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2016/11/06

伊藤博文公暗殺犯はアメリカだった!!説


伊藤博文公暗殺の犯人は朝鮮人テロリスト安重根ですが、安に拳銃を渡したのはアメリカだったという説があります。

伊藤公が第二回日露協商について話し合うため、満州のハルピンを訪れたのは1909(明治42)年10月のことでした。

その当時、帝政ロシア国内はいい感じで共産革命が進行中でした。

ロシア革命を工作したのはアメリカのウォール街つまり共産党ですから、日露協商(協約)が成立してロシアが豊かになったら革命が頓挫してしまいます。

そうなれば革命に投資した巨額の金はパーになってしまいます。

そこでアメリカは安重根をそそのかして伊藤公を暗殺させたのだそうです。

ちなみに、安重根をそそのかしたのは在鮮アメリカ人宣教師だったそうです。


【2年おきに調印されていた日露協商】
調印年月日調印した日露協約(協商)
2年
1907(明治40)年7月30日第一回日露協約
1909(明治42)年10月26日 伊藤博文公暗殺
2年
1910(明治43)年7月4日第二回日露協約
1912(明治45)年7月8日第三回日露協約
1914(大正3)年 第一次世界大戦開戦
1916(大正5)年7月3日第四回日露協約
1917(大正6)年 ロシア革命
1918(大正7)年 第一次世界大戦終戦



【伊藤博文公】
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【諸悪の根源:アメリカウォール街】
革命は暴力で手っとり早く他国の資産を強奪できる方法
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伊藤博文公暗殺までのできごと

伊藤公暗殺の模様を語ったのは、帝政ロシアの大蔵大臣だったココフツォフ氏に同伴していたロシア人です。

帝政ロシアでは軍人のトップや大臣は王族、貴族ですから、革命なんかまっぴらごめんですね。

なので、ハルピン駅で伊藤公を待つロシア要人たちは、ヒゲにつららが下がるほどの極寒の中にあっても、

「公を閣下と呼ぶのは不敬にあたるから殿下とお呼びしようか」

とためらうほどの、下にも置かぬ歓待ぶりで伊藤公を出迎えました。

その当時、ロシア国内では日露戦争中から続いていた「反戦運動」が「パンをよこせ運動」に変貌し、こ汚い労働者が

「オレたちを立法の仕事につかせろ」

と王族に要求するほど、革命の気運が高まっていました。

なので、伊藤公の訪露はロシアの貴族たち、また反革命派のロシア人にとって最後の希望だったのです。


【こ汚く、共産主義の「武装する自由」によって武装したロシアの労働者】
伊藤公が暗殺された1909年にはロシア国内でも王族が暗殺されるという血の惨劇が始まっていた。宣伝戦ロシア革命


そこへ、伊藤公を乗せた貴賓車がハルピン駅に到着しました。

公は車中でロシアの大蔵大臣と会談したあと、プラットホームに降り立ち、敬意を表するロシア軍人や儀仗兵の前を通りすぎます。

そして日本人居留民団、その次の外交団の前に来たとき、あの安重根というテロリストが居留民団の中から走り出て、捧銃(ささげつつ)をした儀仗兵のひじの下から七発もの銃弾を発射、その過半または三発の弾丸が伊藤公に命中しました。

この新式の拳銃で発射された弾丸は、撃たれた者の体内で自爆するというおそろしいものだったそうです。

このとき、安重根は朝鮮人とは思えぬ洋装を身にまとい、朝鮮人では手に入れようがない最新式のヨーロッパ製十二連発の拳銃を所持していたそうです。

その拳銃を安重根に与えたのはロシア系ユダヤ人で、安をそそのかして伊藤公暗殺を実行させたのは在鮮アメリカ人宣教師だったのです。

トクをするのはアメリカ

伊藤博文公は日韓併合反対派だったので安重根の愚挙により日韓併合が早まった、という大矛盾は日本ではつとに有名な話です。

伊藤公が暗殺されて日本は日韓併合、ロシアは革命とよいことは何もありませんでした。

しかし、よくよく考えてみれば伊藤公暗殺でトクをした国があります。それはアメリカです。

このロシア人の回想が事実ならば、

直情型の民族性を「恨の文化」、テロリストを「義士」などと言って持ちあげる勘違い朝鮮人はいいようにアメリカに利用され、さらに「日帝強占期」とやらの苦しみを味わわされたことになりますね。

