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2016/09/26

特攻隊のニセ慰安婦イ・ヨンスの証言にみる8個のウソ


元従軍慰安婦のイ・ヨンスは神風特別攻撃隊の慰安婦だったと世界にふれまわっています。

なんとイ・ヨンスは特攻隊員に強姦され、拷問されたのだそうです。

しかしイ・ヨンスの証言は年齢、強制連行された年から台湾新竹基地、特攻隊員に関する証言まですべてウソにまみれています。

特攻隊を侮辱したこの従軍慰安婦を許すわけにはいかないので、イ・ヨンスの証言にみられるウソ8個とそれを否定する資料と事実を紹介します。


【イ・ヨンスが世界に宣伝した8個のウソ】

(1)14歳、16歳で日本軍に強制連行され慰安婦にされた
(2)1944年秋、1943年10月に強制連行され神風部隊の慰安婦にされた
(3)自殺パイロット(カミカゼ)の基地の軍用売春宿に配備された
(4)(慰安所になった)船上
(5)何ヶ月かが過ぎていき、毎日、10人の兵士がやって来た
(6)最後の任務(自殺攻撃)に出て行った彼らは、(わたしの部屋に)長居していた
(7)ある朝、日本兵が突然、いなくなった。『戦争は終った』
(8)台湾新竹の神風部隊で3年間体験した日本軍の蛮行



イ・ヨンス1

次にイ・ヨンスの証言でウソである部分を黄色くマーキングしました。

イ・ヨンスがフランスルモンド紙に
「カミカゼ基地の軍用売春宿に配備され、強姦、虐待された」


元「従軍慰安婦」、イ・ヨンスさんが証言 ルモンド東京支局長、フィリップ・ポンス氏が取材し報道 (大沼安史の個人新聞
2007年3月25日 仏ルモンド紙

「わたしを犯さず、やさしくしてくれた特攻隊員が一人いた。彼はわたしに何度もいった。『ぼくは死ななくちゃならない。しかし、あなたは生きなければならない』」 元「従軍慰安婦」、イ・ヨンスさんが証言 ルモンド東京支局長、フィリップ・ポンス氏が取材し報道 

 フランスのルモンド紙の東京支局長で、日本の歴史文化に明るいフィリップ・ポンス記者が3月5日、先にワシントンの連邦議会下院小委で証言したイ・ヨンス(李容洙)さん(78歳)と都内の韓国レストランで会い、彼女の話を聞いて記事にした。

 その記事を読んで驚いた。彼女はなんと14歳(1)で、軍用性奴隷の地獄へ連れ込まれていたのだ!

 しかも、自宅から、日本軍の兵の手で!

 ポンス記者はこう書いている。
 
 「現在の韓国南東部、大邸に近くで生まれたイさん(マダム・イ)が14歳のときだった。『1944年の秋(2)のある朝のことです。寝ていると、わたしを呼ぶ女の声がします。出て行きました。日本兵がひとりいて、わたしを捕まえ、力ずくでわたしを連行したのです』。汽車は彼女をピョンヤンから中国の大連へと運んだ。大連で彼女は台湾行きの船に乗せられ、自殺パイロット(カミカゼ)の基地の軍用売春宿に配備された(3)

 台湾の特攻機地の慰安所での体験を、イさんはポンス記者にこう語っている。

 「(慰安所になった)船上(4)で、わたしたち5人は300人の兵にあてがわれました。年上のお姉さんがわたしを隠してくれました。その基地で、わたしは殴られ、犯され、死ぬまで放置されました。わたしの手は針金で縛れていました」

 そんな地獄の日々のなかで、イさんはひとりの特攻隊員(パイロット)に会った。
 「ひとりのパイロットがわたしにやさしくしてくれました。彼はわたしに何度も言いました。『ぼくは死ななくちゃならない。しかし、あなたは生きねばならない』と。その人だけが、わたしを犯しませんでした」

 哀切きわまる証言ではないか!
 台湾の特攻機地の慰安所で、こういうことがあったのだ!
 ぼくは死ねけど、君は生きろ、と励ます特攻隊員がいたとは!

