。どんな若者が散っていたのか。そもそも誰がこんな「作戦」を始めたのか。次回みてきたい。


本記事の資料

元海軍航空隊参謀「特攻以前の特攻があった」


出典:1960(昭和35)年 自由アジア社 元海軍航空隊参謀 安延多計夫 
  「南溟の果てに-神風特別攻撃隊かく戦えり」 このままにしてよいのか



 搭乗員の合言葉

 戦局が日毎に重大になるにおよんで、昭和十九年十月二十日、第一航空艦隊司令長官大西滝次郎中将は志願者のうちより二十四名を選抜して、体当り攻撃隊を編成して、神風特別攻撃隊と命名された。

 その第一陣は、栗田艦隊のレイテ湾突入に呼応して、十月二十五日に、敵空母の飛行甲板に炸裂したのであった。

 この体当り攻撃法は大西司令長官の発案による独創的のものであったのであろうか。これより前に、このような攻撃法は実施されなかったであろうか。

そもそも大東亜戦争は、戦っても戦わなくても、亡国を免れえないかも知れない瀬戸際にまで追い詰められて、立ち上がった戦争であった。

従ってわれわれ将兵の覚悟の程も又格別であった。この一死奉公の精神が凝結して開戦劈頭、特殊潜航艇の真珠湾攻撃となって現れた。

この岩佐中佐以下九軍神の壮挙は暫(しばら)くおき、私はここに大東亜戦争中に現われた飛行関係のみの事実を拾って、この答えにしたいと思う。

 昭和十六年十二月八日、ハワイ空襲をもって、日本の運命を決した開戦の幕は切って落され、午前八時には淵田美津雄中佐の率いる空襲部隊は真珠湾上空を圧していた。

この時アメリカ艦隊を爆撃中のわが艦上爆撃機の一機は、敵の対空砲をうけ、遂に機体は燃えだした。

 艦爆は、煙の尾を曳(ひ)き、火を噴きながら、フォード島の西側に碇泊している水上機母艦カーティス(AV-4)に向って、急降下していった。

 艦爆はカーティスの後部にある水上機を吊り揚げる大きなクレインに触れ、ついで、後甲板に突入した。瞬時にして、艦の後半は火の海となり、第三砲塔は使用できなくなった。

 上空で、この火災を認め、戦友の体当りを目撃した僚機(りょうき:隊長機に従っていく兵の機)は、つぎつぎにカーティスに急降下爆を加えていった。

 第一弾は、後部の撃留浮標(原文ママ)に命中、第二弾は近弾、第三弾は、遠弾で共に命中せず、第四弾は、左舷のボート甲板に命中し、主装甲甲板を貫徹して、爆発した。数名の死者と五十名以上の負傷者を出して、船の損害はますます大きくなっていた。

 同じく真珠湾攻撃に於て、第二波攻撃隊の第三制空隊長飯田房太大尉(二階級進級、中佐)は敵弾のために、愛機の燃料タンクを裂かれ、ガソリンが洩れて、もはや母艦に帰るには充分な燃料のないことを知ると、列機を集めて、これを母艦に帰える針路に誘導した後、部下に訣別して、単機戦場に引き返えし、格納庫に体当りした。

 詳細は不明であるが、マレー沖海戦に於て、わが航空部隊の精鋭が英極東艦隊の主力プリンス・オブ・ウエールズおよびレパルスを撃沈した時、わが一式陸上攻撃機一機が、プリンス・オブ・ウエールズに体当りしたことを米誌は伝えている。

 昭和十七年三月、ジャバ上陸作戦のとき、輸送艦団の上空直衛をしていた陸軍機は、艦団に突進してくる敵水雷艇に体当りして艦団を身をもって守った。

 昭和十七年六月、ミドウェー海戦に於ては、友永丈市大尉(二階級進級中佐)は赤城、加賀、蒼竜相ついで猛火に包まれて、飛竜だけが孤軍奮闘している時に、戦機を失うことをおそれ、燃料タンクの破れたままの飛行機に、片道の燃料を搭載させ、莞爾として山口司令官、加来艦長に別れを告げて、敵空母に「止め」の攻撃に向った。