そして日本人は戦後70年以上もしくは伊藤公暗殺後のこの107年間、伊藤公暗殺に関する真実は隠ぺいされてきたことになります。


ロシア革命でこれだけトクをしたアメリカ


・長い間ユダヤ人を弾圧してきた帝政ロシアを倒せる

・革命のドサクサにまぎれて、ロシアの金銀とロシア国民の財産を強奪できる

・日露関係を断絶し、さらに革命の恐怖を日本に与えることができる

・日韓併合実行後、朝鮮人を日本国内に流入させて日本革命を実現できる

・帝国を共和国に転落させることで、目標である世界統一に近づく

・イギリス、フランス、ロシアの単独不講和条約を破棄できる

・ドイツにヨーロッパ侵略の悪だくみをさせることができる

・イギリス軍にパレスチナを占領させることができる

・アメリカ参戦の機会を作ることができる

【一部出典】1924(大正13)年 内外書房 酒井勝軍 「猶太民族の大陰謀」



【来月伊藤公の出身地山口県を訪問する予定のプーチン露大統領】
気をつけて来てねー
プーチンゆめ1


TPPで国会は大荒れ、107年前なら暗殺案件だったかもw


世耕大臣 ロシアで事業展開の日本企業を視察
2016年11月5日 NHK NEWS WEB

日本とロシアの経済協力について、協議を進展させるためモスクワを訪れている世耕ロシア経済分野協力担当大臣は4日、現地で事業を展開している日本企業の取り組みを視察し、協力分野の広がりに期待感を示しました。

来月行われる日ロ首脳会談を前に、ロシアとの経済協力を進めるためモスクワを訪問している世耕ロシア経済分野協力担当大臣は4日、ロシアの極東地域を担当するガルシュカ極東発展相と会談しました。

会談では、極東地域がアジア向けの輸出拠点となるよう、港や空港などインフラ整備の検討を共同で行っていくことで一致しました。

その後、世耕大臣は、ロシアに進出している日本の不動産開発会社がてがけているマンションのモデルルームや、ロシアに6店舗を展開する日本のうどんチェーンの店舗を視察しました。

このうち、マンションのモデルルームはロシアではあまり普及しておらず、日本式の販売方法は人気があるということで、世耕大臣は、サービス業など日ロの経済協力の分野が広がっていくことに期待感を示しました。

外務省の統計によりますと、ロシアに進出している日本企業の数は452社で、この10年で1.5倍に増えているものの、企業の間からは、法制度が複雑で進出の障害になっているといった指摘も出ています。

来月の首脳会談に向けて経済分野でも関係強化の機運が高まっている日本とロシアですが、日本企業の進出を加速するには、これまで以上に政府と企業の連携が重要なカギとなりそうです。


TPP大荒れ国会1


本記事の資料

(  )内は管理人による注釈です。

また伊藤公薨去は10月26日ですが、資料では11月26日になっています。

帝政ロシア大蔵大臣ココフツォフ氏の同伴者、伊藤公暗殺の模様を語る


出典:1929(昭和4)年 二酉名著刊行会 包荒子 「世界革命之裏面」



八、伊藤公の狙撃は革命派の使嗾に因る
  公は帝政露国崩潰の第一犠牲者なり


談者は旧露国官吏にして大蔵大臣ココフツォフ氏等と共に哈爾賓(ハルピン)まで伊藤公爵を出迎せし人、後(の)ち革命の為仏蘭西(フランス)に亡命して余生を送りつつあり二十年前を追囘(回)して悔恨の涙に語れるもの左の如し

