HOME > 従軍慰安婦 > title - 朝鮮の処女朝貢|女性を中国、モンゴルに貢いだ朝鮮人
2016/10/16

朝鮮の処女朝貢|女性を中国、モンゴルに貢いだ朝鮮人


中国の属国だった朝鮮が明や清に処女をみついだのは有名な話ですが、朝鮮半島では高麗に侵攻した元にも女性をみついでいました。

実際に朝鮮人女性を強制連行したのは中国や元です。

元は中国南方から連れて来た兵を元に定住させるため朝鮮人女性を掠奪して兵にあてがったり、また黄海道に駐留していた蛮子軍の兵ら1400人も朝鮮人女性を妻同様に扱っていました。

その後、王朝が変わって李氏朝鮮の処女朝貢では朝鮮王みずから中国にみつぐ女性を選抜し、「本当に処女であるか」確かめる検査も行われました。

朝鮮では大国に対する恐怖心から、日韓併合後、

「日本も処女を徴発するらしい」という流言蜚語

がなされ、それが排日の材料として利用されたそうです。

捏造従軍慰安婦は朝鮮半島が中国や元にされたことを

「日本がやった!」

とすり替えているんですね。

朝鮮王が明や清にみつぐ処女は士族(武官)階級の娘たちの中から選ばれたそうです。明、清が「士族の娘」と指定したのは、朝鮮武官の実力がどれほどのものかは知りませんが、朝鮮弱体化を意図したものでしょう。

日本に開国を迫ったイギリスが幕府に「武士を抹殺してやる!!」と捨てゼリフを吐いて明治維新で武士が排除された、それとおなじです。


【朝鮮の中流階級:朝鮮武官の生活レベルはこれくらいか】
朝鮮中流階級1

また中国は朝鮮人女性だけではなく、14、5歳の少年も差し出すよう朝鮮に要求しました。

その少年たちは去勢されて宦官(かんがん)にされ、後宮(こうきゅう)で中国皇帝の側室たちの世話をさせられたそうです。


朝鮮処女朝貢の歴史と実態


太宗王八年(1408年)頃、明から黄儼(おうげん)という使いが来て朝鮮人女性を五人連れて帰った

【李朝系図】
朝鮮の処女貢献李朝系図2

・その後、明の皇帝から朝鮮に処女貢献の勅が下るようになった

・明、清にみつぐ処女は朝鮮武官の娘たちの中から選ばれた

・一回の処女貢献で明、清に貢いだ女性は30人~40人

・明、清から処女貢献の勅が下ると朝鮮では結婚禁止令が出され、武官らが娘を隠したり、平民の娘とすり替えたりしないよう取締が行われた

・処女貢献のため地方で選抜された娘たちは京城(現ソウル)に集められ、朝鮮王が最終選考を行った。そのとき「本当に処女かどうか」検査が行われた

・娘たちが明または清に強制連行される日は、京城の西大門で数百人の親族たちが泣き叫びながら娘を見送った

・泣き叫んで娘を見送ったのに、娘を差し出した家は裕福な暮らしができた

・処女貢献で明、清に行った娘たちの大半が不幸になり、自殺する者もいた

・朝鮮人は処女貢献を免れるため、娘が幼いうちに結婚させたり、既婚女性の髪形に結ったりした

・明は女性だけでなく、宦官(かんがん:後宮に仕える去勢した官吏)にするため、14、5歳の朝鮮人男子も要求した

・ある時、処女連行の途中で礼儀に欠ける行動に出た者があり、その後しばらく処女貢献は途絶えたが中宗王(在位:1506年9月2日~1544年11月14日)の時に復活した

・明、清は自国の貧しい官吏を朝鮮への使臣に任命していい思いをさせてやった

【西大門】
西大門写真1


最近、韓国は捏造従軍慰安婦やワサビ、バスチケットといった捏造差別、果ては拉致被害者の松本京子さん情報などで必死に日本の気を引こうとしています。

明日にでも経済破綻しそうな韓国は「差別」で日本に圧力をかけ、日韓通貨スワップを締結させようとしているのでしょう。

しかし、韓国のこのやり方は、処女貢献でシナが朝鮮人を圧迫したやり方とまったくおなじです。

明の使者も「李朝の宗系を正当に明の正史には記載してないアル~」と言うことで朝鮮を圧迫し、いばり散らしていたそうですから。

悲しいことに「ウリナラは5000年間独立国だった」というりっぱな歴史を捏造しても、民族の歴史は態度や行動に出るものなんですね。

戦勝国または小中華としての対日外交政策が、かつてのシナの朝鮮圧迫・弾圧政策とおなじとは!!

