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2016/07/15

昭和天皇ご病気の際のマスコミの狂乱ぶり


昨日の「天皇陛下が生前退位のご意向を示された」という報道が、今日になって「ご意向を持たれている」に変り、現在は報道自体が下火となりました。

今回の「生前退位」報道の異常さは、


・いつもならば皇室関係のニュースは報道しないか、サラッと流すだけのマスコミが二日連続で報道し続けたこと(しかもトップで)

・天皇陛下のご意向が宮内庁や内閣を通さずに、まるで芸能人のゴシップのようにマスコミのスッパ抜きで報じられたこと

・宮内庁が否定し続けているにも関わらず事実と乖離した虚報が大々的に報じられたこと

・皇太子殿下に天皇の位を譲ると報道しつつ、「生前退位」という造語を使用したこと



にあると思います。

このような皇室関係の異常な報道は、昭和天皇がご病気になられた時にもありました。

マスコミは昭和天皇のご病状の小さなことまで、たとえば「いついつ、どれくらい下血した」という聞くに耐えないことまでも速報で流し続けました。

その国民が望んでいないこと、昭和天皇のプライバシーのすべてをむりやり国民に聞かせて天皇の権威を失墜させることが、マスコミの免罪符である「知る権利」だったのです。


【御成婚時の昭和天皇、香淳皇后両陛下】
shouwatennou_goseikon.jpg
昭和の終わりと現在のマスコミの異常さ

昭和天皇がご病気になられ、手術を受けられるまでの間、マスコミの主な議論は「玉体にメスを入れるのか?」ということでした。

昭和まではまだ、そういった空気が残っていました。私たち国民も自主的に歌舞音曲を控え、夜間のネオンサインも控えめにして昭和天皇のご快癒を祈念したものです。

天皇がご病気になられるということは私たち国民にとっては「お父さんが隣りのお座敷に伏せっておられるから静かにね」といった心持ちと同じでした。

戦後教育で教えられなくなっても、当時は明治生まれもたくさんいましたし、大多数の国民は「一大家族国家日本」という意識で日々をすごしていたのです。

「天皇陛下はなぜあんな時代にお生まれになったのだろう、あんな時代の戦争という耐えがたい悲しみを経験なさったのに、今また陛下はご病気で苦しんでおられるのだ」という気持ちもありました。


そういう国民の厳粛な、昭和天皇のご快癒を願う気持ちをズタズタにしたのがマスコミの報道でした。

なにしろテレビを見ていると、「〇時〇分ころ、天皇陛下が□□ほど下血」と量まで知らせる速報のテロップが流れるのです。それがもう時を置かずに流れる。

ワイドショーや新聞記者は宮内庁病院に詰めかけ、医師団の自宅まで押しかけて
昭和天皇のご病状をあれこれ推測して報道する。

管理人の母親などは「ここまでやらないといけないものかね?」と、よく言っていました。


【昭和天皇の手術を担当した森岡教授】
昭和天皇執刀記_2

しかし、ここ数日で思ったことは「あのころのマスコミはまだマシだった」ということです。

昭和天皇の崩御から30年近い年月が流れ、マスコミは天皇陛下に関することでも事実かどうか不明な事柄を大々的に報道するようになりました。

その行状には「畏れ多くも」とか「皇室絶対不可侵」という意識はカケラもない。

今回の「生前退位」報道を見聞きして感じたことは、マスコミが天皇の権威を借りて何か裏の意図を成就させようとしているような不気味さでした。

日本人は天皇が好きだ、だから天皇の意向と言えば何も疑わずに受け入れるだろう、といった不気味さです。

でもふだんは「開かれた皇室」を言いわけにして、皇室に対して敬語を使いたくない思想の、しかも日本人の匂いがしないマスコミが急に力を入れて「天皇陛下がー」と連呼しても、不気味に感じるだけでした。

皇室が長い間存続してきた理由は、もともと日本の国体が天皇と国民とのつながりであって、のちに誕生した幕府や政府は天皇と国民の間に割りこんできた異物にすぎません。

なので政府や幕府は、天皇の権威を借りねば国民に信用されませんでした。

マスコミも幕府や政府と同じで、われわれ日本人から見れば天皇と国民の間に割りこんできた「異物」でしかない。

ところが皇室の権威を借りるどころか、皇室をないがしろに扱うマスコミを日本人が信用するはずがないのです。

だから「NHKを解体しろ!」という声が出る。

今日もまだテレビは「宮内庁が天皇陛下が直接国民にお気持を述べられるよう配慮するが、政治的な発言になるため陛下が生前退位については直接述べることはないだろう」などと弁解のような報道をしています。

