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2016/11/14

特攻隊員募集キャンペーンを張った新聞社|特攻隊とマスコミ(1)


反日のシーズン8月でもないのに、毎日新聞が特攻隊を組織した責任者を追及しています。

けれども真実は戦前新聞社は、陸海軍の航空機操縦者不足対策に加担して、学生を戦列に加える動きに協力しました。

その協力とは、各新聞社が陸海軍の出陣学徒募集広告を四段ヌキ見出しで掲載したり、

毎日新聞社社会部の記者は、関西大学航空部の学生を海軍の白子航空隊まで連れて行って、「征け!空の決戦場へ」という対談に参加させたりしたそうです。

戦後71年経った今でも特攻隊編制の責任者を追及するのなら、戦前新聞社の責任も追及されるべきです。


参考:特攻隊を絶賛する朝日新聞(昭和19年10月29日付)
~この残酷な記事を見よ

神鷲の忠烈 万世に燦たり 神風特別攻撃隊敷島隊員
敵艦隊を捕捉し(スルアン島海域)必死必中の体当り
機・人諸共(もろとも)敵艦に炸裂
誘導の護衛艦、戦果確認
写真は関行男大尉。

特攻敷島隊

身を捨て国を救う崇高極致の戦法 中外に比類なき攻撃隊

特攻敷島隊2

両頬に静かな微笑 ああ神鷲いまぞ進発

特攻敷島隊3

二十四歳以下の若桜 
敷島、大和、朝日、山桜、菊水諸隊
(本文)比島決戦に初めてその名を現わした神風隊はその別名を必死必中隊という。

特攻敷島隊4

特攻敷島隊5

こんなふうに戦前の軍国主義的行為を批判されると、反日マスコミは

「軍部に言論弾圧されていたのだ!!」

という免罪符を持ち出しますが、1934(昭和9)年「文藝春秋」6月号に掲載された六大新聞論説記者座談会の内容を見ると、


軍部はメディアの言論弾圧など行っていない

「言論弾圧」と感じるのは新聞社が憶測で勝手に萎縮しているだけ

・右翼思想を非難する記事を掲載すると右翼が怒鳴りこんでくるので、その右翼を陸海軍当局の関係者だと誤解している



という結論に至っています。

反日マスコミが問う「戦争責任」とは

戦後反日マスコミが時たま熱病の発作のように、特攻の責任者や天皇の戦争責任を追及するのは、それが革命の一プロセスだからです。

戦没者を心から悼んで発作を起しているわけではありません。

フランス革命、ロシア革命、ドイツ革命に共通していることは、


戦争という共産主義の暴力革命を利用して赤化目標国を敗戦に導き、戦後の食糧不足や生活不安の責任を王室または皇室に転嫁して民衆を煽動し、革命を起す


という点です。

フランス革命では王妃が言ったとされる「パンがなければお菓子を食べればいいじゃないの?」という言葉が流布され、

ロシア革命では「戦争反対」スローガンがいつの間にか「パンをよこせ!」に変わり、

ドイツ革命では第一次世界大戦の終り頃から「戦後は食糧不足になる」というデマが宣伝されました。

おなじように敗戦後日本でも、日本共産党と在日朝鮮人が「食糧メーデー」と称して皇居前広場に押しかけています。

第17回メーデー皇居前広場1946

反日マスコミは平和主義者ではありません。

戦時中は戦争という共産党の暴力革命において共産党の人口淘汰策に協力し、

そして戦後は、特攻を恐れた連合国軍の日本弱体化政策と日本革命へのプロセスを忠実に実行する売国奴です。

戦前、若者の愛国心を刺激して戦場に送った責任は、マスコミにもあるのです。


毎日新聞「尊い犠牲」とは追及すべき責任を追及させなくさせる呪文になり得る


日本人が終戦まで「特攻」を止められなかった、驚きの理由
尊い犠牲の上に、今日があるからこそ

2016年11月13日 現代ビジネス is-Media

特攻。「十死零生」の作戦はなぜ生まれたのかを探る本連載。最終回は、次第に「成功率の低い作戦」と判明していく中で、それでもなぜこの作戦を止めることができなかったのか。その「謎」を紐解く。毎日新聞・栗原俊雄記者のスペシャルレポート。

■「お前ら、覚悟しろ」

「特攻隊を志願しましたか?」

筆者がそう問うと、江名武彦さん(1923年生まれ)は答えてくれた。

「いえ。意思を聞かれることはありませんでした」

早稻田大学在学中の1943年12月、江名さんは学徒出陣で海軍に入った。航空機の偵察員となり、茨城県の百里原航空隊に配属された。前任地の静岡県・大井海軍航空隊から百里原に到着したとき、上官が言った。

「お前たちは特攻要員で来たんだ。覚悟しろ」

特攻隊員になるかどうか、聞かれたことはなかった。
そして江名さんは南九州・串良基地から特攻隊員として2度出撃し、生還した。

(中略)

