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2016/11/20

特攻は天皇の命令ではない2 帝国海軍|特攻隊とマスコミ(3)


海軍特攻隊も陸軍特攻隊と同じく、天皇の命令によって編成、出撃したのではありません。

天皇直属で海軍トップの役職である海軍軍令部長は、特攻隊に関する打ち合わせで大西瀧二郎中将に、

「中央から特攻は指示しない。しかし現地部隊の自発的実施は黙認する」

と返答しています。

ですから、特攻隊は天皇の命令で編成、出撃したのではありません。

事実、昭和天皇が初めて特攻隊をお知りになったのは、初出撃から10日近く経ったころでした。

海軍特攻隊も陸軍と同じく、昭和天皇の御裁可をいただかずに、現地司令官の命令で組織され、出撃していったのです。


【特攻隊の発案者とされる大西瀧二郎中将】
昭和20年8月16日夜明け、大西中将は官舎で腹を横一文字にかき切って自決した。中将はかけつけた副官に「なおるようには、してくれるな」と言い、半日以上苦しんだ午後六時ついに絶命した。大西中将は散華した多くの部下将兵とその遺族に謝するため自らの刃に伏したのである。
大西瀧治郎少将

昭和天皇が特攻隊員に賜ったお言葉

昭和天皇が特攻隊について、聞こしめされたのは10月末のことでした。

特攻隊の初出撃は昭和19年10月21日の大和隊ですから、10日近く経ってから、昭和天皇は初めて航空隊の特攻作戦についてお知りになられたのです。

特攻隊の戦果をお聞きになった昭和天皇は、フィリピンの201航空隊とセブ派遣隊に

「そのようにまでせねばならなかったか」

との、お言葉を賜りました。

昭和天皇のお言葉からは、どこにも持って行きようのない驚きと悲しみが伝わってくるようです。

昭和天皇のお言葉をマニラで拝聴した大西中将は「作戦指導にたいしてお叱りをうけた」と考えたようでまったくおそれいった様子、だったそうです。

ですから、陸海軍特攻隊は天皇の命令ではありません。

もとより、大日本帝国憲法は天皇に「発言権」「決定権」「拒否権」を許してはいませんでしたし、

事実は特攻隊誕生の半年前、昭和19年4月に石川清雄曹長が魚雷に体当たりして輸送船を救った時から、マスコミは「日本人は全員突入して死ね」といわんばかりに"決死的体当たり攻撃"を煽動し始めていました。

反日マスコミはアメリカや旧ソ連、中国にとって都合の悪いことはキレイに隠ぺいして、「天皇独裁で戦争は天皇の指示で遂行された」という架空の戦前日本を戦後日本人に刷りこんできたのです。


毎日新聞
「天皇は特攻を喜んでいた。特攻は天皇が命じたのではないか?」


日本人が終戦まで「特攻」を止められなかった、驚きの理由
尊い犠牲の上に、今日があるからこそ

2016年11月13日 現代ビジネス is-Media

特攻。「十死零生」の作戦はなぜ生まれたのかを探る本連載。最終回は、次第に「成功率の低い作戦」と判明していく中で、それでもなぜこの作戦を止めることができなかったのか。その「謎」を紐解く。毎日新聞・栗原俊雄記者のスペシャルレポート。

■「お前ら、覚悟しろ」

「特攻隊を志願しましたか?」

筆者がそう問うと、江名武彦さん(1923年生まれ)は答えてくれた。

「いえ。意思を聞かれることはありませんでした」

早稻田大学在学中の1943年12月、江名さんは学徒出陣で海軍に入った。

(中略)

前回書いた通り(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50088)、1944年10月に最初の神風特別攻撃隊を送り出した大西瀧治郎中将は、大日本帝国海軍航空部隊を育てた一人である。しかも、航空特攻を「統率の外道」と認識していた。それでもなぜ、大西は特攻を推進し、続けたのだろうか。

(中略)

同日、梅津美治郎参謀総長が、昭和天皇に戦況を上奏した。天皇は「体当リキハ大変ヨクヤッテ立派ナル成果ヲ収メタ。命ヲ国家ニ捧ケテ克(よ)クモヤッテ呉レタ」(『昭和天皇発言記録集成』掲載、「眞田穣一郎少将日記」)と述べた。

