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2016/11/17

特攻は天皇の命令ではない1 帝国陸軍|特攻隊とマスコミ(2)


帝国陸軍の特攻隊は昭和天皇にたずねることなく、第一線で編成が決定され、組織されたものです。

1944(昭和19)年春、陸軍中央部は特攻隊編成に関する二つの案について論議しました。

その結果、特攻隊は、天皇に上奏せず陸軍大臣の発令としてあつかわれることになりました。

ですから、特攻隊編成は天皇の命令ではありません。


【隊歌を合唱する第58振武隊員と女子挺身隊】
第58振武隊員と女子挺身隊


元帝国陸軍大尉の手記から~特攻隊編成の根拠文書

特攻隊編成は陸亜密(陸軍省発令の文書区分)によって命令されたものです。

天皇の御裁可をいただく大陸命または参謀総長の指示による大陸指ではありません。


出典:1977(昭和52)年 ビジネス社 生田惇 「陸軍航空特別攻撃隊史」 巻末付録1 特攻隊編成および運用状況(昭和十九年~同二十年八月)



注 特攻隊編成についての大陸命(裁可を得た大本営陸軍部命令)、大陸指(参謀総長の指示)はない。巻末の付表に付記した陸亜密第何号というのは、陸軍大臣の部署として出された陸密(陸軍省発令の文書区分)の発翰番号である。これが、特攻隊編成の根拠文書である。


〈管理人注:参謀総長とは:陸軍の中央統括機関で陸軍大臣、教育総監にならぶ陸軍三長官のうちの一つ。参謀本部条令では「参謀総長は天皇に直隷して帷幄(いあく:軍中のとばり、陣営)の軍務に参画し国防及用兵に関する計画を掌(つかさど)り参謀本部を統轄す」と定められている役職〉


〔凡例〕地名…教導飛行師団 KFD…教育飛行師団  FD…飛行師団 F…戦隊
    戦飛集…戦闘飛行集団 

隊 名編成担任編成根拠
万朶鉾田陸亜密第10899号
富嶽浜松陸亜密第11037号
八紘第一~十二隊
八紘明野陸亜密第11337号
一宇常陸
靖国51KFD
護国10FD
鉄心鉾田
石腸下志津
丹心明野陸亜密第11680号
勤皇鉾田
一誠明野
殉義常陸
皇魂鉾田
進襲下志津
旭光75現地指揮官特令
若桜75F
皇華208F
菊水5飛行団
精華30戦飛集
その他諸隊




陸軍上層部で論議された二つの案とは、以下の甲乙案でした。



・甲案…天皇に上奏裁可を仰いだ上で、特攻隊を正規の軍隊編成としてあつかう

・乙案…特攻隊を陸軍大臣の部署として陸密により発令し、第一線兵団に増加配属した上で第一線指揮官が臨機に定めた部隊編制としてあつかう



激論の末、

「技術・生産・教育等の不振を第一線将兵の生命の犠牲によって補うことを天皇の名において発令することは適当でない」

という結論に至りました。

そして終戦まで、乙案が採用されることになりました。


同じく元帝国陸軍大尉の手記から~特攻隊編成は乙案が終戦まで採用された


出典:1977(昭和52)年 ビジネス社 生田惇 「陸軍航空特別攻撃隊史」 第1章 苦悶の果てに 陸軍航空特攻隊の編成着手



 2 志願か命令か

 昭和十九年春、陸軍中央部は敵艦船に対する体当たり戦法の採用を決意し、その戦法に必要とする特攻兵器の開発に着手したが、その後、しばらくは表立った動きはなかった。陸軍中央部内では、特攻隊の編成方法をめぐって激しい論議が行われていたのである。

 それは、正式の軍隊として、天皇に上奏裁可を仰ぐか否(いな)かの問題であった。

 甲案は、特攻戦法を中央が責任をもって計画的に実行するため、隊長の権限を明確にし、団結と訓練を充実できるように、正規の軍隊編成とすることが必要であるとするものである。

乙案は、特攻要員と器材を第一線兵団に増加配属し、第一線指揮官が臨機に定めた部隊編成とすべきであるとするものである。

それは、わが国の航空不振を第一線将兵の生命の犠牲によって補う戦法を、天皇の名において命令することは適当でないとするものである。

 結局、乙案が採用された。比島(フィリピン)作戦に敗れ、沖縄作戦準備のためふたたび大量の特攻隊が編成された。その計画的運用のため甲案の採用が提議されたが、時の航空総監阿南惟幾(あなみこれちか)大将は、断固として乙案堅持を主張した。阿南大将は、自らも特攻隊員として敵艦に突入する決意であった。最後まで乙案の方式が堅持されたのである。


