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2016/11/23

特攻に先がけた人々1 帝国陸軍|特攻隊とマスコミ(4)


毎日新聞の記者が「特攻は今から72年前の10月に始まった」と書いているのを見かけましたが、これは誤りです。

大東亜戦争における体当たり攻撃は、特攻隊編成以前から行われていました。

帝国陸・海軍の特攻隊編成は、それまで戦闘中のパイロットが各自の判断で行っていた体当たり攻撃を、現地司令官の命令で組織化しただけです。

特攻隊が編成される半年前、1944(昭和19)年4月14日、陸軍の石川清雄曹長が米軍が発射した魚雷に体当たりして輸送船団を守る、という偉業を成しました。

この石川曹長の体当たり攻撃は昭和天皇の聞こしめされるところとなり、第一線の若者たちの特攻隊参加の心情を高めたといいます。

それ以降、マスコミは「体当たり」という言葉を頻繁に使い始めたそうですから、「一億総特攻」の空気を醸成して特攻を実施しやすくしたのはマスコミではないでしょうか?

しかも石川曹長が体当たりした魚雷は、日本船と見れば貨物船だろうが、客船だろうが、病院船だろうがかたっぱしから撃沈していた米軍が発射したものでした。

日本のマスコミはそういう米軍のジュネーブ条約違反にはまったく触れずに、日本の特攻隊編成だけを責めるのです。

そんなふうに偏っているから、「偏向報道」といわれるのです。

特攻以前の特攻 帝国陸軍の場合

年月日隊 名場 所目 標
1943/
昭和18年
5月8日
飛行第十一戦隊
小田忠雄軍曹
東部ニューギニア
マダン付近
米軍機B-17を体当たり攻撃、
輸送船団を救う
1943/
昭和18年
9月12日
飛行第五十四戦隊
横崎二郎中尉
北千島方面B-24編隊(6機)
横崎二郎中尉機がB-24編隊
長機に体当たり撃墜、他のB-
24も撃墜された
1944/
昭和19年
4月14日
飛行第二十六戦隊
石川清雄曹長
ベンガル湾ポート
ブレア沖約30キロ
付近
船団護衛に任じていた石川
曹長がわが船団に向けて発
射された魚雷
の航跡三条を
発見、翼を振って船団に
危機を知らせるも船団では
把握できず。

曹長は魚雷に射撃を試みた
が効果なく、ついに曹長
みずから体当たりして魚雷を
破壊、船団の危機を救った
1944/
昭和19年
5月27日
飛行第五戦隊長
高田勝重少佐が
率いる二式複戦
四機
ニューギニア
ビアク島付近
ビアク島友軍基地に艦砲
射撃を加えていた敵駆逐
艦群
1944/
昭和19年
8月20日
飛行第四戦隊
野辺重夫軍曹、
高木伝蔵兵長
北九州上空中国の基地から飛来した
B-29
1944/
昭和19年
10月19日
第一野戦補充飛行隊
阿部信弘中尉機以下
三機
ニコバル諸島ニコバル諸島を攻撃中の
英艦隊
【出典】1977(昭和52年)ビジネス社 生田惇 「陸軍航空特別攻撃隊史」
 陸軍航空特攻の編成着手


石川曹長が搭乗していたのは、一式戦闘機「隼」でした。

翼を振ることを「バンク」といいます。

【翼を振る「隼」】
映画「翼の凱歌」、1分43秒あたり。



そしてさらにさかのぼれば、特攻隊編成の一年半前である1943(昭和18)年4月7日付の大阪朝日新聞に、陸軍航空機の自爆に関する記事があります。


1943(昭和18)年4月7日付 大阪朝日新聞

二、我方の損害 自爆または未だ帰還せざるもの四機。


帝国陸軍特攻以前の特攻1

敵三十八機を屠る 船舶十隻をも撃沈破 陸鷲、東印爆撃の戦果

大本営発表(四月六日十五時三十分)帝国陸軍航空部隊の東部印度攻撃による四月一日より同四日までの総合戦果次の如し

一、敵に与えたる損害
(イ)飛行機 撃墜二十機 地上撃破十八機
(ロ)船舶 撃沈 五百トン級二隻 撃破 一千トン級三隻 五百トン級五隻
(ハ)軍事施設 爆砕炎上十数箇所