 上記、「やさしくしてくれた」という拙訳は、字義通りに訳せば、「世話をしてくれた」となる。

 その特攻隊員はもしかしたら、イさんを妹のようにも思い、気遣ったのではなかったか?!

 イさんの証言は続く。

 「何ヶ月かが過ぎていきました。わたしがあてがわれた小さな船室には毎日、10人の兵士がやって来ました。(5)船室には寝床と布団と消毒液がありました。最後の任務(自殺攻撃)に出て行った彼らは、(わたしの部屋に)長居していました。(6)(特攻隊員の)彼らもまた犠牲者だったのです」

 イさんは自分を奪った特攻隊員たちを、同じ犠牲者だと言っているのだ。彼女自身と特攻隊員を、台湾の慰安船の一室に押し込め、一方で「生き地獄」を強い、他方で「散華」を迫ったものを憎み、告発しているのだ。http://blog-imgs-1.fc2.com/image/icon_main/wysiwyg.gif

 そして、ついに光復の日が……。

 「ある朝、日本兵が突然、いなくなりました。街の方から中国語の叫び声が湧き上がりました。『戦争は終わった』(7)と」

 ポンス記者は、1992年、日本の歴史学者(吉見教授)の手で日本軍の「参謀本部の関与」を示す旧軍の資料が発見され、それが翌年、宮沢政権下、河野官房長官による「談話」につながった経緯について紹介するとともに、旧軍が配下の「人買い」を「下請け」にして、騙したり、まったくの奴隷として女性を慰安所に供給していたことも多かったとも指摘。そのことを口実に、軍の全面直営ではなかったとして「河野談話」を否定する、日本の「右寄りへの回帰」の動きを批判している。

 そう、その通り、すべてを「下請け」の「業者」のせいにすることはできないのだ。「業者」に下請けに出した「軍部」こそ、責任を取らねばならない。

 安部首相よ、あなたの祖父、岸信介氏が手を結んだ日本の軍部こそ、14歳の少女、イさんらを性の地獄へ突き落とし、若い特攻隊員を「散華」に追い込んだ輩であることを、あなたは認めるべきである。

http://www.lemonde.fr/web/article/0,1-0@2-3216,36-879493@51-875240,0.html



イ・ヨンス
「特攻隊員は性関係を拒否すると電気ショックの拷問をした」


「安倍首相の演説の時、目の前に座らせてほしい」 慰安婦被害者が米紙と会見
2015年4月25日 東亜日報

「死ぬ前に安倍首相の謝罪を聞きたい。安倍首相は男らしく戦争犯罪の真実を直視すべきだ」

米紙ワシントンポストは23日、「黙っていられなかった」というタイトルで、訪米中の旧日本軍慰安婦被害者イ・ヨンスさんを紹介した。

同紙は、「イさんが26日、安倍首相の米国上下両院合同会議での演説の前に、性奴隷だった人生を語るために来た」と紹介した。

2時間にわたるインタビューで、イさんは、16才(1)の時に慰安婦として連れて行かれ、台湾新竹の神風部隊で3年間体験した日本軍の蛮行(8)を語った。イさんは、「1943年10月(2)、隣人に呼ばれて家の外に出た。汽車やトラック、船に乗せられてどこかに連れて行かれた。ほかの少女たちは、幼かった私に毛布をかけ、じっとしていれば何も起こらないと言って私を慰めた」と涙を流した。そして、「性関係を拒否すると、手首に電気ショックの拷問をするなど暴行や虐待を受けた」と付け加えた。「米国の爆撃で慰安所が破壊された時、大量に出血して死ぬかと思ったが、それが流産だったことを後で知った」という内容も記載された。

