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2016/10/26

「物量に敗けた」兵隊さんの証言集と従軍慰安婦


中国外務省の陸慷報道官が「東京に慰安婦の銅像を設置してアジアの隣国から理解を得ろ」と発言しました。

でも、日本はアメリカの物量に負けたのです。

中国の主張では日本軍が中国人女性を20万人強制連行したそうです。

しかし、日本は1941(昭和16)年から連合国の対日経済封鎖で燃料、物資が途絶し、その後のミッドウェイ海戦とガダルカナル・ツラギの戦いで大量の船舶を失いました。

それが原因で大本営は、1943(昭和18)年から外地の兵に「自給自足」を命じました。

いわゆる「補給線が切れた」という状態におちいったのです。

中国と韓国の主張を合わせると日本軍は40万人の女性を強制連行したことになりますが、どこにそれを実行できる燃料や船舶や食糧があったというのでしょうか?

中国の主張が事実なら、連合国が誇らしげに語るABCD対日包囲網は失敗だったということですね。


【ABCD包囲網】
開戦前。A(アメリカ:America)B(イギリス:Britten)C(シナ:China)
D(オランダ:Dutch)。
ABCD包囲網開戦前1

世界中が知る神風特別攻撃隊は物資の枯渇からやむにやまれず誕生しました。

特攻隊員たちが自らの命と肉体を犠牲にして一機で一艦を屠(ほふ)る、そういう戦術を採らなければならないほど日本は追いつめられていたのです。

朝日新聞が捏造した「従軍慰安婦」は当時の「ないないづくし」だった日本の実情とは、まったくかけはなれているのです。

それでも中共さまが「東京に慰安婦像を建てろ」と言うのなら、吉原においらん像でも建てて

「これが本物の慰安婦です。慰安所とは妓楼です。中国、韓国が宣伝している従軍慰安婦と慰安所は捏造です」

と台座に刻みこんでやりましょうか。


【元祖慰安婦:日本の公娼-花魁(おいらん)】
oiran.jpg

でも本当は、中共さまは日本が物資不足で敗戦したことを知っている。

毛沢東も「地理を利用して日本軍の戦闘精神と軍事能力を逐次破壊してゆく」と語っていますし。


 毛沢東はつづけて語った。

「地理的にいって戦場は、非常に広汎なので、後方活動に注意をうばわれ、遅々たる作戦にでねばならぬ日本にたいして、中国は最大の能率をもって、有効な機動戦を遂行できます。(中略)私たちの戦略戦術は、戦争の初期の段階には、決戦をさけ、敵の士気と戦闘精神、軍事能力をちくじ破壊してゆくことでなければなりません」

【出典】1953(昭和28)年 筑摩書房 エドガー・スノウ著/宇佐美誠次郎訳 「中国の赤い星」 3 日本との戦争」


だからフィリピン大統領を抱きこんで大東亜戦争のフィリピン失陥を再現し、日本国内では工作員に反原発運動をさせて、日本のエネルギーを途絶しようとしている。

そしてその上で、日本に戦争をしかけようとたくらんでいるのですね。

また開戦後は日本が孤立して、諸外国が中共さまに味方するように捏造従軍慰安婦を世界に宣伝している。

従軍慰安婦宣伝と反原発運動は連動しているのです。

「女性の人権」や「自然エネルギー」という美名に隠れた陰湿なたくらみとして。


【南沙諸島】
南沙諸島埋立1


【反原発運動】
「フクシマに寄り添う」などと美しいことを言いながら実際は人民解放軍が有利になるように働いている日本のサヨク。朝鮮発電反原発1


【日本との戦闘の合間にドーナツとコーヒーを楽しむ米軍】
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開戦当初からナイナイづくしだった日本の戦争
~現地自活の兵隊さん苦心の作~

●は判読不明文字です。「マライ」とはマレーシアのことです。


写真週報兵隊さん苦心の作1

マライ戦線における創意工夫
 陸軍報道班 星村欣三

 私はマライに従軍していたが、自転車のパンクで困ったことがあった。灼(や)けただれたアスファルトの上を走り廻はるものだから、一日に何回となしに自転車がパンクした。ゴム糊の用意などしていなかったので、タイヤ修繕に困った。そんな時、第一線の自転車部隊などはどうしているのかと思っていると、道ばたにある無尽蔵のゴム樹を傷つけて生ゴムを採り、それを糊の代用にして器用にタイヤのパンクを繕っていた