二、我方の損害 自爆または未だ帰還せざるもの四機

【出典】神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 軍事(54-090)大阪朝日新聞 1943.4.7(昭和18)


このように、特攻隊以前の特攻があったのです。

そして特攻は反日マスコミが捏造・宣伝するように、誰かに命令されて始まったものではありません。

われら日本人が共産党の侵略から国土と皇室を守るために自発的に始めたものだったのです。


昭和のマスコミ「特攻隊員は犬死に」→いまのマスコミ「どんな若者たちが散っていったのか?」はぁ?


「特攻」十死零生の作戦に選ばれた、若きエリートたちの苦悩
ある、元特攻兵の証言

2016年10月29日 現代ビジネス is-Media

特攻。「十死に零生」のこの作戦を命じられたのは、当時のトップエリートを含
む若者たちだった。なぜ彼らは特攻隊員として選ばれたのか。歴史の「闇」を、
『特攻』の著者で、毎日新聞・栗原俊雄記者があぶり出す。

「統率の外道」と呼ばれた作戦

戦史には詳しくなくとも、「神風特別攻撃隊」(特攻隊)とご存じの読者は多いだろう。近年でいえば特攻を題材にした小説『永遠のゼロ』が大ベストセラーになったことが記憶に新しい。

その特攻は、今から72年前の10月に始まった。第二次世界大戦末期、アメリカやイギリスなどの連合軍に追い詰められた大日本帝国陸海軍の航空機が、搭載した爆弾もろとも敵艦に突っ込む攻撃隊である。成功すれば、搭乗員は必ず死ぬ。

(中略)

全体の戦果はどうだったのか。どんな若者が散っていたのか。そもそも誰がこんな「作戦」を始めたのか。次回みてきたい。


本記事の資料

元陸軍大尉「特攻に先がけた人々」


出典:1977(昭和52年)ビジネス社 生田惇 「陸軍航空特別攻撃隊史」 陸軍航空特攻の編成着手



 1 特攻に先がけた人々

 特攻隊の編成は、簡単に決意され、実行に移されたものではなかった。その前に敵飛行機、艦船に体当たりを決行した数多くの勇士があった。その壮烈な行動が、中央部に対しては特攻隊編成の決意を固めさせ、第一線に対しては若者の血をたぎらせ、特攻隊参加の心情を高めた。

  次に、感状を受けその功績が全軍に布告されたもの、二階級特進の栄に浴した勇者の戦闘を、発生の順に記述する。

 B-17への体当たり

 昭和十八年五月八日、飛行第十一戦隊(一式戦)の小田忠雄軍曹は、東部ニューギニア、マダン付近でB-17を体当たり撃墜し、輸送船団の危急を救った。

【一式戦闘機「隼」一型】
hayabusa_01gata.jpg


 魚雷への体当たり

 昭和十九年四月十四日、飛行第二十六戦隊(一式戦)の石川清雄曹長は、ベンガル湾、ポートブレア沖約三十キロ付近で魚雷に体当たりして船団の危急を救った。

この日午前十一時三十分ごろ、船団護衛に任じていた石川曹長は、船団左方三千メートル付近に魚雷の航跡三条を発見した。直ちに基地に報告するとともに敵潜水艦の推定位置を爆撃した。そして船団側上方を翼を振りながら船団に魚雷の進行を知らせようとした。しかし、船団ではその航跡を確認できなかった。

曹長は魚雷に射撃を加えたが効果なく、ついに魚雷に急降下突進したのである。轟然たる大音響と大水柱とともに魚雷は破壊された。松川丸搭乗の一千三百名と資材は難を免れ、無事目的地に入港した。この行動は同船団乗船の旅団長から詳細が報告され、六月三日上聞(じょうぶん、しょうぶん:君主の耳に入ること)に達した。