アメリカ側の資料には、友永大尉機の奮戦を明かにするものはないが、大尉の率いる雷撃隊が損害をかえりみずに肉迫して、その魚雷二本が、ヨークタウン(CV-5)に命中したことは、敵側も認めている。この片道攻撃は、すでに離艦の時から生還を期さない十中十死の特攻攻撃であった。

 昭和十七年十月二十六日、南太平洋海戦では、わが攻撃機一機が、燃えながら、空母ホーネット(CV-8)に体当りした。

 アンダマン島附近では、陸軍機が英船に突入している。

 昭和十八年十月十九日、マリアナ沖海戦の初期、戦場に向って進撃する空母大鳳から、艦爆(艦上爆撃機)に搭乗して発艦した航空兵曹長小松咲雄は、大鳳に向って迫る魚雷を発見し、とっさに魚雷に向って体当りを決行して、身を捨てて大切な母艦を護ろうとした。

 昭和十九年十月十四日の午後、台湾沖海戦に於ては、敵弾をうけて火達磨(ひだるま)になったわが雷撃機は、巡洋艦レノ(CL-96)に突入した。体当りをくった敵艦の損害は大きく、戦列を離れて、修理の為に、ウルシーに後退していった。

 昭和十九年十月十五日、比島(フィリピン)クラーク・フィールド基地に於て、指揮をとっていた第二十六航空戦隊司令官有馬正文少将は、戦勢を判断し、一機一艦を屠(ほふ)る体当り戦法によって、戦勢挽回の機をつくろうと、自(みず)から飛行機に搭乗して、出撃したのであったが、敵側の資料では、当日敵の被害艦は出ていない。

ある米誌には、 「日本側は、有馬少将は空母に体当りしたと宣伝しているが、実際は海中に墜落したのだ」 と書いている。群がる敵戦闘機の攻撃か、或(あるい)は筆舌につくしえないような熾烈な敵の対空砲火の為か、雄図空しく、接敵中に万斛(ばんこく:はなはだ多い分量)の恨をのんで散華されたことであろう。

 有馬司令官は、私の海軍大学校時代の恩師であって、今、私は教官の温顔を思い浮べ、しばし筆をおいて、合掌する。

 食うか食われるかの戦斗(闘)のさなかに、身は傷つき、飛行機も破損して、最寄の基地まで帰れなくなった場合、あるいは飛行機が火を発して、焔(ほのお)が飛行服を焦がし、後数分の余命も疑わしい急迫した時に、敵を目前に見ながらあっさりと 「わが事終われり」 と手を挙げる者は、一人もないといってよかろう。

誰れでもが、最後の努力を結集して、少しでも多くの敵を斃(たお)し、少しでも多く敵に損害を加えて、使命を果さんものと、目標に向って一途(いちず)に突撃していくのが、戦かう者の心理である。

 「最後は敵艦に体当り」 という言葉は、私の知る限りに於て、日本海軍搭乗員(航空機パイロット)の合言葉であった。実に怖(おそ)ろしい執念であるが、これが刃を交している時の戦かう者の闘魂なのである。

(中略)

 特に、物量の差がだんだんと深まってくるにつれて、味方の歴戦の勇士は、つぎつぎに戦場から消え、伎倆の点においても練度の不充分を嘆ずるにいたってはなおさらのことであった。

 城英一郎大佐が体当り攻撃隊を編成して、自分をその指揮官に任じて貰いたいと進言し、岡村基春大佐が 「私に三〇〇機の体当り攻撃隊をつくらしてください。かならず戦勢を挽回します」 と進言したのも、この頃のことであった。

体当りによって、爆撃精度を極度に向上させて、敵の空母を撃沈しようという考えかたは、当時の第一線にあった人々の、心の奥に高まっていたのであるが、海軍の最高司令部は、これを許さなかった。

 大西中将が、十月二十日、神風特別攻撃隊を令せられた時機は、ちょうど卵の中の雛(ひな)が、充分に発育して、いつでも外に出られるようになったときと同じように、特攻隊誕生の時機だったのである。

 親雞(おやどり)が卵をつついて殻を破る機会を作ってやるように、大西中将は、親雞の役をつとめて、この勃々たる愛国の情を、そして、これまで、戦局に応じて思い思いにやってきた体当り攻撃を一軍令の下に組織化したのであった。

 中将は、神機をとらえて親雞の役をつとめられたのであるが、この役は、大西中将以外の人では不可能であったであろう。



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