天皇に「発言権」「決定権」「拒否権」はなかった

これは従軍慰安婦や南京大虐殺といった捏造にもいえることですが、帝国憲法においても天皇は国政の責任の外に置かれていました。

戦前天皇は大日本帝国憲法第一章第四条で「統治権ヲ総攬シ」と「天皇が行使できるのは統治権のみ」と規定され、第三条では政治の責任の外に置く、と規定されていたからです。

天皇は大臣らが決めた政策に御裁可をお与えになるだけのお立場でした。



大日本帝国憲法

第一章 天皇

第三条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラズ

第四条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此(コ)ノ憲法ノ條規ニ依リ之(コレ)ヲ行フ

【出典】1999(平成11)年 有斐閣 「小六法」 平成12年版


この第三条は立憲君主国の憲法の決まり文句のようなものだったそうです。

たとえば、イギリス両院が女王の死刑執行令状を提出したならば女王はそれに署名しなければならなかったそうです。

そして日本の皇室においても、憲法はイギリス流に運用されていました。

なので韓国が世界に宣伝するように「天皇の慰安婦」とか「慰安婦は天皇から兵への贈り物だった」ということは、絶対にありえません。

もの知らずな韓国は今上天皇を被告としてアメリカの裁判所に告訴しましたが、従軍「慰安婦」も特攻隊も天皇の命令ではないのです。


それでも、事実を完全無視して、妄想を世間にタレ流すのが日本のマスコミです。

特攻隊は、終戦直後に米軍とも決着している事案です。

毎日新聞の「特攻隊を編成したのは誰だ?天皇か?責任を取れ」と問う記事を見るにつけ、どこかの国が日本を戦争にまきこむために、あらかじめ日本人を精神的に武装解除しようとして書いた記事としか思えません。


毎日新聞「天皇は特攻の成果を喜んでいた」


日本人が終戦まで「特攻」を止められなかった、驚きの理由
尊い犠牲の上に、今日があるからこそ

2016年11月13日 現代ビジネス is-Media

特攻。「十死零生」の作戦はなぜ生まれたのかを探る本連載。最終回は、次第に「成功率の低い作戦」と判明していく中で、それでもなぜこの作戦を止めることができなかったのか。その「謎」を紐解く。毎日新聞・栗原俊雄記者のスペシャルレポート。

■「お前ら、覚悟しろ」

「特攻隊を志願しましたか?」

筆者がそう問うと、江名武彦さん(1923年生まれ)は答えてくれた。

「いえ。意思を聞かれることはありませんでした」

早稻田大学在学中の1943年12月、江名さんは学徒出陣で海軍に入った。航空機の偵察員となり、茨城県の百里原航空隊に配属された。

(中略)

同日、梅津美治郎参謀総長が、昭和天皇に戦況を上奏した。天皇は「体当リキハ大変ヨクヤッテ立派ナル成果ヲ収メタ。命ヲ国家ニ捧ケテ克(よ)クモヤッテ呉レタ」(『昭和天皇発言記録集成』掲載、「眞田穣一郎少将日記」)と述べた。

これに先立つ同月8日にも、天皇は梅津に対して「特別攻撃隊アンナニタマヲ沢山受ケナガラ低空テ非常ニ戦果ヲアケタノハ結構デアッタ」と話している(同日記)。

「あんなに敵弾を受けて」云々という内容からして、天皇は特攻の写真もしくは動画をみたのだろうか。いずれにしても、これらの史料からは天皇が特攻の戦果を喜んでいることが分かる。

(中略)

こうした「『尊い犠牲=今日の繁栄と平和』史観」は、戦没者の追悼式で、来賓の国会議員などがしばしば口にするフレーズだ。

筆者はこの歴史観に同意する。同意するが、そのフレーズには危険性があることも感じている。それはたくさんの犠牲者たちを悼むあまり、追及すべき責任を追及させなくさせる呪文になり得るからだ。

本当に死者たちを悼むならば、以下のことを考えるべきだと、筆者は思う。

たとえばたくさんの人たちが死んだ戦争を始めたのは誰なのか。あるいはどの組織なのか。敗戦が決定的になっても降伏しなかったのか誰なのか。そしてそれはなぜだったのか。特攻でいえば、それを始めたのは誰だったのか。責任者は責任をとったのか、とらなかったのか、と。
(後略)




アメリカ戦略爆撃調査団「日本は特攻を神聖な使命だと"宣伝"した」


出典:1996(平成8)年 光人社 大谷内一夫訳編 「ジャパニーズ・エア・パワー-米国戦略爆撃調査団報告/日本軍の興亡」 高くついた自殺攻撃



 八、結論

a、自殺攻撃は、大本営に、陸海両空軍が正規の航空軍としては敗北したことが明白になったとき、絶望的戦術として使用された。

 これらの攻撃を持続させる方法として、日本はこれらを天皇のために死ぬ「神聖な使命」(ディバイン・ミッション)として宣伝した。しかし、この攻撃が開始された理由は、かんたんにいえば冷静で合理的な軍事決定であった。(コールドリイ・ロジカル・ミリタリー・デシジョン)