事実かデマか、どちらにせよ政府は今回の「生前退位」報道を自然消滅で終わらせてはいけません。

それでなくとも政府は、元東京都知事の都税私的流用疑惑や尖閣上空のドッグファイトをウヤムヤにしてしまったのですから。

選挙で「信任」を得た政府といえども、しょせん天皇と国民の間に介在する異物でしかないのです。
昭和天皇執刀医の手記

昭和天皇のご病状をさぐろうと、マスコミは他の患者の手術中、執刀医の許可もなく手術室にまで潜入してきたそうです。

職場だけでなく、マスコミは自宅まで押しかけていたので帰宅することもできなかったそうです。

外に出れば記者に取り囲まれ、何か言えば言葉の端々を結びつけて記事にされる。その記事を昭和天皇がご覧になるかも知れない。

執刀医はたまりかね、とうとう取材記者に

「貴方(あなた)達は陛下の御病状の回復にどんな貢献をしているのでしょうか」

と訴えますが、その言葉はマスコミには伝わらなかったそうです。


出典:1988(昭和63)年 文藝春秋 「『文芸春秋』にみる昭和史」第三巻所収 森岡恭彦 「執刀記」(文藝春秋昭和62年12月号掲載)

※上掲写真の出典もおなじです。


「身体髪膚、これを父母に受く、あえて毀傷せざるは孝の始めなり」というわけで、体に傷をつけるなどということは、よくよくの事であり、手術をするということは最後の手段と解すべきである。

(中略)

「陛下にメスを加える」といった事態は、現在の外科の発展を考えるなら、何時(いつ)かは起ってくる必然的なことであり、図らずもその最初の任を私がとらされることになったにすぎない。これは名誉なことでもあるが、ダモクレスの剣を戴かされた手術でもある。

「世紀の一大事件」「未曾有の手術」「誤ればお家は断絶、切腹もの」であるといった、大時代な雑音が耳にはいってくる。しかし、やるべき手術操作は、ごく簡単な腸管の吻合(ふんごう)手術であり、どうも術前の緊張感にもチグハグさを感じるし、またいろいろと意識すればする程、頭がおかしくなりそうでもある。また努めて冷静に対処すべきであると理性はもの申すわけである。

 ともかく「やるべき事をやる」 ─── これが私をはじめとしてすべての医師の人々の心境ではなかったであろうか。

 ところで、「陛下の手術」「玉体にメスを入れる」といったことに、これ程までに全国民が関心を示そうとは思っていなかったし、とくに「玉体にメスを入れる」といった言葉が示す国民感情に、いささかのとまどいを感じさせられたのも事実である。

 子供が父母を敬愛する情と同じく、国民が天皇陛下を敬愛し尊敬することは、ごく自然な情であるとする、いわゆる「家族国家」の思想が依然として日本国民の中に根強く存在することを、今さらのように感じさせられたのである。

わが国では、明治時代から第二次大戦まで、この思想が「忠君愛国」という言葉になり、陛下は神格化されてきた。そして、終戦後は人間天皇とし、国家の象徴として、いささかの修正はうけたが、その事の是非は別として、陛下の手術をめうぎ、奇(く)しくもこの「家族国家」観が国民の間に広くしみ込んでいることを再認識させられたともいえよう。

(中略)

 陛下の手術は、九月二十二日に決められ、その日入院された陛下と初めて御対面した。

 東大の沼田教授と私とは高木侍医長の立会いで、御病棟に陛下を訪れ、御言葉を賜った。冷静に冷静にと努めてきた私達であったが、後になってみると緊張していたせいか、二人とも、どんな御言葉をいただいたのか覚えていないといった有様であった。

手術直後の記者会見で「陛下からどのような御言葉をいただいたか」との記者の質問に答え、私は思い出せず、「よろしくおねがいします、といわれたように思います」と答えてしまった。

会見後、侍医長にお尋ねしたところ、「この度は御苦労である」という御言葉であったことを知らされ、やっと記憶をとり戻した次第であった。庶民の言葉で言えば、「よろしく」ということになるなどと自分勝手に決めて、この間違いを納得してしまった。手術を前にして、人には何時(いつ)も変らないと言ってはいたが、図らずも馬脚をあらわしたようなものである。

 手術には、技術の的確さや経験が重要なことではあるが、それにもまして手術の手順すなわち戦略が大切である。陛下は御高齢でもあり、術前から「十分の御食事をとっていただく」ことをその目的としていたので、戦略(術式)にはそれ程迷うことはなかった。