日本はいい加減、韓国に「独立国」であることと「独立国としての外交」を学ばせるべきです。

金に困ったら差別を捏造して日本を恫喝・脅迫し、大金をまきあげることを「外交」とはいいません。

それに実際に朝鮮人を強制連行したのはソ連であり、慰安婦にしたのは中国ですから、韓国は捏造で日本をゆするのではなく、事実をもってロシアと中国に謝罪と賠償を求めるべきです。


日韓通貨スワップ締結絶対反対!!
日本をさげすんでカネをせびりとろうとする韓国


差別だ!を連発でも日本にすり寄ってくる”韓国の不思議”
2016年10月15日 デイリーニュースオンライン

こうなると、もはや現実とは思えないが……。

「少しくれ、と言ったら野球ボール大のわさびの塊を顔の前に突き出された」

 にわかにサベツ問題、国際問題として炎上した大阪市の寿司店のわさび騒動。これは、実際に当該店で食べたという韓国人客の最新の主張だ。

 韓国人観光客をターゲットに、寿司に大量にワサビを盛ったという<わさびテロ>が、客からの告発で問題化したわけだが、

「わさびを多めに盛ったのは、サービスのつもりだった」
「韓国人観光客をサベツ語(注1)で呼んだ事実は無い」

 と店側が釈明して終わったはず。が、まだ韓国内や日本の一部マスコミでは、事実なのか妄想なのか判別できない証言や過剰反応が散見される。前出の主張など、その最たるものだ。

 ……断っておくが、本当に差別的な言動があったのなら改めるべき。

 しかし、<あやふやな証言>→<韓国世論の一部が激怒>→<反日的な日本のマスコミが大げさに報じる>→<韓国世論炎上>→<事実不明、証拠不十分なまま日本側が詫びる>→<韓国がさらに謝罪(賠償)を求める>というパターンは、事の重大さは違うが、従軍慰安婦問題とほぼ同じ流れだ。

 なぜ日韓間は、いつもこのパターンに陥ってしまうのか? (後略)




本記事の資料:朝鮮女を徴発したのは中国と蒙古

(  )内は管理人による注釈です。


出典:1930(昭和5)年 南山吟社 今村鞆 「歴史民俗朝鮮漫談」 



 朝鮮の処女貢献

 李朝の初期に於て、明の皇帝の勅命により、朝鮮から処女である美人を貢献した。

 何の因果が、殃(わざわい)なる朝鮮の女よ?。

 此(こ)れより前、高麗朝に於ても、高宗王の時代より、蒙古の大軍が侵入し来り、婦女を掠奪したる数は、甚だ多い。

特に蛮子軍と云(い)う、南方の兵は、今の黄海道に、千四百人も永く駐屯して居たから、此れ等(など)は皆朝鮮女を妻同様とした。

又元朝は其(その)本国に居る、蛮子軍を土着せしむる(させる)為(た)めに、年々朝鮮から女子を徴発し、結婚都監と云う、珍妙な官職を置いて、其事務を執らしめた(させた)。

 コンナ歴史があり、伝統的に恐怖心が潜在して居るから日本の保護政治の時、又併合の時にも、田舎では、日本へ女を徴せらるると云う、流言蜚語が行われ、婚姻を急いだ 又其流言に油を注いで、夫(そ)れを排日の種に利用した事も行われた。甚(はなはだ)しいのになると、日本の男子は……偉大だなどとの貼紙をした。