こうした「『尊い犠牲=今日の繁栄と平和』史観」は、戦没者の追悼式で、来賓の国会議員などがしばしば口にするフレーズだ。

筆者はこの歴史観に同意する。同意するが、そのフレーズには危険性があることも感じている。それはたくさんの犠牲者たちを悼むあまり、追及すべき責任を追及させなくさせる呪文になり得るからだ。

本当に死者たちを悼むならば、以下のことを考えるべきだと、筆者は思う。

たとえばたくさんの人たちが死んだ戦争を始めたのは誰なのか。あるいはどの組織なのか。敗戦が決定的になっても降伏しなかったのか誰なのか。そしてそれはなぜだったのか。特攻でいえば、それを始めたのは誰だったのか。責任者は責任をとったのか、とらなかったのか、と。
(後略)


本記事の資料

陸海軍の航空要員増強に加担した毎日新聞


出典:1976(昭和51)年 現代評論社 苗村七郎 「万世特攻隊員の遺書」 第三部 しのび草



 陸、海軍の空軍強化策

 昭和十六年十二月、ついに日本軍の真珠湾攻撃によって太平洋戦争に突入した。非常時、非常時の掛け声のなかで、大東亜戦争の緒戦の勝利に日本国民が酔いしれているとき、米・ドッドウェルの率いる米空軍による東京初空襲が行われ、その鮮やかさに敵愾心があふられるというより、航空戦の鮮やかさにあっと驚いたものだが、その後わずか三年後に、自分たちが軍服を着て艦船攻撃しようとは思いもかけないことであった。

 そのころ海軍の戦闘機乗りで戦傷を受けた歴戦の勇士永嶋弥之助教官と、養成所から岡部三郎教官が関西学連(関西学生航空連盟)に着任してきたが、その巧みな操縦には私たちも眼をみはらずにはいられなかった。それまでは簡単な宙返りか上昇反転、垂直旋回、キリモミなど特殊飛行であったが、本当に訓練そのもので、背面S字飛行、連続緩横転を、一日四〇分~一時間も手ほどきを受けた。

しだいに、われわれは学生でありながら、戦闘に参加できるような錯覚をするほどの猛訓練であったから、伎倆は急激に上達した。学生助教のくせに課目外の背面飛行をやってのけ、訓練中の後輩学生を驚かせ、またグライダーの特殊飛行も簡単にできるようになったので、まるで天下でも取ったような気持になっていたようである。

 このように学生航空の黄金時代を迎えた感じであったが、その背後では戦線の拡大、航空戦における敗退等報じられ、やがて陸・海軍ともに操縦者の不足が目立ちはじめると、私たち学生を戦列に加える動きがでてきた。

 これより前逓信省の民間飛行試験のほかに、一段下のランクで派遣将校の検定試験という制度ができ、陸軍の派遣将校のいる関西訓練所(大日本飛行協会関西訓練所)では操縦候補生を受けるかどうかの質問書が配られ、①必ず操縦候補生を受験する者、②考慮中の者、③絶対に受験しない者──の意見が調査された。もちろん、海軍の予備学生に行くことも自由であった。私の学連同期生は十六年に操縦七期生、十七年に操候(操縦候補生)八期生として出て行った。

 昭和十八年七月、大日本飛行協会阪神飛行訓練所〔日本学生航空連盟が民間航空団体統合のため改組されたもので所長・鶴見俊太郎陸軍少将、主任・中川喜久造〔〔学連先輩関大OB〕〕、教官・永島(原文ママ)弥之助〔〔海軍の歴戦の勇士〕〕、山村彰〔〔学連先輩、関大OB、戦後関大航空部復活の功労者、山村航空奨励賞がある〕〕、岡部三郎〔〔昭和二十年、特攻振武隊として出撃、戦死〕〕、島安博〔〔滑空部・操縦部教官〕〕、別所管〕で、学生による全国一周飛行が計画されたので、私は関西からこれに参加した。

(中略)

 私たちは九州の雁巣(がんのす。福岡市)から松江に飛び、つづいて金沢、新潟、青森、仙台、東京へと飛びまわり、私は各地でいわゆる"学生鳥人"として航空普及のために講演をさせられた。

 また昭和十八年には特別操縦見習士官制度〔勅令、陸軍省令〕が公布された。

 特別操縦見習士官は大学令による大学〔旧制〕学部または予科、高校、専門学校、高等師範、師範学校および陸軍大臣がこれと同時以上と認めた学校を卒業したものから選考のうえ採用、主として水戸陸軍飛行学校に入学、見習士官として一年半の教育を受けたのち予備役少尉に任官する。

このうち従前から飛行機、滑空機の操縦免許検定のあるものは一年で任官するが、見習士官の期間は陸軍大臣が必要によって変更できるので、さらに短縮されることもある。またこの期間生理的な欠陥などから操縦に不向きとなれば甲種幹部候補生となるが、見習士官の資格はそのままである。