 高田飛行隊の戦闘

 十九年五月二十七日、飛行第五戦隊長高田勝重少佐の率いる二式複戦四機が、ビアク島付近の敵駆逐艦群に突入した。以下はこの戦闘唯(ただ)一人の生残り本宮利雄曹長の手記である。

× × × × ×


 高田戦隊長は一機一艦を屠(ほふ)る決意の下に「我々は上司の命令はないが、敵がビアク島に上陸しているのに、このまま見棄てておくことはできない。只今(ただいま)より敵艦隊を攻撃する」と訓示して出発した。

 マノクワリを右にして高度約八百メートルで航進し、ヌンホル島を左後方にしたころ、雲の切れ目からP-47数機を認めたが乱雲のため敵に発見されることなくビアク島に近付くことが出来た。

高度を百メートル程度に下げ前方を見たところ、モクメルの沖合いに駆逐艦を先頭に、輸送船を交えた十四隻が二列にならび、ビアク島の友軍陣地に向かい艦砲射撃(海上から陸へ向けて艦砲を発射すること)をしているのを発見した。

 戦隊長は 「只今より攻撃を開始する。これが最後になると思うが、長い間世話になった」 と言われ、私に笑顔を見せたのち、左側の駆逐艦を攻撃した。

突然の攻撃に、艦上では逃げまどう敵兵がいっぱい見えた。一瞬後には猛烈な対空射撃が始まり、一寸の隙もない逆スコールであった。

三番艦を攻撃しつつ後方を見ると、先頭の駆逐艦は艦尾から黒煙を吐いていた。その時左発動機に受弾し、黒煙に包まれながら四番艦を攻撃した。同艦は中央部付近から発火し大火災を起こした。

二番機として続いていた工藤軍曹機は駆逐艦攻撃と同時に被弾し、火だるまとなって二番艦に突入自爆した。同艦は大火災を起こして沈没した。

 岡部中尉機も右列の駆逐艦をかけると同時に被弾し、黒煙を吐きながら右列の先頭艦に突入自爆した。同艦は大爆発を起こして艦尾から急傾斜し沈没した。

 高田戦隊長は第二回の攻撃後、一度離脱して片発飛行で基地に帰ろうとしたが、目前の自爆を見、又最後まで続いていた松本曹長機の攻撃の直後に 「本宮曹長、只今より岡部中尉機の仇討ちをする」 と叫び、攻撃に移った。

 ところが突然P-47が現われたため、これと応戦、高田戦隊長は負傷し、右発動機も被弾して火を吹き出した。戦隊長は伝声管を通じ、かすかな声で 「本宮曹長、只今から自爆するから基地に打電せよ」 と命じられた。

しかし無線機も受弾し送信出来ず、そのことを報告すると 「そうか、仕方がない」 と言われ、高度百五十メートル付近から海中に突入した。

 私は海中に突っ込んだとき機外に投げ出され、気が付いてみると洋上を漂流していた。その状態は二昼夜も続き、ビアク島の西岸に漂着した。

空腹と寒さのため、気を失って倒れているところを土人(原文ママ)に助けられ、友軍の基地に連れて行かれ、六月一日マノクワリの海軍基地に移送された。

同地からは海軍の一式陸攻機により六月四日エフマンに帰った。一時は、なぜあのときに戦隊長と一緒に死ななかったかと心で泣いた。


【一式陸上攻撃機】
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× × × × ×


 この攻撃に参加した人々は次のとおりである。

 
陸軍少佐高田勝重
同 中尉岡部敏男
同 曹長松本忠吾
同 同本宮利雄
同 同工藤隆弘
同 同岩本 弘
同 同野崎正範
同 同深津芳春













 高田隊の攻撃は、ビアク島守備の将兵に多大の感銘を与えた。ビアク島守備隊司令官葛目直幸大佐は、同島を視察に訪れていた第二方面軍参謀長沼田多稼蔵中将に 「私には男児がある。どうか航空機搭乗員となり、敵艦に体当たり攻撃するよう、父の最後の願いとして伝達してください」 と述べた。