 樹になっているバナナは、渋くって食べられない。また樹でクリーム色に熟しているのでも、渋味が残っていて、食べても余り旨くない。すると兵隊たちは樹になっている青いバナナの房をもいで来て、自動車のエンヂンのところへ突っ込んで上手にむらせていた。朝もいだバナナが、もう夕方にはエンヂンの火力でうまい工合(ぐあい)にむれているのである。ドリアンやマンゴーなどでも、みんなそんなふうにして食べていた。青いパパイヤを薄く切って塩で揉んで食べることを工夫したのも、第一線の兵隊さんたちであった

 或る部隊がセランゴール河の敵前渡河の時には、日本軍に利用されると思った舟艇や民船を英軍がことごとく焼き払っていた。附近の部落から材木を集めて来て、筏(いかだ)を拵(こしら)えたが、熱帯の樹木は木質が硬くって水に浮かばない。折角(せっかく)、苦労して筏を作ってみたが、役に立たなかった その時、工兵隊の松原軍曹がトラックのチューブをはづして来て筏に取りつけた。すると筏に浮力がついて、部隊や重火器を渡河させることが出来たのであった。

また東海岸のシンゴラやコタバルで使用した舟艇を、西海岸のマラッカ海峡へ搬送して舟艇●動を実施することになったが、大きな舟艇を陸路搬送する方法がなくって困難していた。大きな舟艇はトラックにも積載できなかった。その時或る兵隊が破壊されて無数に転がっているトラックの後部車輪を取りはづして来て、舟艇の後尾に取りつけた。つまり六輪車のトラックを考案したわけである。そのお蔭で東海岸の舟艇を西海岸に搬送することが出来たのであった。これなどは作戦の成否を決定づけるほどの、偉大な創意であろうと思う


【出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:A06031090000:昭和19年1月12日 内閣||情報局 「写真週報 305号」


戦車で人民をひき殺した中共が「日本はホロコースト記念館に行け」だってwwwおまえが行けよwwwww


中国報道官「東京に慰安婦像つくれば、歴史の重荷下ろせる」 上海の像設置、菅官房長官に反論
2016年10月25日 産経新聞

 中国の上海師範大に慰安婦像が設置され菅義偉官房長官が「日中関係の改善に資するものとはいえない」との立場を示したことに対し、中国外務省の陸慷報道官は25日、「未来志向の前提は歴史を正視することだ」と反論した。

 陸氏は日本政府の要人がドイツのホロコースト(ユダヤ人大虐殺)記念碑を訪問するべきだとの考えを示した上で、「もし東京に慰安婦の銅像を設置できれば、日本が歴史の重荷を下ろし、アジアの隣国から理解を得ることに資するだろう」と主張した。

 また「日本の軍国主義分子が第二次世界大戦時に慰安婦を強制的に集めたことは、中国を含むアジア国家の人民に対して犯した反人道的な犯罪行為だ」と言及。「歴史は時代の変遷によって変えられない。人権尊重の態度で重大な犯罪行為を反省し、実際の行動によってアジアの隣国や国際社会の信頼を得るよう厳粛に促す」と述べた。


本記事の資料

ミッドウェイ海戦


出典:1970(昭和45)年 朝雲新聞社  防衛庁防衛研修所戦史室 「戦史叢書 陸軍軍需動員〈2〉」 昭和十七年度における軍需動員



 ミッドウェイ海戦

 大本営は五月五日、山本連合艦隊司令長官に対し、陸軍と協同してミッドウェイ及びアリューシャン西部要地の攻略を命じた。

 これに伴い陸軍も一木支隊(ミッドウェイ攻略協力)及び北海支隊(アリューシャン列島攻略協力)の戦闘序列を令し、それぞれ作戦任務を付与した。

 ミッドウェイ作戦参加部隊は五月二十七日機動部隊の内海出撃を先頭に、相次いでミッドウェイ目指して進撃した。

 ミッドウェイ海戦は六月五日未明から昼にかけて展開されたが、連続して起こった錯誤と不幸のうちにわが方の惨敗に終わり、わが正規空母四隻は全滅の悲運に陥ったのみならず、多数の航空機を失った。