同紙は、インタビューの最初の頃、ロザリオを触って緊張した様子だったイさんが、慰安婦問題を謝罪しない安倍晋三首相のことに話が移ると、椅子から立ち上がって激昂したと伝えた。イさんは、「私は彼らに慰安を与えたいと思ったことはない。彼らは、私が結婚し、家庭を築いて幸せになる権利を根こそぎ奪った」と声を荒げた。同紙は、「日本軍と『慰安婦』という言葉に怒りがおさまらない様子だった」と伝えた。

同日、ワシントン挺身隊問題対策委員会の主催で米議会で開かれた記者会見にも参加したイさんは、「私は安倍首相の謝罪を聞くまで絶対に死なない」とし、「歴史の生き証人が目を大きく開けて生きていることを安倍首相に分からせたい一心でここに来た。どうか(上下両院合同会議の演説会場で)安倍首相の目の前に座らせてほしい」と訴えた。


イ・ヨンスの「証言」をくつがえす

(1)14歳、16歳で日本軍に強制連行され慰安婦にされた

朝鮮の貸座敷娼妓取締規則では17歳未満の者には娼妓稼業許可が下りませんでした。

娼妓(しょうぎ)とは公娼のことなので、14歳、16歳では日本軍慰安所の慰安婦にはなれなかったのです。

戦後71年、韓国では年頃のハルモニを準備できなくなって、強制連行された年齢をどんどん引き下げていますが、戦前朝鮮の公娼制度について日本は国際連盟にも説明しています。

今後もイ・ヨンスのようなニセ慰安婦が登場してくると思われますが、17歳未満で慰安婦になったと証言するハルモニはニセモノです。

【朝鮮で施行された貸座敷娼妓取締規則】

第十七條 左ノ各号ノ一ニ該当スル者ニ対シテハ娼妓稼ヲ許可スルコトヲ得ズ

一 十七歳未満の者

朝鮮貸座敷娼妓取締規則2_2

【出典】1940(昭和15)年 朝鮮総督府編纂 「朝鮮法令集覧 昭和15年版上巻」


(2)1944年秋、1943年10月に強制連行され神風部隊の慰安婦にされた

日本軍の航空艦隊司令部および搭乗員(特攻隊員)がフィリピンから台湾に転進したのは、1945年1月10日からのことです。

なので、イ・ヨンスが台湾に到着したときには、まだ特攻隊は台湾にいませんでした。

【元第一航空艦隊参謀の手記より】

 一月一〇日午前三時四五分、さしあたり作戦に必要なものだけが長官と同乗してクラークを飛び立った。出発前にクラーク所在の司令がある意見を具申したのにたいして、長官みずから説得しているあいだに出発時刻は予定より一時間あまりも遅れたため、台湾に着いたときにはすでに夜明けをすぎていた。

【出典】1967(昭和42)年 河出書房 猪口力平/中島正 「太平洋戦記  神風特別攻撃隊」 第一航空艦隊、台湾へ


【元海軍航空艦隊参謀の手記より】
「搭乗員」とは特攻隊員のことです。「特攻隊員」は戦後言われだした呼称で当時は海軍は「搭乗員」、陸軍は「空中勤務者」と呼ぶのが正式でした。

 命令により、第二航空艦隊司令部は、一月六日台湾に移動し、ついで解散した。第二航空艦隊司令長官福留繁中将は第十方面艦隊司令長官兼第十三航空艦隊司令官に転補されて、比島からシンガポールに進出された。