 一九〇九年の秋、国内稍(やや)小康を得たるを以て伊藤公爵を迎うることは此(こ)の機を逸してはならぬとて、各方面より手を尽しての懇請が功を奏し愈々(いよいよ)十一月大連より特別臨時列車にて露都に向わるることとなった。


【大連-ハルピン】
ハルピン地図1_2

 公爵を歓迎する露西亜(ロシア)国民の心事は想像以上で恰(あた)かも王者に対する如くであった是(こ)れ大なる期待と尊敬とを以てせるが故で、公爵を殿下と申さずばなるまい、閣下と呼んでは不敬であろうと躊躇した位であった。

 公爵乗用の車は善美を尽した貴賓車であった。着駅が早過ぎては国賓の御迷惑と慮って列車を徐行せしめ、公爵の夢を乗せて哈爾賓に到着したのは十一月十三日午前九時三十分であった(十三日は露暦日にして陽暦日とは十三日相違あり 我が明治四十二年十一月二十六日也)是(これ)より先、プラットホームには歓迎者が、北側より露西亜音楽隊次が清国儀仗兵、露国儀仗兵、次が外交団、哈爾賓市代表者、東清鉄道副総裁ウェンツェル氏、同長官ホルワット少将、護疆軍団長チヤァコーフ中将、鉄道旅団長フォンデルロップ少将、東清民政官アファナーシェフ少将、ヒルコフ公爵及支那施道台日本居留民団体で、此の中に公爵の狙撃者安重根が紛れ込んでいたのである。

 抑(そもそ)も露西亜官憲は公爵の万全を期せんが為(た)めに日本人と雖(いえど)も勝手にプラットホームに出入せしめず(させず)、前以て身許鮮明の人々にのみ切符を交附し置かんことを望み其の趣を提言したが、川上総領事は、左程(さほど)までするには及ぶまいとて、少人数しかなき日本居留民が日本の公爵を迎えるのに露西亜の切符にて制限さるるも面白からず思われしものか日本居留民に限り入場勝手たらしめた(とした)のである。

川上総領事の立場から見れば一応尤(もっと)もの話で、よもや朝鮮人が洋装して日本人の中に紛込むとは思わなかったであろう。吾々(われわれ)露西亜国にては警戒を厳重にするのが常であって万一警戒の緩みし時凶変の生ずるは必然であるのである。併(しか)し国情も違い居ることなれば強いて主張せず川上総領事の意を用いたのは千慮の一矢であった。

 特別列車は哈爾賓駅に停車して、暫し其の儘(まま)公爵は車中にて、敬意を表し旁(かたわら)日程の打合わせに来たれる我が大蔵大臣ココフツォフ氏と川上総領事の通訳にて会談し、要談を了(お)えて車外に出で、黒の山高帽を戴き黒の外套を着し、ステッキを携えて、列車最尾の貴賓車より露清両国の儀仗兵の整列せる前に降り、之(これ)より歓迎員の敬礼を南の端より順次に受けんとて列車に沿い南方に歩を移し始めた。是れ公爵が一歩一歩眼前の死に近づきつつあるのである。

斯(か)くて公爵は日本居留民の前に差蒐(かか)り更に歩をプラットホームの中央に転じて外交団の前を通過する時、爆竹の如き音は前列なる露国儀仗兵が捧銃(ささげつつ)の敬礼を行いつつある肘下より起った。是れ公爵を狙撃せる拳銃の音であった。七発の音の内過半は命中せるものの如く公爵は仰向けに倒れんとせらるるを左右の従者が支えて急ぎ元の貴賓車内に抱き入れたが程なく薨ぜられた。此の日は実に我が露西亜国を亡ぼすべく確定された第一日であった。