 ミッドウェイ海戦の惨敗は大東亜戦争の将来に大きな暗影を投ずるとともに、その後の陸軍軍需動員に対しても、間接的ながら著大な影響をもたらしている。



ガダルカナル島・ツラギの激闘


出典:1970(昭和45)年 朝雲新聞社  防衛庁防衛研修所戦史室 「戦史叢書 陸軍軍需動員〈2〉」 昭和十七年度における軍需動員



 ガダルカナル攻防戦の生起

 海軍は五月三日ツラギ島を無血占領し、また七月以来ガダルカナル島に設営隊を送って飛行場を建設中であったが、その警備はともにきわめて軽微であった。

 八月七日ガダルカナル及びツラギは敵の空海からする砲爆撃を受け、次いでその奇襲上陸するところとなった。

(中略)

 一木支隊主力は八月十八日ガダルカナル島の一角に上陸したが、敵の強力な反撃に遭い大損害を受けた。ガダルカナル飛行場は八月二十日以来敵の使用するところとなり、敵制空権下における海上輸送は困難をきわめた。

(中略)

 第二師団主力のガ島進出は十月初めとなり、その総攻撃は十月二十四日開始されることとなるが、この総攻撃も遂に不成功に終わる。

 かくして日米決戦は図らずもソロモン諸島をめぐって展開し、苦戦につぐ苦戦を重ねた。特に本作戦に関連して生じた船舶消耗と軍徴用船の物動輸送協力低下が爾後の総動員及び軍需動員に与えた影響は致命的なものがあった。

【ガダルカナル島、ツラギ島】
ガダルカナル島は食糧不足から「餓島」と呼ばれた。
ガダルカナル島ツラギ1_2


大本営が外地の兵に「自給自足」を命じる

自給自足の対象は武器、航空機、食糧でした。どう考えても無理な命令です。

そしてソ連に赤化された特アは「日本が〇〇を奪った!」と言いますが、南方の米も朝鮮の米とおなじように、ちゃんと買い付けていますので。


出典:1970(昭和45)年 朝雲新聞社  防衛庁防衛研修所戦史室 「戦史叢書 陸軍軍需動員〈2〉」 昭和十八年度における軍需動員



 六月ころにおける南方開発状況

 輸送船腹の減少に伴い、南方、本土間はもとより、南方地域相互間においても物資の交流は一層困難を加えることが予見された。これがため陸軍は十八年六月、南方産業開発と地域別自活促進を目的とする会議を中央において開催した。

(中略)

2 農業(比島ヲ除ク)

A 食糧

「マライ」以外ハ概ネ自給可能

「ジャワ」ニハ若干ノ輸出余力アルモ、海軍地域ノ民需、南東方面等ヘノ補給ノタメ余力ナシ。

「ビルマ」ハ戦前約三〇〇万瓲(トン)ノ米ノ輸出余力アリキ十六年度産米約四〇万瓲ヲ買上ゲ貯蔵済。十七年度産米ハ七九万瓲目標ニ買付中。(後略)


【参考】
大東亜建設審議会第九、十、十一連合部会議事摘録
(昭一八、六、一二 於総理大臣官邸)
(一)作戦用兵器資材ノ現地修理

現地自活南方1

(三)資源開発用資材ノ現地修理
(四)原住民自活ノ為ノ工業ノ振興
(五)重要資源内地還送ノ為ノ軽度加工業ノ振興
(六)食糧ノ増産方策確立

現地自活南方2

(四)食糧

米ハ (イ)ビルマ 年間二、五〇〇-三、〇〇〇千瓲(トン)ヲ産シ自給シテ尚余剰ガアル。

   (ロ)マライ 年間六〇〇千瓲ヲ産シ自給上不足スル故現地自活ヲ画策中デアル。

   (ハ)ジャバ 余力アリ
       食料用油脂モ相当量ノ産出ヲ期待シ得ル。

現地自活ノ方針ハ

 (イ)食糧中主食物ハ各地域毎ニ自給自足
 (ロ)砂糖、塩ハ圏内相互ノ交流
 (ハ)工業ハ適地適業主義ニ依リ伸張
 (ニ)主要生産資材ハ重点的ニ圏内交流ニ依リ配当
 (ホ)其ノ他現存資材ノ最高度ノ活用