 第一航空艦隊司令長官大西中将は、司令部の一部とともに、飛行機で一月十日早朝、台湾の高雄基地に転進した。

 また搭乗員および電信員の一部の台湾に転進を命ぜられた者は、飛行機または陸行でツゲガラオに移動し、次第に台湾に帰った。

【出典】1960(昭和35)年 自由アジア社 安延多計夫 「南溟の果てに- 神風特別攻撃隊かく戦えり」 戦雲急をつげる比島戦線


(3)自殺パイロット(カミカゼ)の基地の軍用売春宿に配備された

慰安所は営外施設だったので、捏造従軍慰安婦の設定のように慰安婦は兵営内で兵と生活をともにするということはありませんでした。

慰安所とは兵営外で民間人が経営していた遊廓のことです。

本来、慰安所と慰安婦は隊と行動をともにするものですが、航空隊の場合移動が激しいので付いていく慰安所は少なかったそうです。

特攻隊も日本国内で編成→朝鮮元山→鹿児島県鹿屋というルートや、日本国内で編成→太平洋側を飛行して大分県上空→鹿児島県鹿屋という具合で、その移動は速度も距離もとんでもないものでした。

捏造従軍慰安婦では、日本人は朝鮮人よりも劣等な民族であるため、日本兵が建物や船の中にいる従軍慰安婦様に会いに行く、という構図なのでしょう。

【読売新聞論説委員「航空部隊の慰安施設は貧弱だった」】

また、慰安所(軍専属の娼家)まで、将校と下士官用が区別されていた。将校用の慰安所の前には、「下士官と新聞記者入るべからず」という立て札が、されていた。

 航空部隊は、食糧には比較的、恵れていたが、移動が激しいので、慰安施設は、地上部隊にくらべて、貧弱であった。

【出典】1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録大東亜戦史」所収 読売新聞論説委員 大河内敏夫 「〇〇基地異状あり」


(4)(慰安所になった)船上

戦前の台湾も日本と同様、遊廓を開業できる土地は貸座敷(遊廓)指定地に限られ、遊廓(妓楼=慰安所)の新規開業も許可制でした。

許可をもらうには営業の場所(建物の所在地)や敷地面積が必要だったので船が貸座敷指定地として許可されるはずがありません。

売春婦が入港した船に商売しに行くのは常識ですが、特攻隊員が船にかようというのは考えられません。

当時の台湾の主な貸座敷指定地は9ヶ所あり、朝鮮人経営だったと思われる鮮月楼、朝鮮楼という楼名(妓楼の屋号)も見られます。

そして娼妓(妓楼が軍専用として指定されれば慰安婦)たちは、朝鮮人、台湾人もいましたがほとんど日本人でした。

この人たちこそ本物の慰安婦で、「船が慰安所だった」などというデタラメを世界に吹聴しているイ・ヨンスはニセ慰安婦です。

【台湾の主な貸座敷(遊廓)指定地 1930(昭和5)年頃】
楼 名所 在 地貸座敷数
娼妓数
娼妓民族別内訳
朝鮮人経営と
思われる楼名
萬華遊廓台北市萬華街貸座敷約60軒
娼妓560人位
彰化街遊廓台中州彰化街西門貸座敷約5軒
娼妓約40人位
主に日本人に少数の朝鮮人
花蓮港遊廓花蓮港庁花蓮港
(かれんこう)
貸座敷約10軒
娼妓約80人
日本人と朝鮮人ほぼ同数
初音町遊廓台中市初音町
(はつねちょう)
貸座敷約8軒
娼妓約80人
朝鮮楼
嘉義遊廓台南州嘉義街西門外貸座敷約10軒
娼妓約70人
新町遊廓台南市新町貸座敷14軒
芸妓70人、娼妓110人
鹿児島の女性が多く、
次は長崎県、熊本県
鮮月楼
朝鮮楼
台湾人遊廓台南市新町の日本人
遊廓と小川一筋を隔て
た向かい側
貸座敷10軒
芸妓109人、娼妓94人
楼主、芸妓、娼妓すべて
台湾人
栄町遊廓高雄州高雄市栄町貸座敷11軒
娼妓150人、芸妓55人
20~30名の朝鮮人の
他は日本人
鮮月楼
朝鮮楼
馬公街遊廓澎湖(ほうこ)庁
馬公街
貸座敷14軒
娼妓約150人
朝鮮人、台湾人もいるが
日本人が一番多い
【出典】1930(昭和5)年 日本遊覧社 「全国遊廓案内」 台湾地方