 一九〇五年の革命擾乱以来引続(ひきつづき)国内不穏にして、危きこと累卵の如かりしが、遂に一九〇九年伊藤公爵を迎え治国の要諦を知り又進んで日露協商をも為(な)さんと頗る期待された、故に露西亜官民は救世主の如く渇仰(かつごう:人の徳をあおぎ慕うこと)していたが、猶太(ユダヤ)系マツッン(原文ママ)団員等は公爵がサンクト・ペテルブルクに来られては瀕死の露西亜が甦(よみがえ)るとて、天主教徒(キリスト教徒)たりし朝鮮人安重根をして公爵を狙撃せしめたのである、此の朝鮮人を用いたことが猶太人の最も得意とする巧妙な手段であって、亡国の恨を持って凶行したと世人に思わしめた(思わせた)ものである。

安重根の用いた拳銃は自働(原文ママ)十二連発の西欧に於いても最新式の物で、中(あた)ってから弾丸が自爆すると云(い)う恐ろしき凶器であった。到底朝鮮辺りの人間の手にあるべきものではないのである。

 公爵の薨去は貴国日本の大なる損失には違いないが、露西亜に取っては実に致命的一大事であった。予(私)と昵懇(じっこん)なりしマッソン社員は予の熟知せる以外の事実を語りて得々たりしが、彼は更に語を転じて今後世に処せんにはマッソン結社員ならねば家族を安穏に生活せしむる能(あたわ)ず(できない)とて予に入社を勧め、明日を約して別れたるが、愈々革命勃発して再会の暇なく其の翌朝遂に露都を脱出し困苦辛酸漸く此処(ここ)に亡命して余命を保ちつつあるが、二十年後の今日当時を回想し実に断腸の思いありと涕涙(ているい:なみだ。またはなみだを流すこと)と共に語った。

 編者曰(いわく)、古来幾多の社稷(しゃしょく:国家。朝廷)を覆えせし朝鮮には伝統的に貴族大官の暗殺企てられ之(これ)を畢生(ひっせい:一生涯、終生)の業とせる者さえあり、又暗殺遂行者を偉なりとして死後之を祀る奇異なる信仰者少からず。此処に附(つけ)込みて使嗾せしものならんか(したものではなかろうか)。




帝政ロシア大蔵大臣ココフツォフ氏の同伴者、伊藤公暗殺の模様を語る その2

前半は上記の資料と同じですが、安重根の弾丸で負傷された人や関係者の立ち位置が記されているので併記しておきます。


出典:1930(昭和5)年 二酉名著刊行会 野口復堂 「大鼎呂」 第四十、伊藤博文の死は革命派の使嗾



 左(さ)は露国の旧官吏にして当時の大蔵大臣「ココフツォフ」と共に哈爾賓迄(まで)伊藤公を出迎し革命後は仏蘭西に亡命して余生を送りつつある人の伊藤公遭難の追懐談をなせしを、そのまま筆記せしものなり。

「西暦一九〇九年の秋は、国内稍(やや)小康を得たるを以て、伊藤公爵を迎うることは此の機を逸してはならぬとて、各方面より手を尽しての懇請が功を奏し、愈々(いよいよ)十一月大連より特別臨時汽車にて、露都に向わるることとなった。公爵を歓迎する露西亜国民の心事は想像以上で、恰(あたか)も王者に対する如くであった。是(こ)れ大いなる期待と尊敬とを以てせるが故で、公爵を殿下と申さずばなるまい、閣下と呼んでは不敬であろうと躊躇した位であった。

公爵乗用の車は善美を尽した貴賓車であった。着駅が早過ぎては国賓の御迷惑と、故意(わざ)と徐行の列車は公爵の夢を乗せて、ゆるゆると、頃合いの時間に哈爾賓に着いたのは、西暦一千九百〇九年露暦十一月十三日、午前九時三十分(日本歴明治四十二年十一月二十六日の朝)で、歓迎者は北側より露西亜音楽隊、次が清国儀仗兵、露国儀仗兵、次が外交団、哈爾賓市代表者、東清鉄道副総裁「ウエンツエル」同長官「ホルワット」少将、護境軍団長「チヤアコーフ」中将、鉄道旅団長「フォンデルロップ」少将、東清民政官「アファナーシェフ」少将其の外(ほか)「ヒルコフ」公爵及支那施道台、日本居留民団体と云う順序で、寒き「プラットフォーム」に歓迎者は吐く息を髯(ひげ)に最初は露の玉となり、続いて之(これ)を細き氷柱(つらら)となりて垂れる迄待たされたのは、公の車中へ入りし大蔵大臣が、川上総領事の通弁(通訳)で、長らく語り合ったからである、

