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2016/11/08

TPPアメリカとユダヤ人の歴史


自民党が新アメリカ大統領決定前にTPP法案を衆院通過させようとして、挫折しましたね。

精神の国日本とちがって、アメリカはユダヤ人が作った国なので物質至上主義ですから、TPPは非常に危険な法案のように思えます。

コロンブスがアメリカ大陸を発見したとき、記念すべき上陸第一歩を踏んだのはユダヤ人の通訳だったそうです。

そののち、ユダヤ人の新大陸移住が開始され、ヨーロッパや西洋列国の植民地、ロシアなどでユダヤ人迫害が起きるたびにユダヤ人たちはアメリカに移住しました。

アメリカにおけるユダヤ人口は1800年代は約3000人だったのに、1933年には1500倍の約450万人まで増加したそうです。

それらの移住ユダヤ人たちが落ち着いた場所がオランダの植民地だったニューアムステルダム(現在のニューヨーク)です。

ニューヨークはユダヤ人が多く住む街なので、かつては「ジューヨーク」と呼ばれたそうです。

そして、アメリカのユダヤ人たちは第一次世界大戦の軍需景気で1000億ドルを手に入れ、その反動不況ではユダヤ系以外の銀行を3900行つぶしました。

そうやってアメリカの金融、産業を独占していったのです。

また1924(大正13)年のアメリカ移民法改正ではアイルランド人のような白人でさえも渡米が禁止され、また日本人が差別・大弾圧されていたときにも、ユダヤ人にだけは自由に渡米、移民する権利が与えられていました。

そしてアメリカが第一次世界大戦に勝利すると、彼らは世界ユダヤ民族の指導者という地位までも手に入れたのです。

アメリカ国民でさえもこれだけ生命、財産を搾取されているのに、

日本国憲法のようなTPPや移民という外国製の政策を受け入れることは、押しこみ強盗と居すわり強盗を迎え入れるのとおなじです。

戦前の外務省はこう言っています、「ユダヤ民族特有の『選民』意識による世界覆滅の上に立つユダヤ世界支配の理想は、独特の意義をもつ」と。


【妻と母方の血筋がユダヤ系だったといわれるコロンブス】
新大陸発見後、先住民を大虐殺した人物でもある。
コロンブス1


ユダヤ人のアメリカ移民年表

西 暦ユダヤ人がアメリカに移住した原因と理由
1492年コロンブスがアメリカ大陸を発見。ユダヤ人のアメリカ移住が
始まる。
1391年、スペインでユダヤ人迫害開始。
1492年、ユダヤ人国外退去命令が公布され、約30万人の
ユダヤ人がアメリカに移住した。
1630年17世紀のはじめ、スペイン王フィリップ三世がユダヤ人のスペ
領アメリカへの移住を禁止。

1630年、多数のユダヤ人がペルーに流入した。

16世紀末、すでにチリ、アルゼンチン等にはおびただしい数の
ユダヤ人が居住していた。
1654年ブラジルがポルトガルの植民地となったため、ポルトガルはブラ
ジルからのユダヤ人退去を命令した。

ユダヤ人の中にはアムステルダムへ帰るものもあったが、その
大部分はアメリカにおける他のオランダ植民地、英国植民地
および西インド諸島、または北アメリカに移住した。
1848年1840年のルイ・ナポレオンの革命、1848年のパリ・コンミュー
ンの革命の失敗により、ドイツ系ユダヤ人のアメリカ移住
開始。
1881年ユダヤ人に寛大であったアレキサンダー二世が虚無党員に
暗殺され、ふたたびユダヤ人迫害が開始された。

そのため約200万人のユダヤ人がアメリカに移住した。
1899年ユダヤ人のアメリカ移民を禁止していたイギリスがユダヤ人の
アメリカ移住を許可する。

すでにユダヤ人の国となっていたアメリカでは、1924(大正13)
年の移民法改正後もユダヤ人だけは特別にアメリカ移民が許可
された。
【出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:B10070439000:1940(昭和15)年7月 外務省調査部第二課 「アメリカニ於ケルユダヤ人問題 -歴史篇(前世界大戦迄)-/調二 第64号 其ノ1/1940年」


