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2016/07/18

革命と退位はワンセット


天皇陛下の「生前退位」報道は依然としてやみません。マスコミは連日「生前退位」という不敬な造語を連呼しています。

なぜマスコミは「退位」と言うのをやめないのか?

それは「今上陛下の次の天皇はいない」という前提で報道しているからではないでしょうか?

1917(大正6)年のロシア革命以降、革命で倒されたドイツ、清国、ロシアの王はみな「退位」に追いこまれています。

それに対し、マスコミが絶対に使わない「譲位」とは「次の天皇に位を譲る。みくにゆずり」という意味です。

もし仮に今上陛下が「生前退位」なさって皇太子殿下の践祚がなんらかの形で妨害されれば、それで皇統は断絶します。

ドイツのウィルヘルム二世は退位する考えなどまったくありませんでしたが、ドイツ社会民主党の陰謀によって強引に退位させられ、譲位も握りつぶされてしまいました。

ドイツ社会民主党はユダヤ人が組織した政党ですが、日本の社民党と友好関係にあるそうです。Wikipedia の概要の欄にそう書かれています。

【退位と譲位のちがい】

・退位…(1)帝王の座を退かれること (2)官位を辞すること

・譲位…前の天皇が新しい天皇に皇位をお譲りになること。みくにゆずり。


【出典】1953(昭和28)年 全国書房 新村 出編「言林」



歴代天皇の中には花山天皇のように退位した天皇が存在しますが、それはこの世に共産党が誕生する以前のことです。

なので反日マスコミの「天皇の退位なんかごくありきたりのことだよ~」と日本人に思わせたい世論誘導には一切耳を貸さず、全力で排斥すべきです。

そしてこの「生前退位」報道は天皇陛下の地位を揺るがし、日本国の根幹にかかわる大問題にもかかわらず、情報の出所は不明といういい加減さです。

このいい加減さもウィルヘルム二世を退位させたドイツ革命が、社会民主党が流布した「敗戦で食糧危機になる!」という王室悪宣伝をドイツ人が信じて起きたその構図とおなじなのです。


【花山天皇(在位984年~986年)】
花山天皇1
【画像出典】Wikipedia


【竹田恒泰氏も「退位」は不敬と指摘】


「生前退位」を報道するマスコミは、やれ祭祀の時の衣装が重いだの、天皇は高齢なのに公務が多すぎるだのと急に天皇陛下に対して同情的になりました。

革命とはデマから始まるものですが、ドイツ、清国、ロシアでは王室悪宣伝をやれば民衆が激昂して革命に至りました。

でも日本の場合、皇室に対する同情を宣伝する方が効果的だと反日マスコミおよび反日勢力は画策したのかも知れません。

これまで反日マスコミは一度たりとも皇族に敬語を使ったことがなく、敬称も使わずに「さま」で済ませ、皇室関連のニュースは報道しないか途中でカット、という不逞ぶりでした。

そういうマスコミがいきなり陛下に対して同情するような報道をしても、違和感しか感じないのです。

嬉々として「生前退位」を報道するマスコミを見ていると、裏の意図はなんであれ共産主義者による天皇の政治利用としか思えません。

日本政府は「生前退位」をリークした情報源を突き止め、報道したマスコミ全社を厳罰に処すべきです。


新聞記事:
「天皇陛下が皇太子さまに皇位を譲る生前退位」とは何ぞや?
陛下は早期退位を否定


天皇陛下、早期退位想定せず 公務「このペースで臨む」
2016年7月16日 共同通信47NEWS

天皇陛下が皇太子さまに皇位を譲る生前退位に向けた法改正を政府が検討していることを巡り、天皇陛下自身は早期退位の希望を持たれていないことが15日、政府関係者への取材で分かった。

 陛下は例年、年明けと夏に定期健康診断を受けているが、現在は目立った不安は見つかっていない。最近も宮内庁側と公務の負担軽減が話題になった際、陛下は「まだまだこのままのペースで臨む」と明言。側近らにも、退位という文言や時期を明示したことはないという。


近代史において革命と退位はワンセット

ドイツ革命後、退位に追いこまれた皇帝ウィルヘルム二世
革命を工作したのはユダヤ人社会共産主義者、皇太子の帝位継承も
勝手に放棄


出典:1923(大正12)年 大阪毎日新聞社〔ほか〕 ウイルヘルム・ホーヘンツオルレルン 「前独帝自叙伝」 第十五章 退位前後 



 八、宰相から飛電
 
 私は宰相に「私の退位に関する決断は此際(このさい)熟慮の上でなされねばならぬから追って知らせる」旨通じたが之(これ)から少し経ってから驚くべし「既に遅い」との返答が折返しやって来た。

宰相は自ら発議して既に私の退位を決定 ─── まだ其(その)時は私は実に退位していなかったのだ ─── したもであった(原文ママ)。

それと共に彼は皇太子にも諮らないで皇太子の帝位継承抛棄を宣するに至ったのである。

宰相マックス公は政府を社会民主党に譲りエーベルトを宰相たらしむべく召喚したのであった、これ等(ら)の事実は無線電信によって同時に発表せられたから全軍隊は之(これ)を知るに至ったのである。

【ウィルヘルム二世】
ウィルヘルム二世1
【写真出典】Wikipedia



 九、万事休す!!