【台湾の帝国海軍、陸軍飛行場(基地)】
で囲ったものが海軍飛行場です。第一航空艦隊は台湾南部に転進したので慰安所に不自由はありませんでした。
台湾基地地図


【台湾の芸妓】
警察に許可された正規の芸妓なので写真も残っている。


【参考:台湾基隆(きーるん)新岸壁】
イ・ヨンスが「監禁」されていた慰安所もこんなふうに碇泊していたのか?


【参考:高雄港岸壁】
こちらは高雄港のようす。基隆も高雄も港湾労働者がたくさんいるが強制連行された朝鮮人女性を見た者はゼロだろう。なぜなら「従軍慰安婦」は戦後捏造されたものだからだ。


【貸座敷開業申請には営業の場所や敷地の面積が必要】

料理屋飲食店取締規則
 明治四十四年十一月二十三日
 台湾総督府令第八十九号
  改正 大正九年第一二九号

料理屋飲食店取締規則左ノ通相定ム
  料理屋飲食店取締規則

第一条 料理屋又ハ飲食店営業ヲ為(ナ)サムトスル者ハ左の事項ヲ具シ郡守、支庁長、警察署長又ハ警察分署長ニ願出許可ヲ受クヘシ 其ノ営業ノ場所ヲ移転シ又ハ営業用建物ヲ改築若(モシク)ハ増築セムトスルトキ亦(マタ)同シ

一 営業者ノ姓名、生年月日、本居(本籍)地、寄留地
ニ 営業ノ場所
三 屋号
四 営業用建物ノ構造、設計書、平面図(出入口、窓、道路、間取、換気法ノ設備、階段ノ位置及幅等ヲ詳記スヘシ)及敷地の面積
客室ノ設ケナキ飲食店ニ在リテハ前項第四号ノ事項ヲ省略スルコトヲ得

台湾飲食店取締規則2

【出典】1921(大正10)年 帝国地方行政学会 台湾総督府編 「台湾法令集覧 大正10年」


(5)何ヶ月かが過ぎていき、毎日、10人の兵士がやって来た

台湾の新竹基地から特攻隊が発進したのは、1945年4月1日~5月29日の約2ヶ月間だけです。

台湾で準備できた特攻機はわずか300機で、その一部が新竹基地から発進したにすぎません。

もちろん日本国内の物資不足と日本の船や飛行機を見れば片っ端から攻撃した連合軍のせいで、新規飛行機の補給はありません。

イ・ヨンスの証言のように、特攻隊員は何ヶ月も新竹基地にはいませんでした。

【台湾新竹基地から発進した特攻隊一覧】
年月日特攻隊名発進時刻戦死場所
1945(昭和20)年
4月1日
忠誠隊1300石垣島南方の機動部隊

4月3日
沖縄南方の機動部隊

4月6日
1500石垣島南方の機動部隊

4月16日
1530

4月28日
宮古島東方の機動部隊

5月3日
振天隊1620沖縄本島周辺艦船

帰一隊沖縄周辺艦船

5月4日
振天隊1050

忠誠隊0945宮古島東方の機動部隊

5月9日
1625嘉手納沖艦船

5月13日
振天隊沖縄周辺艦船

5月29日
1610
【出典】1997(平成9)年 株式会社ベストセラーズ カミカゼ刊行委員会編 「写真集カミカゼ 陸・海軍特別攻撃隊」/1960(昭和35)年 自由アジア社 安延多計夫 「南溟の果てに-神風特別攻撃隊かく戦えり」