TPPを推進する勢力は親米派、反対する勢力は親中派
調教され、どこにも「わが国」がない日本の国会


TPP きょうの衆院通過断念 与野党の攻防激化
2017年11月8日 NHK NEWS WEB

TPP協定の国会承認を求める議案と関連法案について、自民・公明両党は、アメリカ側の承認を促すために目指していたアメリカ大統領選挙前の8日の衆議院通過を断念することになりました。両党は、10日には本会議で採決したい考えですが、民進党などは、山本農林水産大臣の辞任を求めて攻勢を強めていて、与野党の攻防が激しくなっています。

TPP=環太平洋パートナーシップ協定の国会承認を求める議案と関連法案は、山本農林水産大臣が「強行採決」に関するみずからの発言を「冗談」と述べたことなどに反発する民進党と共産党が激しく抗議するなか、先週、衆議院の特別委員会で可決されました。(後略)

ソース元URL:http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161108/k10010759331000.html

本記事の資料

(  )内は管理人による注釈です。

陸軍省
アメリカ移民法改正後もユダヤ人だけは自由に渡米


出典:アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C14020047100:1924(大正13)年 陸軍省 「米国に於ける猶太人の活動」内容概観



第二十一章  米国猶太人ノ其ノ勢力隠蔽手段

 現在露、独、波蘭諸国民ハ移民トシテ米国ニ入ルコト能ハサルニ拘(カカワ)ラズ猶太人ノミハ各国ヨリ自由ニ渡米シ而モ近来其ノ数激増シ米国移民ノ殆ント全部ハ悉ク猶太人ナルノミナラズ其ノ態度恰モ米国ヲ征服シタル者ノ如ク堂々トシテ来リ如何ナル手段ヲ以テスルモ之ヲ阻止スルコト能(アタ)ハズ



アメリカはユダヤ人の「約束の地」


出典:1924(大正13)年 大阪毎日新聞社 渡辺巳之次郎 「猶太民族の世界的活動」



 第十八章 北米合衆国
  所謂『約束の地』の如し

 米国と猶太人との関係の極めて親密なる事は既にコロンブスの所に説いた通りである。即ちコロンブス其(その)人が既に猶太人の血を引いている事、コロンブスが米大陸発見に要した資金は猶太人から出て居る事、猶太の商人がコロンブスと同船して米国に来た事、コロンブスが米国発見の航海に引いた海図や船具類は猶太人の発明品であった事など、即ちソレであるが、今米国の一大特産、世界の一大商品となって居る所の煙草を発見したのも米国に来たルイズ、ド、トルレスという猶太人であったし、又米国の砂糖業の元祖も猶太人で、米国歴史の第一ページとせらる、メーフラワー号到着以前に既にソレが盛(さかん)に経営せられて居たものであるなど米国の猶太人に負う所は実に非常のものである。

猶太人が今日米国を以て無上の楽土として盛に移住し現に二百万の多きを数うるに至り、殊に紐育(ニューヨーク)の入口なるハドソン河の一島マンハッタンの如き四人について一人の猶太人という割合を示すなど、真に偶然でないといいたくなる。



・イギリス植民地時代、ユダヤ人のアメリカ移民は禁止されていた
・アメリカのユダヤ人口1800年代は約3000人、1933年は約450万人と1500倍になった


出典:1938(昭和13)年 雄生閣 国際思想研究所[編]  「英・米・露に於けるユダヤ人の策動」 米国人のユダヤ観




 西暦千八百年、世界に於けるユダヤ人の総人口は二百五十万人であった。その大半はポーランド王国に居住していて、当時アメリカ国内のユダヤ人は僅々三千名に過ぎなかった。然るに一九三三年、世界のユダヤ人口は実に一千六百万人に上り、その中(うち)四分の一以上はアメリカ国内に居住している。

(中略)