 先マックス公は新政府を樹立すると共に皇帝の前で之(こ)れを擁護すべく厳粛に誓ったにも拘(かかわ)らず彼は私の詔勅の発表を差控えたが発表すれば或(あるい)は与論を険悪にさせずに済んだかも知れなかったのだ。

次いで彼は皇帝と政府との協同を妨げ、検閲の名を藉(借)りて皇帝を冒涜し、退位問題における王党の支持を失敗に終らせた。而(そ)して皇帝に自発的に退位を勧告しながら最後に無線電信で退位を発表して、マックス公が私の上に位する様な事をした。

 これに続いてシャイデマンが一芝居を打ったのである。即ちシャイデマンはマックス公を翻弄しマックス公の各閣僚をして五里霧中の思いあらしめ、マックス公駆逐策を講じて遂にエーベルトを召喚し「独逸(ドイツ)の指導者達は最早民衆の上に立っていない」と宣告させたのである。

かくてマックス公はシャイデマンにあやつられて皇帝と皇族と独逸帝国とを犠牲に供し自ら独逸帝国転覆者の汚名を着るに至った(後略)。


【共和制宣言を行うシャイデマン(1918年11月9日)】
シャイデマン2【写真出典】Wikipedia



シャイデマンはドイツ社会民主党に所属したユダヤ人


出典:1940(昭和15)年 昭和書房 船田中 「世界は斯く動く」 第二節 ヒトラー政権の確立 



 一 カイザー皇帝の蒙塵

 当時社会民主党の中心人物としてはカウツキー、ミュラー、シャイデマン、トーマ等の穏健主義者があり、これに対し極左分子の指導者としてはカール・リープクネヒト、クララ・ツエツキン等があり、それ等は後にドイツ共産党を結成するに至った。



重光葵
ドイツの社会共産主義者はユダヤ人だった


出典:1952(昭和27)年 中央公論社 重光葵 「昭和之動乱」 上巻



 ワイマール憲法とドイツ国民

 ソ連のボリシェヴィキ共産革命は、世界を挙げて赤化し、資本主義を倒して、プロレタリヤの専制時代を出現せしめんと企図するものであった。

これは、レーニン以来、共産党の一貫した方針であって、この目的を達するために、常により極端なる思想と政策が採用された。

(中略)

 第一次世界戦争直後、ハンガリーを赤化したベラクーシの革命は遂に失敗し、ポーランドに対するトハチェフスキー軍の進出は、ピルスツキー及びウエガンによって撃退されたが、ドイツにおいては、ポーランド共産党出身のユダヤ系ローザ・クルセムブルグや、リープクネヒト等の指導する共産党の運動が、益益白熱化し、ドイツは、恰(あたか)も赤化革命の前夜の如き喧騒を久しく続けるに至った。

秩序を尊ぶドイツ民族は、この不安なる政情に対し、益々不満を抱くに至り、ワイマール憲法による民主主義なるものは、到底敗戦後のドイツを救済するに足らぬ。これはただ強制せられたる借りものである、と感ずるようになった。

【ミズーリ号上で降伏文書に調印する重光葵】
重光葵_350


辛亥革命後、清国皇帝退位
袁世凱が皇帝の財産を奪い、新政府樹立を宣言


出典:1913(大正2)年 外務省政務局 在転進日本総領事館調査 「支那革命紀略」



 二月十二日ニ至リ清帝ハ左記ノ上諭ヲ発シテ退位ヲ宣布セラレ同時ニ袁(袁世凱)ハ自ラ首領トシテ中華民国臨時政府ヲ組織シテ之(コレ)ヲ各国公使ニ照会シ同夜北京城ノ撹乱発生ヲ予防スル為(タ)メ西城ニハ武衛左軍ヲ派遣シテ警備セシメ北城ニハ陸軍第四鎮、第六、八、九、十標ヲ派遣シテ巡警ト協力防衛ノ任ニ当ラシメ其(ソノ)他の区域亦(マタ)陸軍並ニ巡警ヲ派駐シテ警戒ヲ厳重ナラシメ各地方ニモ電報シテ警戒ヲ加エシメ以テ幸ニ事ナキヲ得タリ

【宣統帝(右)】
宣統帝1【写真出典】Wikipedia


ロシア革命後、ニコラス(ニコライ)二世退位
革命を工作したのはユダヤ共産党
ニコラス二世の皇帝ミハイル太公への譲位はユダヤ共産党に反対され実現できず


出典:1930(昭和5)年 青甲社 太宰衛門 「革命記録:附:日本帝国革命論」 露西亜の革命



 一七、ニコラス二世の退位
 これより先き、政変を知って駐輦(ちゅうれん:天子が車をとどめること。また行幸先に滞在すること)地を発した皇帝ニコラス二世は十五日プスコフに到着し、北方正面司令官ルズスキーに頼って革命鎮圧策を講ぜんとしたが、彼は早く既に革命軍に通じて居たが故に、彼は却って皇帝に退位のやむべからざる(やむをえないこと)を上奏し、皇帝も、また今は形勢の既に己れを去れるを知って譲位の詔勅文を認め、その身はツアルスコエゼロー宮殿に入った。

 その後幾許(いくばく)もなく司法大臣ケレンスキーの命によってコトボルスクに移され革命軍の厳重なる監視の下に幽囚の日を送ることとなった。


 一八、労兵会及び単独講和

 ニコラス二世は、初め皇位を皇帝ミハイル太公に譲る積りであったが、これはケレンスキー等の反対によって実現されなかった。新政府の執行委員会と労兵会との協議の下に新内閣が組織されたのはこの時である。

【ニコラス二世と皇太子アレクシス】
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