等デアル。

現地自活南方3


【出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C14060797700:昭和18年6月12日 總理大臣官邸 「大東亜建設審議会第9、10、11連合部会議事摘録 (昭和18年6月12日 於総理大臣官邸)」


「アメリカの物量に負けた!」兵隊さんの証言集

ニューギニア戦線
「海上封鎖で補給が断たれ、我々は衰弱した」


出典:1957(昭和32)年 日本文芸社 「現代読本」第二巻第九号所収 
元南海支隊第百四十四連隊陸軍伍長 田中宗太郎「戦友の霊に導かれた突破口」



 昭和十七年九月十日、我が第百四十四連隊はニューギニア戦線、スタンレー山脈のジャングルのなかで、難攻の敵陣地を奪取し、引続いて追撃に移っていた。

 だが我軍の将兵は、ニューギニア上陸以来、苦難に満ちた山中の行軍と食糧の欠乏が祟り、ひどく疲れ切っていた。

(中略)

 十二月に入ってギルワでは、極度の減食が始まった。支隊が貯蔵して置いた食糧は僅かなものだった上に、敵の海上封鎖で、補給は困難を極めていた。

(中略)

 我々は、義理にも夕食とはいえぬ重湯を飲み終ると、飯盒(はんごう)のなかの米粒に水を足し、野草を加えて明日の二食分を炊いた。

 十日近くもこの状態が続くと、全員は目にみえて衰弱した。野草だけでなく、トカゲや蛇、蛙、セミまで食べるようになった。

 こういった食糧の欠乏状態は、敵弾以上の徹底的損害を我軍に与えた。飢餓のため消耗しきって、誰もが二、三十代の者とはみえず、カサカサに老い朽ちた年寄りの乞食のようだった。



ニューギニア戦線
連合軍の宣伝「軍需産業資本と軍閥が君達の肉親、愛妻をどん底の物資欠乏に叩きこんだ」


出典:1957(昭和32)年 日本文芸社 「現代読本」第二巻第九号所収 
陸軍第十八軍参謀部付少尉 三上卓爾「人喰部隊と日本ゲリラ隊の血斗(けっとう)」



 もはやこの密林のタコ壺に身を伏せていることもできないとわかって、ぐっと抱きしめた兵器だけをたよりに私たちは、上っ飛びに隊列を離れ、湿地帯を這(は)って後退をした。その背後から、また、嘲笑するような、敵の宣伝が追ってくる。

「君たちは、いったい誰のために、骨と皮ばかりに痩せ衰えて、なおかつ戦っているのだ! 祖国日本と天皇のためにそれこそみな嘘で、欺(だま)されているのだ。三井、三菱などの軍需産業資本と、一かたまりの軍閥が、戦争をすることによって、さらに大きな利潤をあげようと目論んだ賭博(ギャンブル)のために、君達の肉親愛妻たちを、どん底の物資欠乏に叩きこみ、さらにいま目前の生命の危険にまで、追いこんでいるのだ。(後略)」



海軍省軍務局
物量を誇るアメリカに苦渋の反抗だった特攻兵器「桜花」


出典:1957(昭和32)年 日本文芸社 「現代読本」第二巻第九号所収 
海軍省軍務局第四課勤務 佐藤光洋「湊川出陣の野中桜花特攻隊」



 体当り兵器「桜花」生る

 秘められた日本海軍航空隊の最後の特攻兵器「桜花」がはじめて実戦に現われたのは昭和二十年三月のことであった。

 物量を誇る世界一の軍備国アメリカを向うにまわして、日本がやむにやまれぬ戦いに立上ったのは昭和十六年十二月八日であった。それから三年あまり、最初の勝利に喜んだのも束の間、真珠湾攻撃を卑怯な欺(だま)し打ちとするアメリカ側の積極的な攻撃によって、戦局は日に日に日本側の不利となって行った。

 国民総動員が下命されて、青年は勿論(もちろん)のこと、学業半ばの学徒たちも勇躍国難におもむいたのであった。

「欲しがりません、勝つまでは」

 それが苦しい生活に耐える国民の合言葉となっていた。


【桜花】
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海軍少尉
「底をついた実戦機の代りに練習用赤トンボに250キロ爆弾を積んだ」