 全身麻酔がなされ、腹部に消毒薬が塗られ、手術野を除き布がかけられる。そして、メスが入れられる。「この瞬間、術者のメスを持つ手は震えた」といった表現をマスコミの人々は期待する。

しかし、残念ながらそういった表現はあてはまらなかった。われわれは何時ものように淡々と手術を進めていったのである。

強いて言えば、開腹の瞬間、陛下のお腹の中には何か普通の人と変った構造や状況があるのではないかとふと思ったぐらいである。しかし、陛下の腹腔内は清らかで、病変部を除くと若々しい感じがしたことだけが、今でも印象として残っている。

 かくして、手術はごく普通の調子で始まり、何事もなく終了した。

「手術は順調に進められ、無事終了」というわけであるが、新聞は「手術は成功した」と表現する。しかし、「手術は成功したが、〇〇のため死亡した」という表現は外科医には通用しない。「成功」は手術の目的を達し、少なくとももはや外科医の手を離れた時にこそ口にすべきことであろう。

(中略)

 陛下には手術後三日目に排ガスが認められ、以来、胃や体内に留置した管が次々に抜去され、食事の経口摂取と歩行練習が開始され、一つまた一つと合併症の危険性が去り、二週間後には御退院という順調な経過をたどられた。

消化管のバイパスはよく機能し、陛下が普通の御食事をとられるようになったことは、医師団とくに術者にとっても大きな喜びである。手術の目的は達成されたといえよう。

 この間、陛下は医師、看護婦の指示を忠実に守られ、なんの不満も口に出されなかったし、御健康の回復に努められた。医師にとっては模範的患者さんであったといえよう。

 振り返ってみると、八十六歳の高齢者の手術の経過としては、ごくありふれたしかもほぼ順調な御経過であったという他はないが、どうしてあれ程気を使ったのか、今になって考えると不思議な気もする。

 患者の退院の挨拶を聞くことは、医師にとって最大の喜びである。しかし治療が功を奏さない場合や手術後の経過が思わしくない時には、外科医は「何故外科医になったのか」と自問自答し、自らこの職を選んだことを後悔する。

学校の先生方が卒業式で学生が去って行くとき、自らの職に最大の喜びと誇りを感ずるように、外科医も患者が元気で退院する時、すべての苦しみを忘れてその喜びを味わう。この喜びがあるからこそ自らの職を続けられるわけである。

 陛下は「天気男」といわれている。御退院の日は、前日の雨もあがり、時々陽がさす心地良い日であった。宮内庁病院の玄関前には、二本の大きいキンモクセイが今や盛りと金色の花をつけ、文字通り陛下の御退院に花を添えていた。

病院職員の居並ぶ前を陛下は車椅子で御車に乗られ、去られた(もちろん、御歩きになることも可能ではあったが)。

陛下の去られた後は、緊張の糸が切れたように私達は微笑をもってお互の努力をねぎらったが、とくに看護婦さん達の白衣姿がこの時程美しく思われたことはない。

 ともかく、外科医の出番は終った。陛下は御食事もできるようになったし、御苦痛も減ったことであろう。今後は、侍医の先生方の治療により御健康を回復されることであろう。

 医師団が陛下の手術後の管理に細心の注意を傾注していた間でも、マスコミは陛下の御容態について遠慮会釈もなく書き立て、しかも困ったことに医師団の人々の家と職場はマスコミの人々に包囲されてしまった。

本世紀始まって以来の事件であるし、国民全体の関心も深く、それだけに報道陣は大量の人を動員し、徹夜の張り込みに終始したわけであろう。

ともかく、医師はおちおち自宅で安眠できそうにない。手術の前夜や当日、自宅につめかけた報道関係者の群を思うと、私自身ぞっとし、帰宅もできないので、しばらくは報道陣を避けることにした。

もちろん手術当日は心配でもあり、病院に泊ることにしたが、次の日も次の日も、その包囲陣は変らぬ状況にあることを知り、また、たまたま応援を頼んだ東大の先生方も、次の日には自宅を襲われるといった具合で、医師団の誰もが、看護の心労とともに、マスコミの攻勢に神経を消耗させられてしまった。

 私とて、大学の病院に患者はいるし、病院長の仕事もあり、また手術の予定もあり、放っておくわけにはいかず、結局は合い間をみて、大学病院に出かけなければならなかった。忍者もどきの勤務をし、夜には安眠できそうな宮内庁病院の病室に泊る日々を送ることになった。