漸やく車中談は終り、公爵は黒の山高帽に黒の外套、右手に「ステッキ」で列車最尾の貴賓車より出(い)でしは、露清両国儀仗兵の前にて、公爵は最南端より順次敬礼を受けんと急いで南端に向い、日本居留民の前を通り、今や外交団の前を通らんとする時、日本居留民団の中より、怪しき洋服の一青年駆け出で、露国儀仗兵が、公爵に向い捧げ銃(つつ)の敬礼を行いつつある脇の下より、公爵に向い、欧州最新式自働十二連発、而(しか)も丸(たま)は命中してから、弾丸が自爆する恐ろしき拳銃(ピストル)で、七発目に彼の手からピストルはたたき落されたが、既に遅い、公は仰向けに倒れんとすると、左右より扶(たす)けて、列車へ連れ込(こま)れしが、間もなく車中で薨去。

 〇総領事の手落(ておち)

 最初斯様(かよう)な事が有ってはならないと、予(かね)て露西亜官憲は、川上総領事に停車場への入場券を贈りて

『貴官手許にて身元取調べ然(しか)るべき者に限り、之(これ)を渡さるべし』

 と要求したが「日本人が日本の公爵を歓迎するに、入場券とは変だ」とて此(こ)の準備を廃したので、此の兇漢が日本居留民団の間に、紛れ込んで居(お)ったのである。此の兇漢こそ、伊藤公に個人として何等(なんら)の恩怨なき、朝鮮の一青年安重根たる者にて、露猶(ろゆう:ロシア系ユダヤ人)の「マッソン」より、拳銃迄与えられて在鮮の米国宣教師を経て使嗾された事は露国旧官吏の言明した話で疑うの余地は少しも無い』(原文ママ)のである。


 〇復堂伊藤公遭難の跡を弔う

 予(私)はその翌年満洲日々新聞の千号祝いに招かれ、満洲全体を巡講し回(ま)わったが、哈爾賓へ来て、川上総領事と、哈爾賓駅長の説明にて、公爵遭難の当時を、眼に見る如く了解せしめられた(することができた)。

藤公(原文ママ)が列車を出でし地点は、露清両国の儀仗兵の前なりしが、停車場にして見れば、一二等客「プラット・フォーム」への出口より少し右手に当った処(ところ)で、之(これ)より前記の如く南方に歩を移して、更に中央に転ぜんとする際、轟然たる響(ひびき)と共に、七発其の中(うち)三発は公に命中し、その丸(たま)は公の体内で、自働的爆発をやったのであるから耐(たま)らない、公は仰(あおむ)かんとする際、黒の山高は「プラット」へころころ、之(これ)を拾ったのが、満鉄の分身日満商会主で、露西亜婦人を妻として居る夏秋亀一で、此の時公爵の右に居たのが川上総領事で、左(ひだ)りに居ったのが満鉄理事の田中清次郎で、此の時領事もお相伴に怪我(けが)をしたが右腕貫通と、胸部擦過で、田中理事は左足の踝(くるぶし)を打たれ線路へ、独逸(ドイツ)人で鉄道旅団長の、独逸(ドイツ)人で鉄道旅団長の「フォンデルロップ」少将と共に、転がり落ちたり、少将は無疵(きず)なれども、唯(ただ)銃音に驚いてころがり落ちしなりと、後で知れたが、自分も確かに、丸を受けたものと思ったとある、とは之(これ)が旅団長の陸軍少将とは呆(あき)れかえった次第である。

偖(さて)、公が重根の丸を受けし地点、即ち倒れんとせし地点は、停車場の建物を南に距(へだた)る十歩の処で、駅長は、此の点へ真鍮板に公遭難の地点と刻せしものを嵌(はめ)込み、、又別に停車場の煉瓦(れんが)壁を穿(うが)ち、金属製の公の「シュライン」を作らん、と語り居(お)りしが、それが出来て居るや否や、予は知らず。