人の子の親の遺言としては、まことに残酷である。しかし、それが第一線将兵の覚悟であり、また、高田隊の攻撃の見事さを語る一つの証左であろう。

 その後、本宮曹長の報告、現地部隊からの通報等によって、高田隊の戦果は駆逐艦撃沈二隻、同撃破二隻と判定された。

 同攻撃は各方面にも大きな反響を呼び起こした。陸軍中央部では二式複戦程度の軽飛行機でも、体当たりによって駆逐艦を撃沈できるという確信を得て、いよいよ特攻に対する期待を大きくした。


【二式複座戦闘機「屠龍」】
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また第一線部隊では、被弾して帰還不能となった場合は、機上から爆弾の信管を外(はず)して体当たりできるよう、機体を改修する部隊が現われ始めた。

 体当たりでB-29二機撃墜

 十九年八月二十日、中国奥地から出撃し北九州を襲ったB-29に対し、飛行第四戦隊(二式複戦)の野辺重夫軍曹(高樹伝蔵兵長同乗)機が体当たりを敢行、一挙に二機を撃墜した。この時高度七千メートルにあった戦隊は、最前方の佐々編隊が敵の第二梯団に突進し、西尾、木村編隊がこれに続いていた。

それから幾らか遅れて折尾上空にいた野辺機は敵梯団長を捕捉し 「ただいまから第一撃」 と報じ第一弾を放った。射程距離がやや遠くて成功せず、敵機は回避行動に移った。

そのまま第二撃をかけるには位置が悪く、北九州工業地帯はすぐそこであり、反転再攻撃の余裕がなかった。 「野辺体当たり敢行」 と、野辺機の無線が叫んだ。

 一直線に突進した野辺機は敵梯団長機に激突した。大きな火の渦が生じ、両機はバラバラになって墜落した。そのとき飛び散った発動機らしい黒塊が敵の二番機に激突し、同機は左翼を失い、大きな錐(きり)揉みを描いて落ちていった。

 野辺機の後方に位置していた樫出勇中尉機は、その後方の編隊長機を攻撃して撃墜した。樫出中尉と戦隊を空中指揮していた小林公二大尉が、野辺機の壮烈な体当たり攻撃を眼前に見た。

同日、同戦隊の戦果は撃墜確実九機、同不確実八機と報告された。その確実のうちの二機が野辺機のものである。

 阿部編隊の空母体当たり

 十九年十月十九日、第一野戦補充飛行隊阿部信弘中尉機以下三機の一式戦が敵艦に体当たりを敢行し、その三隻を撃沈させた。

このニコバル諸島を攻撃中の英艦隊は、日本側の注意を比島(フィリピン)方面からそらすための陽動の機動艦隊であった。わが攻撃隊は、攻撃隊長を第一編隊長の丸山公一大尉が兼ね、第二編隊長垣尾勝中尉、第三編隊長阿部信弘中尉の各編隊三機、計九機である。

 カーニコバル島の手前で左下方に空母一隻を中心に計七隻の敵艦が横隊になって東進するのを発見した。眼下の敵艦は猛烈な対空射撃を実施しつつ、一斉に回頭退避行動に移った。同時にほとんど同高度真正面に横一線に散開した二十機以上のボートシコルスキーが発見された。太陽を背にしたわが隊は、やや有利な態勢で対進し、激しい空中戦が展開された。