 さて、何が故に明が朝鮮から処女を徴した?。元が女を徴したのは理由があった。夫(そ)れは前に述べた如く、支那南方から徴発して来た兵士は、寒風胡沙(こさ:アイヌ語 hosa または husa の転。「胡沙」は近世の当て字。息を吹きかけて霧を起こし、病魔を退散させるというアイヌ神話から、蝦夷人の吹く息。息づき)吹きまくる、朔北(さくほく:北方。特に中国の北方にある辺土)の地では居付か無い、夫等(それら)の兵士を慰安せん(しよう)として、土着せしめん(させよう)としての、政策であった、然るに明にはさる必要もない。

支那は領域も広く、四百余州に美人を求むれば、何千人でも得られ得る、何を苦しんでか、ワザワザと費用をかけ、使者を遣わし、東藩である朝鮮から、挑発する必要があるか。

 まさか明の皇帝が、物好きにも、異国情調に、指を染めて見度(た)いと、考えた訳(わけ)では無いであろう、或(あるい)は察するに、明の宮廷へ、朝鮮や、蒙古や、閩(びん:今の福建省)越(えつ:越南の略。ベトナムのこと)や、西域と云う様な、勢力範囲から異った国の女を集めて、夫(そ)れを陳列し、虚栄心や好奇心を、満足せしめた(させた)のでなかろうかと思う。

一層深く考えれば、高等政策から出たとも観られ得るが、夫(そ)れは余りに穿(うが)ち過ぎた考えであると思う。

 李朝になって、一番最初に其(その)命令の来たのは、太宗王の八年に、明の使(つかい)の黄儼(げん)と云う男が、其の要件で来た。

此の男は朝鮮では、随分と威張り散らした。金剛山へ行ったり、又済州島から銅仏を持って来て、太宗に夫(そ)れを拝めと強制したり、傍若無人に振舞ったが、其時分は、明の朝廷が李朝の禅立(禅は王や皇帝が位を譲るの意)を承認はしたものの、李朝の宗系を正当に明の正史には記載してない、且つは両者の関係が、後世の如くシックリと合って居ない時であるから、此の黄儼もハレ物にされるが如く大切に扱った。

 此の時黄儼は、朝鮮から五人の処女を連れて帰ったが、初め処女を貢進(こうしん:みつぎものをたてまつること)すべき、皇帝の勅が来ると共に、一般の士族に対して、結婚を禁じた、而(そ)して内官を派して、各地から候補者を選定し、京城に連れて来て、又其の中から選抜したのであった。

 其(それ)以後、屡々(しばしば)明から勅があって、貢進した、後には人数も多くなって、三十人四十人と、連れて往(い)った事もある、此の貢進の処女と共に、火者と云う、官宦(宦官:かんがん:中国で後宮に使えた官吏。去勢した男子を採用)になる候補者たる、十四、五歳の童男も亦(また)、貢進を命ぜられた。

 此の処女を進献(しんけん:すすめまいらせること。献上)する事になると大騒ぎである。先(ま)ず全道の士族階級へ命令を下して、当分処女の結婚を禁じ、而(そ)して使(つかい)を遣わし、選抜して上京を命じる、一方士族の処女と称して、平民共(ども)の女とすり替える事の取締、又はみめよき(器量のよい)娘を隠匿する事の取締、実際の処女か処女で無いかの鑑別、探査等と云うように、臨時行政事務が殖(ふ)える。

 コンナ事があったから、朝鮮では、未(ま)だ小供(こども)の中(うち)に早く許婚して、其娘の年は少なくとも(その娘が幼くとも)、一人前の女の髪に、結(ゆ)うて置く風習が出来たのだ。

【日韓併合後の朝鮮人の子ども。髪を垂らして子どもの髪形のままである】
朝鮮平民の子ども1


 而(そ)して京城へ連れて来た、進献処女の候補者百余人を集め、最後に宮中に入れて、王自(みず)から親閲して、必要数丈(だけ)を選抜する。

 此(こ)れはずいぶん悲惨な光景であった、田舎から連れて来らるる時に、父母兄弟等の肉親と、泣き別(わかれ)の生き別(わかれ)をして来る。愈(いよいよ)選に入ったとなれば、又田舎から出て来た其の至親(ししん:近親)に見送られ、西大門外で泣き別れをする其(その)総員数十人の至親知己数百人が、愈(いよいよ)別れる時に、声を揚げて天に哭(こく)し(大声をあげて泣く)地に泣する、其のシーンは迚(とて)も悲惨極まるものであった。