 


本記事のその他の資料

(  )、〔  〕内は管理人による注釈です。


防衛庁防衛研究所戦史室の資料から~帝国陸軍は乙案を採用した


出典:1971(昭和46)年 朝雲新聞社 防衛庁防衛研究所戦史室 「戦史叢書 比島捷号陸軍航空作戦」 第三編 第一章 レイテ決戦初動の航空総攻撃



 特攻隊の編制

 特攻隊員は志願者をもって、充当することを根本方針とされた。人柱的な必死の攻撃であるから、要員は必ずしも高い練度は必要でなく、いわゆる係累が少ない青年を選ぶという考え方が基本的であった。しかし、将校下士官の配分、その出身別(航空技術を学んだ陸軍の学校別のこと)、隊長、あるいは中堅幹部などを考慮すると、その選定は決して簡単ではなかった。陸軍中央部が準備した最初の特攻二隊(萬朶〔ばんだ〕、富嶽〔ふがく〕)の隊長は、ともに最精鋭の中堅幹部であった。

 特攻隊の編制で激しい議論を生じたことは、これを制式の軍隊として天皇に上奏裁可を仰ぐか否(いな)かであった。

 甲案は特攻戦法を中央が責任をもって計画的に実行するのであり、その成果を発揮するには、隊長の権限を明確にし、その隊の団結、訓練を充実できるような正規の軍隊編成とすることが必要であるというのであった。

 乙案は特攻の要員と器材を第一線兵団に増加配属(陸軍大臣の部署として陸密により発令)し、第一線指揮官が臨機に定めた部隊編制とすべきであるというのであった。

それは技術生産教育等の不振を、第一線将兵の生命の犠牲によって補うことを中央部、特に天皇の名において命令することは適当でないという理由によるものであった。

 この論議は特攻戦法の規模拡大とともに、長く続けられたが、最後まで後者の方式が採られた。すなわち、表面的には一般の部隊に準じ、隊名、隊長などが定められたが、厳密な意味から、その隊長は隊員の人事、教育、賞罰等に関する完全な統率権がないのであった。




・大日本帝国憲法は天皇を国政の圏外に置いた
・女王処刑を決定した政策であっても女王がサインするのがイギリス流立憲君主制


出典:1986(昭和61)年 日本教文社 小堀桂一郎 「今上天皇論」



小森義峯博士は近著『天皇と憲法』(昭和六十年、皇学館大学出版部刊)の中に、「もし両院が一致して女王の死刑執行令状を提出するなら、女王はそれに署名しなければならぬ」といふウォルター・バジョットの言葉を引いてをられるが、イギリス流の立憲君主制とはさうしたものであり、そして元老西園寺公望公が今上天皇に常に説いてお聞かせ申上げてゐたのは立憲君主制の斯様(かよう)なイギリス流運用であった。

(中略)

 明治二十二年から昭和二十一年まで、五十七年間に亙(わた)って日本の国家基本法でありました大日本帝国憲法には、その第一章第四條に以下の様な有名な規定がありました。

 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此(コ)ノ憲法の條規ニ依リ之(コレ)ヲ行フ

 この規定を以て、維新後の新生日本は確(たしか)に天皇親政の外観を呈してはゐましたが、同時に、〈此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ〉といふ條文の拘束力は甚(はなは)だ強いものでありました。もちろんそれはこの字句そのものに法的な権威があったといふよりもその後の憲法の解釈と運用の過程で、殊に元老と呼ばれる天皇に近い有力な老臣達の意向で次第にその拘束力が強まって行ったと見るべきでありますが。加へてその前の第三條には、

 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラズ

といふこれまた有名な規定がありますが、これは実は何処(どこ)の立憲君主国の憲法にも共通に出てくる、例へば、デンマークとかオランダの憲法にも記されてゐる、一種の定型句の如きものであって、実際には、天皇(君主)はその行為に関して法律上如何なる責任も負はない、といふ甚だ即物的な意味のものであります。

 従って以上二つの條文の含意を裏から見れば、天皇には法的責任のかかってくる様な行動や意思決定を認めることはできない。天皇は国政の責任の圏外に置く、といふ意味になります。そこで現実に、天皇は輔弼(ほひつ:天皇の行為や決定に関し進言し、その結果について全責任を負うこと。国務上の輔弼は国務大臣、宮務上の輔弼は宮内大臣および内大臣、統帥上の輔弼(輔翼とよぶ)は参謀総長・軍令部総長の職責であった)の任にあたる大臣達が決定した政策に対してはただ御裁可をお与へになるだけであり、それに対して心中御異議がおありになっても、拒否権の発動はおろか、修正意見を表明することすらもおできにならなかったのです。




【参考資料】
1940(昭和15)年 高山書院 武田謙二 「新陸軍読本」 第九 帝国陸軍の組織 


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