 この間、攻撃隊の三機が、敵艦目がけて突進した。丸山隊長は空戦中、眼下の四本マストの敵艦が横腹からパッと火を噴くとともに横転するのを目の隅に捉えた。

 激闘約三十分、掩護隊は約十一機の撃墜を報じたが、わが方は一機が撃墜され、三機が被弾不時着し、無事なのは丸山隊長ほか一機だけであった。

阿部編隊の戦闘は地上守備隊が目撃していた。現地の独立混成第三十六旅団の情報記録には、次のように記載された。

× × × × ×


 更ニ敵艦隊主力ニ攻撃ヲ加エ超低空ヨリ空母目掛ケテ突入シ内一機ハ其ノ艦橋ニ自爆セル如ク艦ハ猛爆猛炎ニ包マレツツ轟沈ス 引続キ東海面ヨリ主力ニ合流セントスル一群ニ攻撃ヲ続行再ビ二番艦ニ自爆セシ如ク艦尾ニ大爆発ヲ生ジ逐次艦尾ヨリ沈没 巡洋艦必死救助作業ヲ為(ナ)スヲ望見サル

 先刻マデ飛行場ニ対シ砲撃中ナリシ敵艦モ遂ニ退避運動ニ入リシガ我ガ戦闘機一機ハ此(コ)レヲ逃サズ攻撃セルモ遂ニ防禦砲火ヲ受ケ猛然其ノ艦橋ニ自爆シ敵艦ハ大火災ヲ生ジツツ南方ニ遁走ス

× × × × ×


 戦後、英大使館を通じて調査した結果 「三機とも突入に成功し、一機は空母イラストリアス艦橋付近に激突、大火災を起こし同艦は黒煙を噴きつつ単艦で戦場を離脱、じ後(原文ママ)に成功しツリンコマリに帰投、修復ののち戦列に復帰した。

また他の一機は大型駆逐艦に激突、大火災ののち同艦は沈没した。別の一機は駆逐艦に突入、同艦は真っ二つに折れ轟沈した」 ということであった。

 前二者の報告には若干の相違はあるが、ただ三機の戦闘機をもって挙げた戦果として絶大のものであることについては間違いない。

この勇壮な戦闘と戦果は、軍中央部と若者たちの感激を呼び、この後、小型機による攻撃が、特攻攻撃の主流を占めるようになった。

 この日、敵空母攻撃のために機上の人となった阿部中尉は、機付兵を呼び机中の葉書二通の発信を依頼した。このうち、父母宛のものは次のように記されていた。

 大和民族ノ強靱ナル粘リヲ表ハスハ今ト更ニ充分充分覚悟ヲ固メ当分貴地或ハ兄上姉上トノ間ハ打切リノ積リトナシ 屍ヲ敵大型機或ハ大型艦ト共ニ散ラサン迄ハ今後ノ御無音御許シ下サイ

 悠々世界地図ヲ観スルノ時皇(スメラ)御楯(ミタテ)ノ先駆(サキガケ)トナリ遥カ幾万里ノ彼方迄見敵必殺ノ闘魂ヲ沸(タギ)ラセツツ戦フ身上誠ニ無上ノ歓喜ト光栄ヲ覚エマス


 阿部中尉の父は阿部信行大将、阿部中尉とともに敵艦に突入した者は、同隊の寺沢一夫曹長および中山紀正軍曹である。




「一億総特攻」を煽動したマスコミ


出典:1996(平成8)年 株式会社ベストセラーズ カミカゼ刊行委員会編
   「写真集カミカゼ 陸・海軍特別攻撃隊」上巻
   特攻作戦の背景と経過 妹尾作太男



 体当たりニュースの登場

 このころ、前線からさかんに"決死的体当り攻撃"のニュースが伝えられだした。昭和19年4月、米潜から発射された魚雷に急降下体当りして輸送船を救った"荒鷲"石川清雄曹長の手柄話が、南方〇〇基地から報告された。石川曹長の功績は天聴(てんちょう:天皇がお聞きになること)に達し、死後2階級特進して陸軍中尉となり、靖国神社に祀られた。

(中略)

 10月初め、新聞、ラジオは"神風"という言葉をやたら使い始めた。日本の指導者、国民、パイロットたちは当時、奇跡を信じていた。弘安4(1281)年の元寇のときのように、今度も神風が吹いて、きっと日本を救ってくれるだろうと信じていた。


 
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