【台湾の特攻機は約300機】

 その当時の海軍の総航空兵力は約2000機、そのうち主戦兵力となりうるのは、西日本に展開していた第5航空艦隊の約600機であった。東日本には第3航空艦隊の約800機が展開していたが、その練度はまだ十分でなく、後詰めの役をふりあてられていた。そのほかに台湾方面にフィリピンから後退した第1航空艦隊の約300機がいたが、まだフィリピン戦の疲れから十分回復していなかった。

【出典】1983(昭和58)年 講談社 千早正隆 「写真図説帝国連合艦隊-日本海軍100年史-」


(6)最後の任務(自殺攻撃)に出て行った彼らは、(わたしの部屋に)長居していた

特攻隊員の出撃命令は早くて3日前、おそくて前日に下命されました。

出撃を命じられた特攻隊員たちはふだんの勉強に加えて、遺書を書く、私物を形見分けして残りを実家に送る、敵艦突入の作戦会議、出撃前日の送別会、出撃当日の長官訓令および別杯式などで超多忙でした。

なので、船上の従軍慰安婦の部屋に入りびたっている時間などありませんでした。

人生最後の時ですよ?

日本人ならば心おだやかに、美しいものを見て死にたい、と思うはずです。

【元第一航空艦隊参謀の手記より:新高隊、出撃前夜の研究】

 厳粛な命名式のあとでは、特別攻撃隊になったことを祝う意味で小宴が催されるのを例としていたが、その日も広間に集まって祝宴が行われた。コーンビーフやスルメなどささやかなものではあったが、われわれ第一線部隊のものにはたいへんなご馳走であった。それに少々ではあったが、お神酒さえもそえられていた。搭乗員たちに、長官はじめ幕僚やわれわれも加わって、なごやかな宴がひらかれた。長官は手ずから、近くのものにお神酒をついでまわった。

 祝宴後、私は攻撃法やその他の注意事項について説明することになっていたが、めずらしくその晩は映画があることを聞いたので、せっかくの娯楽だから説明は明朝にのばすむねをつげて、私室に帰ってきた。すると、先任者の某中尉が追いかけてきて、

「ぜひいまから講義してください」

と言う。

「今晩は映画があるからそれを見ろ」

「われわれはすでに特別攻撃隊員になって、敵の機動部隊撃滅の任務をになっています。もし、明朝敵があらわれてきたらどうします? われわれは自信のないままで出撃しなければなりません。みなは映画は見なくてもいいといって、もう広間に集まっています。どうか、いまからすぐきて講義をしてください」

 と、なおも執拗に頼むのであった。私は目頭が熱くなるのをじっとこらえて、「それではさっそくやろう」と言った。私の講義を聞き、熱心に研究していたかれらの姿が、いまでも眼底に残っている。質問が続出して、時間はのびのびとなり、私が説明を終って私室に帰ったのは一一時をすぎていた。しかしかれらは、私が帰ったあとでも、おたがいに遅くまで研究をつづけていた。

 こうして、三日後の一月二一日、台湾の東方海面にあらわれた敵機動部隊の空母群にたいして、かれらの攻撃が敢行されたのであった。

【出典】1967(昭和42)年 河出書房 猪口力平/中島正 「太平洋戦記 神風特別攻撃隊」 第一航空艦隊、台湾へ


【台湾新竹基地から出撃した特攻隊員の手記より】

 出撃を前にして詠ふ(抄)

二十四の我が命絶つ日なり
雨あがりつゝ青空の見ゆ

特攻を待ちつゝ日々の雨なれば
生きる事にも飽きたる心地

マフラーを結べば何か暖かく
今日のかどでを楽しむ気持

あと三時間のわが命なり
只一人歌を作りて心を静む

トランプの一人占ひなどしつゝ
出撃までの時を過しつ(後略)