 一体、人口増加の数字は単に相対的問題であって、過去百三十七年間に於ける千五百倍の増加は、その総数それ自体よりも増加の傾向に重要性が存する。何故に一八〇〇年のユダヤ人口が少数なりしかは、当時米国(英国植民地)にてユダヤ人が禁止されていたからであった。

(中略)

 第三章 米国に於けるユダヤ勢力

 一九三三年度のアメリカ人口統計によれば、ユダヤ人口は四百五十万に過ぎない。




アメリカ移民法改正で白人であるアイルランド人移民も渡米不可になった


出典:1939(昭和14)年 青年書房 伊東敬 「英帝国及英国人」 第二篇 現代英国の準内政問題 二、動揺欧州に於ける愛蘭(アイルランド)の重要性



 近来、愛蘭移民の有利な大量はけ口とされていた米国向けは先頃から不可能となって来た。その反動により愛蘭移民の対英渡航は英愛対立関係を超越して、著増の傾向を示すに至った。




・第一次世界大戦の軍需景気と反動不況を利用して1000億ドル集め、非ユダヤ系銀行3900行をつぶしたユダヤ財閥
・ユダヤ人の街ニューヨークはジューヨークと呼ばれた


出典:1939(昭和14)年 興亜学会 児玉信夫 「世界撹乱の陰謀:猶太民族は世界を征覇するや?」



 四、米国の猶太勢力

 世界を震撼させた大戦乱(第一次世界大戦)も漸く終局を告げて、その結果を総決算して見ると、このどさくさに一番多く金を掻き集めて巨莫の利益を収め獲たのは何といっても亜米利加(アメリカ)であった。けれども、この大戦成金の夢も十年と続かなかった。早くも一九二九年には亜米利加に経済大恐慌が起って好況の陶酔未だ醒(さ)めきらぬヤンキー達を奈落のどん底へ突き落として仕舞った、のみならず多年異境の米国にあって粒々辛苦の結果蓄積した日本人中にも、此(こ)の大パニックの煽りを喰って根こそぎやられたものも少くはない。

(中略)

 一九二九年亜米利加に起った大パニックも猶太財閥の人為的工作に基くもので、先(ま)ず彼等は大戦による重工業の勃興を巧みに利用し、戦時、平和の工業に関する会社を際限なく設立して行った。そして大戦によって亜米利加に流れ込んだ現金を株券に換えさせたことは勿論(もちろん)、戦争成金で有頂天になって居るヤンキー達の射幸心をいやが上にそそり立て、結局臍(へそ)くり金まで悉(ことごと)く掻き集めることに成功した。

かくて次から次へ会社は設立され現金は株券に換えられて行った。斯様(かよう)に事業会社濫造の結果は当然来るべきものとして生産過剰がある。この生産過剰こそ猶太財閥によって植付けられた争(騒)擾の苗であり、当然ヤンキーが刈り取らなければならぬ収穫であった。

畢竟するに会社工場の濫造は顧客を失った成品の濫造となり、成品の濫造は顧客の争奪戦を生み、成品の動きを停頓させ、遂には顧客を失った製品が工場に氾濫山積される結果となって、運営の敏活を欠き倒壊する大小会社は日を逐(お)うて続出する現象を呈し、株券は遂に無価値同様となって行った。

この反古に等しい株券を抱いては、嘗(かつ)て大株主を以て自ら任じた亜米利加の大衆も流石(さすが)に諦め切れず、会社を恨み、天を恨み、自らを恨み。善後策に狂奔したが時既に遅く、一方銀行へ銀行へと押寄せる取付(とりつけ)の群集も唯(ただ)雑存する許(ばか)りで、大戦に動いた一千億弗(ドル)に近い現金を集めることに成功した猶太財閥は、勿論(もちろん)、この取付騒ぎにも、猶太系以外の銀行には準備金すら廻そう者はなく、そのため破産倒壊の悲運を見た銀行の数実に三千九百行に及んだ。かくて猶太資本を合併して、猶太系の銀行だけが厳然として残ることになったことは、当然といえば余りにも当然すぎる帰結である。(モルガン関係の銀行はみなそれである)