これに先立つ同月8日にも、天皇は梅津に対して「特別攻撃隊アンナニタマヲ沢山受ケナガラ低空テ非常ニ戦果ヲアケタノハ結構デアッタ」と話している(同日記)。

「あんなに敵弾を受けて」云々という内容からして、天皇は特攻の写真もしくは動画をみたのだろうか。いずれにしても、これらの史料からは天皇が特攻の戦果を喜んでいることが分かる。

ちなみに、2014年に完成し公開された「昭和天皇実録」には、特攻に関する記述がある。それによれば、天皇は梅津からの報告に対して「御嘉賞になる」(同日)とある。「実録」は、1990年から宮内庁が国家事業として作成したものである。

四半世紀の時間と莫大な税金を投じただけあって、歴史研究の貴重な資料となるものだが、特攻の場面から分かる通り、天皇の生々しい肉声が削られている憾みが残る。

(中略)

こうした「『尊い犠牲=今日の繁栄と平和』史観」は、戦没者の追悼式で、来賓の国会議員などがしばしば口にするフレーズだ。

筆者はこの歴史観に同意する。同意するが、そのフレーズには危険性があることも感じている。それはたくさんの犠牲者たちを悼むあまり、追及すべき責任を追及させなくさせる呪文になり得るからだ。

本当に死者たちを悼むならば、以下のことを考えるべきだと、筆者は思う。

たとえばたくさんの人たちが死んだ戦争を始めたのは誰なのか。あるいはどの組織なのか。敗戦が決定的になっても降伏しなかったのか誰なのか。そしてそれはなぜだったのか。特攻でいえば、それを始めたのは誰だったのか。責任者は責任をとったのか、とらなかったのか、と。
(後略)


本記事の資料

(  )内は管理人による注釈です。

海軍軍令部「中央から特攻隊は指示しない」


出典:1971(昭和46)年 朝雲新聞社 防衛庁防衛研究所戦史室
「戦史叢書 比島捷号陸軍航空作戦」 第三編 捷一号航空作戦 
第一章 レイテ決戦初動の航空総攻撃(昭和十九年十月中旬~十月末)



 神風特別攻撃隊の編成

 二十日、第一航空艦隊司令長官寺崎中将は、大西瀧二郎中将と交替した。前日、大西中将の主唱による体当たり攻撃隊が編成され、「神風特別攻撃隊」と命名された。十月二十日の第一航空艦隊戦力は、戦闘(戦闘機)二四、艦攻(艦上攻撃機)一一、中攻(中型攻撃機)二、陸爆(陸上爆撃機)二、偵察(偵察機)一計四〇機であった。

大西中将は赴任にあたり、軍令部との打ち合わせで海軍航空部隊の現状と術力からみて特攻作戦断行の決意を披瀝した。及川軍令部総長は、「中央からは指示しない。しかし、現地部隊の自発的実施に反対せず、黙認する」旨を述べた。



※管理人注
・軍令部…帝国海軍の中央軍令機関であり、その長官は海軍軍令部長である。

・軍令部総長…1931(昭和6)年法律第九号により「海軍軍令部長」を「軍令部総長」に改む。

軍令部長は帝国陸軍の参謀総長とともに、皇軍統帥の最も重大且つ神聖な任務を負う。海軍軍令部条例第二条には「海軍軍令部長は天皇に直隷し帷幄(いあく:作戦計画を立てる所。本陣。本営)の機務(きむ:機密に関する政務)に参し又海軍軍令部の部務を統理(とうり:すべおさめること)す」とあり、第三条には「海軍軍令部長は国防用兵に関することを参画し親裁(しんさい:君主がみずから裁断を下すこと。御裁可)の後之(これ)を海軍大臣に移す」とある。