【出典】1953(昭和28)年 白鴎遺族会 「戦没飛行予備学生の手記 雲ながるる果てに」


【「明朝出撃と決定」特攻隊員の遺書】

 寸言

四月十一日 朝

 明朝出撃と決定
 俺の名前も出た
 何をする間もない
 心残りは面会せず休暇もなくして出撃すること
 家の人は恐らくこれ以上であらう
 然しこれが戦ひの姿である
 父上、母上、兄上
 ここまで書くと涙が出る
 姉上、妹、弟
 皆元気でやれ

四月十一日 午前八時

 後でトランク、荷物が届くと思ふ
 今それを作っている

【出典】1953(昭和28)年 白鴎遺族会 「戦没飛行予備学生の手記 雲ながるる果てに」


(7)ある朝、日本兵が突然、いなくなった。『戦争は終った』

そんなことはありません。日本敗戦後も台湾には日本軍が残留していました。

それに台湾の人々は日本を裏切って連合国と結託していた朝鮮人とはちがって、日本敗戦を狂喜乱舞して喜んだりしていません。

これは過去記事の資料を転用したのでちょっと見づらいですが、台湾には昭和21年12月末で陸軍約80名、海軍約990名ほどが残留していることになっています。


朝鮮抑留行方不明者数1

【出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C15010134600:陸軍省 「終連報丙第456号 昭和22年1月24日 連絡課 第1、東亜地域在留邦人引揚者数表 第2、東亜地域在留邦人残留者数表 第3、行方不明者数表


そしてこちらは明けて昭和22年2月ほぼ引揚げが完了した時点の表ですが、陸軍80名、海軍1名となっています。

なので、イ・ヨンスは台湾には行っていないのです。


朝鮮抑留残留者数1

【出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C15010137300:陸軍省 「終連報丙第490号 昭和22年3月21日 連絡課 引揚者及残留者数統計 3月20日 第1、昭和22年2月東亜地域在留邦人引揚者数表 第2、昭和22年2月東亜地域在留邦人引揚者数表


(8)台湾新竹の神風部隊で3年間体験した日本軍の蛮行

イ・ヨンスが1944年に台湾に強制連行されてきたのならば1947年まで、1943年に強制連行ならば1946年まで神風特攻隊の慰安婦をやっていたことになります。

大東亜戦争は1945年8月に終戦を迎えています。

しかしイ・ヨンスは終戦後も、船で慰安婦を続けていたそうです。

さらに日本は1942(昭和17)年から連合国によって客船や貨物船も撃沈され続け、深刻な船舶不足におちいりました。

それなのにイ・ヨンスは貴重な船舶を一隻3年間も独占し、しかも連合軍は新竹に3年間も碇泊していたにもかかわらずイ・ヨンスが乗っていた船は撃沈しなかったのです。

現実では台湾近辺でも日本の船舶は撃沈されまくっていました。


【艦船喪失一覧図から台湾近辺】
(船舶の名前)〇〇(昭和年)-△△(月)-□□(日)-時刻。Vは航空機による爆撃、ナベのフタのような記号は潜水艦による攻撃を示す。台湾近辺艦船撃沈図【出典】1954(昭和29)年 富士書苑 「大東亜戦争写真史 特攻決戦篇」


自称従軍慰安婦の証言など、ちょっと調べればすぐにウソだとわかるのに、こういうずさんな作り話に10億円も支払う日本政府はどうかしています。

朝鮮人というのは金にこまると自分では労せずに他人の財布をうかがう民族です。

次はもっとひどい作り話を世界に宣伝するでしょう。

日本は大東亜戦争で共産党の侵略と戦いました。国内では治安維持法を成立させ、共産主義者を弾圧しました。

でも朝鮮人は日本敗戦と同時に「戦勝国」を自称し始め、連合国と同じ共産主義的歴史観=自虐史観での日本批判を戦後一貫して続けてきています。

ならばいつ、日本に保護されていたはずの朝鮮人は共産党と接触し赤化したのか?

それは日韓併合時代です。この事実に思い至らないかぎり、日本政府は従軍慰安婦というヨタ話に愚かな賠償金支払いを続けるでしょう。

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