 日々の新聞は、私達が知っている以上の記事を掲載するし、宮内庁の病院内では医師はいらいらするばかりで、とうとう手術後第二回目の宮内庁での記者会見の席上で、

「医師の自宅まで押しかけて、医師団の活動を妨げるようなことはしないで下さい」

とお願いした。マスコミはすべてこの発言を無視した。考えてみると当然のことかもしれない。釈迦に説法であった。

 私の自宅は終日、警察の人が警備にあたって下さっていたが、彼らとて取材記者に手を出すわけにはいかないし、記者の人達も自制力があるわけでなく、少しでも他社をおしのけて取材しようという競争精神があるのみであり、万事はお手上げである。

 忍者作戦も一週間が限度で、たまたま病院で手術をしていると、遂には手術場の中に潜入する記者も現れ、そのゴキブリぶりには唖然とせざるをえない状況であった。ともかく叱る気もしなかったが悲しかった。

 陛下の御病状も落ち着いてきたので、一週間後には忍者作戦を止め、帰宅することにしたが、その後も大変である。

病院では大勢の記者がつめかけ、仕事にならないので、連日、その相手をしてお帰り願うのが日課となり、家に帰るとまた取り囲んでいる記者の人達にお話をして家に入るといった具合である。

それでも夜おそくまで電話がかかってきたり、どうにもならない日々であったし、まだこの状況は続いているといった具合である。

 私達医師団は、陛下の御病状についてなお厳重な監視をしていたので、治療上、陛下の御気持に支障がでるようなことは口外できなかったし、一方、記者の方は何かお話をしないと帰っていただけないという、ジレンマに立たされたのである。出口がない。

 記者団は、私達の口外する言葉の端々を結びつけて記事にするので、私達の意と異なる報道が堂々と発表されることになり、その度に心痛む思いであった。

 ともかく、人の御不幸の取材である。それでもマスコミは熾烈な競争心に凝り固まっており、どうすることもできない。また取材にあたっている人々にも同情を禁じえなかったが、いかんながら、彼等(かれら)には統制力もなく、当方が一社の記者の対談に応ずれば他社が黙っていないし、また新聞・テレビ・週刊誌・月刊誌の全部の人にお会いする時間もないし、全部お受けすれば日常の業務もできない。

 どうすればよいのか、この答えは彼等にもない。

「果して天皇陛下にはプライバシーというものがあるのか」という疑問に、ます私達はつき当った。医師や弁護士が職業上知りえた個人の秘密を漏らすことは犯罪であり、もし陛下にプライバシーがあるとするなら、プライバシーの侵害を助長している記者の人達も共犯になるに違いない。「国民の多くの人達が知りたがっていることを報道する」といった考え一辺倒の取材記者の人達は疑問をもたない。

すなわち、「天皇陛下にはプライバシーというものがない」ということである。要するに私達の天皇陛下の事は私達がなんでも知らねばならない、とするわけである。

「私達の天皇陛下」。私は息を止めた。前述したように父母を敬愛するように、日本国民は天皇陛下を敬愛し尊敬しているのである。

この「家族国家」としての感情からすると、陛下は国民の父であり、子供である国民は父の病状については一切を知らせて欲しいと願うわけであろう。

 私達は陛下が自由に新聞を手にされ、テレビを御覧になっていることを知っていた。前述したように私達医師団がおそれていたのは、いろいろの報道が何か陛下の御病状に障らねばという危惧である。

「報道は陛下の御病状の改善に害がありこそすれ、なにも役に立っていないのではないか?」と私は何度となくマスコミの人々にお話しした。

 また新聞や雑誌は、ニュース・バリュウを考えて記事にするので、私達は発言する度に心が痛んだ。もちろん、陛下の御病状のことは宮内庁から公式発表されており、私達は取り囲まれた記者の人達にごく最小限の補足説明を加えるにとどまった。とくに外科医はこの点最大の配慮をした。

 しかし現実はかなり異なった様子であった。例えば、術前の手術の危険度について、「一般論として、八十歳以上の高齢者の救急手術患者では手術死亡率は五〇%にもなっている」と説明すると、新聞は、「陛下の手術は五分五分の成否であった」と書く。

とくに難しいのは予想である。「当るも八卦、当らぬも八卦」というわけで、物事の予想程難しいものはない。手術の予定時間が少し延びると何かあったに違いないということになり、入院の予想期間が延びても短くなっても、何かを疑われるといった調子である。

 ともかく、患者である陛下がどういう御気持でいろいろの記事を読まれているのであろうか。想像するだけで私達の心は痛むのである。

「貴方(あなた)達は陛下の御病状の回復にどんな貢献をしているのでしょうか」 ─── 何度か取材記者に訴えた。この言葉は、闇の中に消えゆく蛍の幻のようなものだった。





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