そして衣服・靴・食料品等の日用品はもとより、凡(およ)そ米国内に於ける産業、財界は猶太人の独占するところとなって仕舞った。

紐育(ニューヨーク)は猶育(ジューヨーク)といわれる程に猶太人の跋扈を見、此処(ここ)に住するもの約二百万人といわれその猶太人は何れも大金持ち許りである。中にも、モルガン、モントカメリー、ウォールフ、ポール、ワルブルグ等は有名で一般によく知られて居る。




外務省「ユダヤ民族特有の『選民』意識による世界覆滅の上に立つユダヤ世界支配の理想は、独特の意義をもつ」
アメリカにおけるユダヤ人発展史

アメリカは条約破りの常習犯でもあります。

イギリスとはクレイトンブルワー条約を、日本とは日米通商航海条約を、ロシアとは米露条約を、自国の利益のために廃棄しています。

政権与党が宣伝するようにいくら「TPPを骨抜き」にしても、安心できないのです。


出典:アジア歴史資料センター:レファレンスコード:B10070439000:1940(昭和15)年7月 外務省調査部第二課 「アメリカニ於ケルユダヤ人問題 -歴史篇(前世界大戦迄)-/調二 第64号 其ノ1/1940年」



 第一章 アメリカ・ユダヤ人の歴史

  第一節 アメリカ発見とスペイン領アメリカのユダヤ人

アメリカ大陸における猶太人の歴史は、アメリカが新大陸として世界文明の舞台に登場した瞬間から始まった。即ちそれはコロンブスのアメリカ発見にはじまったのである。

コロンブス自身は疑いもなくスペイン人であるが、彼の妻はユダヤ人であった。コロンブスの母方はユダヤ系より出ているという説もあるが、明瞭ではない。アメリカ大陸を発見したコロンブス自身はスペイン人であったが、彼の妻はユダヤ人であった。コロンブスの母方はユダヤ系であるという説もあるが明瞭ではない。

コロンブスは、先(ま)ずポルトガルに於て彼の印度(インド)旅行の計画を立てたが、ポルトガルの Jaoa 王の顧問にしてユダヤ人であった Vechino がそれに反対したので、王の援助を得ることが出来なかった。

そこで彼はスペインに赴いたのであるが、そこでは Luis de Santangel や Gabriel Sanchez や Juan Cabrero 等、スペイン王室に対して可なり影響力ある有力なユダヤ系の人々の斡旋によって、遂にイサベラ女皇の援助を得てその大事業を達成したのである。

コロンブスの随伴者中には多数のユダヤ人がいたと見られているが、その中の主だったもの少くとも五名だけは確認されている。しかも、第一にアメリカの土を踏んだヨーロッパ人は、実に通訳者たるユダヤ人 Luis de Torres だったのである。

新大陸発見と共にユダヤ人は続々流入して来たが、特にこのアメリカ発見が、恰(あたか)もスペインに於けるユダヤ人追放によって三十万のユダヤ人が世界各地に移住した時代に該当したので、アメリカへの流入も大規模であったわけである。

(中略)

一三九一年にセヴィラ(セビリア)で起った大虐殺事件は、全スペインに波及し、ユダヤ人は身を以て国外に逃亡し、或るものはキリスト教に改宗した。この改宗者は Marranos と称せられたが、その後永く仮装キリスト教として疑われた。

一八四一年に、キリスト教の宗教裁判所 Inquisition (或は異教裁判所 Ketzergerichte )は、遂にユダヤ人を拷問して偽キリスト教徒也(なり)と裁判し、他数(原文ママ)のものが炙殺の刑に処せられた。

勿論イスラム教徒たるムーア人もこの迫害を受けたのであるが、スペイン大審院長 Thomas de Torquemada は、グラナダよりムーア人を追放し、次で一四九二年には大蔵大臣たるユダヤ人 Abrabanel の反対を排して、ユダヤ人国外退去の勅令を布告せしめた。