1900年代初頭、革命の危機にあった帝政ロシア

共産主義者はロシアにおける立法の仕事と参政権を要求しました。現在日本でも、おなじことを要求している在日外国人がいますね。


出典:1931(昭和6)年 南北書院 ウイッテ著[他] 「日露戦争と露西亜革命:ウィッテ伯回想記.下巻」 第一革命時代(一九〇五年)



 一九〇五年はニコライ二世の治世中前年と同じく最も多難の時代であった。この年に於いて日本との戦争はロシアのために甚(はなは)だ不名誉なる状況で終結した。これに関連した国内の動揺も著しく昂(たか)まり、ようやく革命気分を帯びて来て、遂に十月十七日の詔勅を見るに至った。

だが未だ勢力を維持して居った保守派の人々が、この詔勅の実行を妨げようとする運動を起したので、益々事態を紛糾し、騒擾をはげしくした。事態は急変して人民の直訴となり、冬宮前に流血の惨事を見るに至った。

 二月の始めには御前会議に於いて人民の代表者を立法の仕事に、参加させることを問題として評議せられた。恰(あたか)もこのときモスコー(モスクワ)では皇帝の叔父であるセルゲイ大公が革命党員の手によって暗殺された。奉天の敗戦の後、また殊にロジェストウェンスキーの艦隊が対馬海峡で全滅した後は、国内に講和説や、内政改革の声が高くなって来て、六月六日には人民の代表者が皇帝に謁見して、人民の参政権に関して請願するところがあった。同じ六月に黒海艦隊に於いても水兵の暴動を見るに及んだ。

 このときアメリカ大統領ルーズヴェルトから、日本と講和することに関する提議があった。ニコライ二世帝はこれを容れてウイッテをアメリカに派遣した。日本との講和は八月中旬を以てポーツマスに於いて談判が成立した。


【十字を切り、そして涙に暮れるロジェストウェンスキー】




共産党員による爆殺 セルゲイ大公がバラバラの肉塊に


出典:1987(昭和62)年 中央公論社 マーリヤ大公女
     「最後のロシア大公女マーリヤ」 第一部 専制君主制



 2 イリンスコエ

 セルゲイ大公は個性の強い人物で、私ですら、彼が非業の死を遂げたあの日に至るまで、遂にその風変わりな性格を理解し得なかった。大公は、皇帝アレクサンドル二世の第四皇子として生まれ、一八九一年、兄殿下アレクサンドル三世の詔勅を受けてモスクワ総督の座に就任したまま、新しい御代を迎えていた。

権力と重責を伴う地位にあった伯父は、その職務に完璧なまでの一意専心ぶりを見せて仕えた。田舎の領地に休養している間にも、モスクワからのクリエ(重要書類を運搬する飛脚)が頻繁に往来し、面会客も多かった。

(中略)

 7 伯父の惨死

 どのくらいしてから事件の全貌を知らされたのか、まるっきり記憶にない。が、事実はこうだった。伯父は総督公邸への道すがら、爆弾を仕掛けられて爆死したのだった。

 伯父と最後に言葉を交わしたのはライミング将軍だった。彼は昼食後の伯父に数分間の面会を願い出て、私のマンドリン購入の許可を得ていた。

 私達が窓から広場を見下ろしている時、動転した伯母が向かって行った先は、粉砕されて雪上に散乱した伯父の遺体のもとだったのだ。伯母はあたり一面に吹きとんだ肉塊を両手で掻き寄せると、近くにあった自分の作業室から運ばせた粗末な軍用担架に乗せた。

すると、広場の反対側の兵舎から出てきた幾人かの兵士が軍服の上衣を脱いで亡骸を覆い、担架を両肩に担ぎ上げると、私達の住居だった宮殿に隣接した「キリスト奇跡僧院」の軒下にいったん運んだうえで、僧院内の聖堂に安置した。




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