海軍軍令部は海軍省と対等の地位にあり、軍令(軍令部)と軍政(海軍省、海軍大臣)はまったく独立し互いの干渉を受けることはなかった。

【海軍系統一覧表】
海軍系統一覧表2_2

 
【出典】
1932(昭和7)年 日本評論社 平田晋策 「海軍読本」 三 用兵作戦の本部-海軍軍令部
1912(大正元)年 東亜堂書房 矢野常太郎 「海軍軍政要覧」 第三章 海軍軍令部海軍系統一覧表の出典も同じ)
昭和16年2月27日 内閣 「御署名原本・昭和十六年・法律第九号・海軍軍法会議法中改正法律」




昭和天皇「そのようにまでせねばならなかったか」


出典:1967(昭和42)年 河出書房 猪口力平/中島正
  「太平洋戦記 神風特別攻撃隊」



 陛下のお言葉

 特攻隊はつぎつぎに東方洋上や、レイテの敵にむかって出撃した。敵もまたこのセブ基地を目の仇(かたき)のように攻撃してきて、激しい戦闘がつづいていた一〇月も末のことである。 敷島隊の戦闘経過を聞かれた陛下のお言葉がとどいたのである。

私は、敵空襲の恐れの少ない夕刻をみて、指揮所前に総員をあつめた。搭乗員(航空機搭乗員。特攻隊員もふくむ)はもちろんのこと、山すその木の下の整備所からも、明日の戦闘にそなえる整備にいそがしい整備員達が駆足であつまってきた。工作員も看護員も、夕食の用意をしている一部の主計員と当直の電信番兵をのぞいた、二〇一空とセブ派遣隊の総員が整列した。

 私は、お言葉の電報を捧持して、かれらのまえに用意された一段高い仮号令台の木箱のうえに立って、全員を見渡した。二一日以来レイテの攻防戦に策応する特別攻撃隊の出撃で、昼夜をわかたぬ猛作戦にもかかわらず、かれらの目は生き生きと輝いている。

 私はつつしんで言った。

「神風特別攻撃隊の出撃を聞こしめされて、軍令部総長にたまわったお言葉を伝達する」

 一瞬、一同のあいだに厳粛の気がみなぎった。

「陛下は神風特別攻撃隊の奮戦を聞こしめされて、『そのようにまでせねばならなかったか。しかしよくやった』とのお言葉をたまわった」

 みんなはお言葉を拝して身じろぎもしない。私はつづけた。

「このお言葉を拝して、拝察するのは、おそれながら、われわれはまだまだ宸襟(しんきん:天子の心)をなやましたてまつっているということである。われわれはここにおいてますます奮励し、大御心(おおみこころ:天皇の心)を安んじたてまつらねばならないと思うのである」

 総員とともに、このように心に誓った私は、台から降りて指揮所の階段をあがり、椅子に腰をおろした。そして一両日まえに、作戦指導のためセブにきていた猪口参謀から、つぎのことを聞いたのであった。

「マニラでこのお言葉を拝した大西長官は、まったくおそれいられたようだ。それは指揮者たる長官としては、作戦指導にたいして、むしろお叱りをうけたと考えられたからであろう」と。


【セブ基地】
Philippines_kichi_セブ



1944(昭和19)年4月から体当たり攻撃ニュースをさかんに
流したマスコミ

「荒鷲」とは航空機搭乗員のことです。


出典:1996(平成8)年 株式会社ベストセラーズ カミカゼ刊行委員会編
   「写真集カミカゼ 陸・海軍特別攻撃隊」上巻
   特攻作戦の背景と経過 妹尾作太男



 体当たりニュースの登場

 このころ、前線からさかんに"決死的体当り攻撃"のニュースが伝えられだした。昭和19年4月、米潜から発射された魚雷に急降下体当りして輸送船を救った"荒鷲"石川清雄曹長の手柄話が、南方〇〇基地から報告された。石川曹長の功績は天聴(てんちょう:天皇がお聞きになること)に達し、死後2階級特進して陸軍中尉となり、靖国神社に祀られた。

(中略)

 10月初め、新聞、ラジオは"神風"という言葉をやたら使い始めた。日本の指導者、国民、パイロットたちは当時、奇跡を信じていた。弘安4(1281)年の元寇のときのように、今度も神風が吹いて、きっと日本を救ってくれるだろうと信じていた。



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