このため追放された三十万のユダヤ人は、モロッコ、イタリー、トルコ、ポルトガル等の近隣各地へ移住したが、そのうち多くのものが、またアメリカ大陸へ生活を求めて移住するに至ったのである。

(中略)

「スペインに於けるユダヤ民族の歴史が終わるところに、アメリカに於けるユダヤ民族の歴史がはじまる。異端糺問所は、ピレネー半島に於けるユダヤ教信仰告白の最後の章であり、西半球の大陸に於ける最初の章である」 と M・カイザーリンクは書いている。

スペインの追放によって大量にアメリカへ流れ込んだユダヤ人等は、当初はここでも亦(また)迫害と苦悩の生活を送らねばならなかった。スペイン本国に於ける宗教迫害の手はここにも延びて居た。それにも拘(かかわ)らずユダヤ人は大量に移住した。

遂に十七世紀のはじめに至って、スペイン王フィリップ三世は、反移民法を発布してムーア人及びユダヤ人が許可なくしてスペイン領アメリカへ移住することを禁止した。

一六三〇年には多数のユダヤ人がペルーへ流れ込んだ。すでに十六世紀の終りには、チリー、アルゼンチン、カルタヂェナ、及びラブラッタには夥しいユダヤ人が住んで居り、それらの地のクリスチャンは次第に不満を持つに至った。当時のある公文書によれば、ユダヤ人これらの王国のあらゆる商業を殆ど独占的に支配するような地位にいた。

いわゆる「商人の街」はユダヤ人のみに帰属していた。小商売や運輸業等も彼等に独占されていたのであった。

(中略)

一六五四年、遂にブラジルは完全にポルトガルの所領となった。ポルトガルの監督は、ブラジルからのユダヤ人の退去を命じた。

ユダヤ人の中にはアムステルダムへ帰るものもあったが、その大部分はアメリカに於ける他のオランダ植民地、英国植民地及び西印度諸島等へ移住した。勇敢なユダヤ人は更に北米へ進出した。

(中略)

ナポレオン戦争後のヨーロッパには反セム(セム族。ユダヤ人のこと)主義が勃興した。「ウォーターローの戦はヨーロッパユダヤ人にとっても亦(また)ウォーターローであった。」(マッサーマン)

メッテルニッヒと神聖同盟はユダヤ人を排斥し、その権利を剥奪したり制限したりした。ボヘミア、ポーランド、ドイツのユダヤ人は新大陸へ続々と避難し始めた。

一八四〇年のルイ・ナポレオンの革命、特に一八四八年のパリ・コンミューンの革命の失敗のと共にアメリカへのドイツ・ユダヤ人の移住の波が始まった。

(中略)

 ロシア及びオーストリーのユダヤ人は以前から少しずつ流入していた。一八七〇年には合衆国のロシア系ユダヤ人は約五千名いた。

一八八〇年頃には約五万位になった。それは全合衆国ユダヤ人人口の五分の一である。(当時ニューヨークには八万のユダヤ人が住んでいた。)

 一八八一年には、ロシア系ユダヤ人のアメリカへの移住の波の高調に於て、実に二百万以上のものがなだれ込んで来たのである。これは合衆国に於ける先住ユダヤ人をその渦巻と生活脅威の嵐の中へ捲(ま)き込むに足るものであった。

(中略)

 一八八一年、アレキサンダー二世は、一虚無党員の手で暗殺された。そして、それと共に、ロシアに於けるユダヤ人の「黄金時代」も去ったのである。

宗教的頑迷が再び猛烈な闘争を開始した。爾来二十数年にわたる大ロシアの「ポグロム」(Pogorom ユダヤ人狩り)は、歴史上余りに有名であるから、私はここにその詳細を記述する必要を認めぬほどである。



 第二章 北アメリカに於けるユダヤ人の歴史

  第一節 合衆国独立前

一六四五年、ブラジルを離れた二十三名のユダヤ人が、北アメリカのオランダ植民地に入ろうとしてニューアムステルダム(現在のニューヨーク)に到着した。これより前にハドソン湾沿海植民地には富裕なるユダヤ商人が在住していたとも云(い)われるが、確定的ではない。