 陸、海軍いずれも航空戦士の確保を急ぎ当時の各新聞紙上には「学窓から空の決戦場へ」「一刻も早く申込め」などの四段ヌキ見出しでキャンペーン記事が掲載された。私も航空経験者として毎日新聞社社会部の八野井実記者に連れられて海軍の白子航空隊に行き、"征け!空の決戦場へ"なる特集物対談に引っ張り出された。陸軍は海軍の予備学生(出陣学徒のこと)の向うを張って七月五日付各日刊紙上に「大学、高専生から一躍見習士官に、陸鷲陣画期的増強へ」「学徒から陸鷲への新道」などのキャンペーン記事を流したりした。




連合国軍の命令をいまだ守り続ける反日マスコミ
アメリカ海軍「特攻隊はゾッと身の毛のよだつような気味悪いものだった」


出典:1977(昭和52)年 ビジネス社 生田惇 「陸軍航空特別攻撃隊史」 第2章 特攻隊出撃 2 神風特攻隊出撃



 海軍航空特別攻撃隊の偉勲

 海軍特攻隊の猛烈な攻撃状況を、米海軍の戦史は次のように述べている。


 レイテ湾の大海戦の最中に、日本海軍最初の特別攻撃隊がアメリカ軍の艦船に体当たり攻撃を開始し、犠牲が続出し始めた。

 レイテ湾の大海戦で護送用航空母艦一隻が、このような自殺的攻撃で撃沈され、さらに、他の護送用航空母艦以下、五隻の艦船が神風特別攻撃隊の体当たり、もしくは当たりそこないで撃破されたのである。

 さらに、フィリッピン諸島の各基地から飛来した特別攻撃隊のアメリカ高速空母機動部隊に対する攻撃は、一層、被害甚大であった。すなわち十月二十九日には大型航空母艦「イントレピッド」が損害を蒙り、その翌日は、さらに大型空母「フランクリン」が特攻隊の体当たりを受けて飛行甲板に四十フィートの大穴を開けられ、アメリカ本国に修理のため回送された。


【空母フランクリン】
空母フランクリン

 ついで、高速軽空母「ベロー・ウッド」にも、また特攻機が体当たりをした。十一月五日には大型空母「レキシントン」が日本爆撃機の体当たりを食って損傷し、死傷者百八十二名を出した。


 このような型破りの戦術はアメリカ海軍に深刻な関心を呼び起こした。

 なぜならば、アメリカ海軍は、いまだかつて、この自己犠牲の光景ほど、ゾッと身の毛のよだつような気味悪いものを見たことがなかったからであった。
     (ロバート・シャーロット著『太平洋戦争』より)




陸軍省「軍は一定の事項以外、言論の弾圧はしていない。迷惑だ」
戦前新聞社「言論弾圧と思ったのは誤解だった」


出典:1988(昭和63)年 文藝春秋 「『文藝春秋』にみる昭和史」第一巻所収「六大新聞論説記者に言論の自由と圧迫を聴く座談会」(昭和9年6月号掲載)



 出席者

A・B東京朝日新聞
C・D東京日日新聞
E読売新聞
F・G・H報知新聞
I・J時事新報
K国民新聞









(前略)

D東京日日新聞 報知新聞さん、いつかの内報に、陸軍省の新聞掛りの人が、どうも陸軍省がむやみに新聞を圧迫する、抑圧するというようなことを新聞社が言っているが、そう新聞社が言うように、こちらでは、一定の事項以外、別にこれこれの事項を書いてはならんと、こんな極端な取締りはしておらん、それにもかかわらず、新聞社はこういうことを書いたら圧迫されはしないか、という思惑、その思惑を自分で過大にして、それで事実よりも風説が過大になるために、新聞そのものが萎縮したのである。それは何でも軍部の圧迫によって、新聞の社論がすべて萎縮したと見られちゃあ迷惑だ。だから、一つ思い切って、書きたいことは書いてみたらどうかということを言っていました。その人がどれほど責任の地位にいる人であったかは忘れましたが、思惑が多すぎるということは、事実ありゃあしませんか。

H報知新聞 ありましょうね。よく私は事情を知らないけれども、あまりに憶測で萎縮している点がたしかにあるんじゃないかと想像されますね。

D東京日日新聞 一部の知識階級の読者には、そう考えている人も多いですね。雑誌や新聞の、新聞評にもよくあるし、またそれほどでもないのに、なぜこれほど萎縮するかということを、よく聴かれるんです。

H報知新聞 それはやはり他人の資本に使われていることだからじゃありませんか。自分が金を出して、自分が新聞を経営しているならば、もう少し大胆にやれるが、資本主や自分の同僚に迷惑を及ぼしちゃあ相済まんという気持が、記者にあるんじゃないんですか。

G報知新聞 私はこういうことを思います。陸海軍の当局者は、そう酷(ひど)く圧迫を、抑圧を加えようという御考えはないけれども、ある新聞の論調にたまたま、何と言いますか、右翼思想を非難するようなふうが現われた時に、×××が怒鳴り込むことがございますね。その場合に何となく×××と陸海軍当局との間に連絡があるかのごとく誤解して、それを陸海軍の圧迫と考えた、というようなことはあるんじゃないかと思います。



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