出典:1956(昭和31)年 日本文芸社 「現代読本」第一巻第七号所収 
海軍少尉 美也 厚 「"秋水特攻隊"ついに羽ばたかず」



 練習特攻隊とは、そのころ、底をついていた実戦機の代りに、僕たちが練習用に使っていた"赤トンボ"に三十五番(二百五十キロ)爆弾を積んで爆装し、突込ませようという、苦肉の策がとられたのである。巡航速力わずかに七十ノットという"赤トンボ"が重い三十五番爆弾を腹に抱えて、よたよたと離陸していくありさまは、全く危かしくて、みられたものではなかった。


【赤トンボ(93式中間練習機)】
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【秋水】
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サイパン玉砕
「密林にひそんだ数千名の日本人と莫大な物資、機械力のアメリカ」
「われらの血潮と天文学的な数量の鋼鉄を持つアメリカとの戦いだった」


出典:1956(昭和31)年 日本文芸社 「現代読本」第一巻第七号所収 
横鎮(横浜鎮守府)第一特別陸戦隊上曹 平田 宏「サイパン島ゲリラ戦記」



 ターナー大将の、サイパン占領の公式布告は、七月九日午後四時十五分となっているが、事実はその頃サイパンの密林、及び洞窟には推定、数千名に及ぶ日本人が生存していた。海抜五〇〇米(メートル)の 『タソポウチョウ』を中心として、北西部山嶽地帯にかけて虎視眈々、機会を狙って地獄の密林生活に堪(た)えていた。『ガラパン集合』のスパイに踊らされてこの地区に転進した私は、タナパク水上基地附近の密林にひそんでいた。

 当時は、米上陸部隊も、飛行場作業や設営作業、その他、輸送船団からの陸揚げ作業に追われ、我々の本拠である密林には至って平穏な日々が続いた。

 莫大な物資は港湾附近に山とつまれ、巨大なブルドーザを始め工事用資材が続々と陸揚げされて、彼等のテントは、何百、何千と、ガラパン地区からアスリート飛行場に至るまで立ち並び、密林の我々の度肝(どぎも)を抜いた。

 物量を誇る米軍のしかも迅速な、それも機械力を極度に利用したその作業振りにただ驚嘆のほか無く、日本の心臓部、サイパンに飛びこんだ彼等が、ゆうゆうと屈託なく口笛を吹きながら作業している有様を見て、唯々(ただただ)、舌をまくほかはなかった。

(中略)

 サイパン戦に於ても何のために負けたか充分知っていた、いわゆる、艦隊と飛行機であり、我々の尊い血潮と彼等の天文学的数量に及ぶ鋼鉄との闘争であった。我々は現に、彼等の鉄量に対し尊い血潮で代価を支払っているのだ。



クラークフィールド(フィリピン)
「昭和19年、日本はいよいよ追いつめられた」


出典:1956(昭和31)年 日本文芸社 「現代読本」第一巻第七号所収 
飛行第二〇〇戦隊元陸軍中尉 安江喜美「大空の一騎討ち!『疾風』対『ロッキード』」



 悲嘆の涙にくれる

 昭和十九年といえば、太平洋戦争に日本もいよいよ追いつめられて、このままではもう破局しかないというせっぱ詰った年だった。

 戦線の各地でこっぴどく叩かれた日本の航空部隊も、今は残り少なくなり、編成がえ、編成がえで明け暮れていた。


【疾風(はやて)】
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硫黄島・サイパン・沖縄
「物量をほこる米軍と飛行機がなかった日本軍と」


出典:1956(昭和31)年 日本文芸社 「現代読本」第一巻第七号所収 
第六航空軍第二飛行戦隊元陸軍大尉 宮崎克二「天翔ける司偵七号機」



 隊長機自爆の折の戦果は確認出来なかったが、当時の模様から押して敵輸送船を撃破し相当の損害を与えたことはその後の調査でも間違いなかった。また、この爆撃行(こう)は敵が、よもやと日本空軍を見くびり、油断しきっていた矢先だったのでその戦果は予想以上に大きかったと見え、この後さしも物量を誇る米軍も、三日間は我が方に空襲をかけることが出来なかったのだ。

 ただわれわれはもう少し飛行機が欲しかった、三倍の百五十機位を ─── 。 


【97式司令部偵察機】
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