(中略)

小売商業を禁ぜられたユダヤ人は、海外貿易に向って発展するに至り、この方面では彼等の不幸なる追放の歴史がもたらした幸運ともいうべき、世界各地特にヨーロッパのユダヤ人との連絡によって、忽(たちま)ち北米の海外貿易を独占して巨利を博したのである。

またこれによって、ニューヨークは遂にアメリカに於ける最大の貿易港となったのである。

ユダヤ人等はこのニューアムステルダムを起点として、ロングアイランド、アルバニー、ロードアイランド、フィラデルフィア等北アメリカの諸地方へ拡がって行った。ユダヤ人は新植民地を経済的に建設しようとして、活発なる活動を開始するに至ったのである。



 第四節 第一次世界戦争と合衆国のユダヤ人

一九〇〇年のはじめから世界大戦の勃発した一九一四年の夏までに一、四四八、二二六人のユダヤ人が合衆国に移住した。即ち平均一年に十万宛の移住民があったわけである。そのうちの七〇パーセントの大部分はルーマニア系とオーストリア、ハンガリー系であった。

 アメリカ・ユダヤ人の生活は、明かにロシヤタイプが支配的となって来た。今やアメリカは世界に於ける最も巨大なユダヤ自由民の社会を持つようになった。アメリカン・ジュウイッシュ・コミッティーやケヒル(原文ママ)が出来たのもこの時代のことである。

 かくも厖大なるユダヤ人(特にロシヤ系)を擁し、しかもその中からアメリカ文化のあらゆる方面に於て重要な地位を占めるものを出した合衆国が、ユダヤ人(特にアメリカ国籍のユダヤ人)に対するロシヤ政府の待遇問題──(ロシヤでは一切のユダヤ人をユダヤ人として差別待遇した。アメリカ・ユダヤ人もアメリカ市民としてでなくユダヤ人として酷遇した)──に関連して、一九一二年遂に米露条約を廃棄するに至ったのも当然といわざるを得ない。

アメリカに於けるユダヤ人の政治的勢力は、最早や牢固として抜くべからざるものになって来たのである。これが、第一次世界大戦勃発直前の状態であったのである。

 しかし、かくも大量の打続く移民の流入は流石に広大なアメリカの領土を以てしても問題化せざるを得なかった。先住民の生活が問題となった。移入条件に制限を加えはじめ、健康状態や就職までの生活保証金の決定、人頭税の引上げなどが行われた。そして遂に移民制限法の制定を見るに至ったものである。大戦の勃発は移民の流れを切断した。

 一九一四年六月二十八日、ボスニアに於てセルビアの一青年が放った銃弾は、遂に世界戦争に発火した。同年十一月、ロシアの対トルコ宣戦布告によって、その年のうちに殆(ほとん)どすべてのヨーロッパ諸国は武器を取って立ち上がった。

この戦争は、アメリカのユダヤ人にとっても亦(また)一つのエポックを画するものであった。アメリカのユダヤ人は、これによって、決定的に世界ユダヤ民族の指導者となったのである。全体としてのユダヤ民族の唯一の希望、唯一の救済となったのである。

 世界戦争はユダヤ民族にとっては、スペインに於ける追放以来最大の破局であった。何故(なぜ)なら、戦争の最も激烈であった土地はユダヤ人の最大の定住地であったからである。

そこには実に六百万からのユダヤ人が住んでいたのであった。彼等の大多数は家や土地を失い、数万のものは軍人として戦争に立った。

 勿論(もちろん)この戦争自体の勃発の原因としても、ユダヤ人は他の民族と同様に、或(あるい)はそれ以上に──何となれば、彼等の国際性と、そのユダヤ民族特有の「選民」意識による世界覆滅の上に立つユダヤ世界支配の理想は、独特の意義をもつからである──考慮さるべきものを持つことは明かである。(続)




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