 ある時、宮廷へ此等(これら)の処女を納(い)れて、王が親閲して居る時に、或る女は、自分で一篇の哀歌を作って来て、夫(そ)れを唄った、其の声はソクソクとして坐(そぞろ)に人を動かすものがあって、一同声を放って泣いた。

 又某(あ)る女は、既に姉が進貢せられて(されて)、北京に居るのに、又其(その)妹も選に当った、其時父に対して、姉一人丈(だ)けで、充分のエヨウ(栄耀:はなやかにおごること。ぜいたく)が出来て居るのに……云々と、反抗的ステバチの言を吐いて、口も利かなかった。

 左の如き情況であったから、大臣の中には、明帝に奏して、止めて貰(もら)った方がよいと、進言した者もあるが、王は其(その)事情は十分に判って居るが、大国へ仕える上に於て、已(や)むを得ぬ事だ、まあまあ仕方が無いと言った。

 北京へ行った者の中(うち)、相当出世して幸福に暮した者もあれど一般的には幸福でなかったらしい。

 朝鮮の国使が、北京へ行ったついでに、其(その)女と朝鮮の家との間に音信の交通をやったが、其中には身の不幸を訴えて来たものもある、又中には自殺した者もあった。

 玆(ここ)に可笑(おか)しいのは、ある時北京から来た支那の国使が、此等処女を連れて行く途中、新義州辺迄(まで)の間に於て、ケシカラナイ行動に及んだ者があって、其(その)時には朝鮮の方では不都合極まる次第だ、かの女共は、向うへ行き宮中に這(は)入れば、場合によっては、高貴な地位を得ないとも限らない、太宗の時代に来た黄儼は、途中女共に敬意を表し進献の女を別室に置き、丁度(ちょうど)嬪(ひめ。李氏朝鮮では「ピン」と発音し王の側室の階級の一つだった)に対するような、態度を執って居たのに、さりとは不都合千万だと大に憤慨したが、夫(そ)れを皇帝に上奏する事も出来ず其(その)儘(まま)になった。

 此の処女進献は、其後北京の方でも考えたか、暫(しばら)く勅命が来なくなって、朝鮮では助かって居たが、中宗王の時代になって、又進献の女があるそうだと云う、風説が一般に行われ、為(た)めに結婚を急ぐ者が増えた。

 其(その)時廟堂(中国式の孔子廟)では、其の流言を打消す為(た)めに、それは嘘だ、虚説に惑わさるる勿(なか)れと言って、若(も)し万一後(あ)とから、実際進献方の勅命が来た時には困るし、又実際勅が来るとせば、今の内に結婚を止めて置かないと、処女が無くなって困ると、色々心配して居たが、やがて果して其(その)勅命が来た。

 此の時限りで、進献はやまつたらしい。(原文ママ)

 朝鮮は随分、明清にはイジメラレた。

 右女の進献の外(ほか)に、馬、鷹、人参(朝鮮人参)等の貢献、竝(ならび)に支那の勅使が来る時の誅求は大変なもので、大抵王位の封冊に来た勅使には、一万両、二万両と袖の下が必要であった、又途中義州迄(まで)は、大風の跡のように凋落した。

 支那の方では、少し貧乏な官は、其(その)救済策に、朝鮮の使臣に任命したと云う。

 属国、附庸(ふよう:宗主国に属して、その命令に従う弱小国。従属国。付庸国)、藩屛(屏)(はんぺい:直轄の領地)と云う、名誉か不名誉かの代償としては、随分と高価な犠牲を払ったものである。朝廷は夫(そ)れでよいとしても、二重搾取の苦境に立った、人民こそよい面の皮である。

 朝鮮の民衆は、高麗朝よりも、李朝よりも、漢の四群(かんのしぐん:紀元前、前漢の武帝が朝鮮半島に設置した郡)時代が、却(かえっ)て幸福であったかも知れぬ。




【写真出典】
1910(明治43)年 小川一真出版部 統監府編 「大日本帝国朝鮮写真帖:日韓併合紀念」


関連記事
スポンサーサイト